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「優しい女性教諭」が中2の悪ガキに対抗できるか?

2015.07.11(20:46) 331

 僕はそれは無理だと思います。例の岩手県矢巾(やはば)町の中2の男子生徒いじめ自殺事件のことです。「またか…」というのでほとんど非難一色になっていますが、こういうケースでは学校の教員たちが「問題を共有」しないと対応は難しいということで、そういう「お達し」が出ていたとのこと。ところが今回もそうはなっておらず、学年主任も他の先生たちもそれを知らなかったという。知ると面倒だから知ろうとしなかったのか、あるいは、学校というところはクラスで問題が起き、それを担任が処理できないと「無能」の烙印を押されるので、その女性教諭が相談しようとしなかったのか、そのあたりよくわかりませんが、いずれにせよ女性教師が一人でギャングエイジの悪ガキどもに対抗して、これを「鎮圧」するのはまず不可能に近いでしょう。

 前に、公立中学の中には暴力団員と見まがうような体育教師などがいて、それがにらみを利かせているおかげでかろうじて秩序が保たれているようなところもある、という話を聞いたことがあります。「アイ・アム・ザ・ロー(オレ様が法律である)」みたいな、そうした暴力教師に頼らざるを得ないという学校も情けないけれど、そういうのがいるおかげで悪ガキどももかなりおとなしくなり、いじめ自殺なども起きずにすむということなら、まだしもその方がマシということになるでしょう。

 その担任の先生も、何もしていなかったわけではないようです。以下は「クラス内で暴力行為、担任叱る…岩手の中2死亡」という見出しのついた読売新聞 7月9日付の記事です。

 岩手県矢巾(やはば)町で5日、同県紫波(しわ)郡の中学2年の男子生徒(13)が電車に飛び込んで死亡した事故で、男子生徒を巡ってクラス内でトラブルが何度かあり、担任が仲裁や注意をしていたことが9日、同じ中学の複数の生徒への取材でわかった。
 生徒の一人によると、死亡した男子生徒は4月以降、特定のグループから頭をたたかれたり、髪の毛をつかまれて机に打ち付けられたりしていた。担任がこうした行為を見つけ、グループの生徒らを注意したこともあった。取材に応じた生徒は「(担任が教室とは)別の部屋に連れて行って叱っているのを何度か見た」と話すが、グループの態度はその後もあまり変わらなかったという。
 別の生徒も特定のグループが男子生徒の机を蹴るのを見たが、「怖くて何も言えなかった」と話す。死亡した生徒が、泣きながら担任に相談しているのを見たこともあるという。ある生徒は担任について、「優しくて、いい先生だった。生徒から慕われ、相談にもよく乗ってくれた」と取材に答えた。


 この記事から判断するかぎり、そんなに無責任な先生ではなかったわけです。けれども、叱っても全然効き目はなかったわけで、僕も「女の先生が一人では、それがふつうだろうな…」と思いますが、そのまま「最悪の事態」に発展してしまったのです。

 今の中学生は図体の大きいのが多いし、悪いとなるととことん悪いから、そういうのはオトナでもこわいですよ。今からたっぷり25年も前の話ですが、塾(延岡ではない)の夏期講習の個別面談を受け付けているとき、この上なく凶悪なオーラを発している大柄な中学生に会ったことがあります。30分刻みに面談予約を入れさせておいて、僕は連日それをせっせとこなしていたのですが、一組の親子の面談を終えて、面談室から出ると、そこにとんでもないのが、ジーパンのポケットに両手を突っ込んでぬっと立っていたのです。親の姿はなし。ちらりと受付の事務の女の子の顔を見ると、怯えきっています。がっしりした体格で、背も171センチの僕より少し高かった。僕が彼を見てとっさに発した言葉は、「ポケットから手を出せ!」でした。見た瞬間「けしからん!」という思いがこみ上げ、しかしそれをどう言っていいかわからないので、そういう言葉になったのです。少年は素直にそれには従いました。

 その塾では待っている間に「アンケート」と題した用紙に記入してもらっていて、そこには名前、学校名、成績などの他、「趣味」の欄などもあったのですが、その「趣味」のところには「お金をつかって遊ぶこと」と大書されていました。ホントですよ。中3でしたが、模試の成績は申し分なく悪かった。話してみると、受け答えがえらく正直で、見かけほど悪い子ではないなという印象でしたが、これほど強烈なのはめったにいないなという感じは否めず、ひとわたり説明して、家でもよく相談してから、申し込むようなら申し込みなさいと言って帰したのですが、帰ったのを見届けてから、事務のアルバイトの女子大生は恐れおののいた表情で僕に向かって、「先生、ほんとにあの子を塾に入れるんですか!」と叫びました。聞けば、塾に電話がかかってきたときも、いきなり「お金、いくら持ってけばいいの?」と素っ頓狂な声できいたというのです。まさか恐喝の類で“稼いで”いたわけではないだろうから、家庭の経済状況はよかったのでしょう。着ている服も、いかにもというド派手なヤンキー風でしたが、結構お金がかかっていそうでした。

 残念(?)ながらその子は夏期講習に申し込みをしなかったので、それ以上のことはわからなかったのですが、こういうのが群れでいたら、それはほんとにこわいはずです。他の子供たちはもちろん、先生たちだってこわい。「いじめられる子の気持ちも考えて、そういうことはよしましょうね」なんて言ったって、聞くわけはないのです。注意したら逆ギレして、先生の方がボコボコにされてしまった、なんてニュースもちょくちょくあるほどです。

 一つはっきり言えることは、昔から学校はいじめ問題の解決には気乗り薄だったし、解決能力にも乏しかったということです。学校や先生のおかげでいじめが解決したという話を、遺憾ながら僕はほとんど聞いたことがありません。公立学校の先生たちは公務員ですが、教育公務員というのは、教育委員会はなおさら、「事なかれ主義」という公務員の悪徳を最大限にもった人たちであり、組織なのです。特に管理職になればなるほど、その傾向が強くなる。

 だから、もし先生に相談して問題が解決したとしたら、それは例外的なよい先生であり、学校だったと思った方がいい。そんなところに「男気」を求めるのは、昔の某法務大臣の言葉を借りるなら、「八百屋で魚をもとめるようなもの」なのです。

 一方、公立中学の先生たちには同情の余地も大いにあります。それは私立と違って、どんな生徒でも受け入れざるを得ないということです。入学を拒むことも、退学を申しわたすこともできない。地域によってはひどく荒れた中学もあるし、学年によって悪いのが固まって上がってくるということもあるのです。今はモンスターペアレントの類も増えている。本業の勉強を教えることより、そういったことへの対応にエネルギーと時間の大半をとられてしまうということにもなりかねず、そういうことは今は世間周知のことであるから教職は敬遠され、長く続いた不況にもかかわらず、教員志望者は増えないし、大学の教員養成学部はあらゆる学部の中で最も偏差値の低い学部の一つであり続けているのです。社会が高学歴化する中、教員の社会的地位はどんどん低下して、それがなおさら先生たちに仕事をやりにくくしている(北欧などでは学校教師の社会的地位は高いという話ですが)。

 元は手に負えないワルだったのが、立派なオトナになるというケースは珍しくないので、何か大きな目標や生きがいのようなものがもてれば、悪に向かったエネルギーが善用されるようになるということがあるので、いじめ問題で重要なのは実はそこらへん(いじめる側)のことなのではないかと思いますが、それには家庭や地域の力が大きく、学校だけで何とかできるという問題ではないでしょう。「崩壊家庭」も、今はかつてないほど増えているのです。「そんな無責任な家庭があるのか?」と聞いて呆れるような話も珍しくない。それでは子供がクソガキになるのも無理はない、という家庭もあるのです。こういうのは親を再教育することから始めるしかないが、学校の先生にそんな義務は本来ないのです。

 一体おまえは学校を擁護しているのか、批判しているのか、どっちなんだと言われるかもしれませんが、この問題はかんたんではないということです。今の時代の一つの悪しき特徴は、自分は何もしないくせに、他者には平気で過大な要求をするということです。僕自身は、「この人または組織はいくら言っても動かないな」と思ったら、それ抜きで問題を解決する方途を探ります。自分の言い分が正しいことが認められ、証明されても、かんじんの問題が解決しなければ意味はないからです。いじめ問題の場合なら、いじめられている子供が自殺してしまっては、そうなった責任の所在がどこにあるのかが明らかになっても意味はないのです。その子をそこから救い出すことが先決です。

 そういう見地からすれば、まず何より親が子供の異変に気づくのが重要です。通常、子供はいじめられていても親にその事実を話しません。小学生ならともかく、中学生にもなればふつうはそうでしょう。親を心配させたくないし、自分がみじめに感じられるからです。しかし、元気がなくなったり、神経症的な身体反応が出たりして、シグナルは出ている。そこを見逃さないことです。

 それでおかしいなと思ったら、「正直に話してみなさい」と言って、話を聞き出す。あるいは友達に話を聞いて情報を集める。次は学校に行って先生に相談して、それで埒が明かなければ、いじめている子供たちに直接会って、親が怒っていることを伝える。場合によっては相手の親のところにも話しに行く。それが親子ともどもとんでもない連中で逆ギレするようなら、喧嘩に自信のある人は、相手の親を大怪我をしない程度にボコボコにしてやればよく、そうでない場合には警察に傷害事件として話を通し、そちらも動かないようなら、弁護士を雇って訴訟の準備をする(その間、わが子は学校を休ませてよい)。

 そういうふうに、これでダメなら次はあれ、というふうに手を打ってゆくのです。大方は途中のかなり早い段階でいじめはやむでしょう。子供も、親が本腰を入れて自分を助けようとしていることに励まされ、孤立無援の不安感から癒されて元気になってくる。うちの親はふだんは無精でちゃらんぽらんだが、いざというときはほんとに頼りになるなと安心するのです。

 昔は「子供の喧嘩に親が出る」のは恥とされました。しかし、いじめは喧嘩ではないし、相手を自殺するまで追い込む執拗ないじめを繰り返すような自己コントロールのないクソガキ相手には、親が出張らなければなりません。断固やめさせる、という強い決意をもって臨むのです。そういう大人の態度を見れば、いじめている側の子供たちも、それがただごとではないのをはっきり感じるでしょう。『八重の桜』の八重の有名なセリフではないが、「ならぬものはならぬ」のです。

 僕自身は、幸い「出番」は一度もありませんでしたが、わが子の成長プロセスでいつでもその覚悟はしていました。他は全部母親任せで、父親はそういう非常事態のときにしか役に立たないものなので、せめてそういうときぐらいはお役に立ちましょう、ということだったのです。逆にわが子が卑劣ないじめなどすれば、相手の親子に土下座するつもりでした。それが親の、とくに父親の仕事です。

 親がそういう構えでいてくれれば、学校もだいぶ楽になるのではないでしょうか。自分たちが動かないと、親が勝手にさっさと動いてしまうので、かえって自分たちの無責任さが際立つと焦るかもしれませんが、先生だけが問題の対処に当たるのではなく、親も全面的にコミットしてくれるので、とくに女性の先生の場合には、助けになるはずです。今回の事件の場合、いじめられている子も孤立無援、それに対処した担任の女性教諭も孤立無援だったのです。親も仕事の心労でわが子の様子を顧みるゆとりがなかったとか。いじめていた子供たちについての個人情報はありませんが、いずれも問題を抱えている子供たちだったのでしょう。彼らも心理的に孤立した状態だったとすれば、あちこちで関係が断裂した「孤立無援」社会の、これは不幸な事件例の一つだということになるかもしれません。

 学校と教育委員会のいじめ対策強化に関しては、いつまでたっても変わらないわけだから、初めからそんなものには期待しない方がいい、というのが僕の考えです。特に教育委員会に関しては、あれは何をしてるのかわからない無用の長物で、税金の無駄づかい以外の何ものでもありません。役に立たないものにはさっさと見切りをつけて、実効性のある手だてを探す。それがこの種の問題では何より大切なことです。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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