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「元少年A」の手記発売に思う

2015.06.14(15:59) 323

「酒鬼薔薇聖斗事件」として知られる、神戸市須磨区で1997年に起きた連続児童殺傷事件の犯人(32)が手記を出版したことが、議論を呼んでいます。

 彼に殺された、土師(はせ)淳君(当時11歳)の父親と、山下彩花ちゃん(当時10歳)の母親は「何のためにそんなことをするのか?」とこれに抗議する趣旨のコメントを発表している由。遺族としては当然の反応と思われます。

 一般の反応も手厳しく、ほとんど非難一色という感じです。アマゾンのレビューなど、それ自体が僕には異常に思えるのですが、恐ろしい数の否定的レビューが出ていて、非難罵倒の嵐といったところです。同じようなことなら書く必要はないと思えるが、うっぷん晴らしのいい材料にされているのでしょう。「正義の鉄槌」を下すことに酔い痴れているその姿は、おぞましい群集心理のなせるわざだと言えば、怒る人がいるでしょうか。

 それにしても、「元少年A」は、事件から十八年たった今、なぜこういうものを書きたいと思ったのでしょう? 僕はこの事件には関心をもち、かなりの関係文献を読みましたが、これは典型的な「病気の犯罪」で、つかまらなければ彼はその後も断続的に犯行を続けていただろうと思います。アメリカのシリアルキラー(連続殺人鬼)などにも共通していることですが、彼はいわゆる「変態性欲」の持ち主で、最初はナメクジやカエルなどの生きものを殺すことに性的快感を覚え、それが次には猫に発展し、最後は人間の殺害というところにつながっていったのです。彼のような人間にとって、殺人はセックスやマスターベーションの誘惑と同じなので、それに抗することは難しい。医療刑務所での治療やカウンセリングでは、殺人と性的快感との倒錯した結びつきを切断することに大きな努力が払われたのでしょう。

 出所後、彼が殺人事件を起こしていないところを見ると、その治療は功を奏したと言えるだろうと思います。しかし、生き辛さはどんどん募っていった。その手記の末尾には、「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの〈生きる道〉でした」と書かれているそうですが、「書くことが唯一の自己救済」と感じられたというのは本当でしょう。

 罪もない子供を五人も殺傷しておいて、「自己救済」もヘチマもあるか、という批判が出てくることは避けられないでしょうが、犯行につながった「生の途絶感」(日常に生のリアリティが感じられないというところが彼には明白にあった)から回復した後は生きたいと思うようになり、しかし自分が殺人という十字架を背負っていて、身元は隠していても、「許しがたい変態殺人鬼」だと世間にみなされていることはひしひしと感じるので、どうしていいかわからなくなってしまった、というのがホンネのところなのでしょう。

 事件当時、彼は十四歳の中学生で、少年法ゆえに「寛大な措置」で死刑や無期懲役になるのを免れたのですが、日雇いアルバイトや3K職場を転々とするといった世間的な苦労の他に、重い十字架を背負っていてそれから逃れる「自由」は死ぬまでないということが、彼には耐えがたいことのように感じられてきたのかも知れません。刑務所と違って、娑婆には犯罪者は原則いないということになっているので、殺人の前科をもつ人間がその中で暮らすのは、想像以上にきついことでしょう。しかも彼は、成人なら当然強いられたはずの長い獄中生活を免れたので、「服役による罪の償い」もしていないとみなされるのです。

 正気の人間にとっては、人を殺すということは恐ろしいことです。僕は昔、人を殺す生々しい夢を見たことがあって、殺した後慌てて死体を押し入れに隠し、「どうしよう!」と思ったところで目が覚めたのですが、あまりにリアルだったので、目が覚めてからもしばらくはそれが夢だとは感じられませんでした。いや、あれは夢で、自分は殺していないのだとわかったときの深い安堵感! 人の命を屁とも思わない殺人鬼は別として、ふつうの人間なら、それは自由感を根こそぎ奪ってしまうものなのです。

 治療を受けて、彼は「正気」になった。どの程度かはともかく、自分がしでかしたことの深刻さ、取り返しのつかなさはわかるようになったのです。逃げ出したくなるでしょうが、逃げることはできない。一生かけて償う他はないと言われるのです。彼は若く、その先には長い時間がある。どうやってそれを持ちこたえればいいのか? ふつうの若者にとってはそれはつらいこともあるだろうが、やましさなく自由に切り開いていける希望に満ちた未来です。しかし、非道残忍な二件の殺人を犯した彼にはそれはない。その罪は彼に貼りついて離れず、心がしんからの安らぎを覚えることはないのです。

 ある意味、それは死刑よりしんどい刑罰かもしれません。苦しさの中で彼はいろんなことを考える。たとえば、あの残酷な殺人事件を起こしたのは、今の自分とは別の人格で、その罪を今の自分が背負わされているだけなのだとか、家庭環境や自分の体質、脳の特殊性があのような犯罪に自分を導いたので、この肉体の中に住まう魂は一種の被害者なのだとか、どうにかして自己肯定感を得ようと、心理学で言う「合理化」の悪戦苦闘を続けるのです。

 僕はあの事件のとき、あれには悪霊による憑依現象が関係しているのではないかと、そのような可能性まで考えました。彼は小学生の時「光のかたまり」のようなものを見ていて、それはやがて「バモイドオキ神」という神の崇拝に発展するのですが、この名前は意味深長で、読み替えれば「バイオモドキ」、つまり「バイオもどき」となって、「生命と似て非なるもの」という意味になります。それは悪魔の名前としてはまことにぴったりするもので、彼の一連の犯行はその神にささげられた「聖なる儀式、アングリ」であったのですが、このアングリも、angry、生命憎悪の「怒り」のようなものだと解釈できます。彼の母親が書いた手記も僕は読みましたが、生真面目善良でありながら、何とも言えない一種独特の鈍感さをもつ人で、息子Aの発する危険信号が全く読み取れないだけでなく、わが子が「霊感体質」みたいなものをもつ刺激にとくに反応しやすいタチなのに、「そりゃあ失敗するわ」と言いたくなるような硬直した対応ばかり(善意と「教育的配慮」から)しているのです。

 そうした中で彼はどんどんおかしくなっていき、日常に生のリアリティが感じられなくなり、感情鈍麻が深刻化するうちに、本格的におかしなものにとりつかれてしまった。ふつうの精神状態ではそんなものが入り込むことはないし、できないが、そういう強い「生からの疎外感」があったところに、霊媒体質をもつ子供だったから、たやすく悪霊の憑依の餌食となった。そういうこともありうると、僕は当時考えたのです。

 よく新興宗教の類では「除霊」と称してアホな儀式をやって人を死なせてしまったりするので、こういうことは軽々しく言うべきことではないと承知していますが、当時の彼の犯行には妙な冷静さと周到さが伴っていて、何かよからぬものが彼を操っていたのではないかと見ても、それはそんなに不自然なことではないのです。そんな悪霊だの何だの、非科学的で馬鹿馬鹿しいと言う人には、わらうべき妄想としか思えないでしょうが、オウム事件などでも、僕は背後に何かとんでもない力(通常の秘密結社の類ではなく)が加勢していたのではないかと思うので、人間の自律性や自由意志など、あまり過大評価しない方がいいのではないかと思うほどです。この世界には干渉、介入する人間には未知の力が存在する。僕自身「一体この世界はどういう構造になっているのだ?」と感じるような薄気味の悪い体験を過去に何度かしているので、「何に使われるかはあなた次第(だから自分の責任を免れることはできない)」なのですが、現代の文明人はそういう要素を頭ごなし否定してしまったがために、かえってそういうものに対して無防備になってしまっているのではないかと思うのです。

 話を戻して(今の話で読者はだいぶ減ったと思いますが)、「元少年A」自身が上に述べたようなことを言えば、それは「許しがたい責任転嫁」だということになってしまうでしょう。責任転嫁は人のつねで、僕らはしょっちゅうそれをやっているのですが、殺人犯にはそのようなことは許されないのです。

 彼の手記にはおそらくそうした心理的合理化や責任転嫁も含まれているでしょう。それでまた非難されるわけですが、そこらへんはある程度寛大になる必要があると思われます。カウンセリングの場合、そういうとき、「いや、それは違う」といちいち咎め立てすることはしません。本人の洞察と自己認識が深まってゆけば、虚偽の合理化や責任転嫁には自分で気づいて、修正されてゆくからです。

 彼が書くことを通じて、自分のよりよい内面の理解に進んでゆくことができれば、それは望ましいことでしょう。「悔悟」とかんたんに言うが、それはそうかんたんなことではありません。僕ら通常の人間は、幸い人は殺していないから、そうした反省も要求されず、大方はだから、薄っぺらな意識の表面で生きていて、「生命の尊さ」など身に沁みて知っているわけではないのです。他の人のことは知りませんが、僕自身は「うっとうしい世の中だな。早くあの世からお迎えが来ないかな…」と思っているくらいで、切実に「いのちの大切さ」など感じて生きているわけではありません。

 他の人も似たりよったりではないかと思うので、しかし殺人者の場合、それと同じでは「奪ったいのち」に対する深い贖罪の念など生まれてくるはずもなく、もっと深い生命の感得が要求されるのです。それをいわば強いられる。

 話は少々脱線しますが、僕は前に美達大和氏の本に関する感想をここに何度か書いたことがあります。特に最初のものはこのブログ記事の中でも最もアクセスの多いものの一つになりましたが、僕はそれらを全部消してしまいました。「消す」とだけ書いて、その理由は書きませんでしたが、ついでにそれを書いておきます。

 美達大和氏は二件の計画殺人の犯人で、無期懲役の判決を受けて服役し、仮釈放を望まず、一生刑務所で過ごすと宣言している人です。僕が書評を書くきっかけになったのは、知人に彼と文通している人がいて、その人から「読んでみて」と一冊の本を手渡されたことです。その殺人事件の詳細は今も不明ですが、それは押し込み強盗の類ではなく、美達氏本人にとっては「許しがたい」背信行為があったからだと、少なくとも本人はそう言っています。

 背信行為程度で人を殺すのはやり過ぎです。しかも間を置いて二件も殺人事件を起こしているというのは明らかにふつうではない。しかし、彼の本を読んで思ったのは、彼は偏狭なまでの潔癖な道徳観、美学の持ち主で、それが独特の「知行合一」主義とも相まって殺人に行き着いたのだろうということでした。そういうのは僕にはわかる気がするので、そういう解釈のもとに、同情的・好意的な書評を書いたのです。

 それ以来、彼は出る本を僕にもくれるようになったのですが、父親をモデルにした『夢の国』という本を読んだとき、彼を殺人に導くことになった特異なパーソナリティ形成の原因は、彼が思慕し、敬愛してやまないこの異常な父親の異常な子育て(母親にも事実上遺棄されている)にあったのだなと、はっきり感じたのです。しかし彼は、精神的になおもその父親から分離していない。むしろその暴力的なありようを讃美しているのです。これでは先には進めないのではないかと思い、「父子関係の悲劇」と題した文を書きました。

 問題はそこから先で、次に美達氏は『塀の中の運動会』と『牢獄の超人』を出しましたが、僕はそれを酷評しました。そこには著者自身の分身と思しきカッコよすぎる人物が登場し、そのナルシシズムに閉口させられたからです。こうした自意識のありようと、自分が犯した殺人の罪に対する「贖罪の思い」がどうすれば両立するのか? 父親との病的な関係の「清算」ができていないだけではない、彼の犯罪には、そうしたナルシシスティックな自意識、過度な自尊心も明らかに関係していたのです。

 やがて彼は人の手を借りてブログも開設しました。そこの文章も僕には感心できませんでした。彼は俗世間にいたとき、ビジネスの成功者でしたが、それについて語りながら人に人生指南のようなことをするなんてのは、その一方で彼は殺人事件を起こしていたのだから、釈然としない話なのです。ビジネスで成功した自分は善で、それは殺人を犯した自分とは別物だと言うのでしょうか? 多重人格者ではないのだから、それは無理な相談なので、それはこういう世界観、こういう窮屈な思考の枠組みの中で生きていると、他方で殺人を起こすことにもなりかねませんよ、ということなのです。自分を過度に鞭打ち、「さらなる高みを目指す」その余裕のない息せき切った生き方が、自分を追いつめて、殺人という自滅行為の中に落ち込むよう仕向けた一因でもあったのです。どうして彼は相手が絶命しても何度も何度もナイフを突き刺すようなことができたのか? それは積もり積もった抑圧がそれほど大きなものであったからで、その苦しさは自分に僅かな甘えも許さず、絶えず自分を鞭打つ彼の生き方から生まれたもので、それはビジネス成功の大きな一因でもあったのですが、同時に彼を冷酷な殺人行為に追い込む原因ともなったのです。そしてその背後には、「勉強でも喧嘩でもつねに一番でなければならない。でなければ自分の息子ではない」とする、申し分なく暴力的でもあった異常な父親の姿が見えるのです。なまじ彼はその期待に応えられる子供だったから、人一倍親思いの子供だったこともあって、その呪縛から逃れられなかったのです。これはノスタルジーを誘う「濃密な親子関係」などというきれいごとですむ話ではない(精神科医の香山リカは『夢の国』に無責任な推薦コメントを寄せていましたが)。それはやがて殺人へとつながる悲劇の序曲をなすものなのです。

 僕のブログ記事は全部その知人を介してコピーが彼の元に届けられていたようですが、途中までは「私は批判大好き人間です」などと余裕を示していたのが、途中で一転してブチ切れたらしく、かなり激しい調子の怒りの手紙が届きました。僕の方はそれを読んで怒りは全く感じませんでした。彼は論理は達者だが感情的には幼いという、男性族の代表選手のようなところがあって、その文面に現れた幼さには少々驚きましたが、何より最初から言っていることが彼には何も伝わっていないらしいことにがっかりさせられたのです。

 ここで先の話ともつながってくるのですが、同時に僕は相手に勝手に無理な要求をしていたのではないかと反省させられました。不幸な親子関係の清算なんて口で言うのはかんたんでも、それはパーソナリティの解体に等しいことなので、辛抱強い一流のセラピストでもそばにいてくれないかぎり、ふつうはできることではないでしょう。僕が「父親の責任」と言うとき、それは責任転嫁の意味では全然ないのですが、だからこそそれはもっと深刻な精神的動揺につながりかねないものなのです。強いナルシシズムの指摘も、彼にはカチンと来るものだったでしょう。それは彼の自己イメージを著しく傷つけるもので、僕が言いたかったのは、そんな次元でウロウロしていたのではいつまでたっても埒が明かないのではないかということだったのですが、彼は「過度の自尊心」が殺人に関係していたことは意識の上では認められても、その自覚を深い部分に及ぼすことには苦労していたのです。僕の見るところ、その原因となっている硬いパーソナリティは父親による事実上の虐待に対する防衛機制として出現・発達したものなので、今も孝行息子であり続ける彼にはなおさらその克服は難事なのです(彼本来の「善良で柔らかな心」は、その下に、抑えつけられたものとして今もあると思うのですが…)。

 僕自身、四十歳前後の数年間、ひどい鬱に苦しめられましたが、一時は死んだ方が百はマシだと感じられたので、そこを切り抜けられたのは家族や友人の手助けと、「神の恩寵」のおかげだったと言えるほどです。別に深刻な犯罪という重荷を負っていなくても、それまでの内面のありようを変えることを強いられるときはそれほど大変なのです。殺人という十字架を背負っている彼のような人の場合はなおさらでしょう。そこらへん、僕は安易に言いすぎたのです。

 殺人事件の場合何よりつらいのは、殺した相手の人生は永遠に失われてしまったということでしょう。それは文字どおり「取り返しのつかない」ことで、ふつうの意味では償おうにも償いようがないのです。それは絶対的な事実です。いかなる慰めもない。

 美達大和氏の場合には、そのことに関しては償いようがないから、遺族に謝罪を続けるのはもちろんとして、何とかして人の役に立つようなことをしたいと思っています(彼は印税から養護施設などへの寄付もしていると聞いています)。その善意は僕には信じられるのですが、本が出て、読者ができ、賞讃の言葉も寄せられるようになると、ついつい己惚れ心がもたげてきて「人を教え導く」みたいなスタンスになってしまい、自意識もまた膨張するということで、ついつい「方向が違うでしょ」と言いたくなってしまったのです。自分の精神的な清算がついてからならまだしも、それは上に見たとおりまだなのですから。

「元少年A」の場合には、美達氏ほどのレベルにはなく、何より社会からの承認欲求が先に立っているのではないかと思いますが、版元の太田出版は、アマゾンのレビュアーたちが非難するような「汚い金儲け」ではなく、内容的に出版するだけの価値があると判断したから承諾したのでしょう。長崎の女子高生、名古屋大の女子大生の事件と、同種の陰惨な「病気の殺人」事件が相次いだ今、十八年前のこの事件の犯人が過去を振り返って書いたこの手記は、社会がこの種の犯罪をどう理解するかの手掛かりになるかもしれない。それがたんなる「観念のいじくり回し」ではなく、よく考えて書かれたものなら、同種の事件防止の手立てを考える参考にもなるわけです。

 世間を騒がせた異常な事件の犯人の手記だから初版10万部にもなって、「元少年A」が多額の印税(通常は定価の一割だから1500万だが、それよりは少ないという)を受け取るというのは、他でもない自らが起こしたその非道な犯罪行為のおかげなので、ビジネスとしてはフェアでなく、モラルハザードをひき起こす原因になりかねないが、彼はおそらく、その大部分を被害者遺族への賠償に回すなど、「まともな」対応を考えているでしょう。3K仕事に疲れ果てたから、楽に金儲けしたいというのではないはずです(その場合には皆さん思う存分非難していい)。太田出版も、それで稼いだお金で、たとえば売れずに赤字になるのが確実な僕が書いた本または訳書を出すなど、すればいいのです。

 それで彼がいい気になって、名士気取りで講演に飛び回るというようなことにはならないでしょう。そもそも、そんなことは世間が許してくれない。

 問題は、彼が書くことを通じて人としての自己理解と反省を深められるかどうかです。それができるのであれば、社会はそれを許してあげていいのではないかと、僕は思います。殺人は重い罪です。通常の怨恨がらみでもそうなのに、彼のような罪もない子供を犠牲にした猟奇的な殺人ならなおさらです。普通人のような生活や安楽が彼に許されないのは当然です。一生かけて罪を償わなければならない。

 一番難しいのは被害者遺族の感情で、許せないのはあたりまえだと僕は思います。仮に自分の家族が殺されたら、僕は根が血の気の多いアンタッチャブルな人間なので、万難を排して犯人を殺そうとするでしょう。それを忍耐して法の裁きに委ねる人たちは立派だと思いますが、それでも割り切れない感情は必ず残るはずです。犯人を殺せば死んだ子供が帰ってくるわけではないにしろ、殺したいと思うのが人情でしょう。この点、「元少年A」が「自己救済」などという言葉を安易に口にしているのはいかにも配慮が足りない感じで、遺族なら「うちの子の『救済』の方はどうなったのだ?」と怒りの言葉を返したくなるでしょう。彼の考えがいまだに甘いのは明らかです。骨身に徹しているとは思えない。

 そのあたりは悩ましいところですが、だからといって世間が一緒になって非難しても、それでどうなるというものではない。問題は同種の事件をどうやって防ぐかということで、頭ごなしの否定ではなく、手記を読んで足りないところは指摘してあげて、彼の自己省察の深まりを助けてあげるという親切さはあってもいいのではないかと思います。殺人者に共通する特徴の一つは、何とも言いようのない一種独特の「感情の浅さ」です(だから論理は達者でも、言葉にとってつけたような妙な上滑り感が伴う)が、書くことを通じて心の深い部分とのつながりがもてるようになり、それが真の悔悟へとつながるなら、それは殺された被害者や遺族にとっても、慰めになるのではないかと思います。

 先にも言ったように、しかし、それは一朝一夕にはいかないのです。浅い感情ゆえに彼らは殺人者になったのであり、どうしてそうなったかといえば、深い感情を妨げる何かがそこにはあって、その「何か」を取り除くことは容易なことではないからです。

 翻って考えるなら、彼がかつて悩んだであろう「生の不全感」は多かれ少なかれ現代人共通のものです。それはもう百年も前にイギリスの作家D・H・ロレンスが指摘していたもので、僕は先日、ふと思い立って若い頃読んで強い感銘を受けた井上義夫著『ロレンス 存在の闇』(小沢書店 1983年)を本棚から引っ張り出して読み返してみました。これは鬱の頃、生活も滅茶苦茶になって貧乏して蔵書を大方売り払ってしまったときも愛着があって残しておいたものの一つなのですが、あらためて名著だと感心したので、ロレンス(とその作品を通じて「生」を考えようとする著者)のまなざしは驚くべき深みにまで達しているのです。

「元少年A」の場合、倒錯した性衝動は不幸にして「生の否定」につながってしまったのですが、生命から遊離、離反して「空虚な断片」と化した現代人の「生」は「バイオもどき」になっており、それが行き着く先がそうした病的な倒錯になるのは、そんなことについて書き出すとまた長くなってしまうのでやめておきますが、なかば必然であるようにも思われるのです。「生の確認」行為が「生の抹殺」のかたちをとって表現されるという病理。そこには「過剰な観念」という媒介があって、生の途絶感がそちらの方に向かって、それが妄想を膨らませ、無残な「自己復讐(殺人は間接的な自殺です)」へと行き着くのです。

 ある意味、敏感な人間ほどそうなりやすい。彼らは人一倍、強い生との結びつきを求め、「生きた感情」がもてないことに苛立ち、問題解消の方途が見つからないままおかしな方向に行ってしまうのです。「生」を求める心が逆に「生」の否定に行き着いてしまう。そうした病的かつ不毛なメカニズムに、「元少年A」は今は気づいたのでしょうか。そうならいいのだが、と思います。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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