不作為の罪について

2015.04.14.16:01

 フサクイ、と聞いても、ピンとこない人が多いでしょう。これは元々は法律用語で、法学部の学生だと「不真性不作為犯」なんて言葉を刑法の授業で習って、冗談で「おまえの場合はフシンセイフサクイハンじゃないの?」「何言ってるんだ、おまえの部屋のあのポスターこそ、明白なゾーブツ(贓物)罪だろうが」というような、法律オタクじみたやりとりが行われたりしたものです(ちなみに、ウィキペディアによれば、この「贓物罪」は1995年の法改正後、「盗品等関与罪」という呼び名に変わっているそうです。友達から駅の化粧品会社の美人ポスターを勝手にはがしたのをもらったりするとこれに該当するわけです)。

 「不作為」というのは「一定の期待された作為をしない」こと、「なすべき義務があるのにしない」ことです。ふつうは殺人でも、窃盗でも、横領の類でも、積極的に悪事を「為す」ことが犯罪のいわゆる「構成要件」となるわけですが、親がネグレクト(育児放棄)で子供を死なせてしまった場合などは、養育のために為すべきことをしなかったことが罪に問われるのです(上記の「不真性不作為犯」はこういうのに該当する)。つまり、一定の行為が義務として課せられている場合にのみ、「しないこと(不作為)」が罪となる。

 しかし、僕がここで論じようとしているのは、そうした法律問題ではありません。道徳問題としての不作為で、たとえば、第二次世界大戦中、ドイツ国民は、ナチスがユダヤ人を強制連行して収容所に送り、そこで生体実験を行ったり、ガス室送りにして大量殺人を行っているのを、詳細は知らないまでも何かよからぬことが行われているということは認識しつつ、見て見ぬふりをした。戦後のドイツ国民はそのことを率直に認めることからスタートしようとしたのですが、これは彼らが自分たちの「不作為の罪」を認めて、その反省の上に新たな国づくりをしようと決意したことを意味します。

 アーリア人は「優等人種」で、ユダヤ人は有害きわまりない「劣等人種」だから、前者が後者を「撲滅」するのは当然で、正義の行いだというのがナチスの理屈だったわけですが、そういう狂気の政治団体が国家を牛耳っているときに、それに正面から反対を唱えたりするのは自らが「反国家分子」として捕えられ、拷問を受けて、ユダヤ人同様ガス室送りにされるかどうかはともかく、「抹殺」されることを意味したでしょう。文字どおり「決死の覚悟」が必要だったわけで、にもかかわらずそれに明確に反対すべきだったというのは、いくらか過酷すぎる要請だと言えるかもしれません。

 同様に、強制収容所の運営に関与し、そこで数々の残虐行為に従事した看守などが、「自分たちは上の命令に従っただけで、それに逆らう自由はなかった。だから自分たちに罪はない」と弁明したことも、一応理にはかなっているのです。ユダヤ人の組織的な大量虐殺に主導的な働きをした有名なアイヒマンは、役人の鑑ともいうべき法令順守の堅物の官吏でした。裁判時のフィルムが残っていますが、彼は「凶悪な犯罪者」のようには全然見えず、保身に汲々とするそこらによくいる「小心で凡庸な公務員」の典型のような人物だったのです(彼は裁判で、数々の残虐行為の証言にはほとんど全く反応しなかったが、一度うっかりして起立すべき時に起立せず、それを裁判長から咎められたときは、耳の付け根まで真っ赤になったと伝えられています。この出来そこないのロボットのような男にとって法令や規律に違反することは何にもまして「恥ずべき過失」だったので、思考と感情のそうした恐るべき狭小さ、浅薄さこそ、彼の強み(?)だったのです)。

 僕はしばらく前に映画の『ハンナ・アーレント』(今述べた裁判時の実物映像も出てくる)を見ました。あれは秀作ですが、当時アメリカの大学で教鞭をとっていた彼女は自ら買って出て雑誌『ニューヨーカー』の特派員としてイェルサレムに赴き、アイヒマン裁判を傍聴してレポートを発表します。彼女自身がガス室送りになりかねなかった亡命ユダヤ人だったのですが、ユダヤ人評議会のボスたちがナチスに協力して名簿作りなどをしていたことを暴露したために、ユダヤ人コミュニティから感情的な烈しい非難を浴びて孤立させられます。アイヒマンが「悪魔のような男」ではなく、生きた自分の感情と考える力をもたない「凡庸きわまりない官吏」にすぎないと指摘したことなども、ナチスとその関係者を(自分たちとは全く別の)「悪の権化(ごんげ)」としたい人々からは強い感情的反発をもたれたのです。

 今から見れば、アーレントの指摘は何らおかしなものではないので、たとえばオウム真理教事件などにしても、一連の事件に関与したとして罪に問われた(多くは死刑か無期懲役の判決が下された)高学歴幹部たちの大部分は、あのような病的なカルト宗教に入らなければ、医師、弁護士、メーカーの技術者等々としてごくふつうの成功した人生を送れたでしょう。彼らもまた、アイヒマンと同じだったのです。奇妙な閉鎖空間の中で教祖への忠勤競争に励み(その背後にあるのは権勢欲や名誉欲ですが)、あてがわれた病的な自己正当化の屁理屈(それは良心を眠らせるのに好都合なものだった)を信じ、数々の違法行為や殺人の片棒を担ぐ羽目になったのです。逆らえば自分も「ポア」されかねないという恐怖もあった。ナチス時代のそれと同じなのです。

 そして、ヒトラーだけではあのような大それた大量殺人はできなかったのと同じく、オウムも教祖の麻原だけではああいうことはできなかった(強制捜査がさらに遅れていれば、あの程度の被害ではすまなかったのです)。彼らはいずれも配下の多数の凡庸な人間がもつ、凡庸な悪に支えられていたのです。

 自覚のない悪ほど醜怪なものはないと言ったのは詩人のボードレールですが、ふだんは「善良な市民」である人々が、おかしな集団に取り込まれるとどんなとんでもないことをやらかすようになるかには、他にも歴史上多くの証拠があります。とりわけドグマティックな宗教の教理や政治的イデオロギーが加わると、神や正義の名において無意識領域に隠された野蛮な本能や憎悪感情が堂々と「解放」されることになって、始末に負えないことになるのです。

 だから人間の心理的健康にとって最低限必要なことは、日頃から自分の中の「悪」をきちんと認識しておくことですが、人はあまりそれをやりたがりません。それは「善良でちゃんとした人間」という自己イメージを傷つけるおそれがあるからで、ナチスの犯罪やオウム事件のようなものを見ると、どうしてそんなひどいことができたかと思うのです。自分もその内部にいたら同じことをしでかした可能性が高いとは思わない。インスタントな「悟り」を求めたオウムの信者たちは、おかしな思い上がりと結びついた錯覚から、自分の中のそうした悪にとりわけ無自覚になったのだろうと想像されますが、カルトが危険なのは、そうした自己欺瞞を生み出す精神構造になりやすいところにあります。

 オウムやナチスは極端な例であるとしても、企業犯罪などでもしばしばあとで聞かれるのは、「まずいことをしているのは薄々わかっていた」という内部の人間の述懐です。しかし、それが「上からの命令」だったり、「周りもそれに協力しているから」といった理由で、孤立と排除を恐れて反対することは憚られたのです。それで、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」心理に引きずられ、行くところまで行ってしまったというわけです。

 これは何も日本人特有のものというわけではありません。それはある意味「普遍的」な現象で、日本人は集団志向がことのほか強いから、他より少し目立つという程度のことにすぎません。個人主義が強い西洋人にはそんなことはないというのは嘘です。洋の東西、古今を問わず、それは世界中で観察されてきた現象です。

 しかし、これをそのまま「人間社会の実相」として肯定してしまうと、人間は所属する組織や集団次第で善悪いずれにもなりうるということで、救いのない話になってしまいます。モラルなどというものはたんなるタテマエで、それは自分の社会的体面を守るためのアクセサリーにすぎず、善人になるか悪人になるかは所属する集団次第、運次第ということになってしまうからです。

 反対すべきことに反対しない、僕はここでそれを重要な「不作為」の一つに数えているわけですが、オレオレ詐欺などの犯罪集団に入るのとは違い、ナチスやオウムは初めから犯罪集団としての顔を見せていたわけではありません。それは「よき意図」をもつものだと自己宣伝していて、途中からそのおぞましい姿が見えてきたということに、少なくともその内部の人間にとってはなるのです。企業犯罪などに関しても、そのあたり同様です。業務遂行のプロセスで反社会的行為、犯罪行為に手を染めるようになったにすぎない。

 そもそも、ナチスにしても最初からユダヤ人の「絶滅」を計画していたわけではないと言われています。全体主義の思潮をつくり出すために彼らをスケープゴートにして、民衆に「憎悪のはけ口」を与え、自らの求心力強化をはかったわけで、抹殺までは考えていなかったものの、途中で(独ソ戦開始後と言われる)「ユダヤ人問題の最終的解決」としてのホロコーストが「策定」されるにいたったのです。第三帝国は見かけ上は「快進撃」を続けていたものの、それとは裏腹にヒトラー自身が健康を害し、幹部たちにも自分たちが自滅に向かいつつあるという「暗い予感」が心の奥深く兆しつつあったのではないかと僕は想像するのですが、オウムもこれと似ていて、犯罪行為を積み重ねるうち、内面的に追い込まれてゆく中で「ハルマゲドン」の自作自演へと傾斜していった。そして組織の成員たちは、「組織の論理」に忠実に、その「狂気の決定」に従ったのです。

 これを僕らは「特殊な事例」として笑って片づけることはできない。戦時中の「鬼畜米英」「一億玉砕」スローガンなども同種のものだからです。常識的に考えれば、未開人ならいざ知らず、二十世紀の人間が異国人を「鬼畜」と決めつけるのはいかにも馬鹿げているし、民族絶滅の、集団自殺の勧めを尤もらしく受け止めるというのも馬鹿げています。けれども、それはほんの70年前に起きたことなのです。

 こういうのは大規模な雪崩みたいなものだと、僕は思います。兆候の段階、初期段階でなら食い止めることはできるが、巨大化し、勢いがついた段階では、もはや誰にも止めようがなくなる。そうして集団の暴走と共に、個々人の無意識の中に眠っていた数々の悪徳も一緒に「放出」されるのです(戦時のひどい残虐行為などはその一つです。わが「栄えある皇軍」の兵士にかぎって決してそんなことはしなかったと強弁する向きもあるようですが)。それが、全体主義(長いが、英語ではtotalitarianism)の恐ろしさです。

 問題は、しかし、先にも述べたようにそれが初めから悪しきもの、異常なものとして受け取られることは少ないことです。最初は取るに足りないものと見えたものがなぜ巨大勢力となることがあるのか、そこらへんもよくわからないことが多い。

 たとえばヒトラーが泡沫極右政党の党首として政治の表舞台に登場した時、インテリや文化人はあんな野卑な男が国家の指導者にまで成り上がるとは、ほとんど誰も思わなかったと言われています。それが幸運な巡り合わせ(皮肉なことに、世界恐慌がナチス大躍進の機会を与えた)やプロパガンダの巧みさも相まってあれよあれよと言う間に勢力を拡大し、権力を掌握すると、最大の政敵の共産党を国会議事堂放火事件の黒幕に仕立て上げて弾圧し、もはや表立って逆らえる勢力は存在しなくなり、人々は怒号のような彼の演説に酔い痴れ、独裁体制が確立したのです(政権に就くとほどなく多くの新聞は廃刊され、残った新聞・雑誌はナチ党配下の出版社が買収、「情報の一元化」が進められて、御用新聞・雑誌以外、何も残らなくなったとのこと)。

 ヒトラーの巧みなところは、まだ有力な敵がいる段階では「まとも」を装うことを怠らなかったことです。初の内閣発足に際しての「首相就任直後の施政方針演説にて、(1)国際協調と平和外交、(2)ワイマール憲法の遵守と憲法48条(大統領緊急令による基本的人権の停止条項)の濫用抑止、(3)多党制の維持(共産党の活動も制限しない)の3大方針を示した」(ウィキペディア)そうなので、こういうやり方で「極右過激派」への疑念をもつ人々の不安をなだめた。むろんそんなものは「嘘も方便」と心得てしたことで、彼にははなから守る気などはなかったのです。

 この「国際協調と平和外交」のアピールには、諸外国も騙された。第一次大戦後の厭戦気分がまだ色濃く残るなか、大嘘つきの彼のポーズ(条約の類は、彼にとっては戦備を整える時間を稼ぐためのたんなる小道具にすぎなかった)に進んで騙され、「ヒトラーは平和を望んでいる」と信じ込もうとしたのです。

 ヒトラーは経済政策においても成果を挙げたと言われています。世界恐慌後のひどい失業率も、荒っぽい手法で完全雇用に近い状態を達成(「恐慌からの回復に関しては、同時期にアメリカで行われたニューディール政策よりも効率的であったという仮説も近年有力になってきているが、その回復は賃金の増大や民間消費拡大も伴わない景気回復であった」とウィキペディアの関連記事にはあります)、そうしながら、菅官房長官お得意の言葉を借りるなら「粛々と」戦争体制を整えていったのです。そうして、周知のとおりの悲惨な結果をもたらした。

 要するに、ヒトラーは内外の目を巧みに欺いたのです。むろん、彼にはずっと、見る人が見ればそれとわかる大いにいかがわしいところがあって、それに警告を発する人はいたが、それは人々の聞くところとはならなかった。そして独裁体制を確立して秘密警察の監視の目を張り巡らせてからは、そうした警告は直接身の危険を招くものとなったから、人々は沈黙を余儀なくされたのです。

 要するに、何が言いたいのか? 危険なものが出現した時は、その支配拡大を阻止すべく努力をしなければならないが、それがどういうものなのか、よくはわからないことが多いので、それもなかなかに難しいということです。上のウィキペディアにあるヒトラー内閣の「施政方針演説」の三点、「(1)国際協調と平和外交、(2)ワイマール憲法の遵守と憲法48条(大統領緊急令による基本的人権の停止条項)の濫用抑止、(3)多党制の維持(共産党の活動も制限しない)」など、文句のつけようのないもので、これでは良識派も反対できない。それが守る気などさらさらない彼の大嘘だったとしても(事実そうだったのですが)、その時点ではまだ証明されておらず、それを嘘つき呼ばわりするのはたんなる中傷であると、批判者が逆に非難されかねないのです。それ以前の彼の言動とそうした約束は整合せず、だからそれは世を欺くための嘘に違いないと考えても、一国の指導者の地位に就いて「新たな自覚」が芽生えたのだと言われれば、「そんなものかな」と思ってしまうのです。

 ただ、こういうことだけははっきり言えそうです。こうした国家・民族を破滅に陥れかねない政治家の特徴として、(1)自分の独善的な「大義」を信じ込む反面として、嘘をついて世を欺くことに何ら抵抗がない、(2)思想的な寛容さが欠落していて、情報統制を好み、異論を許容しない、(3)大衆に愛国心を鼓舞するような「わかりやすい物語」、憎悪のはけ口と損なわれた自尊心のよりどころとなるようなそれを提供し、これを味方につけるとともに、企業家など、そのときに大きな社会的権力をもつ層には便宜を図って、そちらを巧みに取り込むことを怠らない、などです。いわゆる「良識ある中間層」などというものは、ああでもない、こうでもないと煮え切らない議論にふけっているだけで、ものの役には立たない連中だということを大衆に印象づければ足りるので、閉塞感が募る時代の大衆は、「強い指導者」と「手っ取り早い解決(厳密に言えば、そう錯覚させるもの)」を何より欲するのだということを、ヒトラーのような人間はよく理解していたのです。

 こうしたデマゴーグは平時には大きな力をもちえないが、どん詰まりの政治・社会状況においては熱病的な支持をかちえることがある。人々は冷静な判断力を失って、それとは気づかないまま、自分の中の暗い情念(それは自己破壊衝動も含んでいる)と、手っ取り早い目先の解決を求める気分(葛藤や辛抱強く考えることから解放されたい!)に衝き動かされるからです。「民族の優秀性」と「国家の栄光の回復」を力強く説くその演説にも、傷ついた自尊心の癒し効果があって、「より大きなもの」に自分も属しているのだという高揚感がこれにプラスされる。彼が提示するあれこれには大きな矛盾があり、施策の効果が大いに疑わしいものであっても、そうしたことにはむしろ進んで目をつぶろうとするのです。

 そうした権力の内部、周辺にいる人々は、危険な側面、お粗末な裏面を他の人間よりよく知りうる立場にあるはずですが、三流の人間でもその人気にあやかれば「光り輝ける」、少なくとも大きな権勢を維持できるというので、それに疑問を呈するどころか、忠勤競争に励み、率先ボスの意を汲んで情報統制に協力したり、「愛国的」な言辞を連発して、気に入られようとするのです。そこでは不自然なまでに異論は聞かれなくなる。組織は個人の集まりで、だから同じ組織でも思想の多様性は維持されるのが健康なありようですが、そうではなくなってしまうのです。教祖を絶対視し、それに盲従するカルト宗教と同じになって、前回ここで紹介したLITERAの記事の、内閣参与・飯島勲がいみじくも言っているように、「上司が『カラスは白い』と言ったら『カラスは真っ白』だと言わねばならない」ということになり、異論は封殺または自粛されるのです(飯島氏は「バカの重用」も勧めていて、それはバカな部下ほどそうすれば「大喜びするだろうし、自分に対して敬意を払う」からだそうです)。

 まだ言えるときに言うべきことを言わない「不作為の罪」がこうして悪を巨大化させ、誰の目にも危険が明白になったときはすでに手遅れ(少なくとも平和的な手段でこれを押しとどめるすべはない)、というのが歴史の教訓ですが、われわれ人間はあまりそれに学ばないので、「歴史は繰り返す」ということになってしまうのでしょう。

 今回の僕の話は以上です。政治を考える際のご参考までに。
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