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“私”が存在するのでないなら、“何”が存在するのか?(『エスの系譜』雑感)

2010.11.15.13:07

 どこに書いたのか忘れてしまいましたが(最初にここに載せた三本のクリシュナムルティ論のいずれかに入っているはずです)、デカルト先生の有名なコギト・エルゴ・スム、「私は考える、ゆえに私は存在する」という命題は間違いだと、書いた覚えがあります。「考える」からといって、そこから「考える主体」である「私」が必然的に導かれるわけではないのだ、ということを、です。あんまりそういうことを言う人はいないのだろうと思って書いたのですが、無知というのは恐ろしいもので、先日僕は『エスの系譜』(互盛央著 講談社)という本を書店で見つけて読み、同じようなことを言った人がたくさんいたという事実を知らされて驚きました。すでにあのニーチェが『善悪の彼岸』にこう書いていたというのです。

●主語「私」は述語「考える」の前提である、と述べるのは事態の捏造である。それが考える[Es denkt]。だが、この「それ」はまさにあの古く名高い「私」であるというのは、控えめに言っても仮定や主張にすぎないし、とりわけ「直接的確実性」ではない。結局、この「それが考える」でさえすでに言いすぎである。(同書p.36 傍点省略 以下同じ)

 著者の互氏はこれに続けてこうコメントしています。「なぜ『それが考える』でさえ『すでに言いすぎ』なのか。『それ(エス)』は、いかなる名詞の代わりでもない代名詞、というより、言葉では語りえないものを言い当てるために要請される『主語ならぬ主語』だからである」と。
 ドイツ語では、「雨が降る」It rains.と言うとき、Es regnet.と言います。要するに、英語のitが独語のesなのですが、ここでニーチェが言っているのは、何かある特定の、実体的なものを指す語を受けての代名詞としての「それ」ではなくて、「語りえないもの」、言い換えれば「名づけえないもの」を指しての「それ」だということです。 
 他にもこういう引用があります。こちらは、「論理実証主義を代表するドイツ人、ルドルフ・カルナップ」の言葉である由。

●「私が経験する[ich erlebe]」から結論されるのは、私があることではなく、経験があることである。自我は基礎的経験の表現には全く必要なく、本質的には「他者」との境界のためにあとになって初めて構成される。〔…〕哲学的自省は、起源的な意識事象は行為する主体や「私」の活動として理解されてはならない、という一致した結果にさまざまな傾向の哲学者を導いた。
 文献 「私が考える〔ich denke〕」ではなく、「それが私の中で考える〔es denkt in mir〕とラッセルは『精神の分析』一八頁で言うが、私たちも(シュリック『一般認識論』一四七頁以下によれば)リヒテンベルクのように、「私の中で〔in mir〕」を削除するだろう。(p.203)

 こういうのは「哲学的」すぎてわかりにくいという人には、次のようなエーリヒ・フロムの言葉はすっと入ってくるかも知れません。

●子供は比較的あとになって「私」という語を習得することが知られている。しかし、その後、私たちの誰もが躊躇せずに「私が考える[I think]」、「私が感じる[I feel]」、「私が行う[I do]」と言う。私たちは自分が現実に言っていること―陳述の現実性―を考察すれば、それが正確でないことがわかる。「それが私の中で考える[it thinks in me]」、「それが私の中で感じる[it feels in me]」と言うほうがずっと正しいだろう」(p.195)

 互盛央(たがい・もりお、と読む由)さんのこの本は色々な意味で僕を驚かせましたが、僕が「完全同意」した引用文をもう少し孫引きさせてもらうと、

●今日では、人間が自分自身を振り返るとき、自分は思考、感覚、続いて行為になる意志の衝動の所有者だと自負します。とりわけ自分のことを、まさに「私が考える」、「私が感じる」、「私が意志する」と書きます。しかし、私が今お話しているこれらのさまよう人々〔アラビア主義、アジア文明とアリストテレス主義に影響を受けた、遅くとも十二世紀頃の文明の中で生きていた人々〕、これらの人格のもとでは、今日私たちが「私が考える」と言う際に固有の感覚は「私が考える」にはまだまったくともなっていませんでした。〔…〕古代文明の基層から出てきた彼らは、「私が考える〔ich denke〕」と考えたというよりは、むしろ「それが私の中で考える〔ich denke in mir〕」という感覚の中でずっと生きていたのです。(p.174~5)

 これは晩年のルドルフ・シュタイナーが書いた文章の一節だそうです。何とまあ…という感じで、僕も若い頃有名な『善悪の彼岸』ぐらいは読んだはずだし、カルナップはまだしも、フロムもいくらかは読んだはずです。シュタイナーも十冊程度は読みました。この本には他に『論理哲学論考』で有名なヴィトゲンシュタインや、今の日本ではあまり有名ではないカール・クラウスも出てくるのですが、後者についてはエーリヒ・へラーの『廃嫡者の精神』(青木順三他訳 紀伊國屋書店)と『ヴィトゲンシュタインのウイーン』(S・トゥールミン/A・ジャニク著 藤村龍雄訳 )が面白かったのがきっかけで、以前法政大学出版局から出ていたクラウス著作集の残欠を古本屋を回って必死に探し回り、うち二冊を見つけて大喜びしたことがあったので、読んではいたのです。この『エスの系譜』には冒頭、ランボーが出てくるのですが、それも小林秀雄に若い頃傾倒していた関係で、翻訳で目ぼしいものは大体読んでいたはず。この本は、「フロイトのエス」を縦糸としてずっと展開されていると言っていいのですが、それも学生時代、ユングと並んでかなり読んだはずです。フロイトのdas Ich(「私」)が英訳の際、ラテン語のエゴegoに置き換えられ、Esが同じくイドidに変えられてしまった、というのは有名な話です。
 しかし、ここに書かれているようなことを全部見落としていたというのは、人間はいかに「自分の読みたいようにしか本を読まない」かの証明のようなものです。しかし、ここは自分の不明を嘆くより、この若き俊英の洞察力と着想に素直に脱帽すべきでしょう。
 
 僕が今見た引用文にあるような事態にはっきり気づいたのは、クリシュナムルティの翻訳をしているときだったのですが、同じ無人称のエスと言っても、その「内容」についてはこれらの思想家が頭に置いていたことは相当異なっていそうです。
 ことに精神分析学で言うエス=イドというのは、一般に、「ドロドロした原始的欲望・本能のかたまり、始原的なエネルギー」と解されていると思います。そういうものと、この本の「エピローグ」に引用されているサルトルの言う「自発的」な「意識」は、彼は「私は考える(コギト)」には「自我は必要ない」と言ったそうですが、果たして同じなのか。

●反省的態度はランボーの(見者の手紙の)有名な言「私は一つの他者である」によって正しく表現される。彼が言いたかったのは、意識の自発性が自我から発することはありえず、それは自我に向かっていき、自我に合流して、自らの明澄な厚みの下に自我がかいま見えるようにするが、何よりもまず個体化された非人称の自発性として与えられる、ということだけだったのは文脈が証明している」(p.255)

 この「意識」の担い手は、フロイトのエスではない。少なくとも一般に理解されているそれとは相当違っていそうです。僕の理解では、それは「エスの彼方にあるもの」であり、いわば所属者をもたない非人称の無色透明の意識と見えるので、「それは自我に向かっていき、自我に合流して、自らの明澄な厚みの下に自我がかいま見えるようにするが、何よりもまず個体化された非人称の自発性として与えられる」という表現は、この上なく的確な、うまい表現だと思われます。ここの「個体化された非人称」には元の文では傍点が付されていますが、それを現代人である僕らは、瞬時に(かつ無意識に)「私」と読み替えてしまうのです。そしてそれが、様々な問題を引き起こす。

 しかし、こういう言い方にもやはり難はありそうなので、エス(と呼ばれるもの)がどうして“脅威”と感じられるのかと言えば、それは私=自我にとっては「不気味な、手に負えないもの」として感じられるものでしかないのだとも言えるわけで、ヒンズー教のシヴァ神などは、「破壊と創造の神」ですが、このエスを象徴化したものだと解することができるでしょう。それは「生命の異名」だと言っても同じなのです。そうして、意識は「無人称」のものとしてそこに宿っているわけだから、その意味では違わない。

 もしも「私」思考をやめたとしましょう。そうすると、エスが全く違ったものに見えてくるというだけでなく、おかしな歪曲や抑圧要因が消えて、エスそれ自体が違ったものに変貌するかも知れない。それは「〈私〉意識」にとって恐怖の対象であるだけなのであり、またその恐怖がそれを変質させているのです。

 この本にはクリシュナムルティは全く登場しませんが(シュタイナーが、神智学協会がクリシュナムルティを「世界教師の器」として担ぎ出したのがきっかけで離反し、人智学協会を設立したという付随的な記述の箇所で名前が一度出てくるだけです)、やはりエピローグで引用されている、スイスの湖畔での述懐として出てくる次のようなルソーの言葉は、「魂」という言葉を「人」に置き換えるなら、クリシュナムルティの文章とほとんど見分けがつかなくなるでしょう。

●そこでは、魂にとって時間は何ものでもなく、いつでも現在が持続しているにもかかわらず、その持続を示すことも、いかなる継続の痕跡も、存在の感覚以外の欠乏と享楽、快と不快、欲望と不安といったいかなる感覚もなく、その存在の感覚だけで完全に魂を満たすことができる。この状態が続くかぎり、その状態にある人は幸福と言われる」(p.257)

 何にせよ、これは刺激に富む面白い本で、土曜の晩はとうとう徹夜してしまいました(どういう読み方をしているのだ、と著者には叱られるかも知れませんが…)。
 広く一読をお勧めする次第です。
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