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中教審の大学入試改革案に対する根本的な疑問

2015.01.01(06:12) 296

 今年もセンター試験まであと二週間少しになりましたが、受験生たちは相当ピリピリしているでしょう。あんまりのんびり構えているのも心配なものですが、某予備校では浪人生が友達を刃物で刺す、という事件が起きたとのこと。こういうのも受験のプレッシャーと無縁ではないでしょうが、もう少し平和的なかたちで発散してもらいたいものです。昔も、受験を間近に控えた浪人生がおかしくなって、下宿の屋根に上って、瓦を投げる、なんて事件がありました。黒山の人だかりができ、お巡りさんが下から「早く降りてきなさい」と懸命に呼ばわって、事なきを得たようですが、そういうのは笑えます。「おまえもカワラを投げないように」と心配した田舎の母親から電話がかかってきて、「誰がそんなもの投げるか!」とフンガイした浪人生がたくさんいたとか。

 よけいな前置きはこれくらいにして、大学入試改革の話です。入試制度は「いじればいじるほど悪くなる」と言われていて、そもそもが今のセンター試験の前身、共通一次の導入それ自体が失敗だったと考える人は少なくありませんが、今度はそれを廃止するという。廃止して、元通り大学の個別試験のみにするというのなら話はわかるのですが、統一試験は残して、しかも一般受験用の「大学入学希望者学力評価テスト」と、推薦入試への利用を前提とした二年時から受けられる「高等学校基礎学力テスト」の二つを設けるのだというのだから、「また何を考えてそんなよけいなことを…」と疑問に思わざるを得ないのです。偉いさんたちの「衆智の結集」ならぬ「衆愚の結集」のように思えます。ついこの前、法科大学院で大失敗したというのに、そういうすぐ目の前にある教訓に何も学んでいないのです。僕はつねひごろ、「学力低下」は子供の問題であるよりも大人の問題ではないかと言っているのですが、それを裏書きするような話です。

 これだけでは一私塾教師のたんなる言いがかりとしか受け取られないだろうから、順を追ってわかりやすくご説明しましょう。その実施は、「大学入学希望者学力評価テスト」の方は2020年から、「高等学校基礎学力テスト」の方は19年度からということで、少し間があります。口の悪い一民間人の言うことにすぎないと無視せずに、政府や文科省はよく考えてもらいたいものです。でないと高校の教育現場に大混乱が生じるだけでなく、優秀層は国内の大学を素通りして直接海外の大学に進学するという動きが顕著になって、国内の大学のレベルはガタ落ちしてしまうかも知れません。それではますます海外からの留学生は減る。産業の空洞化に続いて、「大学の空洞化」が生じる危険があるのです。まさかそんなことが狙いの「改革」ではないのでしょう?

 まず、さも利点であるかのように宣伝されている「複数回」受験できるのデメリットです。答申では前者の「学力評価テスト」の方は年に複数回、後者の「基礎学力テスト」は年に2回、となっていますが、膨大な手間、事務量の増加につながることが考えられるので、前者の「複数回」は多くても年に3回が限度でしょう。

「今まではたった一度のチャンスしかなくて、そこで失敗すればおしまいでしたが、今度からは複数回受験できて、その中で一番成績の良かったものを提出できます」という触れ込みですが、そんなもの、受験生にとっては何の助けにもならないのです。

 それはどうしてか? その新テストの成績は、「これまでのように1点刻みではなくて、段階別にする(得点帯で大まかに分ける)」ということですが、仮に総得点率が80%以上なら全員がA、80%未満70%以上はB…というふうに分けたとしましょう(記述や総合問題も入って今のセンターよりは難しくなるそうなので、数値は低めに想定しています)。そうすると国公立医学部や東大京大をはじめとする一部難関国立大の受験生はほぼ全員がAを揃えてくることになるでしょう。複数回受けられて、一番いいものが出せるとなるとまず確実にそうなる。あとは、準難関だとB、中堅国立はCというふうに、大学のグループごとに必要な得点帯が決まってくる(これまでだと、難関大はほぼ例外なく二次の比重が高いので、センターで少しぐらいしくじっても、学力のある生徒は二次での逆転が期待できたのです。げんにセンターの判定がDやCで合格した生徒はうちの塾でもこれまでいくらもいます)。

 いわば「受験資格」がそれで決まるのですが、「1点刻みにしない」ということは、その内部では差を設けるな、という趣旨だと考えられるので、それはたんなる「受験資格」以上のものではなくなるのです。苦労して、やっとAを取ったが、それはエントリー資格を得たというにすぎず、後は二次の成績だけの勝負となる。

 さて、その大学別の二次試験ですが、通常の筆記試験だけでは駄目で、今後は「人物重視」で選考しろという。具体的には、面接、小論文、集団討論などの他、プレゼンテーション、調査書、活動報告書、大学入学希望理由書や学修計画書、資格・検定試験などの成績、各種大会等での活動や顕彰の記録、その他受験者のこれまでの努力を証明する資料などを活用することが望ましい、とされているのです。

 これ、どれくらい大変かわかりますか? 今までは推薦やAOの受験生以外、そんなことはしなくてすんだのが、その新制度スタートの暁には、受験生全員が大学によってマチマチなものになりそうな、この面倒な「人物重視」入試に備えねばならなくなるのです(これまで推薦の生徒には、その面倒の代わりに学科試験全部が、または二次の筆記が免除されるというメリットがありました)。

 大学側も大変です。提出された書類に一通り目を通すだけでも膨大な手間ひまがかかる。今までは、それを点数化して評価に加えると表明しているごくごく一部の大学以外、大学は内申書にすらロクに目を通していなかったでしょう。内申書の成績なんてものは、今は昔のような相対評価ではなく絶対評価なのでなおさら、学力評価の尺度にはならないのです。いわゆる「まじめなよい子」だと、評定平均は5段階評価の4.5は下回らないでしょう。それでいて模試の偏差値は50を切っていたりすることもあるので、まるでアテにはならないのです(基礎学力テストはそのへんのテキトーさを排除する趣旨のものなのでしょうが)。

 受験生は願書を出す前に、活動報告書(これは部活、生徒会、ボランティア活動などを含むのでしょう)、大学入学希望理由書、学修計画書(大学入学後のお勉強計画書?)など、諸々の書類作成に忙殺され、それ以前・以後は、面接や小論文、プレゼンテーションの練習に明け暮れるのです。それでかんじんの学科の勉強の方がなおざりになって、学力を低下させなかったらエラい!(たぶん、全体としては確実に下がると思いますが)。

 それで二次試験が終わると、神のお告げを待つかのような心境で合否発表を待つ。これはまさに「神のお告げ」です。なぜかといえば、よく見せるためにだいぶ嘘もちりばめた(場合によっては誰かに代作してもらった)そうした提出書類や、筆記試験以外の面接やら集団討論やらが、どんな評価を与えられるかは全くわからないからです。受験生が多いことからして、面接などはいくつものグループに分けて行われるのでしょうが、担当する先生によって評価が分かれるのも避けられないので、自分と相性のいい面接官に当たるのを祈るのみです。集団討論のばあいも、やりやすい相手、グループに恵まれるようひたすら祈る。

 そういう試験を受けたいと思う人、誰かいますか? おそらくほとんどいないでしょう。これまでは、落ちても、それは筆記試験の点数が足りなかったというだけの話でした。しかし、これからは「人物」を評価されるわけで、落ちたのは、一次のテストでは同じだったわけだから、ひょっとしたら、「人間性」が問題視されて落ちたのかも知れないのです。すなわち、あなたには人格的に問題があるか、将来性があまりないと判断された可能性が高いのです(今も医学部ではたいてい面接がありますが、これはとりたてて問題のありそうな受験生をチェックするだけの消極的な意味しかありません)。この答申では、大学側は「アドミッション・ポリシー」なるものを明示するよう求められているのですが、少なくともあなたはその大学の「アドミッション・ポリシー」からは“不適切な人材”と認められたのです。

 要するに、2020年以後の大学入試では、「全部が推薦やAO入試」みたいになってしまうおそれがあるということです。今の推薦入試制度には大いに問題があると、受験関係者には見られていますが、そこで問題視されている「選抜の不透明さ」が全体に及ぶのです。

 たとえばの話、頭がよくて根は誠実善良だが不愛想な生徒や、若い頃のマハトマ・ガンジーみたいな強度の赤面症の若者は、面接や集団討論ではよい評価をもらえないでしょう。元がひどいどもりだったという大作家や大実業家もいますが、そのような若者も同様です。将来absent minded professorと評される大学者になりそうな、昼行燈(ひるあんどん)にしか見えないボーッとした若者も、ただの馬鹿とみなされて落とされる可能性大です。彼は集団討論の際、「あー」とか「うー」とかしか言わなかったのです。

 代わってよい評価を受けるのは、弁舌さわやかな好青年を演じることができる若者たちです。彼らは前向きで、ハキハキしていて、自己アピールが巧みで、周りに好印象を与えるすべを心得ています。僕の経験では、十代の頃からそういう立ち回りが得意な奴なんて、ロクなのがいません。小利口なだけの紙みたいな軽薄な連中で、政治家には向いているかもしれないが、そんな若者が大成する道理はないと思われるのですが、面接や集団討論が重きをなす入試では、明らかにそちらの方が優位に立つでしょう。

 女子受験生の場合には、たぶん“美貌”もモノを言うでしょう。前にある高2の女子高生が、「先生、美人ってトクですよね」と言うから、「何で?」ときくと、同じ高校のものすごい美人の先輩が、某国立難関大のAOを受けて合格した、あれは絶対顔だと思う、と言うので笑ってしまったことがあるのですが、言われてみれば、うちの塾でも美人の女子生徒や不思議な愛嬌のある子の推薦入試合格率は非常に高いように感じられます。面接官が男性の場合には、これはかなりの程度避け難いことでしょう。就職面接だって、テレビアナウンサーの試験ではなくても、美人が得をするのは明らかです(僕も昔、関東にいて塾の管理者をやっていたときの話ですが、アルバイトの学生講師の採用面接の際、事務の女の子に「先生はまさか、顔で採用を決めてませんよね?」とドスの利いた声で脅されたことがあります。大手化粧品会社のキャンペーンガールぐらいは楽につとまりそうな美人女子学生が訪れた直後のことで、彼女は「選考における公正」の観念を上司に今一度想起させる必要があると感じたのです。眼光紙背ならぬ「皮膚の奥」に徹する僕の場合、そのような恐れはないと言ったのですが、彼女はあまりそれを信じたふうには見えませんでした)。

 冗談はさておき、「各大学は人物像や評価基準などの受け入れ方針を示した上で、人物を多面的に評価するよう提言した」(東京新聞の記事)とあり、やたらと「人物」を強調して、暗に二次試験では筆記の成績より、提出書類や、面接やプレゼン、集団討論などを重視するよう求めているようなので、そこらへん、「不透明」になる可能性は非常に高いのです。

 これまで各種推薦入試の「不透明さ」が大目に見られてきたのは、それが全体からすれば一部にすぎなかったからです。メインは一般入試で、そこでは筆記試験による公平性が保たれている。だから、推薦で入った学生の学科学力は劣るとしても、中には別の面で大きな長所をもつ学生も含まれているだろうから、それはそれでいい。こういうところが大方のコンセンサスだったのではないかと思います。それが崩れるのです。

 その結果、どういうことになるか? まず考えられるのは、冒頭でも触れたような優秀層の海外大学への大量流出です。仮にすべての大学がこうした指令に忠実に、筆記試験以外の「人物」的要素を重視するようになると、東大ですらもはやかつての東大と同じとはみなされなくなる。これまでは人格的なことはともかく、学力だけは高い学生が集まっていると見られていたのが、こういう「不透明入試」ではそれもアテにはならないと世間には思われて、それならわざわざそんなとこに行っても仕方がない、と考える受験生が増えるだろうということです。

 それで彼らは高校段階でTOEFLなどを受験して必要な成績を確保し、必要な書類も取りまとめて、直接海外へ進学する方を選択する。向うにも、書類審査や筆記試験、面接があっても、トータルの手間は同じか、むしろ少ないくらいだからです。元々国際的なランキングで100番以内に入っているのは東大と京大しかなくて、国際的には日本の大学の評価は高くない。そこにきてこの煩雑なヘンテコ入試では、国内の大学に進学するメリットはほとんどない、と判断するのです(企業も今は海外の大学の卒業生を高く評価しています)。

 僕が親でもそう考えるでしょう。もしも自分に小6の子供がいれば、そのつもりで準備しておいた方がいいよとはっきり言うと思います。今の大学生には留学希望者が多く(塾の生徒を見ていてもそれは明らかに増えている)、彼らは大学入学後TOEFLを受験して、きっちり必要な成績を取って、大学のバックアップを受けて留学するのですが、これはそういう学生・大学側の努力を無視するかのような制度いじりで、それならさっさと直接海外の大学に進学してしまった方が早いからです。優秀な生徒ほどそう考える。そうならない方がむしろ不自然なのです。

 言うまでもないことながら、そうやって抜けていくのは語学に強く、他の学科の能力も高い、優秀な生徒たちです。そうすると、東大、京大あたりは特に、今のレベルを保つのは困難になるでしょう。それが明らかになるとなおさら高校卒業時点での「海外流出」は加速する。こうして日本国内にはよくて「旧帝大下位」レベル以下の大学しか残らなくなるのです。

 言い忘れましたが、高校の教育現場の混乱は甚だしいものになるでしょう。年に複数回試験があるとなると、受験学年では落ち着いた授業はできなくなる。中高一貫の私立などの場合には、通常五年間で六年分のカリキュラムを消化してしまい、最終学年は予備校のようなものだからさほどの影響はないかもしれませんが、ふつうの公立高校などは、三年間の授業を二年間で終わらせるのは事実上不可能に近いので、高3の教室の有様は混乱を極めたものになるのです。

 しかも、今回の「改革」では、「将来的には、教科の枠を超えた設問のみでの評価を目指す」とし、「たとえばワインに関する文章を読ませ、現代文や化学、歴史の出題をする『合教科・科目型』、環境や食など実社会の課題について設問する『総合型』のみでの評価を目指す」(先の東京新聞の記事)とあって、これを従来の学科別のテキスト、授業とどう調和させるかという大問題があります。

 中途半端なことをやると学科学力そのものが怪しいものになってしまうので、それはひととおりの教科学習を終えたあとやらねばなりませんが、それならなおさら、時間は足りなくなってしまうのです。

 こうした問題を一体どうやって解決するつもりなのか? 解決も何も、そもそもそうした現実的なことを中教審のセンセたちは何も考えていないのだろうと思います。彼らはたんに俗耳に入りやすい空虚な「理想論」をぶっているだけなのです。

 その「複合型」問題に関して、ついでに皮肉を言わせてもらうと、それはアクチュアルな現実問題を取り上げたものには決してならないでしょう。たとえば、今の選挙制度下での政党別の得票率と獲得議席数は、大量の死票が出る関係から大きく異なりますが、そういうのを数学的に計算させ、そこにどんな問題が生じていて、それをどうすれば妥当なものにできるかといった公民や数学との融合問題などは、自民党には不快極まりない問題なので、その「大学入学希望者学力評価テスト」には出るわけがありません。電源問題なども、細かいデータを提示して、原発と火力、自然エネルギーのコストを様々な要素を織り込んで総合的に計算、比較せよ、といった問題は有益この上ない問題ですが、そんなものを作ったら安倍政権の大嘘がバレて、彼らがヒステリーを起こすのは疑いなしなので、決して作成されないでしょう。どうでもいい眠たくなるような人畜無害の「総合問題」あるのみで、それと学科別の試験のどちらがマシかは大いに疑わしいのです。

 こういうのは今のセンター試験の英語の問題を見ていてもわかるので、僕は塾で教材にセンターの長文問題を使うことはほとんどありませんが、それは端的に内容が面白くないからです。退屈なので、生徒が寝てしまう。どうせ英文を読ませるのなら、生徒たちの幅広い教養の増進や社会に対するより深い理解の助けになる、内容のあるものを読ませたい。そうなると勢い、国立二次の問題や、私立の一般入試の問題からえらぶことになるのです。こちらには有益な、面白いものがたくさんある。アクチュアルな、社会に対する問題提起を行った文章や、「常識」の虚偽を鋭く剔抉(てっけつ)するような英文がいくらも見つかるのです。センターの長文は、しかし、内容的に人畜無害な眠たいものが多すぎる。表面的な話ばかりで、別に大して頭も使わないし、退屈なのを我慢すれば満点近い点が取れる。僕はここ十年ほど、センター試験が行われた夜、インターネットに問題がアップされるのを待ってその問題を解いているのですが、正直、毎回死ぬほど退屈しているのです。最後の第六問が一番内容があって、あれはまあまあですが、他に見るべきものはほとんどない。だから教材に利用する気になれないのです。

 これは今のセンター試験が易しいからだと言う人がいるかも知れませんが、僕はそれだけではないと思います。全国一斉の統一的なテストでは、個性的な文章や、深い突っ込んだ議論は、賛否が分かれて、不適切だの何だのと難癖をつけてくる人が必ず出るので、出せないのです。大学の個別試験となると、そこに大学の個性がちゃんと出ていて、「うーん。この大学の問題にはいつも面白いものがあるな」ということがあって、大学側はそれによって、うちはこういう学生がほしい、というのを間接的にメッセージとして出しているのです。英語の文章は文系理系、色んなジャンルを扱うもので、それ自体が「総合問題」なのですが、難関大ほどその内容の抽象レベルは高い傾向があって、それがある程度読みこなせないと合格できる点数は取れないのだから、そこでは英語力だけでなく、柔軟性を含めた「考える力」も表現力も、同時に問われているのです。そうした試験が「知識偏重」だとは僕は思わない。それは実際に問題を見ていない人たちの言うことです。

 わざわざ改めて考える必要もなさそうな合科目型の「総合問題」をでっち上げて、退屈なのを我慢してそういうのを解かされるほど苦痛なものはありません(「ワインに関する文章を読ませ、現代文や化学、歴史の出題をする」なんて問題、よほどのヒマ人でないと面白いとは思わないでしょう)。上に挙げたような問題なら、考えてみるだけの必然性があって面白いと思いますが、安倍政権あたりだとなおさら、「問題が偏っている!」と難癖をつけてくるでしょう。だから人畜無害の、わざわざ考える必要もなさそうな問題を並べてくる可能性が高いので、それでは「考えてためになった」というようなことにはならないのです。

 そもそも人間は何のために考えるのか? こんなことを言っても通じない人には決して通じないでしょうが、僕は何もしていないときは別に何も考えていません。興味、関心が働いたときだけ、考える必然性を前にしたときだけ思考のスイッチが入るので、その興味、関心は僕自身のもので、人に指図されたからと言って興味もない問題について考える気にはならないのです。これは「正常」な証拠であろうと、僕自身は思っています。だから、いわゆる試験勉強は、学科だけの範囲にしてくれと、自分が受験生なら言いたくなるでしょう。面白くとも何ともない、必然性のない「価値中立的」な「総合問題」などまっぴらごめんです。僕は自分の「考える力」をそういうよけいな作り話に使いたくない(それ以前に考える気になれないだろうと思いますが)。

「馬を水飲み場に連れてくることはできても、水を飲ませることはできない」と言ったのはアインシュタインです。彼は「先生」と名のつく人に憎まれる名人で、大学生の時も教授に渡された課題が書かれた紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てると、喫茶店に行って勝手に「思考実験」なるものにふけっていました。そんなふうだったから、就職先も世話してもらえず、友人の伝手(つて)でやっとこさ特許局に就職できたのだと、若い頃彼の伝記で読んで笑った記憶があるのですが、他にも高校生の時、遠足の際の話ですが、引率の地学か何かの先生に「アインシュタイン君、ここの地層は縦に走っているかね。それとも横かね?」と質問されて、「無遠慮なシュワーベン人」のこの若者は、「はい、先生。それは僕にとってはどうでもいいことです」と素直に答えたので、先生を激怒させてしまった、というような逸話がありました。僕はかねて、アインシュタインのような若者なら、今の日本のセンター試験みたいなものでは数学や物理では満点を取るかもしれないが、他の科目は悲惨なことになって、ロクな大学には入れないだろうと思うのですが、今度の新テストでは、彼のような若者を救うことになるどころか、いっそう悲惨な結果をもたらしそうに思われるのです。その「総合問題」は大部分、彼にとっては「どうでもいいこと」と見えるに違いないからです(面接でよい印象を与えるとも思えません)。

 こう見てくると、今回の「答申」には、教育現場に無用に混乱をもたらすだけで、ほとんど取柄と言えるようなものは何もないのがお分かりになるでしょう。ど素人の集まりが無責任な御託を並べているだけで、他にやることは別にあるだろうが、と言いたくなるのです。

 大学側は、すでに受験生に対して、二次の入試問題を通じて間接的に「どういう学生がほしいのか」というアピールを行っています。それは見る人が見れば十分に明確なものです。中教審がよけいな「提言」をする以前に、外部の語学検定試験の使用を公にしているところも、久しい以前から「総合問題」を入試に採り入れているところもある。大学で英語での講義を行っているところも増えてきた。先にも述べたように、留学希望の学生は今はたくさんいるから、彼らは自発的にTOEFLを受けて、必要な勉強も自分でしているのです。

 そういう流れの中で、国家が勝手に教育に口をさしはさむことはむしろ差し控えるべきでしょう。かつての共通一次、今のセンター試験も、元々が国家のよけいなお世話で始まったものでした。僕はセンター試験の廃止それ自体には賛成です。無用に受験生の負担を増やして、読書などに振り向ける時間を減らし、「深く考える力」を伸ばす妨げになったこんな試験は必要ないと考える者です。大学が個別に試験を行うそれ以前の入試スタイルの方が望ましい。そうすれば各大学は入試制度の一定の統一性を担保した上で、それぞれに工夫を凝らして、「ほしい学生」を集めるでしょう。

 単純にセンター試験を廃止して、法科大学院も廃止すれば、大学入試センターは不要になって、税金の節約になります(法科大学院も、と言うのは、大学入試センターは法科大学院用の「適性試験」の作成なども行っているようだからです)。その分を大学の研究・施設費・奨学金の拡充などに振り向ければいいわけです。

「役人は際限もなく無用な仕事を作り出す」というのはパーキンソンの法則の一つですが、これは全くそれを地で行くもので、その新制度はさらに受験生を苦しめ、高校の教育現場に大混乱をもたらし、あげく、その「選考の不透明さ」を嫌った優秀な生徒たちの海外流出を促して大学の「空洞化」を招くおそれさえあるのです。さらに、それだけ多くの試験を行うとなると、新たに人員が多数必要になり、予算が膨張して、他に行くべきお金が減ってしまう。一体どこに取柄があるのか、わかるようにご説明願いたいものです(受験料を高くして、受験生の親たちから巻き上げればいいとでも言うのか?)。

 最後に一つだけ、語学教育について付言すると、僕はペラペラ外国語をしゃべるだけの中身のない若者を育てても、日本人の軽薄さの宣伝になるだけで、何ら意味はないと考える者ですが、今の日本の高校教育に最も不足しているのはスピーキング能力の育成であることはたしかです。次にライティング、リスニング、と続くでしょうか。実のところ、文法理解やリーディングの能力も六年も英語をやらされてきた割には全体にひどすぎる感じで、満足なものは何一つないと言っていいかも知れませんが、これは一つには教える側に問題があるのです。かくいう僕自身、「昔受験生」の悲しさで、リスニングとスピーキングはお粗末の極みなのですが、スピーキングまでは今の入試では必要ないし、リスニングはCDなどで勝手に勉強しろということで誤魔化しているのです。

 それでもまあ、他の点ではマシな部類でしょう。そう思って自分を慰めているのですが、僕は全部が十分な英語教師というのにはほとんどお目にかかったことがありません。会話はできても大学入試の二次レベルの読解となるとまるで駄目だったり、その逆だったりするのですが、実は全部が一定の水準以下という教師が多すぎるように思われるのです。そういう教師に教わって満足な英語力がつくわけはないから、そのレベルを上げる施策を先に取らねばなりません(一般に、わが国の学校の先生は雑用で多忙すぎるために、教職に就いてからの能力の伸びも期待できなくなっているのです)。

 もう一つ、日本人がスピーキングが下手なのは、何より日常それを要求される機会がほとんどないからです。週に一回や二回、英会話教室に通って、大甘のガイジン講師相手に表面的な挨拶の練習をするぐらいでは上達しない。今の学校のALT(外国語指導助手)の制度も、機能しているようには見えない。彼らは全くの「補助」にすぎないからで、昔の「お雇い外国人」ではないが、ちゃんとした資格をもつ本格的な外国人英語教師の導入が必要なのです。その先生に一貫した、長期的な指導を担ってもらう。日本人英語教師にしても、有名私立校などでは一定のレベル以上の有能な先生を集めているのだと思いますが、公立高校などでは何を基準に試験をして採用しているのか疑わしいところがあるので、そこらへんをちゃんと見直すことです。

 大切なのはまずそのあたりを改善することで、明らかに弊害の方が多そうな無責任な入試改革案を「答申」する前に、足元から問題を見直したらどうかと言いたいのです。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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