People only see what they are prepared to see

2014.10.01.05:16

 このブログ、しばらくご無沙汰してしまいましたが、一見関係なさそうな二つの本を並べて書評し、そこから連想された話を書こうという「不可能な企て」にとりかかって、挫折してしまったためです。

 諦めてその“簡約版”だけでも何とか書いておきたいと思うのですが、その二つの本とはレザー・アスラン著『イエス・キリストは実在したのか?』(白須英子訳 文藝春秋)と、小島毅著『増補 靖国史観~日本思想を読み直す』(ちくま学芸文庫)です。僕がこれを一緒に論じたくなったのは、キリスト教布教のためのイエスに関するフィクションと、靖国にシンボライズされる日本史に関するフィクションに、共通する人間心理を感じとったからです。

 前者では、福音書記者がイエスを“正統で至高な”救世主にして、キリスト教を広めるため、嘘と承知しつつ数々のつくり話をでっち上げたことが述べられています。たとえばほんとはナザレで生まれたのに、両親をベツレヘムに行かせて、そこの馬小屋で生まれたことにしたのは、彼がダビデ王の子孫で、「ベツレヘムから私(=神)のためにイスラエルを治める者が出る」というミカ書なるものの預言に合わせるためで、その後ヘロデの男児抹殺指令を逃れるためにエジプトに脱出したことになっているのも、ホセア書の預言に適合させ、あわせてイエスがモーゼの生まれ変わりだということにしたかったから(従って、ヘロデがそんな指令を発したなんて史実はない)であり、有名な処女降誕の話も、実際にはイエスには何人もきょうだいがいたのだが、彼が私生児であるという噂を打ち消し、かつ、それ以前からあったメシアに関する神秘的伝承に合わせるためであった、等々。
 他に「政治的・戦略的意図」に基づく露骨な嘘もあり、僕が一番驚いたのは、文学的な含蓄に求むイエス処刑前の総督ピラトの逡巡にまつわる嘘でした。試みに該当箇所をウィキペディアから引くと、

【『ルカによる福音書』(23:4)には「わたしはこの男に何の罪を見いだせない」とピラトが語ったと書かれており、『ヨハネによる福音書』(19:6)には、「十字架につけろ。」と叫ぶ人々に対し、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と述べたとあり、イエスの無実すら明言する。
『マタイによる福音書』(27:19)ではピラトゥスの妻が登場し、死刑を宣告する前の晩に夢の中で苦しい目にあったので「あの正しい人」に関わらないでくださいと訴える。】

 …という有名なくだりです。ところが、これは「真っ赤な嘘」である可能性が高い、というか、あのピラトがそんな対応を示したはずがない、というのです。なぜなら彼は「ユダヤ人に対する冷酷きわまりない無慈悲さ」で有名で、「おそらくそのせいで、彼はユダヤのローマ人総督を最も長く務めた一人になった」というほどの男だったからです。「彼は残忍、冷酷、融通の利かない人物で、臣民の心情への配慮などはほとんどない、誇り高いローマ帝国軍人だった」「ユダヤ人が大嫌いなことで有名で、ユダヤ人の祭儀や慣習を全く無視し、数多くの処刑命令書にうわの空で署名する傾向があったため、今後はせめて一瞬なりともユダヤ人民衆扇動者の運命を思いやってもらいたいと、彼を相手取ってローマに公式に苦情が提出されたほどだった」(同書)というのです。

 従って、「人間味に富む苦悩する良心的官僚」みたいな印象を与えるあの話はほぼ間違いなく創作で、どうしてそんな大嘘を書いたかと言うと、当時記者のマルコはローマに住んでいて(長くなるので割愛しますが、それ以前にイエスの活動がその一部であった「ユダヤの反乱」はローマによって完膚なきまでに打ち砕かれ、制圧されていた)、ローマ人相手に布教する必要があったので、悪いのは皆ユダヤ人のパリサイ(ファリサイ)派で、ローマ人のピラトはイエスに好意をもつ“善人”として描く必要があったからだ、というのです(興味深いのは、この本ではイエスの病気治しの奇蹟などは否定されていないことです。当時はそうした異能をもつ職業祈祷師や霊媒は他にいくらもいたのであり、イエスが同様の、しかも強力なその種の不思議な力をもつことは当時多くの人々が認めていたことなのだという)。

 福音書記者たちは、それでは詐欺師みたいな連中だったのか? 別にそういうわけではないので、要するに当時は、現代のような歴史的事実への客観性に関する顧慮は乏しかったし、何よりそれは「信仰の書」なのだから、嘘であってもかまわない、彼らの意識では信仰に合致する話こそが「真実」だったのです。イエスはメシア(救世主)であり、そうでなければ困るから、自分たちの信仰に合わせて都合のいいストーリーを創る必要が生じた。だから、イエスは紛れもなく洗礼者ヨハネの弟子であったが(ちなみに、有名な「ヨハネの首」の話も事実無根のでっち上げ)、それをそのまま認めるとヨハネの“下手(しもて)”に立つことになってしまうので、「私はかがんでその方(=イエス)の履物の紐を解く値打ちもない」なんて尤もらしいことをヨハネ自身に言わせることにした。要するに福音書のイエス像は、事実らしきものはなかに含まれているにせよ、記者のそれぞれが「こうあってほしい」というイエスを構成するために、多くの作話を混ぜてつくられた「聖人ストーリー」の一つだったのです。

「靖国史観」にも似たところが見受けられる。小島氏の周到な所説を乱暴は承知で僕なりに要約してしまうと、それは江戸時代の水戸学に根ざす「万世一系の天皇支配」説に基づく史観で、事実としてはそんなものがあったのかどうかはすこぶる疑わしいが、とにかくそういうイデオロギーで過去の歴史を解釈し直し、その天皇のために死んだとされるのが「英霊」で、その天皇を日本という国と同一視して、「国の英霊を祀る」と称するのが靖国神社に他ならない、というのです(だから同じく「時の権力」に盾突いても、吉田松陰は「倒幕」派=天皇支持だったから「英霊」認定され、「維新の元勲」であったはずの西郷隆盛はその後西南戦争で明治政府=天皇に逆らったから排除されるといったややこしいことが起きる。幕末「朝敵」であった会津藩士も、その後西南戦争で官軍側の兵として戦って死亡した場合には、一転して「英霊」扱いとなるのです)。

 よく靖国神社に付設された「遊就館」の展示とその説明が時代錯誤なひどいものだと批判されていますが、あれもそうした史観からすれば首尾一貫しているので、元々それは実証的な歴史研究の埒外にあるイデオロギー(小島先生の要約によれば「忠孝一本・祭政一致・天人合一」のそれ)に基づく過去の歴史の合理化(当然無理が伴う)なのです。

「なるほど。そういうものだと解すれば腹も立たなくてすむな」と僕など思ったのですが、問題は、それがあたかも客観的・実証的な歴史理解であるかのように装いたがること(そもそも国家神道それ自体、幕末に作られた宗教イデオロギーにすぎないし、古来連綿と受け継がれてきたとされる皇室儀礼の「大嘗祭」なども、事実はそうした思想に基づき、同時期に「再創造」されたものでしかなく、どちらも「古来の伝統」などではないとのこと)で、そのあたり、キリスト教の福音書と似ている。そこに働いているメンタリティに共通のものがあるのです。

 キリスト教徒にとっては聖書の記述は神聖なもので、そこに書かれた言葉が「真実」であるように、日本が“「万世一系の天皇」が支配する「神の国」”だと信じる人たちにとっては、靖国神社とその史観(かなり強引な過去の歴史解釈)は神聖な、半絶対的なものなのでしょう。そのあたりの理解が僕には全く不十分だったので、この本を読んでなぜ彼らがああも頑ななのか、やっと合点がいったのです。それは「宗教」だからで、僕のように天皇や皇室への思い入れが皆無な人間には、そのあたりの心情がわからない。

 キリスト教福音書と靖国の「史観」には、もう一つ共通点があります。それは、キリスト教徒たちが救世主と崇めるイエスが「神の国」を実現するどころか、あっさり処刑されてしまったこと、靖国のいう「神の国(こちらは言葉は同じでも、むろん別の意味内容をもつ)」が、「神の国」にはあるまじきことに、戦争に負けてしまったことです。

 どちらもこの「ありえない」ことを合理化しなければならず、前者はそれで「イエスが死んだのは全人類の罪をあがなうためだった」というご大層な屁理屈や、「復活」のエピソードが付け足された。後者の場合には、過つはずのない「神の国」が愚かな侵略戦争をしたというのではいかにもまずいので、「非道邪悪な英米のせいでやむなく戦争に追い込まれた」という理屈をこね、「自存自衛ノ為」にしたことに他ならないと強弁する。敗れたのもそうした「他国の謀略」のせいで、いずれわが国は米国の核の傘に依存するのではない「完全な独立」を果たして、「聖戦(義戦)」たるあの大東亜戦争が目指した「東亜新秩序」を実現しなければならない…と今でも「靖国史観」に拠る人たちは考えているのかどうかは知りません(石原のじさまや田母神氏あたりは本気でそんなこと考えていそうです)が、とにかく「誤った侵略戦争で負けた」というのは、断じて否定されなければならないことなのです(余談ながら、石原のじさまこと慎太郎氏は文藝春秋9月特別号に「特別寄稿」と称して「白人の世界支配は終わった」と題したトンデモ論文を載せています。前に僕は反原発に対する彼の批判の杜撰さをここで嗤いものにしたことがありますが、その頭の悪さと知識・論理の出鱈目さ加減には驚くべきものがあって、かくもお粗末な駄文を掲載せざるを得なかった編集部に同情しました。何で潔く引退しないんでしょうか?)。

 これは宗教信仰と同じメンタリティに発するので、いくら議論してもその「信仰」に反する歴史認識を認めさせるのは難しいでしょう。彼らは戦後の歴史研究に基づく通常の歴史教科書を「自虐史観」だと激しく非難しますが、それは彼らのメンタリティ、心情からすれば、自己の信仰――それを抱く自己の人格――を否定されるのに等しいからです。そうでない人にとっては、別に「自虐」でも何でもなくて、「過去にそういうことがありました」ですむ(だから二度とあんな馬鹿はやらないように気をつけることにしましょう)のですが、アメリカのどこかの州で、学校でダーウィンの進化論を教えるのは許しがたいという抗議があって、それを教えるのが禁止されたという話と同じで、感情を悪く刺激するものなのです。キリスト教原理主義者にとってはダーウィン説はたんなる科学説ではなくて、自分が信仰する聖書の記述に挑戦する冒涜的な学説(万物の霊長、神の愛子であり、すべての生物に優越する人間がサルごとき下品な動物から進化したとは何事か!)なので、道徳的にも許しがたい。同様にわが国の軍隊が戦時中ロクでもない悪事をたくさん働き、指導者にも愚劣な精神論を振りかざすだけの無責任な馬鹿が揃っていた、なんてことも、「神の国」信仰からは犯罪に等しいものと映るのです。罰当たりめ! われらが父祖を何と心得る!

 今の若い人には、「靖国史観」は「日本人としての誇り」を高めてくれるだけでなく、“新鮮”なものと感じられるかもしれません。たとえば、次のような「解説」を聞くのです。

 わが国はかつて「五族協和の王道楽土」という美しい理念に基づき、満州国を建設し、中華民国にもその恩恵を及ぼそうとした。ところが、中華民国政府は愚かにもわが国の崇高な真意を理解せず、みだりに事を構えて「東亜の平和」を乱し、やむをえずわが国(の関東軍)は戦火を交えることになった。そして四年余りたって、一応の安定を見たが、懲りない蒋介石は「米英の庇護」に頼って抗戦を続け、邪悪な帝国主義国家たる米英は、平和の美名の下、「東洋制覇の非望」を実現しようとしてそれに加担し、軍事・経済あらゆる方面でわが国への妨害を企て、ここにわが日本の「生存に重大なる脅威」が生じることになった。かくて「東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し」たのであり、やむを得ず、わが国は「自存自衛」のため決然として起(た)って、「一切の障害を破砕」すべく、アメリカに宣戦布告したのである。
 従って、あの戦争(「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」と呼ぶのが正しい!)は、侵略戦争などでは全くなく、純然たる「自衛のための戦争」だったのである、云々。

「なるほど」と今の若い人たちが思うかどうかは知りませんが、これはこの『靖国史観』という本に引用されている「昭和十六年の宣戦詔書」(高校でよく使われる山川の『詳説 日本史資料集』にも出ているものだという)の文面を現代風に“翻訳”したものです。要するに、それがあの戦争を始める際のわが国政府及び軍部の「認識」だったのです。

“斬新”どころか、それは時計の針を戦前に戻してしまう“超”がつくほどの「主観的史観」にすぎないのですが、靖国神社が必死に守ろうとしている「史観」は基本的にそうしたものなのです。それは戦後の「自虐史観教科書」(彼らにはそう見える)しか知らない人には“新鮮”に感じられるかも知れないが、それこそがわが国をかつて無謀な戦争へと導いた独善的きわまりない解釈(と言うか、勝手な思い込み)だったのです。

 靖国神社というのは、だから、たんなる戦没者慰霊のための施設ではない。「万世一系の天皇支配」信仰(だから近代憲法学からすれば当然で、昭和天皇自身がそれを受け入れていた「天皇機関説」なども手厳しく排撃されねばならなかった)に基づき、死者を「天皇のために死んだ者」とそうでないものとに勝手に分け、前者のみを顕彰する明確な偏りをもった特殊な神社なのです。「靖国に祭られる英霊とは、天皇の名のもとに戦った(ことになっている)戦没者や天皇のために政治的に犠牲になった人たちのことである./「天皇のため」であって、「日本国のため」ではない」(本書p.95)。それをよく認識しておけ、というのが小島教授の言われることです。

 先頃安倍政権は“解釈改憲”を企て、「集団的自衛権」なるものを容認することになったのですが、それには「自国に対する直接攻撃でなくとも、他国に対する攻撃により、わが国民の生命や権利が覆される明白な危険がある場合」にかぎるという要件がついているのだから“安心”なのだと言っていますが、先の戦争の場合でも、宣戦詔書で全く同じことが主張されていたのです。そして安倍晋三は明白な「靖国」教信者です(その著書名も『美しい国へ』)。どこが「安心」なんだか、さっぱりわからない。

「極東軍事裁判は“勝者が一方的に敗者を裁いたもの”だから不当である」とかねて右翼は主張していますが、それならあらためて日本人によるあの戦争の裁判をやり直して、左翼用語でいうところの「総括」をやればいいのですが、彼らはおそらく揃ってそれにも反対するでしょう。東條をはじめとするA級戦犯(その罪状の一つは「天皇制と明治憲法の悪用」ですが)も皆「靖国史観」からすれば無罪で、彼ら無責任な指導部連中と、敗北が明白になってのちも過酷きわまりない戦場に武器や食糧補給の目途もなしに追いやられ、「玉砕」や餓死を強いられた多数の無名兵士たちも同じ扱いにするのが正しいと、それは言うのです。それこそが「魂の平等」であるとか何とか、都合のいいときだけ民主主義用語を持ち出したりして…。

 こういうふうに書き進めていると口の悪い僕は悪態が止まらなくなるおそれがあるので、これくらいにしておきますが、この本を読んでいて、「へえー」と思ったもう一つのことは、「近年の歴史学の諸成果」によれば、当時(幕末)の幕府官僚は言われているほど無能ではなかったのだ、という見方もできるという話です。三谷博という歴史学者は、「明治維新を複雑系のシステム論から捉え直し、ほんの些細な偶然が大きな嵐を巻き起こすようにして成就してしまった可能性を指摘している」とのこと。

 要は「これまで歴史の必然として語られてきた『明治維新』史は、すべて結果を知っている者があとから組み立てた物語にすぎ」ず、「幕府の無能ぶりを過度に強調することによって、明治政府は自分たちの正統性を説いたの」であり、「司馬遼太郎の史観なども、その延長線上にあるにすぎない。靖国神社もまた、いまなお明治時代に創られた物語の圏内で、自己の物語を紡いでいるにすぎない」(p.111)――そういう見方も可能なのだ、ということです。

 僕も大学受験浪人の頃、司馬遼太郎はよく読んだもので、あれは「気が大きくなって」受験生などには精神衛生上よかったのですが、同時に「ほんとは話はこう単純なものではないだろうな…」という一抹のアホ臭さのようなものは残ったもので、だからこういう記述を読んでもそう意外とは感じられないのですが、著者小島毅教授の「薩長テロリスト集団による簒奪」などという言い方には、この人も相当性格が悪いなと、笑ってしまうのです。先生、こんなこと書いて、大丈夫なんですか?

 ついでに言うと、この本のp.217~8の「たとえ話」は爆笑ものです。それは「華さん」と「和さん」という二つの家をめぐるゴタゴタ話(「米屋」も登場!)なのですが、僕はここを読んで大声で笑い出し(例のあれは「敷石」にされている)、しばらくそれが止まらなかったので、そのとき周りに人がいなくてよかったなとほんとに思いました。この箇所はだから、絶対に通勤電車の中などで読んではなりません。「不審者」通報されてしまうのが確実だからです。

 この先生、著者紹介文を読むと、「東京大学大学院人文社会系研究科教授」となっているのですが、こんな戯文を書いて遊んでいるなんて、お堅い東大教授にはあるまじきことです。大学の授業でもブラックジョーク満載になっているのではないかと案じられるので、僕自身、訳書のあとがきでいらんことを書きすぎるというので一部の読者からだいぶ非難されました(その後このブログに“聖人”視されているその著者の痛い話を暴露する本を紹介する一文を書いてさらに憎まれるようになった)が、「どうせこんなものはボランティアみたいなもんだから、ちっとは好きに書かせろ」というところがあってしたことで、本職は田舎の零細塾のセンセにすぎないのだから、こちらは許されるが、天下の東大教授ともあろう人がこのようなはみ出しぶりは実に異例なことでしょう。頭はとびきりよさそうですが、性格が少々……で、そのあたりは僕とあんまり変わらないのではないかと疑われるのです。

 最後に、今回のブログのこの英語タイトルですが、実はこれは今年の東大の入試問題に出たもので、設問は、これについてどう思うか、50~70語の英文で自分の考えを書け、というものです(意味は、訳さなくてもおわかりかと思いますが、「人は自分が見たいと思うものしか見ない」です)。

 受験生たちがどんな答案を書いたかは知りませんが、これはなかなかに高級な問題で、これは真実を衝いた言葉と思われますが、問題は、自分がそうしているということに気づいている人はめったにいないということです。それは大部分無意識的なプロセスだからで、この前の朝日の誤報問題などでも背景にあったのはこの人間心理だったろうし、その誤報を激しく非難する「靖国史観」の右翼の皆様がいまだにあの戦争が「正義の戦争」だったと言い張って、不都合な事実は避けて通って、好都合な「歴史パッチワーク」で過去を美化してやまないのも、同じ心理の産物です。

 皆がそれという自覚なしに、この同じ心理に支配されたまま、聞く耳もたず自己の主張を繰り返すだけなら、どうなるか? それを少しは考えてみましょうと、僕は言いたいのです。聖書の方は宗教そのものだから仕方がない(むやみやたらとそれを人に押しつけさえしなければ)として、通常の歴史解釈にまで「宗教」を持ち込んでおきながら、それと自覚せず、その正しさを主張してやまないのは、やはり相当問題があるのではありませんか? いや、日本人全員が「靖国教徒」になれば問題はなくなるのだ、と右翼は言うかも知れませんが、そうなったときはこの日本という国が今度こそ滅亡するときでしょう。それだけは間違いない、と僕は思っています。

 どちらの本も、豊かな含みをもつもので、僕はここでその一部を取り上げて論じたにすぎないので、関心がある方は、元の本をぜひ直接お読みになって下さい。
スポンサーサイト
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR