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集団的自衛権を容認して、要は何がしたいのか?

2014.04.03(15:25) 259

 安倍自民党が「改憲」はハードルが高そうだというので、「憲法解釈の変更」によって「個別的自衛権」だけでなく「集団的自衛権」も認めるよう、あれこれ画策しているという話ですが、何が目当てでそんなことをしているのか。僕にはそれがよくわかりません。大方の日本人がそうだろうと思うので、今回は少しそれを考えてみたいと思います。

 まず、「集団的自衛権」とはそもそも何か、ということですが、ネットにこういう解説(『知恵蔵』のものだという)が出ています。

【自衛隊が米軍の日本防衛以外の作戦に直接協力できない理由として、従来日本政府は「憲法9条は国際紛争解決の手段としての武力による威嚇または武力行使を禁じており、自国の防衛以外に武力行使はできない」と説明してきた。このため米国側には「憲法を改正し集団的自衛を認めるべきだ」とする声もあり、国内でも呼応する人が少なくない。2005年8月1日に公表された自民党の新憲法草案は、直接に集団的自衛に言及してはいないが「自衛権の中に含まれる」と説明している。だが本来集団的自衛は同盟国が攻撃されるか、同盟国ではなくとも自国の安全保障上不可欠な国の求めに応じて共同軍事行動を取るものだ。例えば米国領であるグアムやハワイが攻撃され、自衛隊が米軍を支援するなら集団的自衛権の行使、と言えようが、米国が本国の自衛でもなく、国連安全保障理事会の決議もなしに行ったイラク攻撃やユーゴ爆撃、あるいは中台関係に将来介入するような場合、日本が参加するのは集団的自衛とは言えない。また憲法9条と同趣旨の威嚇と武力行使の禁止は国連憲章、対日平和条約、日米安保条約にもあり、憲法を変えてもどうにもならないのだ。( 田岡俊次 軍事ジャーナリスト )】

 …という話ですが、日本政府の従来の憲法九条解釈は、「自衛のためのやむを得ざる戦争まで否定するものではなく、その場合(=いわゆる「急迫不正の侵害」があって、かつ武力行使以外の選択肢がないとき)は交戦権をもつ(=個別的自衛権はある)が、自国が直接攻撃や侵略を受けた場合以外は、『国際紛争解決の手段としては』武力を行使できない、つまり同盟国への軍事的助太刀もできない(=集団的自衛は不可)」というものだったのです。

 これがよろしくない、と言うのが安倍晋三で、彼は「集団的自衛権の行使を可能とすることによって、日米同盟は、より対等となり、強化される」と主張するのです。だから、彼の考える「集団的自衛権」なるものは、国連を中心としたそれではなく、あくまで米国中心に考えられたものなのですが、これはアメリカの求めにはつねに応じて、ということでは困るので、あくまで「アメリカが攻撃された場合」にかぎります。

 しかし、そもそもアメリカが直接軍事攻撃を受けたことがあるのか? 皮肉なことに、日本軍によるもの(真珠湾攻撃の他に、艦船砲撃や、人的被害は出なかったが本土空襲もあった由)以外には聞いたことがありません。例の9.11があるではないかと言う人がいるかも知れませんが、あれは国家によるものではなく、テロリストによるものです。従って、アメリカがあのときいきなりアフガンを攻撃したのは、アルカイダの首魁ウサマ・ビンラディンをかくまっているタリバンも同罪だという決めつけによるもので、国際法上は違法です。イラク戦争と来た日には、「そんなのありかよ!」と言いたくなる無茶で、どっちが「ならず者国家」だか知れたものではなかったのです(のちに虚偽だったことが判明した「大量破壊兵器疑惑」にしても、それだけで他国を攻撃する正当な理由とはなりえない。なぜなら世界で最も多くの「大量破壊兵器」を所有しているのは他でもないアメリカだからで、「自分は『正しい国』だからいくら持っていても平気だが、イラクだと『正しくない』から許しがたい」というのは通らない理屈です。大体、あの低脳ブッシュのやらかしたことのどこが「正しい」のか、僕にはさっぱりわかりませんでした)。

 今後もアメリカは、世界大戦にでもならないかぎり、直接の侵略・攻撃を受けるおそれはまずないでしょう。してみれば、先の対アフガン、イラクの戦争のような有害無益の戦争の“お手伝い”をするというのでもないかぎり、「集団的自衛権」の出る幕はないのです。ロシアや中国といずれアメリカは戦争する。そのときは米軍に加担して、大いにいさおし(勲功)を立てましょうというのでしょうか? 結構ですが、そのときはこの文明世界が滅亡するときでしょう。僕はそこまで長生きはしたくないと思っています。

 だから、どこに実益があるのか、さっぱりわからない議論なのです。アメリカは日本が再び軍国化するのを嫌っているという見方もあって、僕はそれは正しい観測だろうと思いますが、安倍自民党は、そのあたりどう説明するのでしょうか?

 いや、そこがおまえの馬鹿なところなのだと、彼らは言うかも知れません。形式的であれ、「対等」関係をつくっておくことが何より大切なのだと。そうしてこそ、「あんたの国がやられそうになったら、喜んで助けに行く(じっさいに戦場に行くのは政治家センセたちではなく兵士たちですが)から、こっちがやられそうになったら頼む」と大威張りで言えるのだと。

 ふーん。それで、「こっちがやられそうになったら」というのは、具体的にはどの国にやられることを想定しているのですか? きまってるだろ、中国だよ。おまえにはあの覇権国家の明白な危険性が見えないのか? 北朝鮮だって、いつミサイルをぶっ放すかわかったものではないのだ!

 たしかに安倍政権になってから中韓両国との関係は目に見えて悪化しました。日本人全体に嫌中、嫌韓の人がかつてないほど増えた。それには安倍チャンの功績大なるものがあって、調子に乗りすぎて靖国参拝までやるものだから、一層関係はこじれ、大事な大事な「同盟国」のアメリカにまで「失望」を表明される始末です。

 安倍晋三には「先の大戦に対する反省がない」というのは事実です。同じ日本人から見ても腹立たしくなるぐらい、それはない。狡猾なのか、ただ頭が悪すぎるためなのか知りませんが、彼は「国家権力」と「国民」を区別するすべを知らない。
 それは政府主催の全国戦没者追悼式(昨夏)での、彼の次のような歯の浮くような美辞麗句の羅列を見てもわかります。

「祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられた御霊(みたま)、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異郷に亡くなられた御霊の御前に、政府を代表し、式辞を申し述べます。
 いとしいわが子や妻を思い、残していく父、母に幸(さち)多かれ、ふるさとの山河よ、緑なせと念じつつ、貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません」

 いい気なもので、僕は嫌悪なくしてこのような政治家の言葉を読むことができませんが、こういうのに「共感」するのは戦争世代の僕の親たちの世代ではなく、ノーテンキな若いネトウヨの類でしょう。ここに含意されているのは、「あれは必要な、やむを得ざる戦争であった。国民と政治権力・軍部は完全に一つで、それゆえに祖国のために兵士たちは進んで自らの命を投げうったのだ」という勝手な決めつけです。

 政治家に「片時たりとも忘れ」てほしくないのは、あの無謀かつ無責任な、人の命の何たるかも弁えず、嘘八百の「大本営発表」を続け、勝てる見込みが全くなくなっても、飽くことなく兵士を強制徴用しては戦場に送り続けた軍事・政治指導者たちの度し難さです。百パーセントの自滅戦を強いられたり、補給もままならぬ遠方に送り出されて、餓死した兵士たちの心のうちがどうしておまえのような男にわかるのだ。赤紙一枚で大事な人を奪い去られた家族の無念とその後の苦労が、ほんとにわかってるのか。おまえみたいな奴に気安く「御霊」なんて言葉を使われれてたまるかと、他でもない戦没者たちが思うのではないでしょうか。

 自国民に対してでもこれなのだから、他国の被害者に申し訳なく思うような気持ちがないのは当然です。彼のような人間の説く「愛国心」というのは、だから、国家権力に自己同一化し、それを崇拝し、没批判にそれに「命を捧げる」ような人間の心のあり方なのです。戦前の教育のそれが最大の問題点であったのに、彼にはそうした反省はない。あれば、こういう気色の悪い美辞麗句に自己陶酔することはできないでしょう。彼にA級戦犯たち戦争責任者を「差別」する気持ちがないのも、ここからして当然なのです。彼らも、有無を言わさず赤紙一枚で死が不可避の戦場に送られた最下等の兵士も、彼の「美しい国の礎をつくった戦争」の中では一体なのです。無能ゆえにしなくてもいい戦争に突っ込んで、無数の自国民の命を犠牲にした国家指導者の過去のありようを肝に銘じて、気持ちを新たにするのが、ああいう場での政治指導者のまっとうなありようでしょう。安倍晋三という男にそれを期待するのは、しかし、無理なようです。

 話を戻して、こういう男が主張する「集団的自衛権」というのは、要するに「国家権力がしたいときに戦争をする」自由、あるいはそれがしやすくなるような状況を先につくっておきたいということなのではないかと、僕は思います。「集団的自衛権に基づく戦争」は「個別的自衛権」に基づくそれより確実に広くなるが、その「解釈」は政府に委ねられる結果になるからです。偽りの情報を流したり、情報操作したりして、「これは必要な戦争なのだ」と彼らは強弁するかもしれない(そのときにはあの「秘密保護法」がモノを言うことになるでしょう)。彼がつねに「愛国心」をセットで強調し、それを「国民の義務」みたいに言うのも、その方が好都合だからです。

 いや、今の政府にはこの問題を検討する「有識者懇談会」なるものがあって、そこで専門家たちによって議論されているのだから、中立性・客観性は保たれる、と言う向きもあるかも知れませんが、あれは第一次安倍内閣で作っていたものを、ほとんどそのまま復活させたもので、その「有識者」なるものは、例によって例のごとく、大半が彼の「お友達」なのです。つまり、思想的に偏った連中をメンバーにして、「検討」なさるわけで、それで彼に不都合な答申が出されるわけがないのは当然です。これは原発問題を論じる組織を原発推進派で固めるのと同じで、そこから出てくるのは「先に結論ありき」の議論でしかない。議論の公正・中立性を担保するようなものでは全然ないわけです。

 僕に不思議でならないのは、こういう男の率いる内閣がどうしてこれほどの支持率を得ていられるのかということです。経済が見た目にまあまあ好調に回っているから、他はどうでもいいみたいな感覚が理解できない(原発政策なども元に戻りつつある)のですが、国家の統治機構の方が経済よりも重要なはずです。経済がうまく回らなくなって、二進も三進も行かなくなったとき、「戦争しやすく」なっていた場合、どういう状況になるでしょうか? 僕にはそれを楽観的に考えることはできません。

 最後に、一つ、ブラックジョークを言わせて下さい。中国が日本を侵略する可能性があるとすれば、それは大気汚染や環境破壊がひどくなりすぎて、あの国の大部分が居住に適さなくなってしまったときかも知れません。それで、「植民」に適した土地としてわが国が狙われるのです。あの大人口は無理だが、一部は移住させられる。同じ理由で東南アジア諸国も狙われるかもしれません。それで、中国共産党は、昔の日本軍に範を仰いで、「新・大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げるのです。勝手な「侵略」ではない、あくまでも中国を盟主とする「共栄圏」だというのです。

 そのとき、アメリカがわが国と共に戦ってくれるどうかは保証のかぎりではない。中国が明確な線引きをして、「アジアの外には絶対出ませんから」と約束すれば、「極東の安定のためには、中韓日で小競り合いさせてるより、いっそ一帯を大国中国の支配に委ねた方が安定する」という理屈で、それを容認するかも知れないからです(アメリカとしてはよけいな戦争をしすぎて、疲れてしまったというのもある。その頃は北朝鮮は崩壊して、朝鮮半島統一がなされ、その後それは中国の属国となっているのです)。

 実際問題として、あの国は大気汚染が深刻なだけではなく、河川の汚濁に枯渇、土壌の汚染もひどいものになっていると言われています。その可能性はあるわけで、だとすれば、「不戦の誓い」は引っ込めて、やたらと「ミタマ」だの「誇りのもてる国」だのを連発し、カウボーイ気取りだったブッシュ・ジュニアと同じように、「その気ならいつでも戦うぞ」みたいなサムライ・スピリットを宣伝して、中国側のタカ派の勢力伸長を助けて対立の構図を強化するより、大規模な環境技術援助でも行なって、あの国を助けてあげる方が、国家の安全保障上もずっと効果があるわけです。

 ともあれ、「集団自衛権容認」がなぜ今必要なのか、安倍自民党はオープンな議論で、国民によくわかるように説明する義務があるでしょう。この前の「秘密保護法」のときもそうでしたが、この政権はかんじんなことにかぎって説明を端折る悪い癖がありすぎるのです。あとで国家権力が暴走を始め、国民がそれをストップさせる有効な歯止めを奪い去られていることに気づいて「しまった!」と思っても、それは後の祭りなのだということを、僕らは忘れるべきではないでしょう。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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