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入試制度“改悪”に反対する

2013.10.25.16:01

 いつも思うのですが、この手の何とか会議というのは、「識者」という名の「考える力」(文科省推薦)の《ない》人たちの集まりのようです。先には法科大学院の大失敗で世間の失笑を買ったばかりなのに、またぞろこんなことをするかと、その懲りなさ加減にはほとほと感心させられます。

 これは政府の「教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)」のことです。自分の母校の総長がそのお馬鹿会議の座長をつとめているというのも情けない。
 僕自身、センター試験の廃止は以前から勝手に提唱(?)していますが、それは昔の大学別の試験だけに戻せということなので、シンプルが一番いいのは数学や科学の理論だけにかぎった話ではないので、入試も同じなのです。

 マーク式で、かつ考えさせる要素に乏しい、「浅く広く」網羅的な教科書的平面知識の暗記量だけを競うセンターみたいな試験では本当の学力はわからないというのは、大学・高校教育関係者の間では今や共通の認識です。だから有名国立大学はこぞって合格判定におけるセンターの比重を下げ、二次の個別学力試験を重視するのですが、国立がそれを必須の受験要件としている以上、受験生はセンターを無視もできないので、同じ科目でもほとんど別の試験みたいな二次とこちらと、両方の対策を強いられ、多忙を極めることになるのです(そんなことで忙しくなるのなら、好き勝手本を読んだり、友達と議論をたたかわせたりする方がよっほど「考える力」を伸ばす助けになると思いますが)。

 僕は今春、何かと議論が多かったので、国語の問題も解いてみましたが、そのヘンテコさには辟易させられました。驚いたのは、古文・漢文の《問題文》が難しかったことです。これは有名な出典だとそれを知る知っていないで不公平があるというので、あまり知られていないものをえらんで出すからこうなるのだという話でしたが、昔の入試よりはるかに難しい印象で、これが「基礎学力」を問う試験だとはとうてい思えない。しかし、現国の奇妙な設問を解くのにエネルギーを使い果たしていたので、ろくすっぽ問題文の方は読まないで、設問だけ見て、どうせこれだろうなという選択肢をえらんでマルをつけ、猛スピードで終わらせたら、何と二つしか間違えず、現国の成績を上回った(たしか合計で156点だったと思います)のです。問題文はロクに読めていないのに、設問は解ける。これ、国語力と何の関係があるのでしょう? ただの「要領試験」です。

 英語が文化教養の香りゼロの「頭を使わない」スピード勝負の試験だということは前にも書きました。こんな眠たいだけの試験で語学力をはかられては困るなと、解きながら僕はいつも思うのですが、他も大方は似たようなもので、「平面処理能力」だけ問われて、奥行きなんかは無視した試験なのでしょう。まともな大学がこれでは困ると二次重視に傾くのは、センターでは差がつきにくいという理由だけによるのではないのです。二番手三番手の大学(いわゆる駅弁大学)がセンター重視なのは、二次で負担をかけると受験生が逃げていってしまうから、医学部以外はそんなことはこわくてできないからでしょう。

 センター(共通一次)は元々、高校教師たちの文句があって開始されたものだと聞いています。入試には高校の教育現場を無視した難問・奇問が多すぎる。これでは真面目に授業を受けている生徒たちが浮かばれない。だから、ふつうのカリキュラムに沿って真面目に授業を受け、真面目に勉強している生徒たちがよい点を取れる試験にすべきだというような話で、これは始まったのです。
 しかし、成績上位層ではそれではほとんど差がつかないし、センターのような試験では学力的な奥行きを読み取ることはできないので、結局二次でそれは見るほかないということで、難問はなくならなかったのです。

 僕が詳しく知っているのは英語だけですが、二次の試験問題は難しいですよ。それも無意味に難しいというのではなく、内容があって読み甲斐のある英文が多い。その意味では昔よりよくなっている印象です(そのあたり、「必要悪」と割り切っていたものの、かつてのわが母校の入試問題など、パズルの出来損ないとしか言いようのないクソ問題でした)。やれ「学力低下」がどうのこうのと言われていますが、少なくとも難関国立・私立にかぎって言えば、こういうのがちゃんと読解できるなら、「学力低下」なんてしてるはずがない。こういうのが読めて、かつセンターは5教科7科目の平均を8~9割(満点近いのもいる)確保しているのだから、「すごいなあ」と僕は感心してしまうので、それのどこが「学力低下」なのだと言いたくなるのです(問題は「学力低下」ではなくて、むしろ生徒間の「学力の二極化」にあるのですが、それについて論じると脱線してしまって戻ってこれなくなる恐れがあるので、ここでは触れないことにします)。

 制度設計をする人は、「こうすれば、人間はこう動く」という心理が読めなければなりません。数学的な計算だけで人間心理の動きが読めないお役人が経済政策を決めるときまって失敗するというのと、それは同じです。
 センター(共通一次)の失敗は、入試を「通常の高校授業レベルの問題」にすれば、一定以上の生徒は大方できてしまって、差がつかなくなる。だから、高度な問題でそこから上の学力差をはかるしかなくなって、難問はなくならない、という単純な道理が読めなかったことです。結局、受験生は二種類の試験の対策勉強をしなければならなくなって、負担が増えるだけに終わったのです。

 昔は、一次試験があるのは東大だけでした。その東大の一次も、質的には今のセンターよりはよほどましだった。たとえば文系なら、理科も二つやる必要があったのですが、それはさほど知識がなくても国語力や推理力でカバーできるような性質が強かったからです。今のセンターはそうではない。どうでもよさそうな(失礼!)コマギレ知識をせっせと暗記しなければ点は取れないようだからです。他の大学は、今の二次(センターがなかった分、科目は多かったが)だけの一発勝負でよかった。

 センター試験は、その対策勉強が「考える力」を育成するのにつながるようなものでは全くありません。むしろ逆なので、あんなものは「国力を減退させる元凶」としてさっさと廃止してしまった方が世の中のためなのです。毎年トラブルが起きてニュースになる英語のリスニング試験にしても、二次でもう一度リスニングを課す大学がいくらもあるのだから、そういう点ですら何のためにあるのかわからないのです。

 今では私立大学のセンター利用も増えましたが、最近慶応とICU(国際基督教大学)が相次いでセンター利用を廃止し、“撤退”しました。財政的にはそれによる受験料収入は馬鹿にならないので、マイナスでしょう。にもかかわらず廃止したのは、それで入ってくる学生(両大学のレベルからして合格者は高い点数を取っているはずです)の質かレベルに問題があると見たからでしょう。つまり、センターでは「大学教育に適した資質」を見ることはできないと判断したわけで、それは一つの見識だと僕は思います。

 前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。センターを廃止するというのはよい。しかし、代案が悪すぎるのです。僕の見るところ、これでは今よりさらに悪くなることは確実です。

【代わりに登場するのは、年間を通して何度も受験できる「達成度テスト」。一発勝負でなくなる点で受験生にメリットもあるが、専門家からは「受験戦争の激化を招き、教師らの負担はより過重になる」との異論も噴出している。】(ZAKZAK)

 …というものなのですが、それも一つではない。

【高校での学習定着度をみる到達度テストを「基礎」、大学入試用のテストを「発展」と位置付ける。双方のテストに高校の学習内容を適切に反映させるため、同一組織による一体運営が有効と判断した。
 会議は10月末に最終的な提言をまとめ、安倍晋三首相に提出する方針。新テストを運営する組織や具体的な制度設計は中央教育審議会(中教審)で議論する。】(日経)

 要するに、「基礎」と「発展」の二種類に分かれるわけです。何で二種類用意する必要があるのか? ZAKZAKの記事の説明をもう少し見てみましょう。

【高校段階の達成度テストは、基礎的な科目から出題される。大学の一般入試には直接利用しないが、成績は推薦入試やアドミッション・オフィス(AO)入試の参考となる。 一方、センター試験に代わる発展レベルのテストでは、結果を1点刻みの点数で示すのではなく、一定幅の段階評価とし、生徒は複数回受けることができるようにする。その上で、大学ごとの2次試験は面接や論文を重視するよう求めていくというものだ。】

 要するに、推薦やAO入試では「基礎」を使いなさい。一般入試用には「発展」を用いなさいと、事細かに国が世話を焼いて下さるのです。何たるよけいなお世話か。

 問題はそれだけではない。実のところ、教育再生実行会議なるものが自慢げに言っている「何回も受けられる」というところにも問題があるのです。理由はかんたんで、何回も受けて、一番高得点が取れたのを提出するということになれば、人気のある難関大学の基準点はものすごく高くなってしまうでしょう。失敗した自分にだけ再受験のチャンスが与えられたというのならトクしますが、皆に与えられているのです。一発勝負なら、失敗する受験生もいるからボーダーが7割だったものが8割必要になり、8割必要だったところは9割になり、9割必要だったところは9割5分必要になる、というふうに、基準が上がるから、少しも楽にはならないのです。それに何度も同じ試験(むろん、問題は違うわけですが)を受けるとなると、時間もエネルギーもものすごく取られてしまう。作る方の手間ひまが半端なものでなくなるのも言わずと知れたことです。

 いや、この「センター試験に代わる発展レベルのテスト」は今のセンターより難しいのだということになるのかも知れませんが、それでも何度も受けて一番よかったのを出せるとなると、基準点が高くなるのは避けられず、不毛な点取り競争が熾烈さを増すのです。国立医学部なんか、どういう悲惨な戦いになってしまうことでしょう。

 大体、難しい方の試験は今まで二次の個別試験でやってきたわけです。それぞれの大学はそれぞれの嗜好に合った試験を作って、間接的に「うちはこういう学生がほしい」ということを受験生に示してきた。たとえば、東大と京大は入試問題の質が違うのです。それはそれぞれの大学の個性を反映している。それのどこが悪いのですか?

 こう言えば、「いや、だから二次では『面接や論文を重視するよう求め』ていくと言っているので、学科試験だけではわからない人物や潜在能力を各大学は判断するようになるのだ」と言いたいのでしょうが、僕が反対するもう一つの理由はそこにあって、そんな主観に左右されやすいもので合否を決めるなら、学科のペーパー試験の結果で決めてくれたほうがずっと後腐れがなくていいので、公平の見地からもその方が納得が行きやすいのです。

 僕が受験生なら、面接で自分の価値など決めてもらいたくないと思うでしょう。「これで僕の人物と潜在能力がわかるなんて、あんたは神ですか?」とつむじ曲がりの僕などは試験官に言って(じっさいその程度のことは平気で言いかねない不良だったので)、「素直さに欠け、目上の人に対する尊敬心が少しもない」ということで人物評価がD判定になり、論文も、「一応論理的思考力はあると認められるが、過激な思想の持主であり、好ましくない逸脱が懸念される」ということでこちらもDとなって、「センター試験に代わるテスト」の成績は基準に達していたにもかかわらず、落とされてしまうのです。

 合格するのは、生徒会の役員をやっていたり、部活のキャプテンを務めたり、「社会的に有意義な」ボランティアをやっていたりする、「建設的な意欲に溢れた素直なよい子」(見かけが、ですが)なのです。「君は高校時代、何か人に誇れるようなことをしましたか?」ときかれたら、僕なら何と答えたでしょう。「そうですね。自主的に自分で時間割を作って学校には通っていました」と答えるでしょうか。「なるほど。君の内申書に記録されているこの年間欠席日数80日というのは、そういうことなんですね」と感心して、その「主体性」を評価してもらえるでしょうか? あるいは、「自慢できることと言えば、問題教師と三度喧嘩になり、三度とも完勝してクラスの皆に喜ばれたことです」と答えて、「権力に屈しない気概と、論争の高度な能力あり」と評価されるでしょうか。そのようなことはおよそありそうもないので、「学力以外の点で多々問題あり」とみなされ、不合格となるのです。

 法科大学院はアメリカの制度の猿真似をして大失敗したわけですが、おそらくこれもアメリカの真似っこでしょう。周知のとおり、アメリカでは日本みたいな一斉入試はやっていません。SATやACTという年間複数回受験できる統一テストがあり、これに学校の内申、推薦状、提出小論文などを加味して個別に審査を行ないます(アメリカの名門は多くが私立で、有名でない州立大には内申や統一テストの成績が基準を満たしさえすればそれで合格というところもある)。
 教育再生実行会議のこの二種のテストのうち、「基礎」はACTを、「発展」はSATを真似たもので、オリジナリティはゼロです。

 大体、長くアメリカはこういう方式でやってきて、各大学にはちゃんと選抜のノウハウが備わっているが、日本の大学にはそんなものはないので、全く異質なものを接木して、それでうまく行くと思うなら、そう思う方がどうかしているのです。

 よく大学入試の英文には学校教育批判が出てきて、中には「東アジア的横並び競争」に対する辛辣な皮肉なども含まれるのですが、そういうメンタリティはなくならないので、面接が重視されるなら面接のノウハウを学校・予備校が競って教え、小論文重視なら、それで高得点を取るための対策が競われ、ボランティアが大事ということになれば、入試目当ての高校生ボランティアが激増するということになるでしょう。現段階ですでに、推薦入試が有利になるようにと生徒会の役員に立候補したり、ボランティアにあわてて申し込んで“実績”を作る、というようなことは珍しくないのです。しばらく前に世間を騒がせた、バスケ部のキャプテンをしていた生徒が顧問教師の体罰に耐えかねて自殺した、という大阪の桜宮高校の事件でも、本人はキャプテンをしていれば有名私立の指定校推薦がもらえると思い込んでいたらしいので、そういう“下心”もあって我慢しすぎた、という要素があったのでしょう。

 要するに、わが国の場合、そういうものは「自発的」なものではなく、皆「為にする」ものになってしまいかねないのです。潔癖な子はそういうことをいやがります。だから、「自発的」にそういうことをしていても、入試では学科の成績だけを問われる一般入試で勝負しようとしたりするのです。僕はそういう若者を好ましく思います。

 だからそういうものを入れ込むと、入試の選抜基準が不透明さを増すだけになるので、それなら学科試験だけで決める方が紛らわしくなくていいのです。今は私立大は特に、推薦入試組が増えすぎて、それが一般入試で入った学生と較べて学力的に劣りすぎるというので、就職に際してさえ、企業側は一般入試で入った学生か、推薦入試で入った学生かを区別(差別)するようになったという話ですが、これだっておかしな話なので、もしもその推薦入試が人物と潜在能力や、通常の学科試験では把捉できない総合的知力を正しく判定できるものであったなら、むしろそちらで入った学生の方が企業受けはよくなるはずでしょう。そうはならず、むしろ人物面でも一般入試組の学生の方が気骨があっていい、推薦組は「ただ能力的に劣るだけ」だというのなら、面接や小論文だけに頼る試験ではまともな選抜は難しいということを裏書していることになるでしょう。

 だから、国がよけいなことに出しゃばる必要は何もない。さっさとセンターを廃止して、各大学はどういう若者を自校の学生にほしいかを考えて、それに応じた入試を行なうようにさせればいいのです。その場合、国立であっても、科目を少なくしたり、面接と論文だけで入学選考をやってもかまわない。それは各大学の見識と判断に委ねればいいのです(推薦やAO入試も各大学がやり方を工夫すれば足りる)。国立受験者は全員あの眠たいだけのセンター5教科7科目を一律に受験しないと始まらないという今の悪しき状況を変えるのです。やめればいいだけなのだから、話はかんたんでしょう。

 仮に教育再生実行会議のアメリカ猿真似案が実施されたとして、それを成功に導くには、たぶんこういう方法しかないでしょう。国立の場合なら、旧帝大とそれと同等か又はそれに準じるレベルの一部の大学を除き、その「到達度テスト」での一定の基準点を明示し、それに達した生徒は全員合格させるのです。平たく言えば、駅弁大学は皆それだけで合格できるようにする。それなら際限もない点取り競争は終わります(これは今のセンター試験でもできることですが)。
 そして残りのエリート大学の受験生だけ、こちらはその「到達度テスト」の成績を加味するかどうかも含め、自由に独自の個別学力試験を行なって選抜する。
 要するに、大学を一部の熾烈な競争のある大学と、「その他大勢」組の一定の基準点に達すればそれだけで合格できる大学にグループ分けするのです。

 問題は、今の既存の大学がこの条件を呑むかどうかです。というのも、駅弁大学の間にも細かな偏差値による序列があって、「いや、うちはあそこよりは上だ」なんて言い合っているのですから。一つの方法は、その基準点にも差を設けることですが、誰がそれを決めるのかという問題があって、それなら今のように受験生の動向によって自然に決まるという方が文句が出にくくていいということになり、そのあたりは難しいのです(かつて共通一次が導入されたとき、国立一期校と二期校の区別も同時に撤廃されました。あれは二期校が「一期に落ちた余りものしか来ない」と文句を言ったからだと言われています。その区別を撤廃すれば優秀な学生が確保できて“浮上”できるはずだと思ったのでしょう。しかし、旧二期校で上位にランクづけられたのは横浜国大や東京外大など東大のスベリ止めだった元から評価の高かった一部の大学だけで、ほとんどの大学は再序列化されても下位にしかならないという悲哀を味わったのです)。

 そこまで考えてこういう議論をしているのか? してないでしょう。法科大学院のときだって、あんなに乱立して、大混乱に陥ったのですから。おまけに司法試験の合格者の数を増やしすぎて、法曹資格は得たものの、雇ってくれる法律事務所がない、なんて羽目になる人が続出することになった。アメリカみたいな訴訟社会ではないから、日本ではそんなに弁護士はいらないのですが、そういうことすらロクに計算に入れていなかったのです。また、稀少価値が著しく減じたというので、法曹人気そのものがガタ落ちになった。もう一つ、例外措置として設けた予備試験組の合格率が一番高いということになってしまって、法科大学院それ自体の意義が疑わしいということになったのです。何アホなことをやってるんだと、世間の笑いものになっているのがあの「改革」なのです。

 これもそれと似たことになりかねない。というか、確実になるでしょう。早口で「駄目な点」を列挙していったのでわかりにくいかも知れませんが、よくお読みください。そしたらこの案の駄目さ加減はよくおわかりいただけるだろうと思います。地方の一介の塾教師がこんなこと言っても、お偉いさんたちは聞く耳をもたないでしょうが、もっと影響力のある人たちが反対を表明して、この愚かな案を潰してくれることを僕は期待しています。

 他にも英語の授業を小3から正規科目にするとか、「道徳」を学科に昇格させるとか、どの程度深く考えて物を言っているのか疑わしい話がちかごろ多すぎます。現実に的確に対処するのが仕事のはずの政治家たちがいい気になってロクに知りもしない教育問題に嘴をはさんで、机上の空論に酔いしれ、自分の専門でロクな業績も上げられなくなったからよけいな制度いじりに興味をもつようになった学者先生が無責任な議論をするこの国は、ほんとにヤバいのではないかと思うのです。問題なのは子供や若者のそれよりも、オトナの「考える力の低下」の方でしょう。ちがいますか?

 もう一つ、ついでに思い出したので書いておくと、政界や財界に信奉者が多かった儒学者の安岡正篤氏が昔どこかにこういう意味のことを書いていたと記憶しています。財務省とか文科省とかの「省」という字についてです。あれは「省(はぶ)く」と書く。パーキンソンの法則に「役人は際限もなく無用な仕事を作り出す」というのがありますが、本来そうであってはならないので、政治家や役人というものは、無駄を極力削って「省き」、それによって民の心と暮らしを安からしめるのが本義なのだと。社会のことはほうっておくとどんどん複雑に、ややこしくなりがちです。全体を見ず、自分の周囲のことだけ見て新たな制度やシステムを作ったりするものだから、相互に矛盾してわけがわからなくなったりもする。政治家や役人はそういうものを見て、全体的な見地から知恵を働かせ、思いきって無駄を省き、そうした混乱を収拾するのが仕事だというのです。新たな特殊法人を作って天下り先を増やすのが仕事ではないはずで、そのあたり、名前に見合った働きをしっかりやってもらいたいと思うのです。
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