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鈴木大拙の「自己」観

2013.09.04.10:27

 今回は久しぶりに宗教・哲学関係の話をさせてもらいます(これを書き終えてアップしようとしたら、台風の直撃を食らいました。今は通り過ぎて風も収まりましたが)。

 今年の4月、『禅八講 鈴木大拙最終講義』(常盤義伸編・酒井懋訳)という本が 角川選書から出ました。これは松ヶ岡文庫から2011年に『Eight Lectures on Chan/禅八講 鈴木大拙講演録』と題して英語原文と邦訳の対訳の形で刊行されたものの訳と解説を独立した本にしたものだそうですが(だから厳密な分類では「訳書」になる)、第一部の「最終講義 禅は人々を、不可得という仕方で自証する自己に目ざめさせる」は1962年のもので、「講演のために用意された最後の原稿」という注記がついています。
 第二部には六本の講演原稿の訳が収められ、最後の「禅仏教の哲学」には「ニューヨーク講演 1954年?」という注記があって、年度が不明確なようですが、他の5本はいずれも1950年のものです。

 鈴木大拙は1870年生まれなので、1962年と言えば、実に92歳、1950年でも80歳です。僕がここで取り上げるのは第二部第一章の「禅と心理学」ですが、これは本文わずか15ページのものながら、その明晰さと無駄のなさには驚くべきものがあって、僕は一読「完璧だ!」と唸ってしまいました。老人特有の冗長さとか、曖昧さとかいったものが微塵もない。80歳の人にこんな文章を書けるのかと、まずそのことに驚きました。

 とはいえ、これは難解きわまりないものでもあって、難解なのに明晰だと言うわけは、著者が語ろうとすることを完全に把握して、それを今はこの角度から、次は別の側面から、というふうに自在に視座を変えつつ縦横に論じているからです。その主題が「不可得の自己」だというのだから、わかりやすくなどはなりようがないのですが、論理の足取りは明確そのもので、曖昧模糊としたところなどは少しもないのです。あらためて鈴木大拙という人の凄みを感じさせられたので、眠気が吹っ飛ぶような文章でした。

 この「自己」の問題は、若い頃から僕もずっと考えてきた問題なので、それに触発されて何か書いてみたくなったのですが、何より読者にはこの文章そのものを読んでいただきたいと思います。定価は税別1800円ですが、この「禅と心理学」一本だけでも十分その価値はあると思います。注記に〈ロス・アンジェルス 分析哲学クラブ講演〉とあって、だからこういう哲学的な題材があえてえらばれたのだろうと一応考えることはできますが、八十翁がこうした抽象的な議論に大きな情熱を傾けるというのは、観念に惑溺するような年齢はとうの昔に過ぎているのだから、この問題は万人にとって死活的な重要性をもつと著者が考えていたからこそでしょう。実際、人類が愚行による破滅を免れて存続し、生きるに値するよりよい未来社会をつくれるかどうかは挙げてこのこと――どのような「自己」理解をもちうるか――にかかっていると、誇張ではなく、僕はあらためて思いました。

 だからこれを書いてみたくなったのですが、僕は鈴木大拙のこの文章に「注釈」を施すというような、無礼でもあれば見当外れでもある企てをする気はないので、以下に書くのはあくまで僕自身の考えです。自分は世界的に高名な禅学者のこの講演原稿を読んで、こういうことを考えた――それを書きたいと思うのです。

 何をもって「自己」と呼ぶのかは厄介な問題で、それは古来無数の議論を惹き起してきました。そういうことにかかずらうと泥沼になるので、それは避け、必要な範囲にとどめたいのですが、僕らがふつう「自己(私)」と言うとき、それは自他二元的な意味での自己、各人固有の「自己」を指します。あなたはあなたの、私は私の「自己」を持っている。通常はそんなふうに理解されています。そして、その自己と自己とが角(つの)突き合わせる場が、この人間世界です。それがたえまない葛藤、軋轢、闘争を生み出す。

 人同士が互いの「自己」を立てて争っているだけではない。一人の人間の中でもつねに葛藤・対立は続いていて、それは人が自分の中に複数の互いに折り合うのが難しい「自己」をもつからです。別にこれは病的な多重人格者のことを言っているのではない。一応の人格的統一が保たれているふつうの人の場合でも、内面には深刻な分裂があって、そのそれぞれが「自己」の一部であると感取されるのです。それは必ずしも本人によく自覚、意識されているとはかぎらない。むしろ「右手がしていることを左手は知らない」式の、自覚に乏しい、自分が望む「自己イメージ」にそぐわない感情やふるまいには都合よく目を閉ざして、「よい人間」「高貴な人間」だと懸命に思い込もうとし、なかばそれに“成功”しているような人も珍しくないほどです。その現実のありようとその人自身の自己イメージがあまりにかけ離れていると、「一体これはどういう人間なのだ?」と周囲の人は恐怖に近い感情さえ覚えるのですが。

 また、心理学や一部の宗教などには、「表面的な自己」と「真の自己」の区別を教えるものもあります。たとえば僕が自分の愚かさや利己性に悩んでいると、心理学者または宗教家がやってきて、あなたのその愚かさや利己性はエゴ(自我)に由来するもので、その奥には「高次の自己」、「汚れなき魂」が隠れている。立脚点を前者から後者に移せば、愚かな自我は消滅し、そうした悩みはたちどころに解消されるであろう、と言うのです。むろん、多少のカウンセリング料やセミナー受講料、お布施は必要ですが、僅か数十万の出費(場合によってはそれは数千万に達するかもしれませんが)でこの愚かしく醜い自己から解放されて、成功を約束された自由で創造的な人間、または菩薩のような境地に至り、人々から尊敬のまなざしで仰ぎ見られるようになるというのなら、どうしてその申し出を拒んだりするでしょう。

 とにかく僕はそれで、しかるべき料金を支払った後、ゆうべ見た夢の話をセラピストにして、その中に「真の自己(自我ではない!)」の手がかりを見つけるのを手伝ってもらったり、あるいは、道場になっているマンションの一室で指導者から瞑想の手ほどきを受けたり、言霊(ことだま)の威力に満ち満ちたマントラを与えられ、それを一万回復唱したりするのです。

 始めてしばらくすると、心なしか心が清明になり、自己理解も深まってきたような気がします。「愚かなエゴ」から「真の自己」へと意識の座が移りつつあるような気がするのです。そう言うと、セラピストまたはグルには、たしかに進歩は見られるが、まだ支払い…ではなかったコースは始まったばかりで十分ではないので、長く続けることが何よりかんじんだと言われます。でないと創造的な年収の多い成功した人間にはなれない、または菩薩の境地には至らぬであろうと戒められるのです。

 しかし、結局、僕は数ヶ月でそれをやめてしまいます。停滞状態に陥って、当初の感動が薄れるのも手伝って次第に疑惑を抱くようになり、また性格の悪い昔の友人に街でバッタリ会って話をしているうちに、「そういうのは効かない水虫の薬と同じだぜ」なんてひどいことを言われてしまったからです。たしかにそんな気もする。費用の方も気になりだしていたところだったので、やめることにしましたが、露骨に不快な顔つきになったセラピストには「あなたのような人は永遠に成功しないでしょう」と言われ、グルには「死後、おまえは餓鬼の世界に落ちるであろう」と“保証”される始末です。幸い、そのようなことを言う人間が信頼するに足る人物ではないと見抜ける程度には“進歩”していたので、僕はそうした言葉には傷つかずにすむのですが。

 鈴木大拙の格調高い文章に合わせて格調高く行きたいと思っていたのに、つい地金が出て戯文調になってしまったのは遺憾なことですが、気を取り直して先を続けましょう。とにかく僕らが通常観念する「自己」とはそのようなものです。作家・尾崎一雄に『虫のいろいろ』という作品がありましたが、「自己の色々」で、その甚だまとまりのないものを無理に統一したものと仮定して、僕らは「自己」と呼びならわしているのですが、鈴木大拙はそうした「自己」の一切――心理学者の表層自己と深層自己の区別も含めて――を「いずれも自己にあらず」と否定して、常識的な見地からは理解に苦しむ「自己」観を提示して、その「不可得(えられない)の自己」に達するのが禅の悟りであり、万人にとって望ましいことだと言うのです。

 江戸の昔から、「禅問答」というのは「わけのわからないもの」の代名詞でした。だから彼のこの文章もそういうものの一つとして片付けてしまえれば便利ですが、そうした通常の「自己」観にとらわれていたのでは決して自由や安心(つまらない自己満足ではなく)は得られないのだという著者の言葉は真実です。心にはつねに葛藤、不安、疑惑が渦巻いて、当然その行動もそれに見合った不自由で混乱したものとなる。そういう個人が集まれば、社会もそれに見合った、互いの混乱が増幅し合ってさらに大きな混乱を生み出すようなものとならざるを得ないのです。

 僕らはそれを日常眺め、自らその一部となっていることを自覚しています。別に大きな社会的、個人的問題には巻き込まれていない場合でも、これはそれ自体かなり憂鬱なことです。年間自殺者3万人超の不名誉な記録はやっと14年で止まりましたが、それでも3万人近い年間自殺者がいることには変わりがなくて、それには様々な個別的理由があるのはもちろんですが、人間は困難があるからといってただちに自殺するような生きものではないので、未来に希望がもちにくいこと、そもそも何のために苦労しながらこの先も生き続けていくのだ、という空しさや無意味感がそこに大きく影響していることは間違いないでしょう。

 そこにも、この「自己」観の問題はあるだろうと思います。道徳家は「自分さえよければいい」というミーイズムの蔓延を嘆きますが、むしろ現代人は、少なくとも現代の日本人は、担うべき「自己」の空虚さに悩んでいるように見えます。こんなもののために自分は苦労してあくせく生き続けなければならないのか? 根本にそうした徒労感があるとき、障害や困難はたやすく人を押し潰すのです。
 これは見栄や体面を取り繕いたがる傾向と別に矛盾しません。守るべき「自己」が空虚で貧弱なものであるからこそ、かえってそれを揺さぶられることを恐れるのです。「自己」が表面的で脆弱なものであればあるほど、逆に妙な驕りや虚栄心は強くなるのです。

 鈴木大拙はこの本で、強力な「自己」を、最大限の「自尊」をもつべきことを提唱しています。しかし、それは逆説的にも、通常の「自己」の全的否定を伴うのです。現代人の「自分は果たして担うに足る『自己』をもっているのか?」という疑惑は正しい。問題はその先で、その疑惑を突き詰めてその放棄に至る方向には進まず、不安だからそれを何とかして守らねばと無意識に低次元の自己防衛に走り、しかし、その疑惑はたえずつきまとう、といったことを繰り返してしまうことです。

 これは鈴木大拙の宇宙観、生命観と一致するかどうかは知りませんが、僕はこんなふうに考えたらどうかと思うことがあります。その方が議論がわかりやすくなるように思われるので、まずそれを書かせてもらいましょう。

 ビックバン仮説によれば、この物質宇宙はその原初の「爆発」によって一瞬のうちに出現したものです。それは猛スピードでその後も膨張を続け、空間的な広がりと諸物質、無数の星辰を生み出した(今も生み出し続けている)のですが、だとすればこの世界は元々一つの「存在(Being)」が自己展開したものだと考えることができます。人間はその中の超微細な一粒子のごときものです。
 そしてその「存在」には、不思議なことに意識と知性が宿っていて、それは宇宙の森羅万象に浸透しているのです。その意識と知性は本来一つのものですが、生命体の態様に応じて、それは無数の意識形態をとる。アメーバーのような原始的な生命体にすらそれは備わっていて、だからこそそれは生命として生き延びる知恵をもつのですが、その意識の働きを地球上の他のどんな生物にもまして明瞭に感受できるまでに進化した人間は、その根源的な意識の一性にまで到達する潜在能力をもっている。しかし、通常、僕らはその意識の働きに触れたとき、見かけ上の肉体の独立性、個別性に惑わされて、それに合わせた近視眼的な「自己」観念をもってしまい、意識理解もそこで止まってしまうのです。

 そういうことではないのかと、僕は思います。伝統的日本人の一人である僕は、口幅ったくてそれを言うことには躊躇を覚えてしまうのですが、この「存在」には愛も備わっているでしょう。意識、知性、愛、それらは同じ一つの存在がもつ要素であり、側面なのです。全体が一つであり、それらは本来分割できない。

 鈴木大拙の言う「自己」というのは、その「自覚」それ自体のことでしょう。心理学的・哲学的なあらゆる「自己」の観念を離れて、意識の自覚がその根源に達し、その「存在」そのものが「われ在り」と言うとき、そこに絶対的な自由の感覚、強烈な自己肯定感(それを彼は「自己同一」と呼んでいますが)があるのです。それはむろん、静的なものではなく、ダイナミックに生成発展するその力そのものの自覚です。そこには「あなた」も「私」もない。「偽りの私」も「真の私」もない。そんなものは全部犬に食われてしまえ、とこだわりなく言える一種独特の「主体」の感覚です。

 神秘主義関係の文献を多く読み慣れている人には、これは陳腐なものとしか思えないでしょう。しかし、それは知識や理論としては陳腐でも、体験となれば何も陳腐なところはないはずです。この物質宇宙は最大限にまで膨張すると、次は収縮を始め、それが究極的な一点にまで達すると、また爆発、膨張する。昔、そんな話を何かで読んだ記憶があるのですが、そのビックバンの“前”があろうとなかろうと、とりあえずそれはどうでもいい。無始無終の“何か”がそこにあり、それ以外には何もなく、この物質宇宙はその一部なのです。この本には「宇宙的『自己』ないし非宇宙的『自己』」、「宇宙的意識、宇宙的無意識ないし非宇宙的意識」といった、一見何を言いたいのかよくわからない言葉も出てくるのですが、たんに言葉を弄んでいるのではないので、これはそのあたりのことを指しているのだろうと思われます。むろん、禅語の「父母未生以前本来の面目」というのも、そのことなのです。

 そのあたりの意識(著者の言葉では「『自己』意識」)のありようについて、「禅と心理学」から直接少し引用させてもらいましょう。

「根本的意味において意思そのものであるから、『自己』意識は自らを意識する主観なるものを知らない。実は、『自己』を自らが意識するとき、自己意識が不可能なものであることを自ら知っている。こういう言い方は不条理で、まったくの自家撞着と響くかもしれない。しかし、『自己』が自らを意識するということは、本当は自己を意識しないことを意味する。なぜなら、『自己』意識とは、意識の対象とは別に意識する主体がある意識ではないからである。主観と客観とは、『自己』意識では一体である。『一体』というのも不正確で的外れである。ふつう『一』というとき、この『一』は『一』でないものと対立すると考えられている。肯定には常に否定が含意されている。『自己』では肯定と否定とが統合されていて、この統合は意思行為である。意思は知性に先立ち、知性は意思から出てくる。それゆえ、人が『自己』に到達できるのは――すなわち『自己』がみずからを意識するようになるのは、思慮分別によるのではない」(p.90~91)

「『自己』意識は、『自己』そのものの無媒介の認識である。『自己』は自らを真にありのまま、止まることなく流れるままに意識する。ここには主客の分離も、見るものと見られるものへの分化もない。反省とは、意識の流れの外に立ってそれを観察することである。これが起これば『自己』はもはや自己ではなく、否定されて、自らを認めるべき第二の自己を創る。この二元対立なしには、反省は不可能である。『自己』意識の行為にあっては、最初の自己は第二の自己と同一で、考える自己は考えられる自己、反省される自己以外のものではない。『自己』意識は自己同一であり、自己同一の実現であり、カントならば純粋統覚というだろう」(p.93~94)

 これは、上のビックバン云々の説明と照らし合わせて読めば、そう理解が難しいことではないでしょう(中には「安易な図式化だ」と怒る人もいるでしょうが、そういう人に言いたいのは、それなら「安易でない説明」を提示してくれ、ということです)。「『自己』を意識することは、従って、人間存在のもっとも根本的な経験であって、実在という問題を解決しようとする知的努力のすべては、人が高次の『自己』をもつときに終了する」(p.92)とも言われていますが、ここで言われている「高次の『自己』」が通常の個別的自己観念から出発した「深奥のセルフ」などでないことは明らかで、その類のものは「普通の意識は合理化の結果であり、意識にのぼる自己がいかなるものであれ、それは抽象であって、具体的な経験ではない」(p.91)のだと否定されているのです。

 要するに、その「自己」は通常観念されているどんな「自己」とも異なるわけで、そんなものを「自己」と呼ぶことが果たして適切なことなのか、という疑問がここで起きてきますが、それに応えてくれるのは、たとえば、次のような文章でしょう。

「心理学的自己は存在せず、それを本当の自己だと思うことは間違いだが、それにもかかわらずそう思わせるあるものの存在することは否定できない。そこで、後世の仏教徒はアートマンの存在を改めて主張するに至った。初期の仏教徒も後世の仏教徒も、同じ術語を使っているので、ここに思想の混乱がある。実を言えば、後期のアートマンは前者の思想と同じ範疇には属していない。当初のアートマンは前・後期二派の仏教徒のいずれによっても否定されている。しかし、後期の仏教学派の主張したアートマンを否定することは、自己矛盾である。その否定そのものが、自分自身の立場の否定につながるからである」(p.86)

「『自己』意識とは厳密な意味においては自己同一であり、そこでは二元分裂も、見るものと見られるものへの分裂も、ない。区別も分化もないところ、途切れることのない一つの連続体、つまり自己同一があり、自己同一のあるところ、一般に言われる意味での意識もありえない。かりに、そこになお一種の意識があると考えたとしても、それは普通のタイプの意識形態ではありえない。それは、客観を意識する主観のない意識である。意識する主観自体がその客体で、ここに純粋な形での『自己』意識がある。こうして、この『自己』意識は、思慮分別によって到達できるものではなく、もっとも根源的な意味での意思によるものだということがわかる。自己同一をもたらすものは、意思なのである。
 自己同一の達成は、無私の実現を意味する。逆説的な言い方をすれば、アートマンの達成とはアートマンの否定である。自己が実現されるとは、自己が失われることである」(p.87)

 ポイントはどうやら「自己同一」「もっとも根源的な意味での意思」という言葉にありそうです。そこには強い「主体」の感覚が伴うので、だから「そう思わせるあるものの存在することは否定できない」ということになるのです。デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」の「われ」にしても、それは知的な側面に偏したものだし、文化的・時代的な制約からそれを論理的に説明することには失敗しているとしても、通常の「自己」でないことは明らかで、それはたんなる観念的な抽象物ではなくて、強烈な「主体」感覚を伴う普遍絶対的な「在る」に結びついたものだったでしょう(この点、パスカルが彼に腹を立てたのは完全に“正当”なことです。それは正統的キリスト教信仰の見地からは異端と断罪されても仕方のないようなものを含んでいるからです)。

 鈴木大拙の「心理学的自己」の否定はおよそ徹底したもので、「自己が無意識的なものと同じと考えてはならない。無意識なものは、なお、意識の平面にとどまっている」(p.85)という言葉は当時流行していたユングなどの無意識心理学を意識して発せられたものだろうし、「内観は、『自己』に到達する道ではない。その理由は、内観がなお心理学の領域に属しているからである。…二元性の痕跡があるかぎり、『自己』は姿を現そうとはしない」(同)という言葉なども、分析によって「自我ではない自己」に到達しようとする自己矛盾を言ったものでしょう(「自己矛盾」と言うわけは、一つには「眼が自分を見られないように、解剖メスは自らを解剖できない」(p.85)からだし、もう一つは、意識――この場合は無意識を含む――の中に新たな「自己」と「非自己」の区別を作り出し、後者を否定もしくは解消する努力、あるいはそれらを気に入るように「統合」して「真の自己」にふさわしく整えようとする果てしもない悪戦苦闘――それをしているのは一体誰なのか?――が続くことになるからです)。「自己」はどのみちそうした意識の次元にはない。二元相対的な意識の平面でいくら「叡知と愛に満ちた自己」を探り、形成しようとしても、その差別的な「自己」観念そのものが「叡知と愛」を妨げるものなので、それは初めから不可能な企てなのです。

 そうした自他相対的な「心理学的自己」はどこまで行っても不安を免れません。だから、内部に「自我ではない自己」を求める企てに失敗すると、今度はそれを外部に、自分が所属する宗教団体とか、国家、民族とかいったものに求めるのです。それに自己同一化して、安心を得ようとするのですが、その場合には他の団体、国家、他民族を蔑視したり、憎悪したりといったことが必然的に随伴します。そうした「自己」は差別的な本性をもつからで、宇宙人が攻めてきて、人類が大同団結してこれと戦うといった馬鹿げたSF的おとぎ話の場合でも、大方は「邪悪な宇宙人」を撃退したところでめでたく話は終わるのですが、何のことはない、「共通の敵」がいなくなれば、またぞろ民族間で、あるいは隣人同士、元通り争うようになるのです(そうした後日談を描けばストーリーは台無しになってしまうので、その前で終わるようにしないといけません)。要するに、その根底にあるのはどこまで行っても利己性の刻印を帯びたご都合主義的な「自己」“愛”でしかないのです。

 長くなるので、ここではそうした自他二元的な「自己」観念を土台とした通常の道徳規範――道徳といえばそういうものしか考えられない人は少なくありませんが――の無力性と有害さには触れませんが、結局のところそれは内部に新たな分裂と葛藤を作り出し、外部にも抗争の火種をまた一つ増やすだけで、根本的な解決にはなりえないのです。硬直した形式的な道徳規範が非道な暴力の正当化や、悪感情の好都合なはけ口として利用される場合すらあるのは、注意深い人なら、誰でも日常的に観察していることでしょう(この本でも第二部第四章「仏教と倫理」で「個体化の原理に基づく道徳」の問題点が指摘されているので、そちらをお読みください)。

 自他二元的な「自己」観念――著者が繰り返し指摘しているように、それは知性の誤用による“錯覚”にすぎないのですが――を土台にしたのでは、すべては砂上の楼閣のようなもので、何一つまともなものはつくれない。とするなら、「正しい『自己観』」の形成が何にもまして重要だ、というところに、議論は落ち着かざるを得ないのです。

 むろん、仮にすべての人が鈴木大拙=禅のいう根源的な「自己」の洞察に達したとしても、それだけで万人の「エゴ」が自動消滅して、万人が愛と叡知の結晶体のごとき存在に変身するということはありえないでしょう。

 いわゆる「悟り」を体験したとしても、自我は残ります。それはこの世界で人間が生きるための“機能”としての役割を失うわけではないからです。自我がなければ人は社会的責任の担い手たりえず、日常の細々としたことに応接、処理することもできません。ただ、それはふつう観念されているような「実体」的なものでないことは深く洞察されたことから、性質の上で大きな変化をこうむり始めるのです。仏教のいわゆる「無明」というのは、自我の盲目的な絶対視と、それに対する感情の自己同一化に他なりません。そうした病的な執着があるところ、人は知恵にも愛にも見放されて、地上で最も愚かで醜悪な動物と化すのです。それは叡知や愛が個人の所有物ではありえないことの皮肉な逆証明ですが、その根本にあるのは誤った「自己」観で、その虚偽性が本当に洞察されるなら、自我はたんなる一つの機能としての役どころを無難なく務め、感情と知性はその奴隷のみじめな境涯から解放されて、初めて豊かな精神生活が可能になるのです。結果として、その統合体である人格は、自然な陶冶を経ることになる。外部的な道徳規範によることなく――。

 この場合、おそらく最大の問題点は、意識が自我感情から一時的にすっかり解き放たれて、絶対的な自由感を伴う意識の拡大を経験するようなことがあったとしても、人はそれをしばしば“誤読”してしまうということでしょう。その体験それ自体は真実でも、どうしてそのようなことが起きたのか、そしてそれがどういう性質のものなのか、その状態を出て通常の意識状態からこれを反省するとき、その解釈を間違えてしまって、体験から学びそこなってしまうのです。

 それは慣れ親しんできた自他相対的な「自己」観念の支配が、それにまとわりつく感情の力が、どれほど根深いものであるかを裏書しています(仏教によれば、それこそが「輪廻」の原動力なのですが)。鈴木大拙がここで描いているような「絶対的な“主体”」の感覚は、そうしたことに無自覚だとたやすく「悟った私」という自惚れに取って代わられるのであり、そうなったが最後、その体験の輝きは失われ、それは遠いこだまのようになって、世間でよくある「成功体験」がかえってあだとなって破滅に陥る人と同じように、愚かしい自我膨張を招くだけになり、最悪の場合、人格荒廃を募らせるまま、内外共に(と言うわけは、そのような人には知恵の光も差さなくなってしまうからです)孤立して、しまいには自滅することになってしまうでしょう(それがカルト教祖の場合だと、信者や社会も巻き込むので、その害悪はさらに深刻です)。

 僕がかねて「宗教ファンタジー」と呼んでいるものがあります。それは古くからあるもので、古代ユダヤ教のメシア(救世主)到来予言などもその一つですが、悟ればこの世界の光景は一変するとか、超能力者になって崇拝され、世界を救済できるとか、その類のもの一切のことです。閉塞感が強ければ強いほど、その反動として、人はそうした極端な空想にとらわれやすくなる。それは今も変わらないので、たとえばオウム真理教の麻原彰晃は「最初にして最後の最終解脱者」と称していました。僕はかつて、それは一連の事件が起こる二年ほど前のことでしたが、帯にそう大書されている彼の本(例の愚にもつかない「空中浮揚」の写真入りで、値段が馬鹿高かった)を書店で見かけ、「『最』が三つもついているのか?」と思わず吹き出しましたが、やがてそれは笑い話ではすまなくなったので、「麻原王国」を妄想した彼と彼の率いる教団がその後どういうことになったかは、皆さんご存じのとおりです(彼と僕は同い年で、誕生日も一月と違っていなかったので、無関係とは言いながら責任感めいたものを感じて、ひどく気が滅入ってしまったものです)。

 仏陀もイエスも、モハンマド(マホメット)も、世界を救済することはできなかった。それは次元の違う話なので、社会に対する宗教のポジティブな影響というのは、むしろマイルドなものです。あなたが仮に「悟った」――僕はこの言葉を好みません。というのは、それが先に見たようなものであるなら、それは本来的な、“あたりまえ”のことに自覚に他ならないからです――としても、現実社会のあれこれの問題はそのまま残っているし、かすみを食って生きられるようにもならないからです。むしろ、今までは自分のことにばかりかまけていたせいで見えなかった多くの問題が見えるようにさえなるでしょう。要するに、突然パラダイスが出現するわけでも何でもなくて、問題山積の社会にいる自分をあらためて発見する――たぶん以前よりはよりよい理解を伴って――だけなのです。

 無用な心理的ストレスは減るから、たぶんあなたの健康状態はいくらか改善するでしょう。エネルギーの“漏電状態”が解消するから、以前よりパワフルにはなるかも知れない。けれども、見たところは何も変わらないのです。変わるのはあなたの人との接し方や、ものの見方、仕事への取り組み方です。それだけは確実に変わって、それが周囲に影響を及ぼすので、それは劇的なものではないが、持続的で、好ましい性質のものでしょう。あなたは今も個人的な利害の計測はできるが、別の原理に基づいて生きるので、利害打算によって思考や行動が歪められることはない。他者の思惑は読めるが、無理じいそれを変えようともしない代わり、理由もなくそれに左右されることもない。あなたの家の主人――自己――が“交代”したからです。以前は衣装を変えただけのものだったのが、今度はその中味も違うのです。今やあなたは安心とは何かを知り、表面上のドタバタとは別に、深いところでは落ち着いていられるようになるのです。

 鈴木大拙=禅の説く「自己」の効用とは、おそらくそういうものでしょう。以前と同じように、「山は山、川は川」だが、その見え方がちょっぴり違うのです。真の革命とは、しかし、見た目にはわかりにくいそのような質の変化の中にこそあるのではないでしょうか。
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