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大学入試改革についての一意見

2013.06.08(16:37) 219

「センター試験:廃止含め見直し検討…到達度テスト導入も」という見出しのついた、次のような記事が出ていました。毎日新聞6月6日の記事です。

【政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は6日、大学入試改革の議論を始めた。高校在学中に複数回受験でき、最高点を志願大学に提出して合否判断の材料とする「到達度テスト」の導入や現行の大学入試センター試験の廃止も含めた見直しを検討する方向だ。大学生の学力低下対策や高校生の学習意欲維持を目指すが、定着している入試制度の急激な変更には高校や大学の抵抗感も大きく、曲折も予想される。
 「到達度テスト」は年2、3回実施し、飛び級も想定して高校2年生から受験可能とする案が浮上している。受験生は最高点を出願時に提出し、各大学の判断で2次試験を課すこともできるようにする。類似制度は、年間7回実施され、何度でも受験可能なアメリカの進学適性テスト「SAT」などがある。
 文部科学相の諮問機関「中央教育審議会」は4月に答申した今後5年間の教育施策を示した「第2期教育振興基本計画」で、到達度テスト導入の検討を明記。先月出された自民党の教育再生実行本部の提言でも、複数回の到達度テストの実施が示されている。センター試験については、マークシート式による画一的な学力評価の問題など、見直しの必要性が指摘されていた。
 しかし、実現には課題も多い。到達度テストで高校生の大学受験に対する負担感が軽減されるかどうかや複数回実施のための試験場運営、作問コストなどの多大な負担もある。また、センター試験以外にも、高校卒業程度認定試験(旧大検)など重複する現行制度との整理・統合も必要で、文科省内には「そこまでして新しいテストを始める意義は薄い」との意見もある。現在の入試制度をベースに各大学で多様化を図る方が現実的との見方も多い。(福田隆)】

 うーむ。何だかよくわからない話です。僕はかねてから「センター試験は廃止して、各大学の個別試験だけのシステムに戻した方がいい」と考えるものですが、センターに代わるものとなるらしい「到達度テスト」というのがよくわからない。「高校在学中に複数回受験でき、最高点を志願大学に提出して合否判断の材料とする」とありますが、それはどういう性質のものなのか? この前は英語のできない政治家センセたちがTOEFL受験を必須にしろと熱弁をふるわれたそうですが、これはそれとも何か関係があるのでしょうか?

 しかし、ものはよく考えてから言うものです。それについては後で触れますが、元々はセンター試験(前身は共通一次)自体、ヘボ棋士と同じ三手先すら読めないようなお粗末な教育関係者たちの「思いつき」で行なわれたものでした。それは問題の解決に役立つどころか、逆に事態を悪化させた。似たものに、近いところでは司法試験改革というのがあります。例の「法科大学院」のことで、その「大失敗」ぶりについては書くまでもないだろうから省略しますが、「元に戻せ!」の大合唱が、とくに受験者側から起きているようです。国情の違いも理解せず、何でもアメリカの真似をすれば「進歩」につながると、敗戦後の占領時代さながらの発想しかもてないでいるからそうなるので、子供や若者の「学力低下」をとやかく言う前に、自分たちのそれを心配したらどうかと、皮肉の一つも言いたくなるほどです。

 この「到達度テスト」というのもアメリカの猿真似のようですが、アメリカの場合はこちらのサイトにわかりやすい説明が出ていますが、要するに入試システムが全く違うのです。日本の今の推薦やAO入試にむしろ近いくらいで、わが国の大学では「従」でしかない選抜方法が「主」になっているようなものです。ずっとそれでやってきたから十分なノウハウも蓄積されている。それはなしに、形式だけ真似ても、それでは「入試の公正」を担保することはできず、また別の深刻な問題をひき起こしてしまうでしょう。げんにAOや推薦をやってみたが、それで入ってきた学生の質がお粗末すぎるというので廃止した有名国立大も複数あります。私立の場合はすでに久しい以前から推薦枠を拡大し、それで一般入試の定員枠を減らして、人為的に入試偏差値をつり上げるという操作を行なっていると批判されたりしています。一般入試による入学者が大半を占めていた昔と較べて、同じ大学でも学生の質がそれで落ちてしまったというので、就職の際、入学方法までチェックされて、推薦入学者は“差別”されるというまことしやかな噂まであるほどです。

 話を戻して、この「到達度テスト」なるもの、「センター試験については、マークシート式による画一的な学力評価の問題など、見直しの必要性が指摘されていた」とあることからして、記述式を取り入れた試験なのでしょうか? しかし、それならなおさら、年間に何度も実施するという話でもあるし、作る手間が大変です。しかも、信頼性を担保するためにはレベル・内容の均一性を保つことが必要で、それも難しい。人手も時間も、予算も、ものすごくかかるでしょう。
 それだけの労力と費用をかけて引き合うのは、大学が個別試験を行なわず、そのテストの点数(プラス学校の調査書、面接など)で合否を決めるときだけです。今のセンター試験のように、その後に各大学が個別試験を行なうというのでは、何のためにそれをするのかわからない。受験生の負担も減らないのです。

 大体が、マーク式を記述混用に変えたところで、同じ試験を受けるわけだから「画一的な学力評価」に変わりはないでしょう。そんなことをするくらいなら、先にも言ったように、単純にセンターを廃止して、大学独自の入試だけにした方がいい。各大学は、それぞれの入試を通じて、「うちはこういう学生がほしい」というメッセージを出すことができるのです(これは私立ですが、ICU国際基督教大学などは通常の科目枠にとらわれない独自の入試を以前から行なっています)。

 ここで、センター試験がなぜ失敗に終わったのかというおさらいを少ししておきましょう。センター試験、その前身の共通一次は、次のような理由から導入が決まったと言われています。一つは、高校の先生たちが文句を言ったということ。当時の大学入試には難問奇問が珍しくなくて、通常のカリキュラムに従った高校の授業をふつうに受けていたのでは受からない。これは高校教育をないがしろにするものでけしからんから、高校の授業を真面目に受けていれば受かるような基本的な試験にしろと、彼らは言ったというのです。

 もう一つは、当時国立大学にはⅠ期校とⅡ期校がありました。今の前期と後期に対応しますが、同じ大学が二度の試験機会を設けるのではなくて、どちらかにグループ分けされていたのです。文句が出たのはこのⅡ期校の方からで、われわれのところにはⅠ期校をしくじった学力的に劣る“余りもの”の学生しか入ってこない。それは不当な差別だと言ったのです。

 それで「ふつうに高校の授業を受けていれば6割取れる」共通試験の導入、「Ⅰ期校とⅡ期校の区分けの撤廃」が同時にはかられたのですが、これはその文句それ自体が馬鹿げたものだったので、問題を解決するどころか、かえって事態を悪化させてしまったのです。

 どうしてその文句は馬鹿げたもので、またなぜ失敗したのか? 理由はかんたんです。大学には世間的評価のランクのようなものがあって、それが上の大学には優秀な生徒が競って集まることになります。当然、シビアな競争になるから、入試問題が「ふつうの高校のふつうの授業」レベルで解けるようなものなら、差なんかつかなくなってしまうので、問題を難しくしてふるいにかけるしかなくなるのです。たとえば今のセンターの英語なら、基礎的な文法・語彙力に要領、スピードがプラスされさえすれば、ケアレスミスをいくつもしないかぎり、8割を切ることはまずありません(「考える力」などの出番はない)。それで満点から8割の間に受験生がひしめくとして、その点数差が学力差を反映するものかと言えば、それは疑わしいのです。元々が高い学力など必要としない試験なのですから。大学もそれはわかっているから、二次に大きな差がつく英語の試験を別に課す。それは高校の教育現場の見地からすれば「不当な難問奇問」を含むかも知れません。しかし、センターの点数差よりは、そちらの点数差の方が学力差をはかる尺度としては信頼できる。僕も塾教師としてはっきりそう思います。二次の記述試験はヤマカンやまぐれで何とかなるものではない。英文も内容的にかなり高度なものが出題され、読解力と考える力が問われるし、英作文力など使いこなす力の方も見ることができるからです。

 だから、大学入試を「ふつうの高校の授業」レベルでクリアできるものにすることはできない。少なくとも受験生が競って入りたがる有名大学はそうです。

 当時の国立Ⅱ期校の不満は解消されたか? これも否です。当時のⅡ期校で、今ランキングの上位に位置づけられているのは東京外語大や横浜国大をはじめとする数校しかありませんが、この二つは元々が東大の滑り止め(文系なら横国の経済と東外大、理系なら横国の工)で、元から評価が高く、難しかったのです。それ以外の大方の元Ⅱ期校には、高い学力の受験生は集まらなかった。むしろ、ニグループに分かれていたときより、一つにまとめられた分、序列化が露骨になって格差が拡大したくらいです。それのみならず、以前はⅠ期校だったところも、「あそこはⅠ期だから」というステータスを失って、地方のあまり有名でない大学は巻き添えを食って軒並み“没落”する羽目になった。受験生からすれば、それらの大学は同じ“地元ブランド”でしかないと見えたからです。

 だから、センター試験によって解決した問題は何もないのです。受験生の負担もむしろ増大した。というのも、それ以前は東大が独自の一次試験(それは質的に今のセンターよりはマシなものでした)を行なっていた他は、試験は大学の個別試験一回ですんだので、今のように5教科7科目のセンター対策、個別の二次対策と、分けて勉強する必要はなかったからです。センター(共通一次)以前の個別試験はむろん、試験がそれだけなので科目は今より多かったわけですが、全体としての科目数は今より少なくてすむことが多かったでしょう(今は国立ならどこを受けるにも原則として英数国以外に文系なら社会2教科理科1教科、理系なら理科2教科社会1教科、センターで受験しておかねばならず、センターのそれらの問題は暗記中心なので、負担は大きいのです)。
 それでいて「学力低下」がどうのと、まるで勉強しなくなったみたいに言われるのだから、今の若者はかわいそうです。

 そのセンター試験は、しかし、実質的にはすでに崩壊しています。センター試験の比重が、上位国立大学ではほぼ例外なく低く設定されているからです。たとえば、東大なら全体のわずか2割、京大の場合は、学部によってかなりの違いがありますが、1割台の比重しか与えられていないことが多い。わが国の最もヘンサチの高い二つの大学が揃って、「あんなヘンテコな試験とはできれば付き合いたくない」と暗に表明しているのです。

 他の旧帝大などの場合、これよりは少しマシですが、それでも3~4割です。その程度だと、センターだけ頑張ってもあまり意味はない。二次の個別試験で得点できるかどうかが鍵になるからです。これは大学が、「センター試験の成績なんて学力指標として信頼できませんよ」と言っているのと同じです(なのにそれに無理じいつきあわされる受験生こそいい面の皮です)。

 それを象徴するかのような出来事がありました。それは京大の理系学部への国語試験の導入です。「理系でも国語力がないと駄目だから」ということでそうなったというのですが、センターにだって国語の試験はあって、それは英数と並んで200点の配点なのです。なのに二次にあらためて国語を課すというのはどういうことか? それは大学側が「あんな試験で国語力なんかわかるわけはない」と思っているということです。遺憾ながら、僕もそれは正しいと思います。マーク式だから表現力が見られないというだけではない、全体に何か妙ちくりんなのです。僕は今年、センターの国語を自分で解いてみました。設問が面白くないこと夥しいが、驚いたのは古文や漢文の出題文が難しいことです。これが今は「基本」なのか? もっと驚いたのは、現国だけで疲れ果ててしまっていたので、ロクに出題文も読まず、要領だけで手早く片付けたら、何と現国の得点よりこちらの方が高かったことです(全体で8割に少し届かないくらいでした)。塾の生徒に、何でこれが正解とわかるのかと説明したら、彼らは目を白黒させました。それは低級知能パズルの解き方みたいなもので、問題文の読解力とはほとんど関係がない。げんにろくすっぽそちらは読んでいないのですから。一体これは何の力を測定する試験なのでしょう?『読まずに解けるセンター国語』という本でも書いたら売れるのではないかと思ってしまいました。今年は小林秀雄の文章が出て、それでセンターの平均点が下がったなどと言われ、僕は若い頃小林秀雄の崇拝者で、学生時代『小林秀雄全集』を隅から隅まで読んでいたので、それなら楽勝だとやってみたら、そこだけで2問も間違えてしまったのです。たしかに見直してみると引っかけにはまったのはわかるのですが、それと文章そのものの理解がどの程度関係するのか、大いに疑問なのです。どうでもいいことにばかり頭を使わされたようで、それが不快なだけでした。

 センター試験の英語については、あれは「眠たい」試験で、あんなもので英語力は測れないとすでに何度も悪口を書いたことがあるので、ここでは繰り返しません。

 「到達度テスト」はもっと深みのある学力や「考える力」を測定できるものにするつもりなのかも知れませんが、そういうのは各大学に丸投げしてしまった方がいいので、無駄なことに教育予算を使わない方がいいというのが僕の考えです。

 もう一つ、冒頭の記事で「読みが甘いな」と思った箇所があるので、それも付け加えておくと、受験生は複数回受験が可能で、その中の「最高点を出願時に提出」できる、というところですが、こういうのは一度しかないセンター試験で思いがけない失敗をして泣いたことのある人にはよい制度と思えるかもしれません。しかし、皆にそれができるとなると、たとえばその「到達度テスト」のレベルがセンター並だとして、倍率が高く優秀な生徒が集まる国公立医学部などは全部が得点率9割を超えることになってしまうでしょう。全員一番よかった成績を出せるとなると、そうならざるを得ない。

 結局、何度もその「到達度テスト」を受けて、身を削る思いでそこまで上げ、さてそれから、それでは差はほとんどつかないから、合否は二次の個別試験の結果次第だということになるのです。それで今より楽になると思いますか? 逆ですよ。

 今の大学生の「学力低下」論議に僕は釈然としないものを感じています。たとえば、難関国立大の二次の英語や、私立の難しいところの一般入試の英語の問題など、昔より難しいですよ(受験生がそれでどれだけ得点できているかは別として)。語彙力が昔より必要だし、出題英文が長文化していて、ぼやぼやしていると時間が足りなくなる。僕はある大学の入試で、制限時間90分のところ、1時間で終わったので残り30分は寝てたことがありますが、今同じ大学の問題を見てみると、とてもそんな余裕はありそうにないのです。

 センターは易しいと言っても、国立受験者はとにかく5教科7科目勉強しなければならないのです。彼らはよく勉強している。なのになぜ「学力低下」なのか?

 そういう子たちが、自分を基準にするなと叱られるかも知れませんが、英語と社会の2教科しか勉強しなかった(国語は同じ日本語だから勉強するには及ばないと思っていた)昔の僕なんかより「学力が低下」しているはずはないではありませんか?

 僕はむしろ原因は逆のところにあるのではないかと思っています。それは試験勉強に忙しすぎて他のことができないことです。あれこれ本を読み散らかしたり、受験の見地からすれば妨げにしかならないような無用な考え事にふけったり、政治に腹を立てたり、その他色々、できないからです。子供の頃の遊びも足りていない。ごく一握りの飛びぬけた秀才だけは、彼らは数分の一の労力と時間でお勉強をこなしてしまうので、そういうことも可能かも知れません。しかし、ふつうの受験生はそうはいかないので、それ以外の精神の裾野と呼べるようなものが何もないまま、大学に入学してしまうのではありませんか。英語の勉強にしたって、下らない受験のためというのでは面白くなく、屈辱的でもあるというので、受験に関係のないペーパーバックなど読んでいると、そういう習慣は残るから、大学入学後も英語力はそう落ちないわけです。試験のためだけの知識なら、試験が終われば用済みだから、それが脱け落ちるのは脳の生理から言ってもあたりまえなのです。教科書勉強というのは大方その類でしょう。しかし、好きで本を読んでいっぱしの思想家気取りであれこれ考えたりするのは、文科省言うところの「考える力」の育成に期せずして貢献するのです。そういうところから有機的に関連づけられた知識体系(それが教養です)も育つ。忙しすぎ、早くからお勉強ばかりさせられていると、そういうものの根や芽となるものが育たないまま成長してしまうのです。その弱点が大学入学後に出てしまう。

 大学生の学力低下という事実が仮にあるのだとしたら、原因はおそらくそういうところでしょう。ならば、入試科目を増やすとか、試験の内容を工夫して立体的なものにするというようなことより、自由に好きなことをさせるゆとりをもっと与えた方がいい。試験などというものは、それがどんなものであっても、元々無味乾燥さを免れないものです。そういう感受性があってこそ、逆にその本来面白くない勉強にも意味と個人的な関心に裏打ちされた有機的な性質をしみ込ませることができる。つまり、試験のためだけでない生きた学習、知識の一部にできるのです。試験で脅して強制しないと子供や若者は勉強しないという日本的教育者に多く見られる発想は、そこがわかっていない人たちの考えることです。そういう“外圧”に頼らないと勉強できないというのは奴隷根性に蝕まれた人間なので、そんな人間が大成することはまずありえないでしょう。

 最後に、今のセンターでも「到達度テスト」でも、こういう使い道はありえます。国立でもセンターの比重が7~8割という大学はたくさんありますが、そういう二番手三番手の大学は、アメリカ方式でそれの成績と内申書が一定の基準に達していさえすれば、書類審査と面接だけで合格させるのです。二次の学科試験は免除。

 要するに、国公立大学の中に、難関・準難関の競争の激しい大学は除外して、「これらの大学はそれで入れます」というグループ大学の指定をするのです(医学部など一部の学部は別枠にするとして)。その際、その中で各大学が序列を競って、その基準を高くするというようなことは禁止する。同じ競争をするなら、「入学後学生たちをどれだけ伸ばしたか」という競争をすればいい。

 そうすれば、その「到達度テスト」は資格試験のようになり、それに足りるだけの勉強をすればいいということになって、際限のない競争はやみます。熾烈な受験戦争は、一部の有名大学に是が非でも入学したい一部の優秀な受験生だけがやればいい、ということになるのです。今みたいに上から下まで大学が細かく序列化されていて、一つでも上のところにという、全体を巻き込んだしんどい「受験戦争」は終わるのです。

 これなら「到達度テスト」も意味が出てくる。それ以外の大学は、その成績を加味するかどうかは自由、その上で独自に個別試験をやればいいのです。おそらく東大・京大などは、そうなると100%の独自入試を選択するでしょう。両大学を受験する生徒たちも、その方が今よりやりやすいのではないかと思います。東大も京大も推薦入試を導入するそうですが、その場合は「到達度テスト」加味、としてもよい。

 なかなかいいアイディアではありませんかね? 案外、そうしたグループ大学の卒業生の中に、優秀な、創造的な仕事をする人材が多く出てくるかも知れません。受験勉強は足りる程度しかしなかったが、やりたいこと、好きなことがあって、それを追いかけているうちに“大化け”する、というわけです。彼らは有名難関大出のエリートたちに負けない能力と業績をのちに示すかも知れない。それはありうることだと、僕は思います。

 これは一例ですが、そういう「改革」とセットで「到達度テスト(今のセンターよりは質的にマシなものにするとして)」なるものを導入するのなら、それはいいかも知れないということです。しかし、そういう見通しも何もなく、ただ新試験を導入するというだけなら、それはセンター(共通一次)の二の舞となり、さらなる混乱と負担を生み、「いじればいじるほど悪くなる入試制度」と揶揄されるだけに終わるでしょう。

 もう一つ、飛び級に関しては、そういうのはどんどんやればいいのではないかと思います。高校の授業は眠たいだけ、という飛びぬけた秀才なら、二年時に受験チャンスをあげればいいのです。そういう生徒には足踏みさせないで、早く大学で高度な勉強をさせてやった方がいい。いったん社会に出て働いていた年かさの人がいたり、そういう若い飛び級入学者がいたり、その方が大学も刺激的で面白い場所になるでしょう。
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