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モラルと成功~『世界の99%を貧困にする経済』を読んで

2012.10.08(05:33) 171

 僕が経済学者の本をこんなに熱心に読んだのは、J.K.ガルブレイスの『満足の文化』(中村達也訳 新潮社 1993)以来のことです。ガルブレイスは、影響力は大きかったが、「異端の経済学者」と呼ばれた人で、その不正や欺瞞に対する嗅覚の鋭さには驚くべきものがありました。経済学の知識が豊富なのは当然として、堂々たる教養人であり、つねに全体的視野を忘れない人で、アイロニーとウイットに富む文章に盛られたその強烈な社会批判は、並ぶ者がないほどでした。

 この『世界の99%を貧困にする経済』(楡井浩一・峯村利哉訳 徳間書店)の著者、ジョセフ・E・スティグリッツはその衣鉢を継ぐ人と、僕には思えました(原題はThe Price of Inequalityなので、そのまま訳せば『不平等の代償』となって、僕にはこちらの方が魅力的なタイトルに見えますが、「99%」の方がアピールすると、出版社は考えたのでしょう)。実際、本文中には好意的な文脈で二度ほどガルブレイスへの言及が出てきますが、ガルブレイスに劣らず強烈辛辣で、社会的弱者に対する温かなハートも共通している。ガルブレイスはカナダ生れでしたが、この人は「工業国アメリカの心臓部、インディアナ州ゲイリーで生まれ育った」人で、「もともとアマースト大学で物理学を専攻していた」のが、60年代の激動期(多くの若者が理想社会実現を夢見た古きよき時代)、そうした社会の雰囲気や「政治にのめりこんでいた家族」の影響で、経済学に「たんなる金儲けの手段ではなく、不公平の根本的原因を突きつめられる研究形態」を見出して、そちらに転進したのです。「(経済学は)わたしにとっては、数学的理論の嗜好を効果的に活用できる学問でもあった」とのこと。

 それ以上詳しくは触れられていませんが、著者の家庭は「金は重要ではない、金で幸せは買えない、重要なのは他人への奉仕と豊かな精神生活だ」と考え、それを子供に教える家だったそうです。今は「並外れて給料がいいから」という理由で優秀な若者が金融ビジネスにこぞって進み、数学に秀でた若者が不可解な「金融商品」なるものを開発し、それが世界経済に破壊的な影響を及ぼす(但し、彼らはその責任は取らない)という時代ですが、全く違う動機から経済学を学ぶこういう人もいたわけです(ちなみに、わが国の経済学者では金子勝教授のような人は、育った家庭も学問への動機も、この人と似たところがありそうに思われます。だから同じ不公平への怒りや社会的弱者への優しいまなざしをもち得るのでしょう)。

 この本は一般読者向けに書かれていて、僕のような人間には幸いなことに、数学を駆使した分析などは出てこないので、理解しやすい。しかし、内容が濃密で飛ばし読みできるような箇所が全くないので、相当な集中力が要求されます。自分にもっと専門的な経済学の知識があれば、理解もスムーズになるだろうなという箇所もだいぶありました(前にこのブログでも一度取り上げた映画『インサイド・ジョブ』は、本書の理解を大いに助けてくれるものだと思います)。

 僕が経済学に関心を寄せる理由はただ一つです。それは現実の社会や文明が経済機構のあり方からどのような影響を受けているかを知るためです。だからたんなる景気動向の分析や、どうすれば儲かるかとか損をするかとか、そういった話には全く関心がないので、経済システムや経済・金融政策が「公正な社会」の形成または破壊に、どのようにして、またどの程度寄与しているのか、そこを見定めたいのです。

 同じような関心をもつ人には、この本はそれを正面から扱ったものと言えるので、大きな満足感を与えてくれるでしょう。著者はいわゆる「専門馬鹿」とは全く違う奥行きと幅をもった人なので、そのあたりの目配りは周到をきわめています。数年たったら意味を失ってゴミ箱に捨てるしかなくなるような本では、本書はありません。

 僕がかねて疑問に思っていることは、手短に言えば、こういうことです。社会には一定のルールがあります。そのルールは法体系や政治経済システムを通じて示されるのですが、そのルールそれ自体やその解釈・運営の仕方が公正なものでなければ、そのルールのもとでプレイする人たちはフェアプレイによっては成功できず、かえって不正やごまかしが成功の要件の不可欠な一部となってしまうでしょう。そうなると、邪悪な人間や道徳的に下劣な人間が社会でよいポジションを占めるようになり、社会に対する信頼は喪失し、利己的にうまく立ち回ることが「賢い選択」のようになってしまうので、道徳的退廃が社会に蔓延するようになります。
 そうした社会は多くの善良な人たちを苦しめるのみならず、いずれはその社会や文明を破滅に導きます。それがまさに今起きていることなのではないか? そういう疑問を、僕は抱いているのです。

 本書で語られているアメリカ社会の現状――多くのことが今の日本社会にも当てはまりそうですが――は、それが杞憂でないことをはっきり示しています。「法治国家」の外観だけはまだ保っているものの、その内実はモラルを失った一部の富裕層・権力者たちによって自分たちにだけ好都合な「ルール形成」と「ルール変更」がなされ、社会的弱者からの「富の収奪」が「合法的に」行なわれている国家なのです。昔はよく「南北問題」が云々されました。豊かな国が貧しい国々から収奪して、一方は富と繁栄を謳歌しているが、他方は貧困の中に留め置かれ、塗炭の苦しみに喘いでいる。それが、今やアメリカでは“国内問題化”してしまっているのです。

 以上が誇張でないことは、本書の詳細かつ具体的な記述を直接読んでいただければわかると思います。「アメリカン・ドリーム」というのはもはや「悪い冗談」のようなものでしかなくなっているのです。むしろ「アメリカン・ナイトメア(アメリカの悪夢)」と呼んだ方が適切なくらいの悲惨さです。アメリカの猿真似ばかりしてきたわが国も、それに“追いつき”かけているのです。

 根本的な問題は、社会の支配層(それを象徴するのが「1パーセント」という言葉です)の驚くべき利己的醜悪さ、道徳的退廃にあります。彼らには財力と専門的知識と、権力がある。その高い知能と優越的地位を、社会エリートとしての高い志操などはどこへやら、もっぱら醜悪な利己心が使役しているのです。

 本書の著者は「第6章 大衆の認識はどのように操作されるか」で、「1パーセント」に仕える「専門家」たちがどのような詭弁を弄して「下位99パーセントの人々を説得して、両者の利害が一致」していると思い込ませようとするかについて述べ、そのペテンぶりを批判していますが、それは著者のような深い専門知識と洞察力をもつ人にして初めて可能なことで、一般庶民にはそんなことはできず、「エラい専門家の先生たちの言うことなのだから、そうなのかな」と思ってしまうのです。言うことがコロコロ変わって、ときにどう見てもそれはおかしいのではないかと感じても、それを言葉にすることも、問題を明確にとらえて論理的に反論することも難しい。嘘が誰の目にも明白になった場合でさえ、「専門家の先生」たちは巧みに責任転嫁の理屈を考えついて、人々を煙に巻いてしまうのです。大体、気づいても、事はすでに終わってしまっていて、手遅れだったりする。

 これにはむろん、マスコミも一枚噛んでいて、大方の場合、富裕層の意を汲むマスコミもその「手先」なのです。

 それでは、著者のようなごまかしの利かない相手にはどう対応するのでしょう? おそらくは「黙殺戦術」が最も効果的な対応法として選択されるのではないでしょうか。細かい粗探しを念入りにやって、そこに反論しても、相手が強敵だとヤブヘビになって、逆にさらに手痛い反撃を受けかねないからです。「こういうものは」と彼らは考えるでしょう。「これまで以上にたくさんプロパガンダをやって、情報量で圧倒し、かき消してしまうのが一番なのだ」と。それで、従来どおりの“洗脳情報”を大量に流し続けるのです。飼っているマスコミや御用学者を動員すれば、それはたやすい。いくら相手がノーベル経済学賞の受賞者でも、情報量で圧倒すれば勝てると考えるのです。

 しかし、「どうもおかしいのではないか?」と強い疑いを持ち始めた一般の人たちは、こういう本を読み、それは口コミやインターネット経由で拡散される。世界中で、また色々な分野に関して、そういうことは起き始めていて、わが国でも先頃の福島原発事故をきっかけに、学者先生たちの詭弁のありようを鋭く問うた安富歩氏の『原発危機と「東大話法」』(明石書店)のような本がベストセラーになったりしているのです(要するに、本書で批判されている専門家たちの欺瞞に満ちた論理も「東大話法」であるわけで、遺憾なことにそれは今の文明諸国の多くのインテリに共通する悪弊なのです。アメリカだから、それは「ハーバード話法」と呼ぶべきかも知れませんが)。

 「いまさら青くさいことを言うな」とわらわれるかも知れませんが、僕は、個々人が社会全体に対して責任を負う、と考えます。自分が所属している階層や組織・集団に対してではなく、です。それが民主主義的な社会というものです。

 ところが、今の言論は妙な具合に“セクト化”してしまっている。「原子力ムラ」はその典型的な例ですが、多くの場合、学者や知識人は自分が所属するセクトに忠誠を誓って、それは社会全体に対してではないのです。むろん、表向きそんなそぶりは見せない。「公正・客観的」であることを装って、中にはご本人が本気でそうだと信じ込んでいたりするのだから、いっそう始末が悪い。僕は前にここに「バベルの塔新釈」という戯文を書いたことがありますが、そうして社会全体が“バベルの塔”状態に落ち込むのです。

 「決められない政治」は人々を苛立たせていますが、こうしたことを思えば、それも道理なのです。議論は噛み合わず、それぞれの人がそれぞれの意見を言いっぱなしにしているだけなのですから。民主主義の重要な柱の一つは、「思想・言論の自由」ですが、それがなぜ重要なのかといえば、フェアな討議の場で自由に意見を戦わせ、それで道理に優った見解が尊重され、それに沿った社会の意思決定がなされる、ということが仮定されているからです。そこで重要なのはたんなる勝ち負けではない。討議のそのプロセスを通じて、相互理解も、取り上げられた問題へのより深い理解も進むと考えられるからです。コンセンサス(合意)はそうして生れ、そしてそのコンセンサスに基づいて社会としての決定が行われれば、この社会はよりよい方向へと進む。そのように考えられているのです。

 むろん、現実は残念ながらそのようにはなっていない。しばしば道理にかなった意見は無視され、物理学の慣性の法則よろしく、多くの人の目には「問題がありすぎる」と見える既存の機構・組織の意向に沿った旧態依然たる決定がなされるのです。何か目新しく見える法案や規則がつくられても、それはそうした機構・システム、圧力団体の意向によって巧妙に骨抜きにされるのです。だから何も変わらない。下手すると、事態はさらに悪化するのです。

 そういうことは日本だけでなく、アメリカでも常態になっているのだということが、この本を読むとよくわかる(たとえば、先のサブプライム住宅ローン危機の後、多くの人々が住居を失い、負債を抱えたまま路頭に迷う羽目になった反面、最大の“戦犯”と言えるアメリカの金融機関は責任を問われることなく、むしろ焼け太りして強大化した)のですが、そうすると言論は、それがどんなに道理にかなったものであろうと、全く空虚なものでしかないということになります。話し合いは民主主義的な外観を維持するためのたんなる形式であり、現実の政策決定を行なうものは別の力なのです。そして多くの国民は、自らの貧困化を代償に、一部の権力に“奉仕”させられることになるのです(「日本の読者へ」というまえがきで、著者はこう述べています。「2010年に景気が反転したとき、[アメリカの]国民所得の増加分の93パーセントは所得上位1パーセントの人々のふところに転がり込んだ」のだと。なぜそんな「不公平」きわまりない手品のようなことが生じるのか、そのメカニズムが本文で詳細に説明されているのです)。

 思想や言論が無力化するというのは、民主主義にとっては致命的です。人はまず「言論無視」のそうした非民主的な現実の中に地位――できれば自分に有利な待遇を約束してくれる――を見つけようとし、そののちは自分の立場や行動を正当化するためだけに言論を用いるようになるのです。それが詭弁、屁理屈であっても、一向差し支えない。言論の空虚さを学習した者は、それを軽視するようになり、たんなる「便利な道具」としか見なさなくなるのです。だから、自分たちが口にする「虚偽の言語」に対しても罪悪感を感じなくなる。

 つまり、言論の無力を見て、それを軽視し、それを好都合に弄ぶようになって、いよいよ言論は真実性を失って現実に対する影響力を失う、という悪循環に陥るのです。だからそれは、国会における議員討論のようなものでしかなくなる。国会議員にとって、あれはパフォーマンスの見せどころで、自分の発言で閣僚をやり込めたとか、「こんなに自分は勉強している」というところを有権者にアピールする場(「国会中継見てね!」)なのです。現実の政策決定にそれがどう影響したかというようなことは二の次三の次なので、要は自分が目立ちさえすればいいのです。野次や揉み合いのようなことですら演技なので、そこに本気はない。三流の歌舞伎役者のようなことを、彼らはやっているだけなのだと、国民は白けた目でそれを眺めているのですが、あらゆる言論が今はそれに近いものになってしまっていて、誰もそれが異常なことだとは思わなくなってしまったのです。

 それで政治に対する期待は薄れ、政治はますます茶番じみたものになって、それをいいことに、現実の政策決定はいよいよ民意から離れたところで行なわれるようになる。テレビで識者や文化人が何かとやかく言っても、それも政治家のパフォーマンスと変わりばえしないものなので、それで何かが変わるとは、彼らも思っていないのです。変わらなくても、ギャラがもらえて、自分が有名になりさえすればいい。こういうのはもはや、「八百長民主主義」とか「民主主義ごっこ」とでも呼ぶ他はないでしょう。彼らは「格差社会」や「貧困」について云々します。しかし、大方の場合、彼ら自身が富裕層かそのおこぼれに預かる身分(テレビ局社員の法外な高給は誰もが知るところです)なのだから、うすら寒い偽善の印象は免れないのです。

 こうした現状はどうすれば変えられるのか? まずは現実がどういうことになっているかを知ることで、そのためには本書のような“本気で”書かれた真相暴露の本を読んで学習すること、そして社会や政治への監視の目を緩めず、偽りのパフォーマンスは見抜き、おかしなことにはノーを言い続けるしかないでしょう。

 本書の著者(政治的には明白に民主党寄り)のオバマ政権へのまなざしは微妙ですが、国民健康保険制度への取組みは評価されているものの、他では及第点が与えられていないようです。それも当然、「チェンジ」を合言葉に当選したものの、大した変化はもたらさなかったからです。相も変らぬ「ウォールストリート政権」であり、アメリカにおけるもう一つの権力、軍産複合体も彼は無害な大統領であると思っているのでしょう。要するに、「さわらぬ神に祟りなし」で利権構造にメスを入れることは避けたのです。僕自身は、当初、彼が暗殺されるのをひそかに心配していましたが、あれではまずその心配はないなと、苦笑するほかありませんでした(彼は大統領就任後、人相も随分悪くなりました。ひとことで言えば「嘘つきの顔」になったのです)。再選を目指す今度は、「富裕層への課税強化」を打ち出していて、それは本書の著者の主張などとも一致していますが、全般に彼に対する“期待度”はガタ落ちしているようなので、再選されたとしても「ロムニーよりはマシ」という理由によるものでしかなさそうです。

 しかし、それはアメリカ国民が決める話で、僕らは日本の政治の方を心配しなければなりません。こちらもそのお粗末さは似たようなものです。ロクな選択肢がないのも同じ

 それでも国会議員やその候補者は、せめてこういう本は読んでもらいたいものだと思います。アメリカがどうして今のような極端な「不平等社会」になってしまったか、どうして「中間層の空洞化(下層への転落)」は生じたか、「市場万能主義」にはどんな嘘が隠されているか、教育や福祉予算の削減はなぜ悪いのか、「何でも民営化」の落とし穴、等々、今の日本社会の問題点を考える上で参考になることがぎっしり詰まっているからです。そして、「不透明な政策決定」がどのような要因によって起きるか、これは政治家には何より重要な、よく知っておくべき課題のはずです。中にはむろん、著者の考えに反対という人もいるでしょう。しかし、どの程度有効な反論ができるか、それをシュミレーションしてみればいいのです。誠実にそれをやってみれば、考えを改めざるを得ないことはたくさんあるでしょう。それは確実に政治家としての能力を高めるはずです。

 著者も繰り返し指摘するように、アンフェアなルールによって経済格差が拡大して「階級的分断」が生じた社会に、真の連帯や協力の機運を期待するのはどだい無理な話です。戦後の日本は稀に見る平等な社会を実現しました。しかし、今は、親の経済力によって子供に大きな教育格差が生じ、それがひいては就職格差、その後の経済格差になって、それが固定化される気配を見せています。他にも社会の色々な面に不正が目立つようになっています。自分たちの既得権益を守ることしか眼中にない輩が増えすぎたからです。同じ職場でも、待遇が極端に違う正社員と非正規社員が毎日顔を合わせ、心理的な摩擦が生じていたりする。その一方で、学校での君が代・日の丸の強制なんかが行なわれるようになったわけで、そういうことで「愛国心」だの「国民的統一感」をもたせようなどというのは筋違いもいいところではないでしょうか。やるべきことは他にあるのです。

 政治家のみならず、大人一般の責任は、子供や若者に「公正な社会」を用意することです。守るべき「正しいルール」が存在することを身をもって示すことです。それ以上の「道徳教育」はなく、逆に、それがなければ言葉で何を教えたところで無駄なのです。

 著者は終わり近くで、アレクシス・ド・トクヴィル(フランスの思想家で、有名な『アメリカの民主主義』の著者)の「正しく理解された私利」という言葉を引用して、次のように述べています。

「“正しく理解された私利”とは、ほかの人すべての私利に――別の言い方をすると、社会全体の幸福と福祉に――注意を払うことが実は自分自身の究極的な福利の必須条件である、という認識を意味する。トクヴィルが言いたかったのは、そういう態度に気高さとか理想主義が宿っているということではない。むしろ、逆のこと、それがアメリカの実利主義の特徴だと言いたかったのだ。あの抜け目のないアメリカ人たちは基本的事実を、つまり、他人に目配りすることは魂にとって善であるだけでなく、ビジネスにとっても善であることを理解している、と。」

 今のアメリカ人は、アメリカを強国たらしめたその基本的な知恵を見失っている。だからそれを取り戻せと著者は言うのですが、それは今の日本人にとっても同じでしょう。たとえば明治時代、福沢諭吉は同じような思想を語っていたのではないでしょうか。彼は公正と信義を、何より重んじました。それが“実学の祖”福沢の思想だったのであり、それを下敷きにしての「富国」の思想だったのです。

 以上、著者スティグリッツの具体的な提言については何も触れませんでしたが、それは直接お読みいただくしかないと思ったからです。

 冒頭でも触れたように、これは別にビジネスや個別具体的な経済には関心のない人でも面白く読め、学ぶところの非常に多い本です。ぜひ一読をお勧めします。

ジョセフ・E・スティグリッツ『世界の99%を貧困にする経済』(楡井浩一・峯村利哉訳 徳間書店)
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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