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「バベルの塔」新釈

2012.05.02(15:55) 147

 この有名な話は、旧約聖書の創世記第十一章(Genesis Chapter11)に出てきます。

 東遷してシナルという平野に至った人々が、そこに街を建設するだけでなく、天にまで届く高い塔を建てようとしているのを見て、神が怒り、それまでこの世界には一つの言語しかなかった(the whole earth was of one language,and of one speech)のが、神がそれを混乱(バベルの名はそれに由来する)させ、互いの言葉が通じなくなるように仕向けて、不和をもたらし、彼らをそこから全世界に散らばらせた、という話です。

 人間はなぜそんな塔を建てようとしたのか? 高校生向けの英語のお勉強も兼ねてそこの箇所を英語版聖書から引用してみましょう。
 まず、有名な欽定訳聖書(King James Bible)を見ると、

A:And they said, Go to, let us build us a city and a tower, whose top may reach unto heaven; and let us make us a name, lest we be scattered abroad upon the face of the whole earth.

 となっていて、表現が古いのでかなりわかりにくいが、New International Version (1984)だと、そこはすんなりわかるようになります。

B:Then they said, "Come, let us build ourselves a city, with a tower that reaches to the heavens, so that we may make a name for ourselves and not be scattered over the face of the whole earth."

 もう一つ、New Living Translation (2007)というのもネットの同じサイトにあるので、それも紹介すると、

C:Then they said, "Come, let's build a great city for ourselves with a tower that reaches into the sky. This will make us famous and keep us from being scattered all over the world."

 Aのmake us a nameがBとCではmake a name for ourselves、make us famousとなっています。make a name for oneselfは辞書にも「名をあげる、有名になる」というイディオムだという説明が出ていますが、Cではそんな知識がなくてもわかるように書き換えられているわけです。Aのlest we (should)be scattered abroad upon the face of the whole earthが Cではkeep us from being scattered all over the worldと、学校ではおなじみのkeep 人 from ~ingのかたちになっているのもわかりやすい(lestは文章語としてはともかく、今は日常的にはあまりというかほとんど使われないようなので、BとCでは避けているのでしょう)。
 一つ、reachの後ろにどれも前置詞が来ているのはヘンではないかと思う人がいるかもしれません。たとえば、get to(arrive at) the stationがreach the stationになるように、reachは他動詞なので、前置詞は取らないと学校で習ったはずで、僕もふつうは塾でそう教えているからです。しかし、ややこしいことに、reachには自動詞の用法もあって、ここはそれなのです。どこかに到着するとか、手紙が届くなんてときは他動詞で前置詞は不要ですが、こういう「天に向かって伸ばす」なんてときは自動詞を用いるのです(ちなみにuntoは今は使いません)。

 それで、日本語に訳すと、こんなふうになります。

「そこで彼らは言った。『さあ、自分たちで大きな街を作り、天にまで届く塔を建てよう。それでわれわれの名をあげて(=有名にして)、世界中に散り散りになってしまうことのないようにしよう』と」

 この話は一般に人間のhubris(慢心)を戒めたものだとされます。技術といっても今から見れば素朴なものですが、レンガやアスファルトに類したものを作る技術を得て、それで街を建設するだけでなく、天にまで届くような高い塔を立てようという野心を抱いたのが、神(エホバまたはヤーヴェ)の逆鱗に触れ、「おまえら、調子に乗りすぎ!」だということになったのです。

 神は「これは言葉が一つなのが問題なので、互いに言葉が通じなくなれば、彼らは仲間割れを起して世界中に散らばってしまって、塔も建てられなくなるだろう。彼らにそれをやめさせるには言葉が違うようにするしかない」と考えたわけですが、当時は神も科学知識が不十分だったと思われるので、もう少し頭のいい神なら、「そんなもの、物理学の法則からしても、地震のことを考えても、途中で崩れるにきまってるから、ほうっておいてその崩壊を見物することにしよう。いずれ彼らも思い知るだろうから」と考えるだろうと思いますが、こういう話はその種のツッコミを入れているとそこで終わりになってしまうので、ここは素直にその話を受け入れることにしましょう。

 最近僕がこの話を思い出したのは、「どうも、今の日本の社会状態というのはバベルの塔の状況そのものだな」と感じることが多くなったからです。日本人は日本語という共通の言語を使っているのに、話が全く通じ合わなくなっているのはなぜなのか? そう考えたときに、昔読んだこの話が意識に浮かび上がってきたのです。

 それで考えてみると、この話にはもっと深い意味が隠されているのではないか、という気がしてきた。one languageとかone speechというのは、心が一つになっている、あるいは相互に深いコミュニケーションが成立していることの象徴で、たんに「言語が共通」だという表面的なことを指すものではないのではないか? 同じ言語を使っている場合でも、人々の内面のありようによってはとても同じ言葉を使っているとは感じられないほどになってしまうこともあるでしょう。そのことを言っているのではないかと思ったのです。

 神話の類が面白いのは、文字通りの意味ではなく、何か(事態・現象)を象徴的に語ったものとして読めることです。
 敬虔なキリスト教信者の人たちには叱られるかも知れませんが、ここは別に神が介入してくる必要はないので、昔の人たちは人間の精神状態がある危機にさしかかったとき生じる無意識の変調を説明するのに外部の超自然的な行為者(神なり悪魔なり)を措定して、その「しわざ」にすることが多かったようなので、これもその一例なのかも知れないと思うのです。

 それで、僕が想像した「事態」というのは、こういうことです。技術も知識も進歩して、巨大な文明機構を作り上げ、それに伴って物欲や競争心が煽られるようになると、虚栄心や名誉欲も当然強くなり、いつのまにか人はジコチューな性質をどんどん強めてしまって、排他的・自閉的になる。そうした中では個人が唯我独尊的になって孤立を深めるだけでなく、組織も独善的で閉鎖的になるのです。つまり、個人単位でも組織単位でもバラバラになって、社会内部の風通しというものが異常に悪くなる。とても同じ言葉を使っているとは思えないほど、相互の意思疎通が困難になってしまうのです。

 バベルの塔とは今の時代に置き換えると、さしずめ「経済成長」です。それがうまくいっている間は、社会内部に生じている亀裂や対立はまだ表面化しない。しかし、経済成長というバベルの塔は今や倒壊したも同然になっている。そうすると、それまで隠れていたものが一気に表面化して、てんでに勝手な言葉を吐き散らし合うだけの混乱状態(バベル)に陥るのです。

 これは、急にそうなったわけではない。実は「経済成長」という見た目には華やかなバベルの塔建設の過程で、そういう変化は深く静かに進行していたのです。それは物欲だけではなく、人間をスポイルして幼稚な自惚れや自己愛を強化する方向に働いたので、精神的な変質はすでに起きていた。しかし、何とかその建設がうまくいっている間は、それぞれが相応の見返りを得られたので、不和は深刻なかたちでは表面化しなかった。

 しかし、バベルの塔は事実上、すでに崩壊した。それは町の中央に聳えていたものだから、その倒壊のあおりで、人家も多くが崩落する。塔を天に届かせるどころではなく、まず人々の住む家を何とか確保するしかない事態にたちいたって、人々はそれに不可欠な、無私の協力をする能力がなくなっているのに気づいたのです。「共通の言語」がもはや自分たちにはなくなっているということに…。それを奪い去ったのは、バベルの塔の建設という、あの作業それ自体だったのです。

 それで、今はどういうことになっているか? 崩れたとはいえ、ある程度の高さのやぐらはまだ残っています。下からそれを見上げると、レンガのかけらを大事そうにもった人たちが「これはオレのものだ!」と口々に叫んでいるのが見える。それを死守しなければならないと思い込んでいるから、彼らはまだそこで頑張っているのです。別のところでは、空中を指差して、「あそこはうちの団体の占有物だ!」と叫んでいる人たちもいる。ビルやマンションの居住者には建物がなくなったあとも「空中権」というものがまだある、という話を、学生時代民法の講義で聞いて笑った記憶があるのですが、同じ主張をしている人たちがいるのです。新しい塔が建った暁には、空中のそのスペースは自分たちが占有・所有する権利をもっているので、それを忘れるな、と一生懸命呼ばわっているのです。今はそれどころの話ではないのに、あちこちにそんな人がたくさんいる。

 話を戻します。だから、バベルの塔を建てようとするのを見て、神が「これはまずい」と焦って人々の言語をバラバラにしたのではない、その企てそれ自体が、共通の言語(通じ合う心)を破壊する結果をもたらしたのです。塔の建設は人々の物欲や野心だけでなく、利己的な性質や虚栄心を強め、孤立と自己疎外を招いて、「共通の言語」を失わせたのです。

 従って、人々が「散らされるbe scattered」というのも、互いの心のつながりをなくした人々の内面的な状況を表わすものと解釈すれば、なるほどなと思えてくるのです。地理的な空間ではなく、精神的な散りぢりの孤立状態を指すのかも知れないと(そもそも地理的に拡大するだけなら、それはむしろ「繁栄のあかし」と見られて不思議ではありません)。

 人々はむろん、バベルの塔の建設は彼らの一致団結にもつながるだろうと考えていたわけです。塔をシンボルとする、一種の愛国心教育みたいなものです。しかし、それに伴って生じた驕りと利己心は、結果として人々の間の自然な和合を失わせ、逆に不和と対立を準備することになってしまったのです。

 以上、かなりこじつけめくのは承知で僕はそのような解釈をしてみたのですが、今の日本社会の状況を説明するものとしては、これはさほど見当外れな説ではないでしょう。

 だとすれば、今の日本社会が直面している困難は経済的な苦境そのものよりも、そうした精神状況の方だということになります。これは周囲の事情おかまいなしに自分たちの既得権益を主張して変革を妨げている人たちだけのことではない、何を論じるにしても、問題を解決したり、真実を究明することより、つまらない自分のメンツや自惚れを守ることの方が大事だという本末転倒に陥りやすい人が増えすぎている、ということです。

 問題山積の中、今は各方面で「船頭多くして船山(おか)に上る」状態になっていますが、それも問題が複雑だからというだけでなく、そういう個人内部のよけいなものを持ち込む人が多いからなおさら話がややこしくなっているという事情があるように見えるのです。ならば、自分の真の動機がどこにあるのか、そしてその背後にはどんなせせこましく醜悪な自己が隠れているのか、自分でその幼稚さに直面して胸が悪くなるということがあれば、無用なものは落ちて、事態は大幅に改善され、話が通じ合う余地も大いに出てくるでしょう。

 これが僕の理解する現代日本版「バベルの塔」状況なのですが、仮に事態がこのとおりなら、なぜ今の人間にはあり余る知識・情報はあっても知恵がなく、問題解決能力に乏しいのか、それも理解できるので、対処のすべもそこから見えてくるのではないでしょうか。要するに、無駄なものを捨てればいいのです。よけいなものを持ち込まず、あくまで問題本位、社会本位で考える。それをせずに、関係者個人のメンツだのプライドだの、組織のしきたりだのといったどうでもいいものを大量に持ち込み、そうしたことにばかり“配慮”しているから、かんじんなことが先に進まないのです。見ているだけでストレスがたまるこうした社会状況は精神衛生上好ましくないし、子供たちの教育上もすこぶる有害です。野田首相は消費税増税の前に高率の“もたつき税”というのでも新設して、重要な社会・経済問題を扱う関係各方面に通達を出したらどうかと、提言したくなるほどです。それに触れると最高で給料や謝礼の8割を徴収されるということにすれば、効果抜群かもしれませんよ。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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