理想の学校

2012.04.19.16:30

 僕が考えるそれはシンプルです。落ちこぼれを出さないように、下に手厚いシステムをとること。教育に脅しを用いないこと。カリキュラムをできるたけ柔軟にして、よく出来る子は自由に自発的に、応用をはじめとする難しいことにも挑戦できるようなシステムにすること。併せて子供同士が教え合いできるようなくつろいだ雰囲気を醸成すること。

 教科書にも工夫が必要です。それは詳しい方がいい(むろん、生徒たち皆にその内容全部の理解を求める必要はない)。その教科が現代の社会や文明、文化・思想などとどう結びつくのか、それとの有機的な関連がわかる、少なくともそのヒントを与えるような記事や注釈が入っている方がいい。あるいは、そこに登場する重要人物(科学法則の発見者であれ、歴史上の重要人物であれ、個性的で面白い人が多い)についての伝記的事実の簡潔な説明や、伝記その他の関連文献についての紹介を含むとか。そうすれば余裕のある子たちはそれを手がかりに、勝手に難しい本を読んだりもできるでしょう。無味乾燥な暗記事項の羅列に終始したテキストであることをやめるのです。

 一日の授業時間は長すぎないこと。英語のスクールが元は「余暇」の意味に由来するというのは有名な話ですが、いい意味での「ゆとり」が生徒たちには与えられなければなりません。部活なんかももっとフレキシブルにして、過度に管理的で軍隊みたいな今のやり方は改める。自由な遊びの重要性は、もっと認識されてしかるべきです。

 学校の規模は小さいほうがいい。おかしな中央集権的官僚主義の餌食にならないよう、すべての学校は民営化して、医療保険のポイント制と類似の方式を取り入れて、生徒数に応じ、受講科目に応じて、国や自治体から支払いが行なわれるようにする。そうしてそれぞれが独自の方式と個性をもつ学校になり、その中から生徒と保護者は学校を自由にえらべるようにするのです。転校も原則自由。プールや運動場などの大掛かりな施設は、共同で利用できるようなものをそれぞれの地域にいくつか作っておけばいい。

 そうすると中には、えらく国家主義的で、生徒指導は軍隊式、何か式典があるたびに、日章旗を掲げ、全生徒・全教職員が直立不動の姿勢でそれを仰ぎ見、君が代を一糸乱れず斉唱し、授業でも機会あるごとに「日本民族の優秀性」を強調するような学校も出現するかも知れません。それもよし。但し、生徒や保護者は自由に学校を選択できるので、そのような“愛国主義”的な学校を避けることはできるのです(僕が親なら、そんな“洗脳”学校にわが子を通わせるなどということはご免こうむりたいと思うでしょう)。

 このようにすれば、教職員の数は激増します。だから、多くの新規雇用を生み出す。その採用も学校が独自に行なうのですが、教員の給料は下がるでしょう。退職金だけでン千万もらえるというようなこともなくなる。おそらく、初任給はそう下がることはなくて、その上昇カーブがなだらかになり、法外な退職金がなくなるというだけの話です。無能すぎる教師や、やたらと子供相手に威張り散らしたがるような人格的に問題のありすぎる教師は、先の“愛国主義”的な学校の場合はともかく、解雇を言い渡されるでしょう。学校の魅力に応じて生徒の集まり方は大きく影響されるので、今と違って学校にはもっと個性的で多様な教員(他業種からの転入組も多く含む)が集まるようになるでしょう。世間知らずの若者が大学を卒業してそのまま「先生」と呼ばれる身分になり、唯我独尊の閉鎖的集団を形成して、一般社会から孤立して甚だしいKYぶりをかこつといった弊も避けられるわけです。

 大学入試はどうなるでしょう? 競争がある以上、入試は必要悪として残さざるを得ませんが、まずあの受験生の負担を無駄に増やしただけに終わっているセンター試験を廃止する。あんな深みのない平面知識をマーク方式で問うだけの試験なんか、教養の一部にもならないし、知力の増進を促すことにもならないので、ない方がマシです(僕は毎年、センターの英語の問題は欠かさず解いていますが、「考える」作業をさせられたという感じが全く伴わないのに驚かされるのです)。そして「大学入試センター」は税金の無駄として解体する。

 各大学は、だから、独立して入試を行なう以前の形式に戻し、それが問う教科理解のベースについては一定の合意がないと高校以下の教育現場が混乱するのでそれは明確にしておくとして、その上に立って「こういう学生がほしい」ということを反映した入試問題を独自に作成するのです(ちなみに言えば、僕は今塾の生徒たちに今年の二次試験の英語の問題を解かせているところですが、結構面白い問題が多くて、中でも北大の入試問題なんか、タイムリーないい問題を出すなあと感心させられました。英文そのものにも無理がなくてよく工夫されている)。科目は国立であっても私立であっても、自由に決めてよいとする。受験生の多い大学は、必要なら独自に一次試験を作ればいいのです(以前は東大だけ一次があったと記憶していますが、あれは今のセンター試験より、質的にはずっとマシなものでした。知識の暗記に頼る側面が少なかったからです)。

 昨今は「子供の学力低下」に関する議論がかまびすしく、だから受験科目を増やすべきだというような安易な主張も聞かれますが、受験科目を増やしてそのためのお勉強に生徒が忙殺されるようになれば(今現在、すでにそうなっているのですが)、その分読書の機会や友との語らい、自由な知的探究の機会が奪われるだけなので、そんなことは本当の「学力上昇」にはつながらないのです。子供時代の学校の教科書勉強が自分の教養の中心になっているとか、重要不可欠な一部になっているとかいう大人がいるのですか?

 もう一つ、これを言うと怒る人が多いかもしれませんが、昔は学力が高かったというのなら、その「学力が高かった」時代の子供が今の大人であるわけで、それなら今の大人はどうしてこれほどまでに問題解決能力に乏しく、率直に言えば馬鹿なのでしょう?

 これは元々学校教育に問題があったことを示唆しています。機械的な丸暗記と、予め正解が用意された問題を公式の類をあてはめて解くという訓練ばかり受けてきて、だから創造性に欠ける、自分から進んで鋳型にはまることしか知らないような無能な人間が大量生産されたのです。「元は学力が高かったのだ」と自慢してみても、「今はどうなんですか?」と反問されれば、それで終わりになってしまうでしょう。

 以上、細かいことを書けばキリがなくなってしまうので大まかなことだけにとどめましたが、そういうふうに今の学校教育が変われば子供たちにとっても、国にとってもどんなに幸せなことかと、僕は夢想することがあるのです。
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