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神としての自然~古代ギリシャの自然哲学

2012.04.04.16:21

 日本列島を「台風並の爆弾低気圧」が吹き荒れましたが、これは遅ればせの「春一番」みたいなものだそうで、「不景気な顔しなさんな」ということで、自然が喝を入れてくれたのかも知れません。これを書いている今も、空はよく晴れているが、ヒューヒューと山を渡る風の音が、ウグイスの声に混じって聞えています。これは土曜日から吹いていて、その日僕は親子三人で山菜取りに出かけた(ワラビもゼンマイもイタドリもちゃんとありました)のですが、山の上なんかは結構風が強くて、帰りに立ち寄った道の駅では、駐車場で突風に見舞われ、吹き飛ばされそうになりました。そこは崖の上で、下は深い渓谷になっているので、体に風受けの袋のようなものをつけたら空中遊泳が楽しめそうだと思いましたが、さすがにそんなことを実験する勇気はありませんでした。

 以上は無関係な前置きで、三日ほどかけて書き上げた文章をアップしておきたいと思います。長いが、その方面に関心のある人たちにはまあまあ面白く読んでいただけるのではないかと思うので、そこは我慢して下さい。

 僕がこの問題に関心をもったのは、だいぶ前に木田元著『反哲学入門』(新潮社 今は文庫化されている)を読んだときです。木田元先生はハイデガー研究や『反哲学史』(講談社学術文庫)で有名な方で、その自伝『闇屋になりそこねた哲学者』 (晶文社 今はちくま文庫でも入手可)は異色の哲学者の波乱に富む人生の回顧として面白く、高校生あたりにもお勧めできるものです(聞き取りというかたちをとっていて読みやすいが、編集も非常にていねいで行き届いているという印象で、文章に雑なところがない)。今は東北大学も型のごとく5教科7科目のセンター試験を受けて、その上で英数国の二次試験を受けなければなりませんが、戦後の混乱期だったこともあって、当時はそんなにたくさんの科目をやらなくてよかったというのがわかって、うらやましいと思う人もいるかも知れません(とくに共通一次=センターの導入後、受験生の負担は逆に増えました。それ以前に一次試験が別にあったのは東大だけで、その一次も暗記に頼る要素は今より少なかった)。受験科目が増えればそれだけ多く勉強するというのは素人考えで、多様な体験、自由な読書や考え事をする時間はその分削られるので、受験のための教科書の暗記勉強と、有機的なつながりをもつそちらと、どちらが大学入学後生きてくるかは少し考えてみればわかるのではないかと思います。わが国の学校教育関係者(とくに高校以下)には「生徒は試験で脅して強制しなければ勉強しない」と思い込んでいる人が少なくないようですが、それは勉強といえば学校のお勉強しか知らない精神的に寒貧な人がそのギョーカイには多すぎるということの証左でしかないでしょう(科目が少なければ、英語の勉強にしても、「試験に出る英語」だけでなく、もっと楽しみに興味のある分野の原書を読んだりといったこともできるはずです)。

 話を戻して、その『反哲学入門』という本には、ハイデガーの思想との関係で、前6~5世紀の「ソクラテス以前の思想家たち」についての記述が出てきます。それは一般には「自然哲学」と呼ばれて、単純素朴な前-哲学みたいに思われていますが、なかなかどうしてそんなかんたんな話ではないというのがよくわかるので、そこで「自然(フュシス)」と呼ばれているものは、通常僕らがイメージする「自然」ではないというのです。
 関連箇所をいくつか引用させてもらうと――

「ソクラテス以前の思想家たちは、アリストテレスが考えたように、幼稚な自然科学的研究をしていたのではなく、むしろすべての存在者を存在者たらしめている真の存在はなにかについて考えようとしていたのだ…」(p.47)

「この時代のギリシャ人にとって『自然(フュシス)』とは、『自然と文化』とか『自然と社会』といった対概念のなかで考えられているような存在するものの全体のなかのある特定領域を指すのではなく、存在するものすべて、つまり万物(タ・パンタ)と同義であり、そうした存在するもの全体の真のあり方を指しているようです」(p.176)

「『自然』という名詞は、『芽生える』『花開く』『生成する』という意味の動詞『フュエスタイ』から派生したものですから、彼らは万物の存在を生きて生成することだと見ていたようです」(同頁)

「…ハイデガーの念頭には明らかにそれ[=〈作られてある〉というアリストテレス以来の西洋哲学的存在概念]とは違う存在概念があった…それは彼がたぶんニーチェから学んだにちがいない〈ある(ザイン)〉ということを〈成りいでてある〉、ギリシア語でならフュエスタイ、ドイツ語ならウェルデンと見る存在概念、簡単に言えば〈存在=生成〉と見る存在概念であったに違いありません」(p.215)

 要するに、そこで言われている「自然」はたんなる物質的自然ではない。物質的自然はたしかにその表われですが、言葉にはしえないある「生成する」力の表現なのです。その本質を彼らは「自然(フュシス)」と呼んだ。

 考えてみれば、僕ら現代日本人が「自然」という言葉を使うときも、それは山や川、海、さらにその中にある樹木や動物、魚などの個物をイメージして使うときもあれば、そこに一貫して流れている巨大な生命力の働きを指して使う場合もあります。「自然には勝てない」と言うときなどは、そこに作用している途方もない力を念頭に置いているのです。

 地球を一個の生命体と見る有名なガイア仮説というのがありますが、こういう自然の捉え方は「原観念」の一つと言ってよく、生まれつき人間には備わっているものでしょう。僕は息子が小一のとき言った言葉をよく憶えています。彼は「なぞなぞ」好きの子供で、よく謎かけをしてきたものですが、あるとき「世界で一番大きな生きものは何か?」と聞いてきました。僕はしごくふつうに「さあ、クジラかな」と言いました。彼は違うと言う。恐竜だとでも言うのかと思ったら、「山だ」というのです。何で山なのかと聞くと、山はその中にたくさんの生きものを住まわせているからなのだと。彼にとっては山は巨大な岩石の上に土をのせ、樹木や草を茂らせて多くの動物の住処となっているたんなる物質的存在ではなく、それ自体が一個の巨大な生命体と感じられたのです。山はりっぱだと彼は満足げに言いました。たくさんの生きものを養っているからです。こういうところから、地球それ自体を一個の生命体と見るところまではほんの一歩の距離です(彼が山と言って海と言わなかったのは、それが液体でかたちをもたず、生物としてはイメージしにくかったからでしょう。海に関しては、「海の向こうには何があるのか」ということは聞いていました。「別の陸地がある」と答えたら「その先には?」とまた聞くので困りましたが、「宇宙がある」と言ったらなぜかナットクした様子で、それは「むげん」なのだと逆に説明してくれたので、「無限の宇宙」というイメージも子供の中にはあるのでしょう。こういうのは、大人がめんどくさがらずに相手をすれば、子供は誰でも小さな哲学者なので、あれこれ話してくれて面白いのです)。

 子供がもつそうした生物観は、いくらか大げさになるのを承知で言えば、大人がよくするような心理的投影の産物でも、たんなる子供特有の擬人化思考のせいでもなく、主客未分の世界がまだ心の中に生きていて、自分がその一部である、自然の中に流れている生命のリズムを感じ取って、同じものの表われとしていわば共感的にその「生きもの」性をとらえるところから出ているのでしょう。彼らはまだ狭小な自己意識に支配されておらず、全体意識、生命意識とでも呼べるものを保持しているのです(だから宇宙の無限の広がりも感じ取れるのだと言えば、いくらかこじつけが過ぎるでしょうが)。

 さて、話はここで、もう一冊の本に飛びます。それは井筒俊彦著『神秘哲学』(慶應義塾大学出版会)です。この本、元々は1949年に哲学修道院ロゴス自由大学(発売=光の森書房)というところから出版されたもののようですが、僕が若い頃は人文書院から二分冊で出ていました(1978年)。僕はそれを買って持っていましたが、結局読まないまま古本屋に渡ってしまった。これはおそらく僕がその当時、哲学と神秘主義を別系統みたいに分けて考えていて、それは精神の分裂を抱えていることの裏返しだったのですが、その「統合」を表わすかのようなこの本のタイトルに妙な抵抗があったことと関係するのでしょう。人はしばしば好ましいことと反対のことをしてしまうものです。

 僕が井筒俊彦に関心をもってそのかなり熱心な読者になったのは有名な『意識と本質』が岩波から出て、それを読んでからです。そういう本があることを塾の生徒(何だって大学受験生がそんな本を読んでいるのだと不思議でしたが、僕が最初に訳したガーダムという精神科医の存在を教えたのも彼だったのです)から教わったのですが、それは猛烈と言ってよいほど面白かったので、その後同じ岩波から出た単行本は全部読みました。しかし、この『神秘哲学』は読まないままに終わったのですが、今引用した木田元教授の『反哲学入門』の記述を読んでいて、妙にそれが気になり出し、調べてみたら一巻本になって入手可能であることがわかって取り寄せたのです。

 全然読んでいなかったのなら関連する記述があるとわかるはずはないので、少しは読んでいて、それが記憶の底から蘇ったのでしょうか? それはわかりませんが、果たしてそこには同じ「自然」哲学についての言及が見つかったのです。それは「附録 ギリシアの自然神秘主義――希臘哲学の誕生」(p.319以下)に詳しい。

「ソクラテス以前期の哲人達の断片的言句に言い知れぬ秘妙の霊気が揺曳[ようえい]し、そこから巨大なる音響の迸出[ほうしゅつ]し来るごとく思われるのは、彼らの思想の根基に一種独特なる体験のなまなましい生命が伏在しているからである。すべての根源に一つの宇宙的体験があってその体験の虚空の如き形而上的根底からあらゆるものが生み出されて来るのである。彼らの哲学はこの根源的体験をロゴス的に把握し、ロゴス化せんとする西欧精神史上最初の試みであった。彼らに就[つ]いては『はじめに思想があった』のではなくして、『はじめに直観があった』のである。あらゆることのはじめに有無を言わさぬ絶対的体験があったのである。私はこの根本体験を西洋神秘思想の伝統に従い『自然神秘主義』Naturmystikと呼ぶことにしたい。自然神秘主義的体験とは有限相対なる存在者としての人間の体験にあらずして、無限絶対なる存在者としての『自然』の体験を意味する。人間が自然を体験するのではなく“自然が”体験するのである。自然が主体なのである。……茲[ここ]では自然は一の形容詞ではなく、主語であり、絶対的超越的主格である。それは宇宙万有に躍動しつつある絶対的生命を直ちに『我』そのものの内的生命として自覚するところの超越的生命の主体、宇宙的自覚の超越的主体としての自然を意味する」(p.324)

 井筒俊彦という人は驚くべき語学の天才(二、三十ヶ国語を自在に操ると言われた)であるだけでなく、屈指の名文家でもあって、漢籍にも深く通じていたことから、難しい言葉がポンポン出てくるのですが、これは若い頃の著作であるからなおさら文章が難しい(だから所々ルビをつけておきました)。それでもこの人の文はいつも明晰そのものなので、注意して読めば言わんとするところはよくおわかりになるだろうと思います。要するに、ここで言われている「自然」とは外部の観察対象としての自然ではなく、むしろ自然の側に意識があって、それが「宇宙万有に躍動しつつある絶対的生命」を“自覚”するといったようなあり方です。からだの感覚にたとえてみれば、その全体としての存在感覚が宇宙(自然)感覚で、「我」はその中の臓器の一つだとでも言えばいいか。「我」がそういう観念を作って一人悦に入っている、というものではないのです。むしろ忘我の先にしかそういうことは起こらない。それが起きて、意識が転成してのち、全く違った文脈の中で「我」はとらえ直されるのです。それが依然として「我」なのかは疑問ですが。

 著者によれば、これはディオニュソス(バッコス)信仰と関係がある。『反哲学史』でもそれはかんたんに触れられていますが(単行本p.174)、 井筒俊彦氏の説明(その方面のことに詳しくないのでわかりませんが、これは独創的な知見だと思われます)では、この常軌を逸したきちがいじみたディオニュソスの祭礼が「純化」されたところに「自然哲学」も生れた。
 それがどれほどきちがいじみた、なまなましい印象を与えるものであったかを『神秘哲学』から引用させてもらうと――

「蕭索[しょうさく]たる深夜、あやめもわかぬ漆黒[しっこく]の闇の中を、手に手に炎々と燃えさかる炬火[たいまつ]をふりかざした女達が、髪をおどろにふりみだし、狂乱の姿ものすごく、異様なる叫声を発しながら騒擾[そうじょう]の音楽に合わせ、嵐の如く舞いくるう。彼女等の踏みしめる足音と、夜のしじまをつんざいて飛響する恐ろしい狂憑[きょうひょう]の叫喚に、山野は鳴動[めいどう]し、木々も不思議な法悦[ほうえつ]の共感に包まれておののき慄[ふる]える。かくて信徒の狂乱陶酔はいよいよ激しく、いよいよ凄まじく、奔流をなして噴湧[ふんゆう]する熱情の火焔[かえん]はあらゆるものを異常なる緊張の渦中に溶融燃上せしめねばやまぬ。しかしてこの興奮の極、彼等は神に捧げられた犠牲の聖獣めがけて一せいに跳りかかり、生きながら其[そ]の四肢を引き裂き引きちぎり、鮮血したたる生肉を啖[くら]う。ここに忘我荒乱は極限に達し、信徒達は人でありながら人たることをやめ、『自分自身の外に出て』(エクスタシス)神の裡[うち]に遺漏[いろう]なく還滅するのである」(p,432~3)

 今の高校生あたりだと、「マックスむずけー!」と言うかも知れませんが、それはご尤も。こういうのは文を写すのも容易ではないので、ふつうにやると正しく変換されない漢字がたくさんあって、一苦労なのです。ちなみに「蕭索」というのは「ものさびしいさま」、「あやめもわかぬ」というのは「ものの見分けもつかぬ」状態を指して言う由緒正しい表現です。

 それはともかく、内容はすさまじい(今なら犯罪扱いされること確実です)。こういう、分別と良識のある知識人たちには「悪疫」としか見えないような乱痴気騒ぎが政情不安のギリシャ全土に燎原の火の如く広がったというのだから、その動揺は推して知るべしです。しかし、と著者は言います。「ディオニュソス的危機はギリシア精神にとってまさに重大なる危機であり、恐るべき悪疫であったが、他面それはまた深刻なる宗教的体験であった」のだと。

 古来、どこの国でも祭礼、カーニバルの際には程度の差こそあれ、無礼講が許されます。それは「非日常」の空間で、為政者がそれを許してきたわけは、ていのいい「ガス抜き」(民衆の鬱積した不満をそれで発散させる)の側面もあったからです。しかしそれは多く宗教行事と関係していて、神秘的な法悦体験の場でもあった。

 これは逆に言えば、人々が日常いかに平板索漠たる空間に閉じ込められ、精神の深いレベルでは牢獄の囚われ人のように感じているかの証拠です。仮に申し分ない社会的地位を得ていてもそれは変わらない。余談ながら、最近は気のせいか学校教師(小学校から大学まで)や公務員、医師、大企業社員といった「立派であることが期待される」人たちの性的破廉恥行為のニュースがやたら多いような気がしますが、そういうのは精神の深い部分での飢餓感が関係するのでしょう。それが性に向かうのは、それが最も根源的な欲望であるのみならず、セックスは忘我体験と結びつくことが多いからです。ストレスフルな、あるいは味気ない日常からの解放を求める無意識的な衝動がそこに関与していると見ても、あながち見当はずれではないでしょう(だから肯定されると言っているわけではもちろんないので、相手にとっては迷惑この上ないことです)。

 オウム真理教事件以後も、カルト宗教による異様な事件は跡を絶ちませんが、これもそれと関係するので、何であんなイカれた団体や教祖に引っかかるのかと「常識」ある人間は思うとしても、それに関わる人たちの多くもふだんは「常識」に満ちているのです。しかし、何か心に飽き足らないものがあって、それが生活の不如意などが重なると前面に出てきて、あれこれ宗教やオカルト関係の本を読んでいるうちに、そういうのに出会って、「これこそ自分の求めるものだ!」と思ってしまう。それで運が悪いと全財産をむしりとられるだけではすまず、犯罪行為にまで加担させられてしまうのです。彼らは相対的な価値観しかないこの世俗社会には満足できず、何か「絶対的な」ものを求める。カルト宗教はそれが自分のところにあると主張して人を誘引するのです。

 事実、宗教的な神秘体験には「絶対的なものの感じ」が多かれ少なかれ伴うものです。井筒俊彦氏自身、何らかのそうした体験がベースにあって、それが各種宗教・哲学の文献を読み解く際の下敷きになっているということははっきりわかります。その輝くばかりの多様な学問的業績の背後には、シンプルで直截な自身の神秘体験があったはずです。「『はじめに直観があった』のであ」り、「あらゆることのはじめに有無を言わさぬ絶対的体験があった」というのは、氏自身の真実の間接的表白でしょう。だからその文章には、何を扱っても、外側からではなく、内側から解き明かしてゆくような明快さ(ときに明快すぎる?)が感じられるのです。

 話を元に戻して、それでも狂乱的なディオニュソス祭礼の際に生じた忘我体験の中での「神秘的合一」、「超越的『全即一』の生命体験」から「イオニア的自然学」までにはかなりの径庭(けいてい)があった。そのあたりはこう説明されています。

「紅血流るる生肉を嚙みしだきつつ、暴れ狂う脱自陶酔の妖気に没溺[ぼつでき]する信徒の魂は肉身を脱して神の冥暗[めいあん]に帰滅し、生きながらにしてバッコスとなるといえども、茲に実現さるる冥合はあくまで集団的合一であって、真に個人的人格的神人合一ではない。全集団が渾然[こんぜん]たる一に帰融し、個人が全体の内に消無して、集団的一者が神となることがその体験のすべてであって、個人が直接に神と面々相対[あいたい]し、神に帰滅して永遠の生命に参与する宗教的個人主義まではなお相当の距離が存するのである。然るに、伝襲的貴族宗教の形式的国家主義に慊[あきた]らぬ当時の一般民心が新宗教に期待するものは、まさしく個人的救済と霊魂不滅の保証に他ならなかった」(p.434)

 そうしてその民衆の「期待」から、「各種の密儀宗教、なかでもディオニソス自らを主神とするオルフェウス教団の活動」などが出てくるとされるのですが、のちに「二つの霊魂観」と題された章で詳しく論述されるように、ミレトス学派の哲学(自然哲学)はそれとは別系統の流れで、前者の密儀宗教のそれは、「内的霊魂観ともいうべきもので、霊魂を以て、肉体の外部より入り来たって肉体内に宿り、内部より肉体を生かし、あらゆる精神的活動を営むところの神的実体なりとする観方で……霊魂はもともと此の世に所属するものではなく彼岸的実在であって、肉体はただ一時の仮りの宿に過ぎず、肉体死すれば直ちにこれを捨て去って永生を保つと考え」るものだというのです。

 これに対して、後者、ミレトス学派の自然哲学の方は、「外的霊魂観とも称すべきもので、これによれば霊魂とは肉体内に働く内面的自我の原理にあらず、意識的精神的現象の個体的核心にあらずして、寧ろ全宇宙に瀰漫[びまん]する普遍的生命力、全宇宙的運動の原理である」ということになるのです。

 同じディオニュソス宗教から対蹠(たいせき)的なこうした二つの霊魂観が出てきたというのは、僕には非常に興味深いことなのですが、こういう例は他にもいくらもあるようで、どの宗教にもたいていは同じ二系統の流れがあるように思われます。そして世俗的・一般的には前者の方が受け入れられやすいので有力で、後者は少数派の理解だということになる。

 乱暴な言い方をするなら、キリスト教やイスラム教は元が前者的で、少数の神秘主義者たちはそこから後者的な理解に到達し、仏教などは元は前者だが、大衆化するうちに後者の要素を取り込んでいったものではないかと思います(ついでに言うと、僕が何冊か訳したクリシュナムルティなどは著しく後者的です。中世キリスト教異端のカタリ派について言えば、それは前者宗教の典型みたいに見えますが、その秘密教義の宇宙創成論など見ると、明確に後者の性質を示しています)。

 これは矛盾対立というより、視座をこちら側に置くか、あちら側に置くかで違ってくるので、同じ忘我的神秘体験があっても、その深浅により、またその人の解釈の仕方で変わってくるのでしょう。ただ、この本にもあるように、後者の見地からすれば「個体に宿る相対的生命の原理としての個人霊魂の如きは殆んど問題とさるるに至ら」ず、「茲では個人的自我ではなくして全宇宙にまで拡散せる宇宙的大我が、個体の生命ではなくして宇宙の生命が、個人霊魂にあらずして宇宙霊魂が唯一の関心事」になるのは論理の必然だということになります。

「先生、私の魂は死後どうなるんでしょうか?」
「さあ…。地獄の一周旅行に出かけることになるか、天国でハープの音色でも聞きながら眠りこけるか、中途半端なままそこらを幽霊としてうろつくことになるか、そんなところだろうね」
「そんな…。もう少しマシなのはないんですか?」
「どのみち君の魂なんて、宇宙的生命という大海の一滴みたいなもんなんだから、そういうのを思い煩うのはもうやめたらどうかね? 大海そのものは不生不滅なんだから、そこに消融すると考えれば、安心立命これにすぐるものはないということになるだろう。個別の自己、個別の魂などというものは観念として存在するだけで、その観念を離れられないから君の感情はそれに引きずられて死後も忙しくあちこちを回らねばならないことになるので、ないと思えば地獄の沙汰も天国の沙汰もなくなる」
「じゃあ、それさえわかれば、私はこれから好きに、勝手放題やっていいわけですか?」
「法に触れて刑務所にぶち込まれたければね。大体、そういうのは表面意識だけの問題ではないので、君が得手勝手なことばかりしでかすというのは、ジコチューだからだが、何でそういうふうになるかといえば、本当は自分ばかりが大事で仕方がないからだろ? つまり君はいくら表向き悟ったような顔をしていても、事実としては個別の生命の、せせこましく利己的な自我の熱烈な信奉者にすぎないということになる。そういうアホな人間のために地獄というものはあるので、君はそこへの片道切符を得るために骨折るようなものだよ。それでよければ、そうするがいい」

 古代の自然哲学者に聞けば、そんな返事が返ってきそうです。しかし、そのような教えはポピュラーなものにはなりにくい。なぜなら、通常の自我観念の延長で魂というものを観念するのは容易だが、自然哲学者(ここで言われる意味での)の言うそうした「宇宙霊魂」の体験とは、頭の中でのたんなる「つもり」思考の産物ではなく、「現実的人間が徹底的に無化棄揚され、人間的意識の光りが剰すところなく消拭されて点埃をも残さぬ暗黒の極所、眩耀赫奕[げんようかくえき]たる絶対者が浩蕩として出現すること、すなわち人間意識が消滅する処に絶対者の超越意識が生ずること」だからです。

 そうした自然哲学が後世から誤解されることになったのも、大方の学者たちもそうした深い神秘体験は抜きにそれを解釈するしかなかったということと、井筒俊彦氏も指摘される、彼ら自然哲学者たち自身の「存在諸領域を区別せずに全てを同一平面に併置して」論じてしまった不用意さによるものでしょう。「昔の人だから、まだ単純素朴な自然信仰をもっていたのだ」で片付けられる羽目になったのです(ハイデガーや井筒俊彦のような非凡な天才はそうではなく、鋭く本質を見抜いたということになりますが)。

 それにつけても思われるのは、「日の下に新しきものなし」とはほんとなのだな、ということです。理論が精緻化されることはあっても、根本のところ、そうした体験以上のものはまずないだろうと思われるからです。彼ら自然哲学者は「自然」と「神」を同一視したが、それは、「全即一の絶対体験によって最高現実度の生命的自然を直証する神秘家の眼より観れば、万物は正に神の世界であり、全ては脈々と拍動する神的生命に“生きている”のである」からです。それは「あごひげをはやした神」などより、知的にもはるかに進んだものです。

 ここで話を『反哲学入門』に戻します。冒頭の引用文に「『自然』という名詞は、『芽生える』『花開く』『生成する』という意味の動詞『フュエスタイ』から派生したもの」、ハイデガーが「たぶんニーチェから学んだにちがいない〈ある(ザイン)〉」は、「〈成りいでてある〉、ギリシア語でならフュエスタイ、ドイツ語ならウェルデンと見る存在概念、簡単に言えば〈存在=生成〉と見る存在概念であった」とあります。

 ニーチェの「神は死んだ」という言葉は有名で、僕も十八歳の頃『ツァラトゥストラ』を読んだとき初めてその言葉にお目にかかりましたが、ここで言われている「神」は古代ギリシャの自然哲学者の「自然=神」とはむろん違います。キリスト教の神、自然を物質=質料の地位に貶(おとし)めて、その背後に置いた「超自然原理」としての「人格神」の観念(プラトンのイデアの観念なども同種のものとしてニーチェの念頭にはあっただろうと著者は言います)のことです。

 『ツァラトゥストラ』を読んだとき、僕に一番印象深く記憶されたのは、「超人」でも「永劫回帰」の話でもなく、「精神の三様の変化」の箇所でした(僕が読んだ訳書は手塚富雄訳の中公文庫です)。しかし、その本が今手元に見当たらないので(佐藤通次訳も持っていたはずなのですが)、ネットで探してみたら該当箇所を載せてくれているサイト(「精神の三段階」と題されている)がすぐ見つかったので、少し長いがそこの訳文を拝借します。

「わたしは君たちに精神の三様の変化について語ろう。すなわち、どのようにして精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、獅子が小児となるかについて述べよう。
 畏敬を宿している、強力で、重荷に堪える精神は、数多くの重いものに遭遇する。そしてこの強靭な精神は、重いもの、最も重いものを要求する。
 何が重くて、担うのに骨が折れるか、それをこの重荷に堪える精神はたずねる。そして駱駝のようにひざまずいて、十分に重荷を積まれることを望む。
 最も重いものは何か、英雄たちよ、と、この重荷に堪える精神はたずねる。わたしはそれを自分の身に担って、わたしの強さを喜びたいのだ。
 最も重いのは、こういうことではないか。おのれの驕慢に痛みを与えるために、自分を低くすることではないか? 自分の智慧をあざけるために、自分の愚かさを外にあらわすことではないか?(中略)
 すべてこれらの最も重いことを、重荷に堪える精神は、重荷を負って砂漠へ急ぐ駱駝のように、おのれの身に担う。そうしてかれはかれの砂漠へ急ぐ。
 しかし、孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。このとき精神は獅子となる。精神は自由をわがものにしようとし、自分自身が選んだ砂漠の主になろうとする。
 その砂漠でかれはかれを最後に支配した者を呼び出す。かれはその最後の支配者、かれの神の敵になろうとする。勝利を得ようと、かれはこの巨大な竜と角逐する。
 精神がもはや主と認めず神と呼ぼうとしない巨大な竜とは何であろうか。「汝なすべし」それがその巨大な竜の名である。しかし獅子の精神は言う、「われは欲す」と。
 「汝なすべし」が、その精神の行く手をさえぎっている。金色にきらめく有鱗動物であって、その一枚一枚の鱗に、「汝なすべし」が金色に輝いている。(中略)
 わたしの兄弟たちよ、何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念に満ちた駱駝では不十分なのか。
 新しい諸価値を創造すること――それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目指して自由をわがものにすること――これは獅子の力でなければできないのだ。
 自由をわがものとし、義務に対してさえ聖なる「否」をいうこと、わたしの兄弟たちよ、そのためには、獅子が必要なのだ。(中略)
 しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行うことができなかったのに、小児の身で行うことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろうか。
 小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。
 そうだ、わたしの兄弟たちよ、創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。
 精神の三様の変化をわたしは君たちに述べた。どのようにして精神が駱駝になり、駱駝が獅子になり、獅子が小児になったかを述べた。
 ツァラトゥストラはこう語った。そのときかれは「まだら牛」と呼ばれる都市に滞在していた」

 僕が当時この箇所を印象深く記憶したのは、「神から自由を奪還」しようと悪戦苦闘している最中だったからです。どういうわけか知りませんが、僕には小さい頃から明確な一神教的神観念がありました。しかし、理性の背後に神を置けば、それで問題が解決するとはどうしても思えなかった。それではまるで神の操り人形みたいではないか? 僕は僕自身の意志と自由をもたねばならない。

 この引用文のたとえに従って言うと、僕は元々は著しく「駱駝」的な子供でした。親や教師の言いつけやきまりはきちんと守らなければならないと思っていて、小学生のときなど、学校に行くのにハンカチを忘れただけで深刻な罪悪感を感じるような子供でした。そして人を傷つけることを極度に恐れた。だから、中学を卒業する頃までは、勉強嫌いではあったものの、先生たちの覚えめでたい「よい子」の見本のような存在だったのです(今思えば信じがたいが、三年間ずっと生徒会の役員を務めました)。それが高校に入ったあたりから相当変わってきて、学校の覚えめでたいどころか、ブラックリストの上位に載せられるような存在になってしまった。従順な「駱駝」ではなくなって、反抗的な「獅子」的性格が露骨に出てきて、親を「おまえには中間というものがない」と嘆かせる羽目になったのです。そういう極端な性格はものを考える際にも出て、引っかかるととことん考えないと気がすまない。考えているうちに、神の問題にぶつかった。いくら考えてもわからないものがいつも一番奥にある。それは知的・道徳的直観がどこから出てくるのかという問題で、その背後に神を置いて、無条件にそれに信頼するという解決を、僕はどうしても受け入れることができなかったのです。もしそうなら、よくても自分は「神の奴隷」でしかないことになる。それは無責任・不誠実であり、屈辱でもあると感じられたのです。

 僕に不可解でもあれば、何となくわかると感じさせたものがこの最後の「小児」でした。これは何なのか、それがもどかしく悩ましい、禅の公案のようなものとして目の前に立ち塞がったのです。だから強烈な印象を残した。

 しかし、これを今見てきた「自然哲学」に照らしてみれば、はっきりする。自然を物質=質料として捉え、別の超越的精神原理(神)をもってきて、自然(物質宇宙)と人間の双方を支配する神なんてよけいなものを構想するから、そこに無用な分裂が生じて、人は自然からも神からも“疎外”されることになってしまうのです。それは人が持つ本来の全一性を破壊してしまい、上述のような神秘体験が生じる契機も奪われてしまう。この二元思考、神と自然を分け、魂(神に帰属)と肉体(自然に帰属)を分けてその根源的な統一性を見失わせてしまうもの、それこそがニーチェが全身全霊を挙げて戦わねばならないと見た敵だったのです。

 そうした分裂のない「小児」、正しい意味での「自然」そのものである無垢な幼子が、その統一のメタファーとして使われたのは、むしろ自然なことです。そこには自己-神の二元と、それゆえの孤立や疎外はない。それを残したままだと、そうした体験も「自我が神になる」という病的な自我膨張を無意識に結果してしまうでしょうが、そうでなければそこには「然り」という絶対的な肯定、「聖なる発語」だけがあるのです。

 再びみたび話を戻して、そういうものとして捉えられた「自然」はたえず流動、生成するものです。生命のダイナミズムを体現した存在です。人間もその一部で、だからそれは孤立し、疎外された、硬直した枯れ木のような存在ではない。そうであれば、空疎な道徳的お説教を垂れて回りながら、死臭のようなくさい息をまきちらすえせ神学者にもならず、規則を使うのではなく規則に使われるだけのお役人にも、金銭と能率の計算しか眼中にないビジネスマンにもならないはずです。そのとき人は初めて「生きた人間」になる。

 問題は、しかし、自然から遠ざかる一方のこの文明世界において、どうやってそうした知覚・洞察を実現するかです。どうやってたんなる観念ではない「生成」のダイナミズムの中で生きられるようになるかです。自惚れからも、偽りの謙遜からも自由な「生きた生命の器」としての自覚、実感の中で生きられれば、砂を噛むような空虚感は去るでしょう。知的な合理化の中に「人生の意味」を求めることもしなくてすむでしょう。

 この問題を解決するのに、カルト宗教に加入して、教祖が命じる奇妙な儀式や修行に従事する必要はないでしょう。閉鎖空間で集団的自己催眠にふけるがごときそのようなものは、僕には悪寒を催させます。先祖返りしてディオニュソスの祭礼のような狂乱の中に戻っても、数千年にわたって堆積してきた無意識の挟雑物に阻まれて、そうした全一体験に行き着く以前に、おかしなものにからめとられてしまい、人格的荒廃を深めるだけに終わってしまうかも知れません。そうした試みをする人たちは悪に深く通じていなければならないのに、逆に無邪気すぎる人が多すぎるように思われるからです。

 ショートカット(近道)はないように思われますが、一つだけ言えそうなことは、「それを阻んでいるのは何か」を考え、知ることです。ものの考え方は、むろんそれは無意識レベルのものも含めてですが、ものの見方を規定します。それは感じ方にも及ぶ。

 この『反哲学入門』や『神秘哲学』のような書物には、僕らが深くなじんだ二元的なものの考え方、世界と人間の理解に、根本的な再考を促すところがあります。もうだいぶ前ですが、『エスの系譜』(互盛央著 講談社)についてこのブログに書評を書いたことがありますが、ああいう本もそれと関係する。クリシュナムルティの本なども、その一つと言ってよいでしょう(あんたがよけいなこと――「クリシュナムルティと二重人格」のことでしょうが――を書くから読書意欲が殺がれたと、知り合いに言われてしまいましたが)。

 こうした書物を読むことによって思考の条件づけがゆるめば、そこに別種の体験が出現する端緒が開けるかも知れません。少なくともその理解を阻む強大な心理的抵抗にぶち当たれば、問題の所在がはっきりすることだけはたしかです。不正直にその「抵抗」を認めず、辻褄合わせの無理な知的合理化に走る人は、頭のもつれをまた一つ増やして混迷をさらに深める結果に終わるでしょうが、そういう人も、そうした行き方は何ももたらしてくれないことをいずれ悟るでしょう。そういうとき、ふと身の周りの自然や他者との関係が全く違った相貌を見せてそこに立ち現れるのを経験し、それをきっかけに自己理解のありようも劇的に変化するかもしれません。

 長くなりすぎたので、尻切れトンボめくのは承知で、これでおしまいにしますが、知的に複雑になりすぎた僕ら現代人は、かえってシンプルな深い真理の洞察理解が妨げられるようになった。そこに到達するのに、さらに大きな骨折りをしなければならなくなったわけで、それはかえすがえすも皮肉なことだと思われます。
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