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石原慎太郎氏の反・反原発論の愚

2012.02.07.00:43

 宮崎県教委が「宮崎県立高等学校教育基本整備計画」なるものを発表し、「県民の皆様のご意見を募集」しているというので、そちらの原稿を今準備中なのですが、さっきパソコンをつけたら、「原発に関するセンチメントの愚」と題された石原慎太郎氏の文章が目に付いて、一読、こちらについての「意見」の方を先に表明しておきたいと思ったので、そうさせてもらいます(途中で仕事の時間になったので、アップが夜中になって日付が変わってしまいました)。

 石原氏のこの文章、「妄言製造機」の異名を取るお方のいつものアレと言ってしまえばそれまでですが、ある意味、原発擁護論者の最大限に単純化された共通意見と言ってもよさそうなので、反論しておくだけの価値はありそうに思えるのです。
 これは産経新聞のオピニオン欄(2012.2.6)に掲載されたもののようですが、全文はこちらです。

 石原氏はこの中で、「センチメント(情念)ほど厄介なものはない」ので「それは理性をも超えて優に人間を左右してしまう」と書いておられます。「理性」を信奉する人の文章にしては論理的に散漫で、緻密さに欠ける文章なのですが、要点は「私がいいたいことは」で始まる後半にあって、そこを叩けば足りると思われるので、まずその箇所を全文引用してみます。

 長々した前節を構えて私がいいたいことは、福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。
 ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。
 人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと―」と吉本隆明氏も指摘している。
 人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。
 日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。
 豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。


 僕の見るところ、石原氏はお世辞にも「ものごとを複合的に捉える」とは言えない人で、彼ほど自分に気に入らない言論を「頭から否定してかかる」頑迷な人も珍しいのではないかと思われるほどですが、皮肉はさておき、ここに見られる論理の粗雑さには驚くべきものがあります。

 氏の議論の要点は、「福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発している」として、「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」と断じるところにあります。

 たしかに原発廃止論の高まりにおいて、「放射線への恐怖というセンチメント」は大きな役割を果たしています。しかしそれは、本来恐怖すべきものを恐怖するようになったというだけの話で、「原発安全神話」に洗脳されて正常な「放射線への恐怖」を国民の多くが忘れていたと言った方が正しいのではないでしょうか。つまり、「恐れていない」前の状態の方が「異常」だったのです。

 氏のご子息の石原伸晃・自民党幹事長が、福島原発後の世界的な脱原発の高まりを「集団ヒステリー」と呼んだのは有名なので、このあたりは父子で「思い込みを共有」なさっているのだろうと察しますが、恐れるべきものを恐れないのは「理性的」に判断しても適切とは言えないでしょう。ヒステリーなんて決めつけこそが、逆にヒステリックすぎる反応なのだと言えませんか?

 それに、石原氏は「一度の事故で」と、たった一回しか事故が起きていないかのように書いていますが、スリーマイル、チェルノブイリの事故だけでなく、あわやという事故が日本の原発でもこれまで幾度となく起きていたことが、その後明らかになっています。電力会社や国の隠蔽工作、カネで抱き込まれたマスコミの“消極的”姿勢、国民の無関心がそうした事実の看過を許してきただけだったのです。こうした態度はどれも「理性的」ではありません。「軽率を超えて危険」なのはむしろそちらの方ではありませんか?

 「そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ」なんてのも、妙な議論です。「それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか」と続くので、あたかも原子力(とそれが出す放射線)は太陽エネルギーの有効活用か、それと同種のものみたいになっているのですが、そんな話、聞いたこともありません。僕が知る範囲では、地球の大気上層には保護膜のようなものがあって、そのおかげで有害な宇宙放射線から地球の生物は守られている。そのおかげで地上には多くの生物が繁茂できるようになったので、石原大先生に学校で理科の授業でもしていただいたら、「原子力開発は太陽エネルギーの有効活用と同じだ」なんて恐ろしい思い込みをする子供たちがどっさり生れるかもしれません。電力会社や原子力村の学者先生たちでも、「そこまではちょっと…」と苦笑するのではないでしょうか。同じ「放射線」とは言っても、それには色々な種類・性質があって、その違いが重要なのですが、石原氏にかかるとそんなものは大した違いではないのです。

 もう一つ、重要なことは、原子力発電は危険な放射性廃棄物を生み出すが、それを安全に処理する技術はなく、「理性的・現実的」に考えて、それが開発されるメドは今も全く立っていないということです(そういう捨鉢な技術の安易な実用化が「英知の所産である」とは恐れ入ります)。「トイレのないマンション」というのはこの点、適切かどうか疑わしい比喩です。なぜなら、人間の排泄物は臭いというだけで、べつだん危険なものではなく、運び出してそのまま堆肥に有効利用できるし、埋める場合もそんなに大変なことではないからです。放射性廃棄物はそんな生易しいものではない。原発をやめたとしても、今までに蓄積された放射性廃棄物は何とかして「処理」するしかありません。目下のところ、それは地中深く穴を掘ってそこに「保管」する他ないようですが、その候補地が見つからなくて頭を抱えているというのが実情です。事故が起きない場合でも、そういう問題が元からあるわけで、氏の言われる「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方」によれば、いずれそれも解決するだろうということになるのかも知れませんが、原子力はその破壊性において他の一般的な技術とは違う性質を持っていて、そんな呑気な「希望的観測」にあぐらをかいていられるようなものではないはずです。大体、氏の議論を借用するなら、「人間は進歩する」というのも「センチメント」の一つなので、現実的・理性的に考えて全く解決のめどもつかないような問題まで、「進歩」によって「克服」できるとするのは、新興宗教で教祖を崇拝するとか、呪文の類を一万回唱えれば末期ガンも完全治癒すると信じるのとえらぶところがない「センチメンタルな錯覚」なのではありませんか? 合理的な根拠は何もないのですから。「人間として備えた理性でものごとを判断する必要があ」ると言いながら、どこにそのような「判断」が示されているのか、僕にはさっぱりわからないのです。

 「人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ」とあるので、石原氏はすでに原子力でも「その超克」の道筋が示されていると考えておられるのかも知れませんが、それなら、僕を含めて圧倒的大多数の人はそれを知らないので、ぜひお教えいただきたいものです。

 今の引用文に関して、僕がひとこと付言しておきたいのは、「人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた」と言うのなら、なぜ原発以外の「さまざまな技術の開発改良」に尽力すべきだということにならないのか、ということです。

 こう言えば、「コストなどの面から実用化のメドが立っているものは少ないからだ」ということになるのでしょうが、少なくともそれらは原発の放射性廃棄物の安全処理よりもはるかに「現実的」な希望がもてる技術でしょう。「現実的」に言って、今原発を全部停止しても、他の火力・水力などで電力需要は十分まかなえるそうなので、火力ならむろんそれに燃費はかかるわけですが、当座はそれで行って、その間に他の地熱、太陽光(有害放射線ではない!)、風力などの技術開発を進めればいいわけです(消費至上主義のこれまでの文明に対する反省は必要だと思いますが)。

 こう言えばまた、「今の中東情勢ではいつ石油・天然ガスの供給が止まるやも知れないので、海外依存を高めるそのようなやり方は危険だ!」と言う人がいるでしょう。しかし、これは為にする議論と言う他なく、そうなったら、どのみち日本経済は終わりなのです。大体、そういうことを防ぐために外交官や政治家はいるのでしょう? 彼らにきちんと仕事をしてもらえばいいのです。

 以上ですが、僕に怪訝なのは、石原知事は先の大震災で、「これは日本人の『我欲』に対する天罰だ」と述べ、その場面を弁えない無神経さに批判が殺到したのを受けて「撤回、謝罪」に追い込まれる一幕があったわけですが、あの発言などは明らかに氏の「センチメント」に発するもので、なのに、自分のことはきれいに棚に上げて、今度は何でまたこんなことを書くのか、ということです。

 すでに見てきたとおり、氏の「理性的判断」の重要性を力説するこの文章自体、とうてい「理性的」とは言えないほどお粗末な文章なのですが、こういう混乱した支離滅裂な文章しか書けなくなったら、物書きとしては終わりではないかと思います。政治家としても東京都が何とか回っているのは、幹部や現場職員の働きのおかげなので、自前の銀行を立ち上げてポシャったり、大金をかけてオリンピック誘致を企てて失敗したり、事あるごとに物議をかもす発言(それも大方はレベルが低い)で注目を集めるだけで、実質的に大きな働きをしているようには見えません。この際だから、どちらからも引退されたらいかがですか? 氏の称揚する「日本人の美徳」には「引き際の潔さ」も当然含まれるはずです。今さら新党がどうのこうのと、老人の「センチメント」に引きずられるまま、社会に新たな混乱を付け加えるだけの、傍迷惑なみっともないことはおやめになることです。

 最後にもう一つ、理性、理性と言いますが、人間の理性はそれが背後に深い豊かな感情をもつときにのみ初めてまともに機能するので、浅薄なそれに乗っかった「理性」なるものは、自己正当化の屁理屈をこね回すためのたんなる利己的な道具でしかなくなります。原発自体、目先の利便ばかりを優先して、その致命的な欠陥には目を閉ざして進められてきた技術と言えるので、その背後には石原氏の言われる愚かしい「センチメント」があったのだと言えるでしょう。石原氏の視野にそれが入っていないのは、そうした深い感情に支えられた理性をおもちではないからでしょう。だからこそ見掛け倒しのこんな杜撰な駄文を綴って、世の笑いものになる(だろうと僕は思っています)のです。

 僕は人生後半の人間の最も重要な仕事の一つは、感情面でのそのような深みに達すること、心理学のいわゆる無意識とは別次元の、統一的な生命感の感得にあると考えています。すでに晩年に達した石原氏は、これまで世俗のあれこれにまぎれてそういうことを怠ってきたのではないかと思われるので、失礼ながら、もう少し心の深みを探られてはいかがかと思います。芥川賞だか何だかの選考委員をおやめになったそうですが、それは正しい決断です。こういう人に文学なんてわかるはずがないのではないかと思われるからです。ついでに政治からも、床屋政談以下の浅薄な社会評論からも引退なさって、静かに自己の内面を見つめられてはいかがかと、僭越ながらお勧めする次第です。


【追記】以下の記事をさっき読みました。
〈東京都で原子力発電所稼働の是非を問う住民投票を目指す市民グループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」の集めている署名が、都条例制定の直接請求に必要な法定数を上回る見通しになったことについて、石原慎太郎知事は10日の定例記者会見で「そんな条例を作れるわけもないし、作るつもりもない」と否定的な見解を示した。
 石原知事は「人間で一番やっかいなのはセンチメントだ。原爆のトラウマがあるから恐怖感で(原発反対を)言う」と反原発運動を批判、そのうえで「人間の進歩は自分の手で技術を開発し、挫折や失敗を克服することで今日まで来た」と述べた。
 市民グループから住民投票条例制定の直接請求が出された場合、石原知事は意見を添えて都議会に条例案を提出する。都議会で条例案を審議し可否を判断する。〉
(2012年2月10日21時18分 読売新聞)

 相変わらずですが、石原老人の頑迷なsentimentに発するこうした横柄な態度は、心ある都民のresentment(憤慨)を招くだけに終わるでしょう。
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