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「個人宗教」のすすめ

2011.12.06.14:47

 このブログ、「長らくのご無沙汰」になってしまいましたが、このところ妙に忙しかったのと、事件から16年たって一連のオウム裁判がやっと結審したというニュースをきっかけに、「宗教の“反社会”性」と題して書いていたら、長くなりすぎて“終結”のメドが立たなくなってしまったのが一番大きな理由です。生徒からは「女子高生お言葉集」の続きを書けと言われているし、その間、御年61歳の「花とお話ができる」「天使・精霊」を自称する「霊能」変態歯科医によるとんでもない事件もあったし、大阪市・府長選の結果についても一言しておきたかったし、タイトルも歌手の名前も忘れてYouTubeでも発見できないでいた、なぎら健壱(けんいち)の「悲惨な戦い」をやっと見つけて数十年ぶりに聴き、爆笑したということもあったし、書きたいことはいくらもあったのですが、下手に“長編”に取り組んでしまったために、書きそびれてしまいました。

 それで、「女子高生お言葉集」の続きはまた今度書くとして、今日は高2の生徒たちが修学旅行で塾が休みになり、丸一日使えることになったのを幸い、書きかけの宗教に関する原稿を、オウムの問題は外して、まとめ直しておきたいと思います。そこではオウムだけが「反社会的」なのではなくて、ああいう幼稚かつ犯罪的な反社会性ではない反社会性が本来宗教にはあって、そこにこそ宗教の魅力や価値もあるということを書こうとしたのですが、オウムの病的性質についての分析と一緒にしてしまったがために、議論が入り組みすぎてしまって、これでは読んでくれる人も話についていくのが大変だろうなと思わざるを得なかったのです。

 それで、オウムの問題はどけてしまって、シンプルになぜ宗教は「反社会的」で、それには価値があるのかという議論だけさせてもらおうと思います。尤も、僕自身は宗教的な「無党派層」で、既成の宗教団体には何の期待も寄せていないし、新宗教の出現を待っているということもありません。宗教は集団となり、組織化されると必ず変質して腐敗堕落する性質を持っているので、本来的にそれは団体とはなじまないものなのではないかとさえ思っています。「無我」だの「無私」だのの教えそれ自体が、個人を消し去る方向に作用し、結果としてそれは独善的な「集団我」の発生を生み出すだけに終わるのです。日本人のように個我の貧弱な民族においてはことにそうで、そのままでは自己主張できない弱々しいエゴが、「神の教え」または「教祖の教え」を権威とし、それを隠れ蓑にのさばることになるのです。聖徳太子(彼は仏教者でした)の有名な「和をもって尊しとなす」にしても、社会に災いをもたらした側面の方が大きかったのではないかと僕は思っています(そのことについては後述します)。

 幸いに宗教文献(それは「聖人の残り滓」にすぎないという意味の皮肉な言葉が、淮南子にあったと記憶していますが)は残っていて、多くは誰にでも入手可能なので、今の僕らはそれらを友として個人で学ぶことができます。その場合も教条主義的な硬直化に陥ることもあれば、全くの誤解に流れてしまうこともあるでしょうが、おかしな「権威」を後ろ盾にできないがゆえに、健康な懐疑心(自己疑惑を含む)はそれだけ保たれやすくなるでしょう。そうした文献の中には、もちろん、根も葉もない「伝説」の類もあります。先日も、塾の高1の女の子が、「先生、ガウタマ・シッダールタって、お母さんの腋の下から生まれたんですよ」と、学校の世界史の授業で習ったらしい知識を披露してくれました。今は「ゴータマ」ではなくて「ガウタマ」と表記されているらしいことがそれでわかりますが、彼女にはその「ガウタマ」という名前がユーモラスに感じて可笑しかったようでした。隣の席の子が、腕を持ち上げて、「どうやって? こんなふうに…?」と赤ちゃんが腋の下から出てくるところをイメージして首をかしげる仕草をして、それで彼らが勝手にあれこれやりとりを始めるのを見て笑ったのですが、子供はこれだから面白い。要するに、偉大な聖人が“不浄な”股間からふつうに生まれたと解するのは不敬だとしてそんな作り話ができたわけです(イエスが超自然的な「処女懐胎」でなければならなかったのと同じく)。僕はついでに摩耶夫人(お釈迦様の母親)が息子の誕生に先立って白い象が胎内に入る夢を見たこと、誕生後まもなく、彼が数歩歩いて「天上天下唯我独尊」と叫んだという伝説のことを話しました。「スゴすぎる赤ちゃん!」というのが、彼らの感想でした。むろん、誰もそれが事実だとは思わないわけで、健康な子供ならそう思うのがあたりまえです(ちなみに、僕はふだん宗教の話など、質問されたとき以外、授業では全くしません。山でイノシシに遭遇した人が、「猪突猛進」という言葉を思い出して、崖の上に立ってイノシシの突進を待ち受けて直前に身をかわしたら、イノシシは急ブレーキをかけて停止し、思惑が外れて狼狽のあまり、自分の方が崖から転落する羽目になった、というような馬鹿な話はよくするのですが)。

 話を戻して、だから文献にも色々あるので、無理な神格化の産物や、当時の時代色・文化色の反映やそれによる制約も考慮に入れて、現代人として学ぶべきことを学べばいいわけです。それで「『個人宗教』のすすめ」というタイトルにしたのですが、その際、宗教がもつその「反社会」性、通常の価値観に対する強烈なアンチが、何より貴重なものだと、僕自身は考えるのです。

 さて、なぜ宗教は「反社会的」なのか? それはそう難しい話ではありません。通常の人間社会は欲望を基盤として成り立っています。だから財産、名誉、権力等々は、守るべき重要な価値です。しかし、皆がそれを追い求めて互いに争うようになると、「万人が万人の敵」となって、社会は無秩序に陥り、逆にそれらが害される皮肉な結果となる。そこで「道徳」が、同害報復(加えられた害以上のものを相手に加えてはならない)の倫理や、同胞愛などが説かれるようになる。法律や規則の遵守が美徳として教えられることになる。道徳はだから、社会の調整弁、安全弁のようなものであり、それは安んじて欲望を追求するための装置なのです。

 見かけは似たところがあっても、そうした世俗道徳と宗教の説くところは根本的に異なります。欲望そのものを問題視し、すべての価値観、社会システムの基となっている自己愛の超克を説く。世俗的な道徳の「反道徳性」を主張して、社会に挑戦するのです。

 イエスは、家族、財産、権力すべての放棄を説き、「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」と“非常識”なことを言いました。仏教もそのあたりは同じです。出家にはそうしたことすべてが伴う(今は違うとしても)。有名な「無我」思想などでも、ふつうの人が信じて疑わず、後生大事に守ろうとする自己の観念を「妄想」だとして退け、不変の実体としての自己などは存在しないゆえんを説くのです(有名な「色即是空」は自己を含め、実体として現象し、存在するものは何もないことを端的に述べたものです)。最初にそうした“倒錯”があるからこそ、その倒錯に基づくすべての価値は虚偽となる。だから、そうしたものは無価値である、と主張するのです。

 こういうの、十分に「過激」で「反社会的」ではありませんかね? こう言えば、いやそんなことはない、危険なのはオウムその他のカルト宗教だけであって、伝統的な仏教やキリスト教のお坊さんや神父さんたちは良識に満ちていて、げんに世の中の人から尊敬されているではないか、と言う人がいるかも知れません。実に、オウムみたいなのが出てくる理由の一つはまさにそこにあるので、仏教であれ、キリスト教であれ、今の日本にあるそれは世俗社会に“順応”しすぎた、牙を抜かれて家畜化した動物のようなものでしかなく、かつてはあったはずの、社会に対する強烈なアンチとしての存在意義を失っているのです。あえて辛辣な言い方をさせてもらうなら、彼らの大半は結婚式や葬式の関連業者でしかありません。京都の坊さんたちは観光協会の理事もやったりしているようですが。

 余談ながら(あんまり脱線しているとまた長くなってしまいそうですが)、僕は学生時代、出家を考えたことがあります。クソ面白くない世の中だし、こんな世界に未練はないと思ったからです。両親はどんな顔をするかわからないが、無類の「神様好き」で、幼い孫の僕を連れて近畿一円の神社仏閣をほとんど総なめにしていた祖母は、喜んでくれるかもしれない。僕自身はよく覚えていませんが、幼児の頃は風呂敷を袈裟代わりにかけてもらって、見よう見まねのお経をあげ、チーンなんて一人で坊さんごっこをやって喜んでいたヘンな子供で、両親は「葬式坊主の真似なんて縁起でもない」と顔をしかめたが、祖母だけは「この子は信心深い!」と大喜びだったという話を聞かされたことがあるからです。
 それで、ある日食事に出かけて、行きつけの中華料理店で新聞を広げていたとき、「僧募集」の小さな広告を見つけました。今でも憶えているその広告は次のような文面でした。

「僧募集 極楽院 高卒上三十迄 研修有 寮個室完備 給十五万上 週休・有給休暇有 社保完 昇一賞二」

 それを見て、僕はしばらく笑いが止まりませんでした。とりわけ「有給休暇」や「社保完 昇一賞二」という箇所が可笑しかったのです。たぶん失業保険なども完備されていて、毎年昇給し、ボーナスも年二回確実にもらえるのです。安定職業であることがアピールされている。

 おかげで僕の出家衝動は消えたのですが、こういうのはいくらか極端な例としても、托鉢の恵みだけで命をつなぎ、明日をも知れない状況の中で修行に没頭するなんて坊さんが今は存在しないことはたしかでしょう。大きな宗派組織では官僚主義がはびこり、僧侶になるのでも、学歴が考慮されていて、高卒だと僧侶資格を得るのに何年もかかるが、大卒ではそれが半年に短縮されるとか、ほんまかいなというような話を多々聞いているからです。昔でもすぐれた坊さんは「掃き溜めに鶴」みたいな例外的な存在として、俗物だらけの寺僧社会に出現したにすぎなかったようですが、今はとくにそうです。

 これはキリスト教団体でも変わりません。前に知人から、ある教団の幹部による巨額横領事件の話を聞かされたことがあります。元が「信者の浄財」を、その人物は私的に使い込んで、それが発覚したのです。何とその額ン千万。ところがそれを上層部はもみ消しにかかりました。それはとんでもないスキャンダルなので、組織の評判の低下と監査責任を問われるのを恐れたのです。そういうことが世間に知られては、幹部たちにとっては何より大事なその後の自分の出世に大いに響いてしまう。その教会の一員であった知人は怒り、これは背任・横領事件として司直の手に渡して厳正に処罰すべきだと主張しました。それはまともな感覚ですが、なだめたり脅したりして、彼らはその人を黙らせようとしたのです。一度週刊誌にそれに関する記事が出ましたが(情報提供者はその知人でした)、他にはほとんど出ず、上層部は握り潰しに成功したのです。

 そのときの、なぜ刑事告発しないのかという偉いさんたちの内部への説明はかなりケッサクなものでした。それは「神の愛(アガペー)」に反するからだというのです。寛大なる神は、本人が「懺悔」さえすれば、巨額の横領をもあっさりお許しになるのです(俗世間の法律など問題とするに足りず!)。その程度のことを咎め立てするようでは、海よりも深く、天よりも高い「神の愛」を理解しているとは到底言えない。その知人のような人は信仰が足りないのだと、攻守所を変えて逆に非難されたのです。理屈はどうとでもつくとはよく言ったもので、僕は経緯を聞いて心底呆れました。腐りきった偽善団体です(その当時、このブログを開設していたら、知人から入手した全情報を暴露して援護射撃ができていたのにと、それがちょっと残念です)。

 話を戻して、そういうみっともない事件は起こさないまでも、今の大方の既成宗教というのは、世間とよろしくやって、その中で「名誉ある地位」を保持したいという、体面ばかり大事な情けない存在でしかありません。それが世俗権力にとって大きな脅威になるとか、われわれ下々の者が峻烈霜のごときその威容に接して思わず襟を正してしまうとか、そういう迫力は何ももたないのです。お説教好きな人間がなりたがる職業の筆頭は学校教師と坊さんだそうですが、お釈迦様の教え、イエスの教えと称して、どこやらの「成功本」の著者みたいな、人間関係をよくする方法とか、この薄汚い社会でも波風立てずうまくやって成功する方法とか、瞑想と念仏で運が開けるとか、ふやけた「道徳訓話」の類を撒き散らしているだけです。聴衆や読者は「おかげで心が安らかになりました」と礼を言う。それが自慢なのです。そんなのは一時的な自己催眠にすぎないのですが。

 本来の宗教は、しかし、かなり恐ろしいものです。とりわけ仏教はそうであると、僕は思っています。江戸時代の禅僧・盤珪の道歌に、「内の仏にゃ、そりゃまだ早い。門の仁王にまづなりゃれ」というのがあり、同じく江戸時代の武人禅匠、鈴木正三の『驢鞍橋』冒頭に、「近年仏法に勇猛堅固の大威勢あるということを唱え失えり。ただ柔和になり、殊勝になり、無欲になり、人よくはなれども、怨霊となる様の機を修し出す人なし。いずれも勇猛心を修し出し、仏法の怨霊となるべし」という言葉が出てきますが、そういうど迫力の人でないと立派な坊さんにはなれないだろうと、僕は思っています。実のところ、僕が出家しなかったのは、こういう人が存在したということを宗教文献で読んで知っていて、とても自分にはそこまでの根性はないなと思ったからです。チンピラにナイフで脅されたぐらいでは僕はびくともしませんが(“実験”しに来ないで下さいよ)、自分のからだ全体に染みついた無意識の執着感情をすべて断ち切って二度と顧みないというような強さはない。それを恐れ、頑固に抵抗する何者かが、僕の中には存在するからです。僕の解釈では、出家するとはそういうものに対してすっかり死に切ることなので、それができる自信が、僕にはなかったのです。

 ところがこの世界は、出家者にとっては「根源を絶つ」べきだとするその「情識」を中心に、それを何より重要なものとして回っています。それに根ざす権力欲、名誉欲、財産欲は、活動の重要なエンジンです。それあればこそ人は歯を食いしばって努力もするのです。また通常の愛欲を否定されたのでは、何の楽しみもなくなってしまいます。映画やテレビドラマの大半はテーマを失って消滅するでしょう。これらをしかし、宗教は克服さるべき無価値なものとするのです。

 要するに、根本において宗教はこの世界と相容れない。江戸時代の儒者には、仏教は「人類絶滅」を目論むもので、とんでもなく有害で倒錯した教えだと非難する人がいましたが、ある意味ではそれは正しい。皆が出家してしまったら、生産システムは崩壊し、子孫は絶えて、人類は確かに滅亡するのです。僕が出家しなかったのと同じく、多くの人は出家しません。だから無事なのだと言えるだけです。

 そういうものを、どうやってふつうの生活人の中に取り入れるのか? 取り入れたとしても、それは中途半端なものにしかならないかも知れませんが、その欲望や自己のあり方に根本的な異議を唱える宗教思想は、学ぶだけの価値があると、少なくとも僕には思えるのです。先に述べた「利害調整の装置」としての世俗道徳だけでは足りない。もっと強力なアンチを、人は内に含みもつ必要があるのです。

 宗教に関心をもつ人には「心の安らぎが得たい」とか「悟りたい」とか動機は様々なようですが、僕自身にとっては、それは哲学などと同じで、自己認識、世界理解の方法の一つです。僕は「信じる」ということにあまり価値を認めない人間なので、わかりもしないことを「信じる」ということはありません。わからないことには判断を保留するだけです。

 それで、世俗的な通常の世界・人間理解と、宗教によるその理解を比較したとき、僕には後者の方がより合理的に思えることが多いのです。たとえば、先にもちょっと触れた仏教の無我説、縁起説は、この世に固定的な実体は何もなく、すべては関係のダイナミズムの中にあって、消えたり生まれたりしているだけだというものです。人間は生れ落ちたその日から名前をつけられ、身体的な一応の独立性に対応する「独自の自己」を仮想して、比較競争させられるうちにあたかもそれに対応する内的実体というものが存在するかのように思い込まされるのですが、それは心理学的な条件づけの一つ、観念的な虚構にすぎません。それは一個の思考習慣なのです。自然は人間を生き延びさせ、保護するために、一個の全体として機能させるソフトウェアを脳の中に組み込みました。その意味では自己観念は自然なものですが、それは機能とみなすべきもので、実体ではありません。少なくとも僕はそう理解しています。科学的にもそう解した方が妥当でしょう。

 ところが、世俗的な理解ではそれは実体で、他の何にもまして重要なものです。感情は思考に沿って形成されますが、その全思考の核に、幼時から注入され続けてきたこの「私」という観念があって、そこから色々な問題が派生してしまうのです。事物は「私のもの」とそうでないものに分割され、欲望もその感情に色づけされて、「私のもの」を守り、拡張する争いの中に突き進んでしまうことになる。僕の観察では、十代の健康な子供の場合、その「私」感情はそれほど根深く醜悪なものではありませんが、年齢と共にその「私」感情は粘着性の強いドロドロしたかたまりのようになり、いくら拭っても落ちない頑固な油汚れのようなものになってしまうのです。それが人間社会の不幸の一因であることは論をまちません(ないようなふりを装うヘンなオトナはたくさんいるとしても)。

 そうしたありようを仏教は「無明(無知)の生存」と呼びますが、これは全くもって正しい理解のように思われるのです。根本にそうした錯誤があるという仏教の指摘は正しい。そしてそれがよく理解されるなら、感情や欲望の性質もおのずと変化し始めることになるでしょう。

 このことにはオカルトがかったものや非合理的なものは何もありません。完全に正気でロジカルなプロセスですが、そうすると僕らはこの社会とは多くの場合、価値観を共有できなくなり、必然的に“異端”となるのです。

 仏教には私も神もありません。関係のダイナミズムと生命の働きがあるだけです。それは少なからず人を不安にさせ、途方に暮れさせるものなので、古来「それはニヒリズムではないか?」という批判が加えられてきました。制度化された伝統的なキリスト教(というのは、神秘主義的なそれはかなり趣を異にするからです)などでは、唯一絶対の全知全能の神がいて、私はその恩寵によって助けられ、救われます。しかし、仏教では救助されるべき私も、救助する神もいないのです(これまた、制度化された仏教では異なりますが)。だから、悟るべき私も当然存在しない。なぜなら「悟る私」とは、形容矛盾だからです。「悟り」とは「私の不在」を含意しているからです。

 ニヒリズム批判に戻ると、仏教がたんなるニヒリズムと違うのは、今「関係のダイナミズムと生命の働きがあるだけ」と書きましたが、その中には「知恵と慈悲」が入っているからです。「私」という妄想がその知覚と理解を妨げている。だから、その妨害を排除して、それを感受し、一個の生命体、現象として、その働きと協和して生きなさい、というのが仏教の教えです。少なくとも僕はそう理解しています。

 しかし、そうした「知恵と慈悲」が存在するという根拠はどこにあるのか? この世界のありようを見ると、そのようなものが存在するとはとても思えないほどです。法話の類で「仏の知恵と慈悲」を説くお坊さんが、日頃の行いを見ると「知恵と慈悲」とはほとんど無関係であるように思われることも珍しくないでしょう。先の不正のもみ消しに躍起になった某キリスト教団体の幹部たちにしても、卑しい利己的動機から言葉を悪用しているだけで、「神の愛」など実際は知りはしないのです。

 そうすると、そこは「信じる」か否かの問題になるのでしょうか? 無限の「知恵と慈悲」とは伝説の一角獣みたいなものだと。僕はそれも認識の問題だと思います。考えてみれば、「無明」をベースに運営されているこの人間世界が「知恵と慈悲」と無縁になるのはあたりまえです。ついでに言えば、古代グノーシス主義や、中世キリスト教異端のカタリ派は、この世界を「地獄」と規定しました。この物質世界は悪神デミウルゴスの所産で、善なるプシュケ(魂)はその中で肉体という牢獄に閉じ込められ、地獄の責め苦に遭っているのだと説明したのです。これはこの人間世界が「善なる神」の主宰のもと、正義に基づいて運営されているとする神学者の偽善(ヴォルテールは『カンディード』を書いてそれを皮肉りました)よりはるかにマシで、地獄だと思えばいっそ耐え忍びやすいし、意識的によくする努力をしないとこの人間社会は必然的により悪くなると考えるよう人々に注意を促す点で、“建設的”だと僕は思います。人間が「無明」に落ち込むのも、重力同様、強力なデミウルゴスの力がたえまなく作用しているからだと解釈できるわけで、これは面白い説明です。

 話を戻して、デミウルゴスのしわざか、たんなる動物本能に遠因する愚かさによるのかはともかく、人は「無明」のためにその「知恵と慈悲」から遠ざけられてしまうのだとすれば、いったんそこから自由になって、その背後に作用している力の働きを目睹することができれば、この人間世界のみじめなありようにもかかわらず、それは「実在」するものだとわかる可能性が出てきます。人を本当に安心させるものは、死後の天国の類ではなく、自他の別のない幼児の頃なら誰でも感じ取っていたであろう、その見えない働きの再認識ではないかと思います。それは幻覚剤を使ったり、滝に打たれたりしないと体験できないようなものではないはずで、目の膜(“私”の条件づけ)を外してみれば、つねにそこにあるものとして見えるかもしれないのです。

 しかし、世俗の欲望渦巻くこの世界で暮らし、それへの対応に追われていると、仮にそうした体験や理解を得たとしても、それは塵に覆われて、リアルなものとは感じられなくなります。「私」感情の根は死んではいないので、再びそれは増殖する。だから宗教書や瞑想の類も「二重生活」を送る身には重要になってくるわけですが、それはつねにアンチとして、「否定する力」として働くのです。それは気休めや、欲望の上にだらしなく安眠することを助長するものではないのです。

 話をわかりやすくするために、ここで「幸福」というものを考えてみましょう。

 一般に幸福とは、「願望が成就すること」です。勉強でも、仕事でも、恋愛でも、それは同じでしょう。願望が叶って成功すること。そしたら幸福感が得られると、人は思うのです。しかし、問題は二つあります。一つはその願望が様々な要因に妨げられて成就しないこと、もう一つは、期待したとおりになっても必ずしも幸福感が得られず、あるいはそれがすぐに色あせてしまうことです。

 要するに、どちらに転んでも人は幸福を求めての放浪者とならざるを得ない。そうして最後にはみじめな老いと病苦、死が待ち受けているのです。

 これが、仏教に言うところの「苦の生存」です。快苦を差し引きすれば、この世界では明らかに後者の方が多くて勘定はマイナスになる。人生は元々「引き合わない」のです。

 そこで初期仏教は、世俗の事物や人間との関わりすべてを捨てて出家し、心底(ここはシンテイと読んで下さい)からそうした願望・欲望へのすべての執着を取り除くべしとした。そうすれば欲望への渇きや不安・葛藤すべては消え去って、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」「無の境地」に至れるとしたのです。それは「生きながら死ぬ」ことですが、そこにこそ「真の幸福」はあるとするのです。

 要するに、「快」に「苦」はつきものだから、一切の世俗的関係を絶って、その当体となる欲望を丸ごと投げ捨ててしまえば問題は解決する、ということです。乱暴だが、シンプルな解決法ではあります。

 しかし、出家しても心理的に自由になる保証はなく、大方は中途半端にそれを引きずったままに終わることの方が事実としては多かったようだし、出家しない人間には、それは初めからできない相談だということになります。そこで大乗仏教の時代になると、俗世間の只中にあって欲望渦巻く中に生きながら、執着を離れて自在を得た非凡な居士を称揚する文献が現われてきます。

 これはあたりまえといえばあたりまえで、寺院にこもろうと、放浪僧になろうと、俗世間で暮らそうと、身体に付属した「生老病死」はつねについて回ります。それ自体を否定することは誰にもできないのです。食欲、性欲などの基本的欲望についても同じです。可能なことはそうした苦痛や欲望からの精神の自由が得られるかどうかで、それなら出家でも在家でも、後者の方が不断の誘惑にさらされる分困難は大きいとはいえ、理論的には同じように可能だということになります。

 そもそも、「涅槃寂静」とは何なのか? 仮にそれが静的な「何もない」状態であるとするなら、生のダイナミズムとは相容れません。それは墓場にあるものでしかありません。生きたミイラになってみても、あまり自慢にはならないでしょう。

 試みに手許の岩波仏教辞典を見ると、この言葉は「煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は静やかな安らぎの境地(寂静)であるということ」と解説されています。一歩間違えると「安らかな自己満足の世界」になってしまいそうですが、この「煩悩」は「自己中心の考え、それに基づく事物への執着から生ずる」とされているので、要は先に触れた仏教の重要な指摘、実在しない「自己」を妄想するところから、自己観念から生じるものなのです。そしてそこから、感情の滞り、変質が生じるので、もしそれが止めば(「高次の自己」なるものを立てて「低次のエゴ」を否定しようとするようなよくある観念操作によるのではなく)、ドブ川も清流に変化しうるということで、それは心のミイラ化ではなくて、心が本来のダイナミズム、自由さを回復することだ、と解釈できます。たとえていうなら、それは詰まった血管のコレステロールが取り除かれたり、便秘が解消するようなものです。スッキリ爽快!

 仮にそうだとして、そうすると世俗的な「幸福感」はどう変化するでしょう? 人はそれぞれ「理想的な人生の未来図」を思い描きます。最近の若者のそれは、僕が若い頃と較べると概してずいぶんと堅実・具体的で、医者とか看護師、薬剤師、理学療法士になりたいと言う子が多く、文系でも、潰れる心配のない大企業とか、公務員、学校教諭など、堅実派が優勢です。僕はたまに、何で塾の先生になったんですかと聞かれて、高校のときは詩人になりたかったが、才能がないのと詩では食えないことがわかって途中で断念して、その後は革命家を妄想し、そちらも夢破れたから食うために仕方なく塾教師になったのだと説明しますが、信じられない馬鹿なオヤジがいるものだと、口にはできないその思いを彼らが呑み込んでいるのがわかります。それで、塾でも食えなくなったら、尤もらしくあごひげでもつけて、新興宗教の教祖に化け、「空中浮揚」はとっくの昔にマスターしているし、超能力があるとか背後霊が見えるとか言って信者を騙すつもりだと言うと、彼らは笑います。先生は真面目な顔して出鱈目を言うのが得意だから、成功しそう、なんて失礼なことを言う生徒までいます。

 それはともかく、そういう青写真を作って、それと結びつく大学(できるだけ偏差値・世間の評価が高い)に入り、国家試験に合格し、あるいはシビアな就職戦線を勝ち抜いて、首尾よく社会でのスタートラインにつければ彼らはハッピーです。中には世の中のためにはなるが、あまりお金になりそうもない仕事を夢にする子もいますが、それが女の子の場合には、安定した職についた、人格的にも安定した善良な男を、よく吟味の上、夫としてゲットするのが一番よかろうと言います。そしたら生活の経済面は心配せずに、好きなことができるからです。男子の場合には、一生独身の覚悟を固めることです(そしたら自分が食べるだけ稼げばすむので)。

 しかし、人生は何が起こるかわからないので、事故や病気は別としても、希望の大学に入りそこねることもあれば、就職で失敗することもある。潰れないだろうと思った会社が倒産することだってあるし、結婚した相手が飛んだ見込み違いだったということもありうるわけです。仕事の内容が、自分が予想していたのと違いすぎて、転職を余儀なくされることもあるでしょう。

 「一寸先が闇」なのは、何も政治家にかぎったことではない。どんな人の人生も「一寸先は闇」なのです。予定や目論見がつねに狂うのは、人生の常態です。そのたびに「不幸」になっていたのではキリがない。「こうしたい・なりたい」と願望して、それに向けて努力しながらも、一面的にそれに固着せず、状況に応じて方向転換する柔軟さをもつのが、一番そうした「不幸」を少なくする方法です。また、周囲の評価に依存しすぎない心的な独立性をもつのも大事です。世の中のことは他者による評価なしにはすまないので、強がってそれを無視するのは愚かなことですが、そういうことに必要以上に振り回されるようでは、したいことをやり通すことはできないのです。

 要するに、人事をすべて相対的なものとして捉える自由な精神を、つねに心の中にもっていなければならない。「人間万事塞翁が馬」の故事を心得て、喜ぶのも落ち込むのもほどほどにできるのが(無反応になることではなくて)、一番賢明なことでしょう。そういう人間はめったなことではへこたれることがないし、安心して見ていられる。「私」が実体ではなく、それは一種の約束事で、人生はそれぞれのパートを担当しての仮装行列のようなものにすぎないと心得る人には、それもそう難しくはないでしょう。

 こういうことを言うと、それではおまえがさっき批判した「宗教の処世術化」と同じではないかと言われるかもしれません。たしかに見た目にはそうです。僕は塾の生徒に、「人は無私無欲で生きるべきで、利己的であってはならない」なんて説教はしません。個人としての幸福を追求してはならない、などとは言いません。人間として卑劣なことはするなとは言いますが、彼らが希望の大学に合格し、希望の仕事に就けるよう願っています。僕が仕事で相手にしている子供たちは皆、社会に役立つ人間になりたいと思っています。それで自分の安全を確保したいと思っているが、同時にそれは社会貢献の願望とも重なっているのです。両者が調和しているかぎり、そこには何の問題もない。

 問題は、両者が対立する局面、たとえば仕事でそれが自分の利益には合致するが、他の人たちや社会を深刻に害することになるような状況に直面したときです。外部には知られていないが、利益になるからと、とても社会的には容認できないようなことを会社がやっていて、それに自分が関わらざるを得なくなったとき、どうするかというようなことです。言われたとおりにすれば自分の地位は安泰で、出世もできる。反対し、拒絶し、どうしてもやめさせられないのでそれを社会の側に立って告発すれば、その人は組織の裏切り者にされます。必ずしも社会に敵対はしないことでも、公務員で、ほとんど意味のないことに予算が費消され、大事なことがなおざりにされているのを知ったときなどでも同じです。それが愚劣なことであるのは明白でも、自分が決めたことではないし、自分の勤めは命じられたことをやるだけだと言い訳することもできるでしょう(ナチスの強制収容所の看守たちは戦犯を裁く法廷で、自分は命じられたことをやっただけだから、残虐行為への責任はないと抗弁しました)。

 冒頭、僕は聖徳太子の有名な「和をもって貴しとなす」という言葉は、弊害の方が大きかったのではないかと言いました。それは好都合なお題目として、そうした困難な局面での現状の糊塗と、関係者の保身のために用いられることが多かったのではないかと思うからです。それが日本の社会をどれだけ腐らせてきたか。

 たとえば、この前の福島原発の事故だって、元はと言えば自分たちが作り出したロクな根拠もない「安全神話」なるものに関係者が安易に引きずられ、内輪の「和」を重視するあまり、個人が異を唱えることを避け続けてきたから起きたことでしょう。日本人の貧弱な「私」は他と対立することにたえられず、保身のために「深刻な事故は起きないだろう」という希望的観測にすがるだけになってしまったのです(現場では実際にはかなり深刻な「事象(事故では印象がよくないというのでそう呼ぶ)」なるものが頻発していたことを知っていたにもかかわらず)。

 「我を立てて争うな」という宗教的な教えが実際はそのように“適用”される。しかし、ケチな、弱々しい自我ゆえに明確な意見表明もできないことと、仏教の「無我」思想とは全く何の関係もありません。むしろ反対で、卑小な「私」が大事で仕方がないがゆえに、周囲との摩擦や衝突を恐れてそうなったにすぎないのです。仮に仏教思想を深く学んだ人がいれば、卑小な「私」から自由であるがゆえに、もっと強力な反対もできたでしょう。頭もきちんと働いて、シビアな現実認識も可能になったはずです。僕がこの種の言葉の使われ方や、よくある「怒るなかれ」というお説教にいかがわしいものを感じるのは、そのためなのです。世の中には怒ってはいけないどころか、怒り狂わなければならないときもあるのです。怒りの性質も問わず、とにかく怒るのは悪だというのは、ミソとクソの区別もつかない馬鹿の言うことでしかありません(自分の名誉のために付け加えておきますが、僕はめったに怒りません。塾の生徒たちに聞けば、それが嘘でないことがわかるでしょう。このブログに何度も書いた延岡の公立普通科高校の病的なありようと、教師や県教委の無為無策には腹の立て通しですが)。

 僕の言う宗教を取り入れた処世法と、偽善坊主の話とは、そのあたりで大きく異なってくるはずです。そういう局面に立たされたときは、「白刃も踏むべし」(これは論語の言葉ですが)という思い切りのよさが出てくる。そういう強さは、日頃の柔軟な、融通の利くおっとりした面と矛盾はしない。どちらも自己へのとらわれのなさから自然に導かれるものだからです。ここは世俗的な価値観や周囲の思惑を顧慮するときではないと、おのずと判断がつくからです。

 そういう人は自然にも似て、春風を吹かすこともできれば、必要に応じ台風となることもできるのです。陽だまりで寝ている猫にもなれば、農耕用の牛にもなり、ときには虎にもなることができる。一本調子でしか進めないロボットとは違うのです。

 ついでにもう一つ、宗教を内面化して多層的なものの見方ができるようになる恩恵は、色々な面に出るもので、たとえば、よく政治家は「国益」という言葉を使います。あたかも錦の御旗であるかのように。しかし、それは「私益」の拡大延長でしかないので、それが真の「公」なのではない。理想とすべきは「世界益」であり、それも人間だけのものではなく、「全生命益」であるべきです。むろん、国益と国益がぶつかり合う国際政治の舞台では、そんなきれいごとは言っていられないでしょう。しかし、それはやむを得ず「国益を守る」のであって、ほんとはそれだけでは駄目なのだということをよく承知していなければなりません(「国益」なるものが一部の国民にひどい犠牲を強いることもしばしばある話なので、その点でも事は単純ではありません)。「私」観念から自由に世界を眺め、ものを考えられる人はそのあたり、違った見方ができるようになるはずで、それは長い目で見れば行動の質に大きな違いをもたらすものでしょう。これは重要なことだと思います。

 最後に、よく「宗教の場合、きちんとした指導者がいないと誤解や独善に陥る」と言う人がいるので、それについても軽く反論しておきたいと思います。僕の考えでは、いてもそれは防げないのです。人間は人の話を聞くのでも、本を読むのでも、自分に都合のいいようにしか聞き、読まないもので、指導者がいてもそれは変わらないからです。これは今日とくに甚だしい。自他のその「どうしようもなさ」に気づかないのは憐れむべきことですが、気づくのはその人本人で、気づこうとしなければ外から何を言っても仕方がないし、気づけば自分で変わるのです。

 オウムみたいにステージ(境位)なるものを設けて、「おまえはここまで進んだ」と“認定”する根拠はどこにあるのか。あれも仏教の「師資相承」のシステムをパクったものだと思いますが、「悟った」自分にはそれがわかるのだと言うのは、いい気な事大主義でしかありません。麻原は、彼自身の妄想によれば、「最初にして最後の最終解脱者」だったそうなので、何でもお見通しということになるわけでしょうが、馬鹿も休み休み言ってもらわねばならないので、そんな人間は存在しないし、存在する必要もありません。いい加減愚かな「超能力幻想」から、宗教関係者はきっぱり手を切ることです。イエスによる「奇蹟」伝説や、仏陀の「神通力」をめぐる伝説は、いかがわしい宗教詐欺師とそれに引っかかって人生を台無しにする人たちをたくさん生み出してきたわけで、僕はそんな話には何の価値もないと思っています。空を飛びたければ、今は飛行機に乗ればいいし、遠方のことを知りたければ、電話を使うか、インターネットで調べればいいわけです。前世をどうやって知ればいいかって? そんなもの、知らなくていいのです(僕の知人には真正のその種の記憶らしきものをもつ人がいますが、それは自然発生的なもので、それはその人には意味があるから生じたのだろうと僕は考えています)。死後のことも、死ねばわかるでしょう。そうしたあれこれは、今をよく生きる上でべつだん必要なことではありません。
 宗教の重要な部分はそんなところにはないし、その重要な部分は一人でも学べる。僕は支配・被支配の関係のない、フラットで自由な「学びと交流の場」としての集団には好感をもちますが、世の中には親分・子分の関係が好きな人が多くて、そういうところにもともすれば指導者と弟子たちができるのです。これは人間社会の最も古い条件づけの一つです。古代マヤ予言の類がお好きな人たちは、そういう時代は終わって、これからは個人間の平等なパートナーシップと、自主自学の時代が到来するのだと考えたらいかがでしょう。

(以上、これでも十分に「長すぎ」ますが、倍あったのを半分に縮めたので、いくらかつながりに無理がある箇所もできたかも知れません。その点はご容赦下さい。)
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