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古代マヤ文明滅亡の教訓

2011.10.25(13:46) 117

 僕は商売柄、入試問題の動向には注意を払っています。毎年『全国大学入試問題正解』(旺文社)の英語の「国公立大編」と「私立大編」の二冊は必ず購入し(少し前までは他社のにもよいのがあったのですが、最近出版されなくなったらしいのは残念です)、それを折に触れて眺めては、そこから教材として良さそうなものを選定し、生徒たちに解かせるのです。できるだけ最新のものを使うので、毎年塾教材は大幅に入れ替わる。ときにはインターネットで見つけた面白い英文をこれに加えることもあります。

 そんなことをしていたらめんどくさいのではないか、と思う人がいるかも知れませんが、毎年同じようなことをやるより、その方が教える方も楽しいのです。大学入試の英文には大人が読んでも面白いものが多く、ジャンル・トピックスも多岐にわたるから、できるだけ偏りのないように気をつけていますが、たんなる「受験のためだけの勉強」では生徒たちも空しいだろうから、彼らに関心がもてて、かつ世界や人間について、より広い視野や深い理解のきっかけを与えてくれそうな英文をえらぶのです。むろん、授業では文法、イディオムや構文の説明を加えながら全訳する(生徒にはそこまで面倒なことをしろとは言わない)ので、きちんとついてきて、復習もしてくれれば、英語力そのものがつくはずです。教養と受験対策の一石二鳥。途中でしばしば僕の馬鹿話が入って、彼らはちゃんと笑ってくれますが、それがわが塾の“ガン”というべきかも知れず、そういうよけいな話だけ印象に残って、かんじんなことは忘れてしまうのではないかと、一抹の不安が頭をよぎることはあるのですが(僕自身は、一応形式的には大学院の修士課程まで終えたのですが、学校関係で記憶に残っていることと言えば、情けないことに先生たちの脱線話のみなのです。お勉強の記憶なし)。

 そこでやっと本題ですが、タイムリーな出題の多い今の入試問題には、この記事のタイトルみたいな内容の英文も出るのです。今どきの高校生たちはむろん、例の「古代マヤ予言」のことは知っています。今年か来年、「世界は終わる」という、あれです。中には、「私はもう人生に疲れました。こんな生活イヤです。早く世界が終わってくれればいいのに」なんて言う子もいて、それが学校の宿題の多さに苦しめられている一年生で、そのあまりに堂々たる言い方が可笑しかったので思わずふき出してしまったこともあるぐらいですが、「あれはたぶん、次の暦の計算に入る前に、マヤ文明自体が滅亡してしまったんじゃないの?」という僕の意見(別にさしたる根拠はありませんが)に賛同する生徒は多くて、この前、こういうのが入試問題にも出てるけど、やってみる?と聞いたら、やりましょうということになって、近々二・三年生用に“採用”される予定なのですが、今回はそれをダシにした話です。

 ここは英語の授業ではないので、どういう内容の英文かということを示すにとどめたいのですが、幸いにこれは英語原文も日本語訳もネットで読めるので、興味のある人は、最後にURLを付けておくので、あとでその全文(こちらは相当長い)をお読み下さい。ここには入試出題文の原文に相当するもの(というのは、入試出題文は一部英文が簡易化されたり、省略されたりしているからです)の訳だけ引用しておきます。これは「新説 マヤ文明 その繁栄と崩壊(原文タイトルはThe Maya:Glory and Ruin)」と題された、ナショナル・ジオグラフィックの特集記事の一部なのです(著者はガイ・クリオッタ)。ここに引いた日本語サイトの訳は読みやすいものですが、これにも多少省略があります。
 早速、その箇所を引用してみましょう。

《古代世界有数の偉大な文明マヤはなぜ滅びたのか。19世紀にペテン地方で“失われた都市”が発見されて以来、研究者に限らず、誰もがこの謎のとりこになった。初期の研究では、火山の爆発や地震、大型ハリケーンなど、突発的な自然災害が主な原因だと考えられていた。また、痕跡は確認できないものの、ペストや天然痘のような何らかの疫病が原因ではないかという説も唱えられた。しかし、今ではこうした「1回限りの出来事」を原因とする研究者はいない。古典期マヤの崩壊は、少なくとも200年にわたって徐々に進行したことがわかってきたからだ。
 都市ごとに事情は異なるが、現在有力視されているのは、人口過密や環境破壊、干ばつなど多様な要因が重なって滅亡に至ったという説だ。研究者たちがもう一つ注目しているのは、長い衰退期にマヤのあらゆる都市で起きた現象だ。資源が枯渇するにつれて君主の威光は色あせ、貴族からも庶民からも信頼を失った。そして社会不安が広がって人々は自暴自棄になり、戦乱を招いたというのだ。
 1000年以上にわたって、マヤの人々は神聖なる王が宗教的な安らぎと物質的な欲求を満たしてくれるものと信じてきた。このような統治システムは、人々の基本的なニーズが土地から生みだされる恵みで満たされるかぎりは機能する。実際、極端な神聖王権が生みだした高度な美術様式や技術で、マヤは古代世界の偉大な文明の一つになった。都市の規模が小さく、資源が比較的豊かだった時期にはうまくいっていたが、やがて人口が増え、特権階級が肥大化し、都市国家間の競争が激しくなると、環境への負担が増大した。
 今日、グアテマラ最大の面積をもつペテン州の人口はおよそ37万人で、広大な森林地帯に点在する孤立した町に散らばって細々と暮らしている。一方8世紀には、マヤ低地の人口は1000万人にも達したという推計もある。当時は、集約型農業の畑、菜園、集落がほとんど切れ目なく並び、踏みしだかれた道や舗装した堤道サクベが縦横に張りめぐらされ、都市国家を結んでいた。
 マヤの農民は、熱帯の脆弱な土壌から精いっぱいの収穫を得る高度な農法に精通していた。しかし、湖底の堆積層の調査から、9世紀の初めに長期の干ばつが何度かマヤ地域を襲ったことがわかった。ティカルのように飲料用や農業用の水を雨に頼っていた都市では、干ばつの被害はいっそう深刻だった。カンクエンをはじめとした川沿いの港湾都市は水不足を免れたかもしれないが、湖底の堆積層にマヤの多くの地域で古代に表土が流出した痕跡が残り、森林の乱伐や土地の過剰利用が推定できる。
 いったん歯車が狂うと、王が人々を救済する手だてはほとんどなかった。熱帯雨林という環境では、単一の穀物だけを大量に栽培し、余剰を備蓄したり、交易に回すことは不可能だ。マヤの都市国家は、トウモロコシ、豆、カボチャ、カカオなど多様な作物を少量ずつ生産していた。少なくとも当初は食べるのには困らなかったが、余剰はほとんどなかった。しかし、長い間にマヤ社会は一夫多妻や王族同士の結婚で支配階級が肥大化して不安定な構造になった。
 以前からあった都市国家間の競争も事態を悪化させた。王は隣国と張りあってより大きな神殿や優美な王宮を建て、華々しい儀式を行った。そのための労働力をより多く確保する必要性が増し、おそらく奴隷を献上させるための戦争が増えたのだろう。人々の負担が重くなりすぎて、マヤの政治システムは揺らぎはじめた。》

 …という話なのですが、真相はいまだはっきりしないとしても、ここには過去の栄華を誇った多くの文明が崩壊に導かれたのと共通の要素が見られます。一つは、繁栄が続くうちに人口が膨れ上がり、当初はうまく機能していた生産システムが袋小路に入って行ったこと。これは、たんに人口増加に生産力の増大が追いつかなかったというだけの話ではなくて、生態学的な無知(それが環境破壊を惹き起す)が災いして、システムが次第に機能不全に陥って、生産能力そのものが落ち始め、そこに旱魃だの洪水だの、地震だの、自然災害が重なってより一層ダメージが大きくなるという図式です(今でも入試可能かどうか知りませんが、僕が若い頃読んで興味深かったのは、ジャン・ドルスト著『文明の生命力』〔宮原信訳 TBSブリタニカ〕です)。

 もう一つは人間社会の側の、とりわけ統治機構の不具合です。マヤの場合は、「聖なる王」が頂点にあり、それを取り囲んで支配階級(貴族)が存在したわけですが、一夫多妻制の「子だくさん」などで、その連中が増えすぎた(姻戚関係がゴチャゴチャして、堕落した王朝にはありがちな、陰謀渦巻く権力闘争なども日常茶飯になったことでしょう)。そこに来て生産システムがうまく機能しなくなり、経済的に困窮し始めると、いっそう争いは増える。欲深い人間のつねとして、貴族階級は既得権益とぜいたくを手放そうとはせず、それを維持するために平民への搾取を強化したり、戦争によって他国(都市国家city stateで、それぞれが一定の独立性を保っていたようですが)を侵略して、そこの富を収奪して、住民を奴隷化するなどのことを考えたのでしょう。こうなると、王の権威は低下する一方で、たえず貴族たちの顔色を窺わざるを得なくなる。暮らし向きが悪くなって困窮の度を深めるばかりの平民階級の心も、当然離れてゆく。大地には怨嗟の声と絶望のため息が満ち満ちるということになって、権力をデモンストレートするための壮麗な建造物の建設や儀式の華美化とは裏腹に、社会は混乱と無力感の覆うところとなって、破滅へと突き進んでいったのでしょう。

 これは学生時代読んだもので、今でも記憶に残っているのですが、心理学者のユングがローマ帝国の崩壊について面白いことを言っていました。たしか「ヨーロッパの女性」という講演の中に出てきた話だと思うのですが、「無意識心理学」の大家らしく、彼はその原因をローマが版図を拡大して、奴隷人口を膨れ上がらせたことに見たのです。自由市民の数に較べて、奴隷の数が多くなりすぎた。そのため、奴隷にはつきものの投げやりと無気力が蔓延して、そうした無意識の影響力はどんな高い城壁を築いても防ぐことはできないので、皆がそれに“感染”してしまい、内部から精神的に蝕まれていった。異民族の侵入は、だから「最後の一撃」みたいなものにすぎなかったというのです。

 ローマ帝国については、他にも色々な滅亡原因が挙げられ、官僚制の深刻な害悪などもその要因の一つだと言われていますが、あらゆる文明の末期に「無気力」や自暴自棄に似た「諦め」が支配的になることはたしかだろうと思われます。

 こういう話を僕が興味深く思うのは、今の文明も同じ道を辿っているように見えるからです。世界人口は空前の規模に達し、自然はかつてないほどやせ細り、経済もグローバル化で単一経済に似たものになっているが、コントロール不能のおかしな金融システムを作ってしまったがために、それが危険で無責任な投機の対象になり、実体経済そのものがそれに翻弄されて、その都度世界各地で大小様々なクラッシュを惹き起す。その度に生活の手立てを失って路頭に迷う人が出るが、そんなことはおかまいなしで、金融資本はまた次の獲物を探す。それは貧者相手の住宅ローンであったり、どこか遠くの国の無駄なダム建設であったり、ときには戦争であったりもするわけです。何でもいい、儲かりさえすればいいので、そういうことが不幸な結末を迎えるたびに世界は全体として貧しくなるが、彼らは政治システムの操縦者であり、実質的な支配者なので、ツケはその都度全部社会的弱者に回して、自らは力を増強させる。こうして一握りの富める者と大多数の貧しい者との“格差”はさらに拡大するのです。しかし、そのようにして文明が繁栄へと向かったためしはない。それは文明が滅亡への坂を転げ落ち始めたときのお定まりのプロセスなのです。

 マヤ文明にしても、華美とぜいたくになじんだ貴族たちが生活を質素なものにあらため、学者も天文学の類だけに熱中するのをやめて、民の生活を思いやり、大々的に社会・生産システムの再構築に乗り出すなど、事態を打開することに努めていれば、破滅は免れたかも知れません。しかし彼らは生体に巣食った癌細胞にも似て、自らの目先の利害のみに腐心して問題の先送りと愚行を重ね、200年かけて自らの宿主である社会・文明そのものを崩壊に導いたのです。

 今は幸い古代のような奴隷制はありませんが、自分の労働力以外に何ももたない無産労働者(マルクスのいうプロレタリアート)は事実上それと似たようなものです。わが国の戦後の経済成長期のような時代には、経済発展が続くかぎり、貧者もそのおこぼれに与かって応分に豊かになれた。しかしそれが頭打ちになって、経済が縮小局面に入り、併せてグローバル化で、賃金の安い海外の発展途上国に企業の生産拠点がシフトするようになると、雇用が減少し、国内に残った企業も競争力を維持するために人件費を削減する必要が出てきて、政治はその産業界の要請に応じてパートや非正規労働者を増やせるよう“規制緩和”に踏み切り、不安定雇用が拡大したところに、リーマンショックみたいなことが起きるわけです。悪いことは重なるもので、その後にあの東北の大震災と津波、「人災」であることが歴然としている忌まわしい福島原発の事故が起きたりする(復興の最大の足かせになっているのが原発事故による放射能汚染の問題であることは言うまでもありません)。こちらはそういうのと較べればマイナーなので、大方の人は忘れてしまったと思いますが、先の台風12号に伴う紀伊山地の集中豪雨(これも百年に一度という規模のもの)なども、僕の郷里の和歌山県だけで被害総額は400億に達するなんて言われているのです。最近の大型自然災害は地球規模のもので、アフリカは旱魃で飢餓が深刻化するし、日本企業が多く進出していることから最近連日ニュースになっているタイは、洪水で目も当てられない状況のようです(これをアップする前に、トルコ東部で大きな地震が起きました)。

 これは過去の歴史が示すあの“悪いパターン”そのものに見えます。世界もわが国も全体として確実に貧困化していますが、問題は、こうした中でも「寄らば大樹の陰」で、公務員や大企業正社員などの“守られた”層の待遇はさほど変化せず、それ以外の人口的には多数を占める一般庶民との経済格差がかつてないほど大きなものになってしまったこと、つまり“痛み”が社会的弱者に集中的に出てしまっていることです。これは世界的な現象であるようです。

 マヤにたとえるなら、「神聖王」は政府です。それが国民のほとんどに「健康で文化的な最低限度の生活」を保証していられるうちは、政府への信頼は揺るがない。しかし、今はそうではなくなって、マヤの神聖王が威光と信頼を失っていったのと同じ状況になっているわけです。

 「貴族、支配階級」に当たるのは、政治家や財界、中央官庁、大手マスコミなどです。この前の福島第一原発の大事故をきっかけに明らかになったのは、独占企業体である電力会社に政治家も官庁も、大手マスコミ、学者、文化人たちも、原発が立地している地方自治体も“飼われていた”ということです。各種企業にとっても電力会社は「安定的にモノを高く買ってくれる」最上の顧客だった。一私企業が、いつのまにか社会を動かす途方もない権力を握るようになっていたのです。それによって生じた電力会社の驕りと無責任が、あの事故の背景にあったのは間違いない。監督機関はその役割を果たさず、マスコミは情報の隠蔽に協力した。根拠のない「安全神話」が、その中で広められていったのです。

 前には。土地バブルを煽った張本人である銀行を、影響が大きすぎるからと言うので、公的資金で救済して破綻を免れさせる、といった事例もありました(その際、大事な「大口顧客」にも救済措置が講じられた)。東電も倒産させず存続、“復活”させるのが政府の意向のようですが、大手金融機関も大電力会社も、支配中枢の中に確固たる地位をもち、その周辺にこれを支え、そこから恩恵を受ける多くの組織やエリートが群がっていて、彼らが実質的にはこの国の政治経済をコントロールしているのです。形態こそ違え、それはマヤの支配階級と似たようなものです。

 夜郎自大の金融業界が牛耳るアメリカ政治のおぞましい実態については前回見ましたが、世界各国の事情も今は似たようなものでしょう。無理が通れば道理引っ込む野放図なことを、あちこちでruling class(支配階級)がやっているのです。このブログでもそれは一度紹介しましたが、先の英国暴動の略奪騒ぎでも、彼らの道徳的堕落を政財界のお偉方がとやかく言うのはお笑い草で、この二十年の政財界の腐敗ぶりは目に余る、おまえらがその“見本”になっているのだと批判する英国人ジャーナリストがいました。

 世界恐慌の引き金になりかねないと最近よく話題になるギリシャの財政危機についてはどうなのでしょう? あれは政府のポピュリズム(大衆迎合)が大きな原因の一つだと言われています。公共事業の大盤振る舞いをして、勤労者の四人に一人は民間よりはるかに給料の高い公務員、加えて脱税が医者などの富裕層の代名詞になっている国だというのだから呆れますが、そういう無駄遣いを、赤字国債の発行でまかない続けていたからああなったわけで、しかし、その国債を買ってくれる海外の銀行や投資家が存在しなければ、自らの首を絞めるそんな借金も可能とはならなかったわけです。EUに加盟して、国債の信用が上がったからだと言いますが、ギリシャ国債は利回りがよかったから、これは儲かるというので買ったのではないのですか? 支払い能力の欠しい貧しい人たちに無理なローンを組ませて破綻した、アメリカのサブプライムローンと、そのあたりの無責任さはよく似ています。しかし、ギリシャが国家破産に追い込まれれば、大量の国債がただの紙切れになる、そうなったらそれを買ってきた国々の金融機関の破綻が相次いで、世界恐慌に発展しかねない。だから何とか阻止しなければと、多重債務者への追い貸しみたいなことで乗り切ろうとしているのでしょうが、個人の場合には、これは失敗が約束されたようなやり方だし、モラルにも反します。そういうときには自己破産させ、債権者は債権全部を放棄して、当人には貧乏覚悟で裸一貫からやり直していただくというのが、一番まっとうな話のように思われます。それができないのはいつものあの理屈、「影響が大きすぎるからそれはできない」だけです。

 ギリシャ危機の背後には、だから、利己的で自堕落な国民層と、それに迎合した政府だけでなく、有利な利回りを当て込んで、支払い能力のない者に金を貸し続けてきた周辺国の金融業界や資産家の強欲があったということになります。わが国の金融機関もギリシャ国債を買っているのかどうかは知りませんが。

 こういうふうに見てくると、今の文明世界を深刻に脅かしているのは、全体の福祉は考えず、自己中心的な欲だけに衝き動かされることから生じるモラルと責任感の全的な欠如です。それが上(支配層)から始まって下(一般庶民)に降りてくる――国でいえば、腐敗の度を強める大帝国アメリカから世界に“輸出”された――という図式になっているようですが、ともかくそれが通奏低音のように色々な問題に共通しているのです。そういうのが重なって屋台骨がぐらついているところに、規模の大きな自然災害が頻発するようになった。「そこまで堕落したら、もうどうしようもない。いい加減、おまえらは退場しろ」と自然に言われているような気さえしてきます。

 それが「自然の意向」なら仕方ないと思いますが、神のごとく寛大な自然はもう少し待ってくれるとして、僕ら人間に可能なことは何かと考えてみます。

 一つには、まず世界経済の撹乱要因の最たるものである、あのアメリカに代表される悪辣な金融機関に厳しい規制の網をかけることです。ウォール街へのデモをしている人たちは政府にそれを要求し、それができないのなら次の選挙で落選するという危機感を政治家たち皆にもたせることです。「なあに、適当に“ガス抜き”させてやれば、連中はまたおとなしくなるさ」と思わせてはならない。国際会議でも、貿易協定以前に、そこをきちんと話し合う、否、話し合わさせるのです。

 併せて強欲な資産家連中には「足るを知る」“美徳”を学習させなければなりません。死んであの世に金は持っていけないし、子孫に大きな資産など残すと、かえって彼らをスポイルすることにしかならないということをわきまえさせるのです(成功本や脱税指南書の合間に、西郷隆盛の遺訓でも読ませる?)。大体、投資などとは無縁の一般庶民はずっと銀行のゼロ金利に甘んじているのに、右から左へ金を動かす、というよりパソコンのキーを数回叩くだけで大金が稼げるなんて、“人の道”に反することなので、資本主義国家だから投資で稼ぐなとは言わないが、見込んだ人や会社を育てるために投資をして、応分の見返りを受け取るという、本来の投資の姿に照らしてそれが適切なものであるかどうかを判断するぐらいのことはやってもらいたいものです。「合法」だから許されるというものではない。自分たちにだけ都合のいいように制度や法律を作り変えておいて、合法もクソもないからです。他の連中もやっているのだから自分も…という安易な言い訳をさせないこと。賭博をしたければ賭博場に行ってやるのが筋というものなので、一般社会の経済市場でバクチを打つような真似を許すから、こうなるのです(その手の富裕層向けの会員制公営カジノというのはいいアイディアかも知れません。しっかり巻き上げて、その収益を福祉や貧民救済、赤字公債の償還に回せば、お金も生きてくるというものです)。

 わが国は三十年ぐらい前までは、色々問題はあったとはいえ、世界で最も経済格差が少なく、誰でも能力と努力次第で社会の重要ポストにもつける国でした。それが今は、企業だけでなく、政治家にも世襲の二代目三代目があふれ返っているし、社会全体に見えざる“階級”が形成され、それが“固定化”されつつあることは、多くの人が認める事実です。それは進学(受けられる教育の質で、どのレベルの大学に進学できるかは大いに変わってくる)、就職(勤務時間中の不倫行為で厳重注意を受けた例の原子力・安全保安院のカツラの西山審議官の娘は東電に入っているとのこと)、その他色々な場面で、有形無形の働きをするのです。ついでに言うと、今は弁護士になるのだって、法科大学院というところに行かないと司法試験の受験資格が与えられないことになってしまって、昔は学部だけですんだのに、貧乏人にはそんな余力はないから、これも親が“階級”に所属していて、相応に裕福でないと、法曹への道は事実上閉ざされたも同然なのです。経済が斜陽化しているときにそんな“改革”を企てるとは、愚の骨頂と言うほかありませんが、“階級”の隠れた意図があったのではないかと勘繰りたくなるような話です(他にありそうなのは、本業で食えない弁護士や、定年退職裁判官などに再就職の場を提供することで、どちらにしても自分たちの利得のためです)。それで社会的弱者の痛みがわかり、彼らのために闘ってくれるような法律家が育つのでしょうか? 甚だ疑問に思われます。

 逆に言うと、貧乏人の子供はロクな教育も受けられず、その子本来の能力に見合った学歴も得られないまま、親と同じような低賃金労働に従事する羽目になる確率が高くなるということですが、問題は、そうした人たちが増え続けるとどうなるかということです。上は上で固まり、下は下で固まるが、このまま後者の比率がどんどん高くなっていった場合、社会運営の中枢となり、政策決定に大きな影響を及ぼすのは前者なので、民主主義はいよいよ形骸化し、少数の自由市民と多数の奴隷に分かれていた古代国家に近いものに、いずれ変貌してゆくのではないかと、僕はそんな懸念まで抱くのです。

 そうしたくないのであれば、過度の所得格差は解消されなければならない。たとえば、今どきの労働組合は正社員の既得権益は守ろうと“闘争”するが、非正規社員の待遇については知らん顔で、それで同じような仕事をこなしていても、両者の待遇には天地の開きがあるなどというのは、全く馬鹿げた話です。そういうのは会社とグルになって弱い立場の人間を搾取しているというのと結局同じでしょう。労働組合なら、そこで働く全労働者のために闘え。そして公平な労働条件を実現すべく努めよ。僕はそう言いたいと思います。少なくとも70年代ぐらいまでは、労働組合にもそういうエートスがあったのではないですか(僕は学生時代、バイト先の労働組合の副委員長をやらされた経験があります。入って間もなく、労働組合の年次総会というのがあり、そこで勝手に「今度入ったあの学生は見るからに生意気そうだから、あいつにやらせよう」ということで衆議一決したからやれという乱暴さでしたが、驚いたことに、その会社はアルバイトにも、準社員として、額は多くないがきちんと年二回のボーナスが出たのです。小さな会社ながら、時給や他の待遇面でも恵まれていた。それはアルバイトも排除しない労働組合が存在していたおかげだったのです。余談ながら、僕がさらに驚いたのは、その労働組合を作ったのがそのときの雇われ社長だったということです。その人は社長就任と同時に労働組合の設立を命じ、かつそれが御用組合にならないように完全な独立性を与えたのです。そうしながら、現場の先頭に立って猛烈に働き、傾きかけていた会社の経営を数年かけて立て直した。僕は「労使交渉」と称して大酒のみのその社長に酒場でご相伴に与かり、さしで色々な話を聞きましたが、「何でわざわざ、そんな自分の敵を作り出すようなよけいなことをしたんですか?」という僕の不躾な質問に、「企業はその性格上、どうしても営利追求の機械のようなものになってしまうから、社員の人間としての生活を守るためにはそれに対抗する別組織を持たなければならない、そう考えたからだ」と答えました。この人は北海道の田舎の貧しい畜産地域出身で、高校卒業後上京し、医師を志してアルバイトをしながら受験勉強をしていたが断念した、という変わった経歴の持主で、高い学歴の持主ではありませんでしたが、人格・見識・能力とも、僕がこれまで出会った中で最もすぐれた人の一人でした。若い頃こういう人に出会えたことを、僕は今でも自分の幸運の一つに数えています)。

 しかるに、今の世の中の動きを見ていると、企業の価格競争力を強化するためには低賃金で働く労働者を増やすことが必要だ(でないと企業はみんな外に出て行ってしまって、雇用がなくなるぞ)→法改正をして派遣やパートなどの非正規労働を増やす→それに合わせて「貧困ビジネス」の一つである派遣会社の類ができる→会社の経営陣のみならず、そこの正社員たちも、自分の待遇を守るためにそれは好都合だというので、歓迎しないまでも、そうした動きを黙認する、という順序で、さしたる抵抗もなく、そうしたことがズルズル進んでしまったのです。公立学校などでも、今は臨時教員というのが増えています。しばしば臨時の先生の方が正教諭より生徒や親の評判がよかったりするのは皮肉ですが、聞けば、クラスも担任し、仕事内容はほとんど同じなのに、待遇はものすごく違うのです(年契約なので、翌年のこともわからない)。自治体は予算の関係からそうせざるを得ないのでしょうが、それなら年功序列賃金のカーブや多すぎる退職金に手をつけて、賃金体系を見直し、正教員の枠を増やして、そういう待遇格差をなくせばいいのです。僕が生徒から話を聞いてしばしば唖然とさせられるのは、正規教員の中に、何でそんな無能無責任な教師を雇っているのだと呆れさせられるような例が稀ではないことです。何を基準に教師を採用してるのかよくわからないのですが、あの世界ではどんなに無能無責任でも、いったん正教諭になってしまえば、公務員なので破廉恥な性犯罪(最近はそれも多いが)でも起こさないかぎり、クビになることはないのです。僕がここに、「こういうお粗末教師がいます」というのを具体例と共に詳しく書けば、それは驚くのを通り越して、爆笑を惹き起すようなものになるでしょう。実際僕は生徒から話を聞いて、何度も大笑いしたことがあるのですが、生徒や親にとってはそれは笑い事ではないのです。たしかにそれは笑い事ではない。僕が「この先生に当たったらもう終わり」と見ている某高校の50代の某英語教師などの場合、自習していたほうが生徒たちには百はマシなのですが、その先生をクビにすれば、若く優秀な教師が楽に二人は雇えるのです。また、こういうのに高い退職金を払うのも、税金の無駄使いでしかない。生徒たちには、「あの先生が定年退職になるまで、君らは我慢するしかないね」と言うのですが、こういうのは民間のまともな会社ではありえないことです。それが、公立学校では平気である。だから、教育環境改善のためには、「無能教師への早期退職勧告」制度というのも必要なのです(宮崎県には「スーパーティチャー」制度なるものがあるのですが、それも内輪の「教職員ムラ」だけで勝手にやっていることなので、何を基準に選定しているのか、よくわからないのです)。

 話を戻して、だから現段階でも、できることはいくらもあるということです。身内の正社員しか守らない労働組合にしても、臨時教員の気の毒な待遇になど何の関心もなさそうな今の公立学校の教師たちにしても、そこにあるのはたんなるミーイズム、利己主義です。そういう人間に広い社会的視野などもてる道理がありませんが、自分のことしか考えないそういう視野の狭い人間が増えることは、為政者、社会の支配層にとっては好都合なことです。わが身の安全が直接脅かされるまで、そういう人たちは社会で何が行われているか、知ろうとせず、知っても見て見ぬふりを決め込むからです。

 「勝ち組」「負け組」という愚劣な言葉がありますが、今の日本社会(世界の多くの国々の場合も)に必要なのは、数が減るばかりの椅子取りゲームにわれ先にと殺到することではないでしょう。いくらか座り心地は悪くなっても、とにかく座れる椅子を増やして、あぶれる人たちが少なくする努力をすることです(その上で働きに応じた差をつければ、悪平等にはならない)。権力の横暴を監視すると同時に、他者へのシンパシーを忘れずに、きちんとそういう取り組みを行う。それが民主主義というものですが、そうした精神が欠けているから世の中はどんどんおかしくなってしまうので、利己的な人間は他でもないその利己主義ゆえにしまいにはわが身すら守れなくなってしまうものですが、それは社会にも、文明にもあてはまるのです。

 この平凡な真理を忘れたがゆえに、問題解決能力を失って、過去の多くの文明は滅びた。今の文明も、このままでは同じ運命を辿ることになってしまうでしょう。そのことに、僕らはあらためて思いを致すべきではないでしょうか(政府は東電に合理化、リストラを求めているという話ですが、あんなひどい会社は解体するのが筋なので、この期に及んで何を中途半端なことをしているのだと思います。そのことが子供や若者に及ぼす教育効果についても、少しは考えてみるがいいのです)。

 以上、長々と「マヤ文明崩壊の教訓」と称してまとまりのないことを書いてきましたが、 最後に、これはどこの大学の入試問題なのか、それを教えてくれと言う人がいるかも知れません。今年、2011年度の、慶應義塾大学理工学部英語の第一問です。


※この方が便利だろうと思うので、記事の先頭ページを示しておきますが、日本語版では5ページ目が、英語版では7ページ目のThe question has fascinated …から次ページにかけてが、ここの日本語訳に相当します。

ナショナル・ジオグラフィック・日本語版「新説 マヤ文明 その繁栄と崩壊」
同 英語版 The Maya:Glory and Ruin
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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