FC2ブログ

タイトル画像

NHKスペシャル「生活保護3兆円の衝撃」を見て

2011.10.02(12:47) 114

 この番組は元々、9月16日夜10時から放映されたもののようでした。僕は仕事の関係で平日のその時間帯はまだ家に帰り着いていないので、その後(先週水曜)深夜再放送をやっていたのを見たのですが、かなり複雑な心境にさせられました。
 最初にNHKのホームページから番組紹介文をコピーしておくと、

《凄まじい勢いで増え続ける生活保護受給者。今年4月末の受給者は、全国で202万人を突破。世帯数で見ると146万世帯を超え、終戦直後の混乱期を上回り過去最多となった。給付額は3兆4千億円に達しようとしている。急増の背景には、リーマンショックを受け、2010年春に厚生労働省が65歳以下の現役世代への生活保護支給を認めるよう全国の自治体に促したことがある。 全国一受給者が多い大阪市では、市民の18人に1人が生活保護を受け、今年度計上された生活保護費は2916億円、一般会計の17%近くを占めている。危機感を抱く大阪市は「生活保護行政特別調査プロジェクトチーム」を設置、徹底的な不正受給防止にあたると共に、受給者の就労支援に乗り出している。しかし巨額の生活保護マネーに群がる貧困ビジネスは悪質化、肥大化し、摘発は進まない。また、就労意欲の低い受給者に職業訓練や就職活動を促す有効な手立てがない中で、不況下の再就職は困難を極めている。 東日本大震災の影響で今後受給者が更に増えるとも言われる中、今年5月から、国と地方による生活保護制度の「見直し」に向けた協議が始まっている。番組では非常事態に陥った大阪の生活保護をめぐる現場に密着。「働くことができる人は働く」という日本社会の根幹が日に日に毀損されていく状況をどうすれば止められるのか、そのヒントを探る。》

 …となっています。「(解決への)ヒントを探る」となっていますが、正直そんな「ヒント」が与えられているとは思えず、最後に学習院大学教授・鈴木亘氏と「年越派遣村」で有名になった湯浅誠氏のインタビューを短く紹介して終わっているのですが、ネットで調べると、その鈴木亘氏がブログで「すさまじい編集ぶり」を嘆き、「もうNHKには出演しない」と書いておられるのを見て、驚きました。「発言の一部だけカットし、極論に仕上げている」というのですが、このブログに書かれているとおりなら(そうなのだろうと思いますが),たしかにそれはひどすぎます。

《「稼働能力層を生活保護に入れるべきではない」、「指示義務で自立支援プログラムへの参加を強制すべき」という発言だけにカットされては、世間の期待通り「血も涙も無い経済学者像」そのものですね。確かに、前ふりでそう発言したことは認めますが、発言の全部を取り上げないで、前ふりだけでカットされるとは、正直、驚きました。》

 詳しくはそのブログ記事〔=NHKスペシャル「生活保護 3兆円の衝撃」の残念さ〕の方を直接ご参照いただくとして、テレビは(新聞も似たようなものですが)これだから恐ろしい。有名人ではないからその心配はありませんが、たとえば僕があることにコメントを求められて、それに深く関与した学者なり政治家なりについて「あんな馬鹿どもは、もう死刑だ!」と放言したとします。その前にそのことがどんなに無責任、悪質なことであるかをるる説明した上で、です。しばらくたって僕はインタビューを受けたその番組を見る。そしたらそこには、憎しみに燃えた目で(視聴者の目にはそう映る)「馬鹿どもは死刑だ!」と叫んでいる自分の姿だけが大きく映し出されているのです。前後の文脈はなし。
 これはそれと似たような話なので、民放と違ってNHKは「公正」だからそんなことはしないだろうと思うのが素人の浅ましさ、いうことになるわけです。尤も、一時間半も二時間もかけたインタビューを、僅か1分足らずのコメントに仕立て上げようとすれば、どのみちまともなことにはなりっこないと言えますが。

 話を戻して、時間軸に沿って整理すれば、こういうことです。生活保護制度は戦後の混乱期、昭和25年に始まった。その後、高度経済成長期を迎えて、慢性的な人手不足になるほど雇用も増えたので、受給者の数はそれに伴って減少していった。日本は「豊か」になったのです。ところが、バブル経済の崩壊以降、不況は長期化し、仕事を失って生活難に陥る人が増え続けた。上の番組説明にも「急増の背景には、リーマンショックを受け、2010年春に厚生労働省が65歳以下の現役世代への生活保護支給を認めるよう全国の自治体に促したことがある」と述べられているように、その間に労働市場の「規制緩和」も進んで、パートや派遣労働が急増し、契約を打ち切られればそのまま住む場所さえ失ってしまうというような人が増えていたので、そこにリーマンショックが起き、その余波で非正規労働者の大量首切りが発生、社会問題化して、「そういう人たちを助けないのは不当だ!」という声が高まって、そういう「厚労省の促し」となったのでしょう。この番組で示されているデータによれば、増加分の7割は本来保護対象としていた高齢者や母子家庭、障害や病気を抱えた人たちではなく、「本来なら働ける」(鈴木教授のいわゆる「稼働能力層」の)人たちなのです。

 「全国一受給者が多い大阪市では、市民の18人に1人が生活保護を受け、今年度計上された生活保護費は2916億円、一般会計の17%近くを占めている」というのは、真に異常な事態です。そんなことが続いたら、財政がもつはずはない。
 生活保護費の支給月額は、人や年齢によっていくらか差があるようですが、12万円前後で、今は最低時給(これも地方によって差がある)が800円に満たないので、それでフルタイムで働いたより収入が多くなるということも触れられていましたが、それはむしろ甘すぎる見積もりなので、生活保護の場合は医療費の自己負担はゼロで(だから悪徳病院がいりもしない薬をたくさん出して、自治体にその代金を請求するというようなことも起こる)、健康保険料や各種税金が差し引かれることもないから、そうした支出を考慮すれば表面的な数値よりずっと大きな開きが出るはずです。正社員ですら、実質的にはそれ以下の収入しかないという人が今はいくらもいるでしょう(国会で問題になるほどの“高給取り”のNHK記者には、そういうことは想像しにくいのかも知れませんが)。

 だから、「こっちの方が楽でいい」と思う不心得な人が中にいても、別に不思議ではないのですが、同時に僕に思い合わされたのは、何十万人(百万を超える?)とも言われているひきこもりやニートです。こちらは税金の世話にはなっていないが、代わりに家族が生活を支えている。それも高齢になった親が亡くなったり、家族の主な働き手が職を失ったりすると、たちまち行き詰まるわけです。そうなったら、彼らには生活保護以外、何があるのでしょう? 親がまとまった額の遺産を残してくれれば別ですが…。

 大阪市は健康で、就業意欲のありそうな受給者に職探しを促すべく、ケースワーカーを大幅増員したり、業者に委託して就職支援するなど減らすのに懸命なようですが、それで実際に就職した人が大きく増えたというのならまだしも、僅か数パーセントときては、あまり意味があるようには思えませんでした。対策費の方が高くついて、かえって財政負担が増えてしまうだけでしょう。

 湯浅誠氏も、鈴木亘教授も、稼働能力層の人たちには、生活保護以前のところで何らかの支援対策を組むべきだという点では共通しているようです。自助努力をして、パートでも何でも、自分に可能な努力をしている人だけ、一定基準に照らして不足分を公費で援助するというのが、僕にも一番いいように感じられました。その方が社会的公平の観念にも合致する。

 しかし、雇用の場が、やとってくれる会社がないとどうにもならない。それもいずれは正社員になれるとか、自分で何か商売が始められるとか、未来に希望がないといけません。「ずっとこれが続くのか…」と思えば、元気も出てこないでしょう。高度経済成長の時代にはその希望があったわけですが、経済が縮小して、雇用もそれ以上のスピードで収縮している今は、そこが何より難しいのでしょう。

 このあたりまで来ると、僕は書く手が止まってしまいます。雇用が大事だが、「こうすれば雇用は拡大する」という案が何一つ思い浮かばないからです。せいぜいがこの前も書いた、働きに見合わない高給をとっている人の給料を減らして、それを原資にもっと人を多く雇ったらどうか、ということぐらいです。
 しかし、企業には昔のように新人を育てて、という余裕もない。中途採用となればなおさらで、番組でも生活保護受給中の若者に代わって電話をした係員が、「ほしいのは即戦力だ」と言って断られているシーンが映し出されていましたが、経験もスキルもなく、おまけに本人ではなく、“世話係”が代わりに電話をしてくるようなことではお話にならない、というのが会社側のホンネでしょう。

 「義を見てせざるは勇なきなり」で、定年退職した世代(今は団塊の世代の人たちがその時期にさしかかっています)で、お金にゆとりのある、経営センスもある人たちが地域に根ざした小さな事業でも起こして、そうした職にあぶれた若者を雇って育ててくれるなどすれば、だいぶ事態は変わってくるかも知れませんが、そんな話もほとんど聞えてきません。しんどい上に、リスクも大きいからです。財テクでできるだけ預金の目減りを減らす一方、自分たちの年金支給額見直しには反対する、というのが関の山でしょう。

 他に、システムが出来上がったところに生まれて、そのレールを走ることしか教えられてこなかった今の人間は、それから外れると途方に暮れてしまって、「自分で餌を探す」能力がいかに乏しいかをあらためて痛感させられる、といった事情もあるでしょう。激動と貧困の過酷な時代を生き延びてきた親や祖父母の代の日本人とはそこが違うのです。それは時代環境の影響が大きいので、いちがいに責められないと思いますが(この他にも「無縁社会」化して、人間関係が希薄になり、伝手で職探しをすることが困難になってしまったという事情もあるでしょう。失業すれば職安の電子端末に頼るしかないというのは、僕には寒々とした光景に映ります)。

 だから僕はNHKのその番組にも、自分の頭の中にも、この問題を解決する「ヒント」らしきものは見出せなかったのですが、「それだけ厳しい時代になったのだ、子供や若者は覚悟せよ」というような結論で終わることには、心理的抵抗があります。

 そこで、あらためて考えてみましょう。今の日本の社会システムは“沈みかけた泥舟”みたいなものです。その中でできるだけ「安全確実」な場所を確保しようと必死に競争しているのが今の大方の人の姿だと見えるのですが、それだけでは早晩全体が混乱のうちに崩壊してしまうのは目に見えているので、迂遠なようでも、創造的な、新しい発想がもてるような多種多様な才能を育てなければなりません。それが新しい産業分野、新たな雇用の場の創出にもつながってくるでしょう。かねて僕は金融だのITだの以外にもっとマシなもの(失礼!)はないのかなと思っているのですが、代替エネルギーの分野などはそうした候補の一つなのでしょう。他に、これまではなかった種類のサービス産業なども、出てきてしかるべきです。安手の「成功本」を書き散らすだけの三流インテリではない、文化領域を深化拡大してくれるような大作家や大思想家も出てきてほしい。

 そういう動きは、すでにあることはあります。農業などでも、地方の自治体や農協職員などの中には有能な人がいて、ニーズがありそうなものを見つけ出して販路を確保し、農家にそれを作るよう呼びかけて、おかげで農家が助かっている、というようなケースです。小さなことのようでも、人々に活力を与えるという点で、その意味は大きい。

 他に、「前例踏襲」と「国益より省益」で悪名高い官僚制度の改革や、今回の福島原発の事故で露わになった“八百長メディア”の根本的改革など、事態改善への足かせとなっているものを変えていくなどのことがあります。今の日本社会は、風通しが悪すぎ、嘘が多すぎるのです。そういうことにチャレンジするには、「泥舟でも何でもいい、とにかくそこに割のいいポストを見つけて、自分の身の安全を確保するのが第一だ」という後ろ向きのメンタリティの人には無理でしょう。非利己的でタフな、いい意味での「こわし屋」が一定数出てきてくれないと、うまくいかないわけです。

 結論としては、こうなります。今のように稼働能力層の生活保護がどんどん増えたのでは、高齢者の増加によって医療費が増え続けるなど、それでなくても現役世代の負担は大きくなっているのに、同じ世代の働ける人間の面倒も見なければならないことになって、それはあんまりだということになってしまうでしょう。ましてや今は大震災からの復興で増税が始まるという時期です。だから関係当局や専門家たちに知恵を絞ってもらって、それに何とか歯止めをかけるしかない。ひところは役所の生活保護の窓口の係員の態度の悪さ(自分が食わせてやっているのだと言わんばかりの横柄な態度を取るなど)が問題になったことがあったので、そこは人間的にやってもらわないと困りますが。

 これはいわば対症療法なので、もう一つは長期的な観点から、多彩な才能やアイディアをもつ、勇猛果敢な若者を多く育てることです。それで新産業をリードする人が出てきたり、柔軟で相互扶助精神に富む新しい社会システムの構築に貢献する人たちが出てきてくれれば、いわゆる社会の「パラダイム転換」ができて、いっときは大変でしょうが、困難を乗り切ることが可能になるのです。

 どちらも現実的観点からすれば望み薄だと言う人が、とくに後ろの部分に関してそう言う人が多いでしょうが、より重要なのはその後者であって、それができなければ悲惨な結末の未来しかないだろうと、僕は思っています。

 しかし、今の教育ときたら…。僕は何度もここに「延岡の県立普通科高校の硬直しすぎた、病的な過剰管理教育を変えるべきだ」という趣旨のことを書きましたが、たんなる受験教育の観点からしてでさえ何の合理性もないようなことを「昔からやっていることだから」という理由だけで続け、生徒たちを無駄に疲労困憊させて恥じず、完全な思考停止に陥っている学校や教育委員会が、「未来を見据えた教育」なんか考えられるわけはない、と思わざるを得ないのです。僕は今の子供や若者が駄目になっているとは全然思いません。彼らには才能も豊かな感受性もある。教育は農業と似ていて、大切なのはよい環境とそのときどきに適した刺激と栄養を与えてあげることです。無理強い抑えつけたり、引っぱったり、ちょん切ったり、そんなことばかりしていたのでは作物は枯れてしまいます。子供たちの“自ら育つ”力に信頼して、必要な援助を提供すること――それが教育です。

 大人の側が愚かな次世代の破壊工作(あえてそう呼びます)を行わないかぎり、自然は時代の困難を乗り切るだけの新たな才能や素質を準備してくれているはずです。それが信じられなければ、馬鹿らしくて教育なんてやっていられないはずなので、干からびた自分のエピゴーネンやそれ以下のものを“再生産”することしか考えられなくなったら、その社会と文明は終わりなのです。

 そのあたりのことに、今の大人はあらためて思いを致さなければならない。社会の中枢に座る今どきの学歴エリートたちの利己主義丸出しの、お粗末で無責任なていたらくを見れば、従来の学校教育そのものが失敗に終わっているのは明らかなのだから、独立不羈の精神をもつ、モラルも高い、柔軟な発想と力強い行動力をもつ次世代を育てるには、人を狭い枠にはめ、矮小化するだけのこんな教育をやっていたのでは駄目なのだとわかるはずです。

 根本的な解決のヒントらしきものは、おそらくそこにしかない。教育――それは学校教育だけではなく、家庭や社会全体を通じての実物教育を含みますが――の“質”が変わることなしには、難題山積のこの窮状を突破することはできないのです。

 対症療法は必要ですが、それだけではその場しのぎでしかないので、「急がば回れ(ラテン語ではfeatina lente、英語ではSlow and steady wins the race)」の教育改革が不可欠だということです。下らないことを大人が一々“指図”するのではない、子供たちが自分で道を切り開いていくことができるポテンシャルを高める教育が、です。それには教師をいっぺん全員解雇して、新たな採用基準でえらび直すぐらいの荒療治が必要なのではないかと思いますが(とくに延岡の高校など見ていると)、それは現実性に欠しいとしても、せめてもう少し危機感をもってもらわないと、沈む泥舟に子供たちを巻き添えにする結果にしかならないでしょう。その罪は大きいと知って、教育のあり方を真剣に問い直すべきです。何をどうすればいいかわからないというのは、当事者意識と真剣さの欠落の産物でしかないので、そんなことは言い訳にはならないと僕は思うのです。
スポンサーサイト





祝子川通信 Hourigawa Tsushin


雑談 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]