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みたび、延岡の県立普通科高校の問題について

2011.08.03(13:33) 102

 最近このブログはどういう風の吹き回しか、一年以上前に書いた「教育という名の児童虐待」(2010.6.5)という記事へのアクセスで賑わっているようです。コメントが書き込めなくなっているはずなのにコメントも入っていたりして(二つ入っていたのが一つに減りましたが、それはクリックすればその人の携帯に直接つながるようになってしまっていたので、まずいと思って消したのでしょう。代わりにメールフォームを使ったらしいのが再度届いていました。今残っている人のはその心配はなさそうです)、電子機器音痴の僕にはかなり不可解なのですが、塾の生徒に聞いたところでは、今どきの子供たちはケータイでブログも読むそうなので、あんな小さな画面で、あんな長たらしい文章まで読むのか、とそれにも驚きました。むろん、書いているのは塾の生徒たちではないので、口コミで読む生徒が増えて、その中にコメントを書いてくれる生徒も出てきた、ということのようです(今後はメールフォームの方を活用して下さい。そうすれば僕のところに届きます。「拍手ボタン」を残しておけばよかった?)。

 多くの生徒が読んでくれるのは大歓迎で、それはたいへん有難いのですが、県の教育委員会や学校そのものが動いてくれないことにはどうにもなりません。この前の「忙しすぎる子供たち」(5.18)の方は県教委にメールで送って善処を求めたので、このブログの存在を知らないはずはなく、学校の先生たちの中にも見ている人はいるはずですが、そちらの反応はいたって鈍いように思われます(一部に「見て考えてくれたのかな?」と感じさせる動きもあるにはありますが…)。僕が一番問題視している星雲高校なんかは、やっていることからして、完全無視を決め込んでいるとしか思えず、それは三年生たちがその後、どんな目に遭っているかを聞いてもわかります。毎日夜9時まで、学校に“自発的に”残って勉強しているとか(朝は7時半から授業なのですよ!)。夏休みも、三年生はまだ“熱烈課外”の最中だろうと思うので、呆れ果てて、もはや書く気も起きませんが、過剰管理も度が過ぎて、狂気の域に達している、と僕には見えます。ブレーキが壊れた暴走車みたいなもので、先生たち自身、どうすればいのかわからなくなっているのではないでしょうか。

 延岡高校の生徒たちはそれを聞いて、「下見て暮らせ」の江戸時代の農民心理さながらに、それと較べれば自分たちはまだ恵まれていると自分を慰めたりするわけで、「ぜんたい、そこはどんな土地なんですか?」と、外部の人は呆れるでしょう。

 今どきの公立高校を変えるのは、巨大独占企業の電力会社を変えるのと同じくらい難しいのかも知れません。教育委員会も国の原子力安全委員会や経産省の原子力安全・保安院と同じなのかと思うとガッカリしますが、朝課外の廃止なんかは、行政機構の性質からしてそんなにパッパとできるものではないでしょうから、県教委も考えてはくれているのだろうと期待します。僕は学校を潰そうとしているのではなく、生徒にも先生にもプラスになる改革を提案しているつもりなので、単純に「悪口を言われた!」と頭に血をのぼらせるような幼稚な人だけではないだろうからです。率直に言って、このような頑迷な学校のあり方は、抜群の子育て環境を誇る、風光明媚な延岡市の汚点です。学校当局はお手盛りの「学校関係者評価書」なるものをホームページで公開していますが、こういうのは電力会社の原発安全パンフレットと同じで、たんなる「やらせ」にすぎないというのが一読した僕の感想です。あんなお座なりの無内容なものでは誰も読まないでしょう。来年の「評価書」にはこのブログに書いた提案にどう対処したかも、きちんと書いてもらいたいものです。僕が言っているのはそんなに難しいことではありません。

・朝課外は生徒たちの慢性的睡眠不足の原因になっている(教師の過労の原因にもなっている)だけなので廃止が望ましいということ。夏休みの課外授業まで7時半スタートというのは「意味わからん」と生徒たちは皆言っていますが、尤も至極です。夏は寝苦しい上に、受験生などは涼しい夜に遅くまで勉強する子が多いでしょう。だから大方は寝不足になって、半分眠った状態で授業を受ける羽目になるので、授業が身にならないのです。そもそも、これは「課外授業」というより、ふだんの授業の延長にすぎないので、「自分で勉強した方がずっとマシ」という声も多く聞かれます(高校時代、夏休みの夜の時間――昼間は川に行ってしまうので――は、僕には本のかため読みをする理想的な時間でした。今でも夏になると本が読みたくなるのは、昔のそんな習慣の産物です)。

・宿題の質を吟味し、減らすこと。僕に信じられないのは、どの教師も自分の学科のことしか考えていなくて、それが全部合わさるとどれくらいの量になるか、チェックして調整する機能が全く働いていないらしいことです。だからいつも全体として量が過剰になり、まともにそんなものに付き合っていると、自分の勉強は何もできないし、夜遅くまで宿題に追われて、睡眠不足にさらに拍車がかかることになる。その宿題も、自分で答え合わせをして提出させ、教師はハンコを押して終わり、といった安易なものが多い。それなら、生徒が各自自分で判断して、自分に必要と感じられる勉強を自分で工夫しながらやる自由を与えた方が学習効果もずっと上がるでしょう。押し付けてとにかく量をたくさんやらせれば何とかなるというのは、あまりにも安易な発想で、そういう教師ほど無能で授業はお粗末、従って生徒の学力もつかないのだということは認識しておくべきです。

・授業の工夫のなさについて。僕は英語の教師なので、それについてだけ言うと、とてもプロがやっているとは思えない不可解な授業が多すぎる。それについては先の二つで述べたので、詳しくはそちらを参照していただきたいのですが、個々の先生には能力の高い人もいるのだから(箸にも棒にもかからない月給泥棒みたいな教師もいるけれど)、延岡高校の場合だと、あの「ベーシックグラマー」なる、だらだらと無駄に量ばかり多く、フォーカスの絞れていない「手が疲れるだけ」(生徒たちの言葉)の“伝統”プリントは廃止した方がいい。文法学習の上でも有効性が疑わしいだけでなく、あれのせいで、重要な読解や英作文の授業は長くゼロになっているのだから、弊害は甚だしいのです。学年共通の定期試験の関係から、“統一規格”がどうしても必要だと言うのなら、別の教材を考えるべきです。星雲高校のやみくもな強制的・機械的暗記と物量作戦のみの“指導”については、何も言う気がしない。今は公立高校でも進学実績が向上した学校が増えていますが、それは授業時間の延長や、宿題の量の増加、罰則強化の類に頼ってそうなったのではなく、予備校の有能な講師にレクチャーを受けるとか、相談して指導の仕方に抜本的な改善を加えるなどして、“質”の向上に努めた結果です。そこを考えずに、課外授業を増やし、宿題の量だけ増やしても、生徒たちはよけいに疲れてマイナスの効果しか生まれない。延岡のこれらの高校は、その悪循環にはまり込んでいるのです。

 言うまでもなく、学校教育は社会の最も重要な営みの一つです。学校はたんに教科書知識を詰め込むだけの場所ではない。その管理、指導のあり方そのものが生徒へのメッセージであり、それは有益なものでなければなりません。生徒に慢性的な寝不足と疲労を強いるだけの、だらだら時間ばかり長い授業と、夏休みも課外で三分の一に削る(三年生はさらに少なく、おまけに大量の宿題付きなので、実質的に休みなどないに等しい)ようなやり方、無意味に量だけ多い宿題――そういうのに、文句は言うな、黙って従え、では、「是非善悪は問わず、権力には盲従せよ」と教えているのと同じです。生徒はアンケート(本来無記名にすべきですが、名前を書かせている)なるものに勇気を持って真面目に意見を書いても、きちんとした返事は一度も返ってこない。なら、そんなものはやるだけ無駄なので、さっさとやめればいいのです。前に書いた延岡高校の「マフラー禁止」のアホな校則についても同じ。何でその程度のことも撤廃できないのだと、生徒たちは不信と無力感を植え付けられるだけでしょう。

 教師の仕事は道理をもって生徒を説得、指導することです。それが延岡のこれらの高校では逆で、道理のあることを生徒が言っても教師が怒り出すか、無視する。そんなのは、教育者ではありません。だから、生徒から信頼が得られず、尊敬もされなくなるのです。中には何かというとすぐ怒鳴り散らしたり、机を蹴飛ばしたりする呆れた教師もいるという話で、それで生徒が言うことを聞くと思うのは、生徒を犬畜生扱いしているのと同じで、人間としての基本がなっていないと言わねばなりません。自分を尊敬してほしいのなら、まず相手を一人の人間として尊重することを学べ。もの静かな対応をしていても、信頼しうると思った教師の言うことは、生徒は聞くものです。それは昔も今も変わりません(昔も居丈高で傲慢な問題教師はいるにはいましたが、そういうのは弁の立つ生徒に舌鋒鋭くやり込められて、赤恥をかかされるか、理不尽な暴力をふるう教師などは、逆に喧嘩の強い生徒に殴り倒されたものです。今は平和が長く続いたせいもあって、そういう活きのいい男子生徒がいなくなってしまったのでしょう。むろん、こういうのは身勝手そのものの無法なクソガキどもの「対教師暴力」とは別次元の話です)。

 僕がとくに問題視しているあの「朝課外」については、九州では他県にもあるのかも知れませんが、関西や関東にはない「制度」です。元からそんなものは必要なかった、と僕は思います。よけいなものをこしらえておいて、“伝統”だからとそれに固執する。おかげで生徒も教師も疲れ果てているわけで、そういうのは実に愚劣なことではありませんか。せめてふつうの8時半始業に戻すべきです。それでも宮崎県の大学進学率が突出していいというのなら教育ママパパは支持するでしょうが、そんな事実はないどころか、そのせいで慢性的な睡眠不足を招いて、学習効果が落ち、むしろ有名大学への合格者が減っているのです(だから、他県の高校は実情も調べずにこんなものを真似して「導入」してはいけません。生徒も教師も無駄に疲れるだけなのです)。僕の感触では、子供たちの元々の資質に比してパフォーマンスが悪すぎる。理由は彼らが疲れすぎているからです。僕は前に九州大学の2009年度の英語入試問題の大問1を見るよう、注意を促しました。そこにはティーンエイジャーには成長期の生理学的な理由から多くの睡眠時間が必要で、朝早くからの授業は慢性的な睡眠不足を招いて、抑うつや非行、学業成績の低下などの原因になると述べられています。僕は生徒たちにこの英文を拡大コピーして、学校の廊下や教室に貼ってやれ、と冗談めかして言ったことがありますが、それらの学校の教師たちは九州大学は有難がるくせに、こういうのには無視を決め込むのです(それとも、そもそも入試問題も見ないまま受験指導をしているのか?)。同じような、「朝に弱い」高校生への教育上の配慮の必要性については、年度は忘れましたが、横浜国大の英語でも出題されたことがあります。「受験のために睡眠時間は四、五時間以下に削って勉強しろ」というのは、科学的に見てもナンセンスだというのが、そういうのを見ただけでもわかると思うのですが、しばらく前に生徒から、延岡の高校には「四当五落」のとんでもない迷信を今でも信じている時代錯誤な教師がいると聞いてびっくりしたことがあります。これは、僕が高校生の頃でも、「そういうアホなことを言う奴が昔はいた」という話として語られていたものです。疲れた頭の、集中力・理解力が乏しくなった状態で、だらだらやっても能率は全く上がらない。七時間確保した奴は受かるが、そういうのはどちらも落ちると言われていたのです。そんなこともご存じないわけで、百年前の迷信を信じている人間がまだいるというのはギネスブックものです。

 それで、思うように生徒の成績が伸びないというので、無考えに宿題ばかり増やす。そうするとさらに睡眠時間が減るばかりか、自分に必要な個別の勉強をする時間もエネルギーもなくなるわけだから、悪循環に陥って、生徒は疲労困憊の極に達し、体はヘトヘト、頭は朦朧で、成績は一層伸びなくなるということになるのです。自由に友達と遊んだり、読書をしたりする時間が生徒たちに不可欠なのも言うまでもありません(三年間ずっと、彼らは無味乾燥かつ効果の疑わしい押しつけ勉強であまりに多忙すぎるのです)。何を考えてこんなことをしているのか理解不能なので、星雲高校なんかは、このがんじがらめの管理強制強化路線をひた走りに走っているのです。週に一度彼らの疲れた顔を見るのですら僕にはつらいのに、学校の教師たちは毎日それを見て、よくも平気でいられるなと、それが不思議でならないのです。

 こういうのに「学校を信じて従え」というのは無理がありすぎるので、言うとおりに宿題をやってこないと見せしめとして立たせたり、罰勉として、何かを何十回ずつ丸写しして来い、なんて指示がまた追加されるのだから、こうした高校は生徒に「奴隷教育」を施しているのと同じなのです。あなた方は生徒を奴隷市場に出すつもりでそんなことをしているのか、と言われても有効な反論はできないでしょう。何よりそのことに腹が立つ。

 だから僕はたんに能率やシステムだけを問題にしているわけではないのです。それが生徒たちの人間形成にどう影響するかをよく考えるべきなのです。戦後日本経済の「護送船団方式」は腐敗と混乱の中で瓦解しました。政官財に学界やマスコミも含めたわが国のエスタブリッシュメントの無責任さ、無能さは、この前の福島原発の事故で、日本人はいやというほど思い知らされました。皆で一緒に同じ方向に走るとか、考えるのは全部上の人間に任せて、ただただその命令に従ってやっていればいいという時代では、もはやなくなったのです。個々の人間の自立性・自発性、判断力、創造力がこれほど重要になった時代もないので(就職の際の企業の人物評価の指針も変化しています)、それが、こういう愚劣な行き過ぎた管理教育をしていたのでは、将来の社会を背負って立つような人材は育たないでしょう。僕は昔から管理するのもされるのも大嫌いな人間なので、管理教育そのものを好みませんが、その必要を認めるという人でも、それは意味のある、効果的なものにかぎるでしょう。それが、これまで何度も述べたように、こうした学校のそれはその点自体が疑わしいのです。そこから聞き取れるのは「従順な、考えない奴隷たれ」というメッセージだけなので、それはすこぶる有害なものだと言わねばならないでしょう。

 僕は前に、塾の生徒に三年生の劇の主役が複数いるというので、延岡高校の学園祭を見に行ったことがあります。非常に面白くて、今の高校生は僕なんかの頃と較べて、センスも才能もずっと上だなと素直に感心させられたのですが、そういう子たちを相手にして行う教育では、これはありません(星雲高校の場合などは、稚拙を通り越して犯罪的と言って差し支えないほどです)。

 今のままの状態では、僕は生徒たちに学校宿題の手抜きを教え続けるしかないので、そうしないと大学合格も覚束なくなるというのは、全くもって本末転倒な話です。何のためにそんな騒ぎを学校がしているのかと言えば、それは大学進学実績を上げたい一心から、だからです。ところが、それが逆に妨害になっている。コメントを送ってくれた生徒の表現を借りれば、それは「最もありえない」話だということになるでしょう。

 とにかく学校側は、今少し生徒の思いを汲み取り、自主性を尊重し、意見もきちんと聞いてあげることです。でなければ延岡の公立普通科高校に建設的な未来はないでしょう。規則と形式だけを、その趣旨はおかまいなしに墨守し、長時間ダラダラやって残業を競い、仕事の中味や成果は問わず、というのはわが国のダメ公務員の悪しき習性だそうですが、そんなことを教育現場でやられたのでは、生徒の方はたまったものではないのです。

 以上、細かい点は別として、重要と感じられることについてはこれで述べ尽くしたつもりなので、先の二つの記事に書いたこと共々、“善用”していただくよう、県教委と各学校にあらためてお願いしておきたいと思います。このブログが生徒や親御さんたちの欲求不満のはけ口になるだけでは、十分ではないのです。
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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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