女優・竹内結子さんの死が波紋を広げているようです。AFPにまで次のような記事が出ています。
・日本政府、自殺問題で警鐘 女優・竹内結子さんの死去受け
日本は、韓国ほどは自殺率が高くないが、OECDの中では最も自殺率が高く、かつては年間3万人超が14年も続いたことがあったほどです(その間だけで45万人、金沢市の人口に匹敵するほどの人が消えたわけです)。2012年以降にそれが2万人台に下がり、昨年は2万169人にまで下がっていた。そのあたり、次の記事は詳しいので、ご参照ください。
・自殺者、10年連続減で過去最少に: 自殺率はG7で最悪
これは今年3月17日の記事です。上のAFPの記事の最後にも「日本国内における先月の自殺者は1900人近くに上り、前年同月比で15.3%増加している」とあるように、おそらく今年のそれは3万人台に戻ってしまうでしょう。コロナによる経済的な打撃は受ける人と受けない人がかなりはっきり分かれているので、終息が見通せないと、経済苦による自殺者が多くなり、4万人台になることもありえない話ではありません。
芸能人たちの自殺は、見たところコロナとは直接の関係はなさそうですが、かつて作家の芥川龍之介が自殺したとき、「将来へのぼんやりした不安」を理由に挙げていました。それは1927年7月24日のことで、関東大震災から4年後、世界大恐慌が始まる2年前のことでした。彼自身は心身の不調に加え、身内の不幸が相次ぎ、筆一本で大勢の家族を養わねばならない窮境にありましたが、人が自殺するのは「生活難とか、病苦、精神的苦痛とか、世間で言われているような各種の原因に還元できるような単純なものではない」という趣旨のことを「或旧友への手記」という文にしたためていたので、空虚感や生への徒労感のようなものが根底にあったのでしょう。上に書いたように、大震災と世界恐慌にはさまれた不安定な時代相も関係していた。作家や役者という人たちは職業柄、時代の雰囲気というものを最も敏感に感知する人たちなのかもしれません。芥川も竹内さんも、仕事に厳しい、芯の強いしっかりした真面目な人でした。かえってそういう人の方が自殺しやすいのです。
僕自身は、しばらく前にプラトンの『パイドン』について書いたように、死それ自体を恐るべきものだとは考えていません。仏教ではないが、この世界は「苦の世界」であり、楽しみといっても高が知れているし、煩わしいことの方がはるかに多い。とくに今の日本社会というのは、生ぬるいくせに、ああ言えばこう言うで、妙なことにチマチマ細かくて非難がましく、ウンザリさせられることが多いので、こんな世界に執着する人の気が知れないと思っているほどですが、「学びの場」として魂は暫時そこに住むことを命じられているのだろうと思うので、我慢して生きているというだけの話で、この世を去る許可が神から与えられる日が待ち遠しいくらいです。だから自分の長寿は願わないのですが、自殺者に対する見方も、僕は世間の人とは少し違うかもしれません。宗教的に言えば、彼らは「神の許可なく」自死を選択したので、そこは問題かもしれませんが、喜んで自殺する人はいないので、神もそのあたりは思いやってくれるでしょう。死後の魂の平安を願いこそすれ、とやかく言う気には全くなれない。
同時に、「何としても死を思いとどまらせなければならない」とも思わないので、「死んではいけない」と言うほどこの世界が魅力的なところだとは思えない。若者や比較的年の若い人には、「俗に年の功と言うように、生きてみないとわからないことがあるし、あなたにはまだやっておくことがあるんじゃないですか?」と問いかけるのがせいぜいです。死ぬのは、一応自分の納得が行くだけのことをしてからでも遅くないのではないかと。現実的な苦難について言えば、この世ではそのとき絶体絶命と思えたことも、何とかなってしまうことが多いので、案じるより産むが易しということはたしかにあるのです。そういうとき、解決の糸口は予想もしなかったところから現われる。居直って駄目モトで新たに何かを始めると、不思議な展開がそこから生まれていつのまにか危地を脱していた、というようなことはままあるのです。僕より年上(65歳以上)の人について言えば、人生の長さについてはすでに十分なので、身辺整理を先に済ませてからにしたらいかがですか、としか言えない。また、それで十分でしょう。
今のこの文明世界について言えば、明るい見通しはあまりありません。コロナ以前に、自然破壊と温暖化がこのまま続けば、文明の基盤が崩壊する。それも百年、千年といった遠い未来の話ではない。今の金融資本主義はすでにどうしようもないレベルにまで達している。作り替えなければならないところがたくさんあるのです。日本については、そのうち南海トラフ地震も、首都圏直下型大地震も起きるでしょう。それは時間の問題です。芥川の言う「ぼんやりした不安」の材料は多い。いざそうなってしまえば、現実への対応に追われて逆にそんなものはどこかに行ってしまうでしょうが、今はまだ考えるゆとりがあるという中途半端な状態にあるから、かえって不安は大きくなるのです。コロナによる不況で経済的に窮地に陥った場合でも、影響を受けている業種は限定的だから、他の人たちは大して困っていないのに、自分だけ苦しくなっているということで、惨めさが募ってしまうというようなこともあるでしょう。各種の給付金、補助金にしても、詐欺でそれをせしめる卑しい連中は論外で、誇り高い人なら、国や自治体の援助に頼らざるを得ないことに内心忸怩たるものを感じているでしょう。それで立て直せなかったらなおさらです。
竹内結子さんの場合、子供を二人残して(とくに下の子は幼い)というところもショックを与えた要素の一つだろうと思いますが、責任感の強いしっかりした人の場合、「子供たちのためにも」と強く思い過ぎることがかえって重い抑うつの原因になることもありえます。無責任な人や、やたらと人のせいにしたがる他責感情の強い人は口では大袈裟なことを言ってもめったに自殺することはないので、つまり、よい人ほど自殺しやすいのです。自殺が残念なのはそうした理由にもよるので、些細なことにも自責感情をもつような人ほど危険は大きいのです。
もう一つ、今は言葉の真の意味で spiritual な人には非常に生きづらい時代です。世俗的な欲求や願望がすべてというような人は感じないでしょうが、今の社会にはそのあたり、恐ろしく浅薄な面があって、魂のふれあいのようなものが深刻に阻害されているのです。深い部分で対話が成立するような人が減っている。これはその人がふだんから自分の深い心との交流ができていないことを意味します。だから話をしていても、表面的なことに終始することが多いので、僕のような人間にはそれは退屈で、人と話をしているという気がしない。こうした問題について書き始めると長くなってしまうので、それはやめておきますが、これは人が「心の栄養」を十分得られなくなっていることを意味します。本性上、世俗的でない人にはこれはそれ自体が深刻なダメージになるので、次第に元気を失うのです。僕は芸能界のことについては周りに笑われるほど無知ですが、三浦春馬さんや竹内結子さんは、あるいはそういうタイプだったのかもしれません。若い子でも、前に塾の生徒と話をしていて、「こういう話ができる相手が周りにほとんどいない」と言われたことが何度かあるので、それはいずれも多感な子たちでした。今はそういう突っ込んだ話をしようとすると、一律にネクラということで敬遠されてしまうようです。しかし、そういう人たちの場合、そういう突っ込んだ会話を交わせること自体が元気の源になるのです。
今の若い世代が感じる空虚さ(それが募るとうつに発展する)にはそういうことも関係するのではないか、そんな気がするのです。直接の引き金となる要因は様々でも、大本には何とも言えない底の浅いつまらなさが今のこの社会の人付き合いにはあって、それが外部的な要因以上に人を弱らせているのかもしれない。「死んではいけない」と言う側がどの程度それがわかっているかは疑問で、健康はある程度の鈍感さを不可欠としますが、それも程度問題なのだということを、僕らは忘れないようにしないといけないでしょう。
以上、まとまりのない話になりましたが、こういう問題では「まとまりよく話す」ということは不可能なので、あえてそのままにしておきます。
・日本政府、自殺問題で警鐘 女優・竹内結子さんの死去受け
日本は、韓国ほどは自殺率が高くないが、OECDの中では最も自殺率が高く、かつては年間3万人超が14年も続いたことがあったほどです(その間だけで45万人、金沢市の人口に匹敵するほどの人が消えたわけです)。2012年以降にそれが2万人台に下がり、昨年は2万169人にまで下がっていた。そのあたり、次の記事は詳しいので、ご参照ください。
・自殺者、10年連続減で過去最少に: 自殺率はG7で最悪
これは今年3月17日の記事です。上のAFPの記事の最後にも「日本国内における先月の自殺者は1900人近くに上り、前年同月比で15.3%増加している」とあるように、おそらく今年のそれは3万人台に戻ってしまうでしょう。コロナによる経済的な打撃は受ける人と受けない人がかなりはっきり分かれているので、終息が見通せないと、経済苦による自殺者が多くなり、4万人台になることもありえない話ではありません。
芸能人たちの自殺は、見たところコロナとは直接の関係はなさそうですが、かつて作家の芥川龍之介が自殺したとき、「将来へのぼんやりした不安」を理由に挙げていました。それは1927年7月24日のことで、関東大震災から4年後、世界大恐慌が始まる2年前のことでした。彼自身は心身の不調に加え、身内の不幸が相次ぎ、筆一本で大勢の家族を養わねばならない窮境にありましたが、人が自殺するのは「生活難とか、病苦、精神的苦痛とか、世間で言われているような各種の原因に還元できるような単純なものではない」という趣旨のことを「或旧友への手記」という文にしたためていたので、空虚感や生への徒労感のようなものが根底にあったのでしょう。上に書いたように、大震災と世界恐慌にはさまれた不安定な時代相も関係していた。作家や役者という人たちは職業柄、時代の雰囲気というものを最も敏感に感知する人たちなのかもしれません。芥川も竹内さんも、仕事に厳しい、芯の強いしっかりした真面目な人でした。かえってそういう人の方が自殺しやすいのです。
僕自身は、しばらく前にプラトンの『パイドン』について書いたように、死それ自体を恐るべきものだとは考えていません。仏教ではないが、この世界は「苦の世界」であり、楽しみといっても高が知れているし、煩わしいことの方がはるかに多い。とくに今の日本社会というのは、生ぬるいくせに、ああ言えばこう言うで、妙なことにチマチマ細かくて非難がましく、ウンザリさせられることが多いので、こんな世界に執着する人の気が知れないと思っているほどですが、「学びの場」として魂は暫時そこに住むことを命じられているのだろうと思うので、我慢して生きているというだけの話で、この世を去る許可が神から与えられる日が待ち遠しいくらいです。だから自分の長寿は願わないのですが、自殺者に対する見方も、僕は世間の人とは少し違うかもしれません。宗教的に言えば、彼らは「神の許可なく」自死を選択したので、そこは問題かもしれませんが、喜んで自殺する人はいないので、神もそのあたりは思いやってくれるでしょう。死後の魂の平安を願いこそすれ、とやかく言う気には全くなれない。
同時に、「何としても死を思いとどまらせなければならない」とも思わないので、「死んではいけない」と言うほどこの世界が魅力的なところだとは思えない。若者や比較的年の若い人には、「俗に年の功と言うように、生きてみないとわからないことがあるし、あなたにはまだやっておくことがあるんじゃないですか?」と問いかけるのがせいぜいです。死ぬのは、一応自分の納得が行くだけのことをしてからでも遅くないのではないかと。現実的な苦難について言えば、この世ではそのとき絶体絶命と思えたことも、何とかなってしまうことが多いので、案じるより産むが易しということはたしかにあるのです。そういうとき、解決の糸口は予想もしなかったところから現われる。居直って駄目モトで新たに何かを始めると、不思議な展開がそこから生まれていつのまにか危地を脱していた、というようなことはままあるのです。僕より年上(65歳以上)の人について言えば、人生の長さについてはすでに十分なので、身辺整理を先に済ませてからにしたらいかがですか、としか言えない。また、それで十分でしょう。
今のこの文明世界について言えば、明るい見通しはあまりありません。コロナ以前に、自然破壊と温暖化がこのまま続けば、文明の基盤が崩壊する。それも百年、千年といった遠い未来の話ではない。今の金融資本主義はすでにどうしようもないレベルにまで達している。作り替えなければならないところがたくさんあるのです。日本については、そのうち南海トラフ地震も、首都圏直下型大地震も起きるでしょう。それは時間の問題です。芥川の言う「ぼんやりした不安」の材料は多い。いざそうなってしまえば、現実への対応に追われて逆にそんなものはどこかに行ってしまうでしょうが、今はまだ考えるゆとりがあるという中途半端な状態にあるから、かえって不安は大きくなるのです。コロナによる不況で経済的に窮地に陥った場合でも、影響を受けている業種は限定的だから、他の人たちは大して困っていないのに、自分だけ苦しくなっているということで、惨めさが募ってしまうというようなこともあるでしょう。各種の給付金、補助金にしても、詐欺でそれをせしめる卑しい連中は論外で、誇り高い人なら、国や自治体の援助に頼らざるを得ないことに内心忸怩たるものを感じているでしょう。それで立て直せなかったらなおさらです。
竹内結子さんの場合、子供を二人残して(とくに下の子は幼い)というところもショックを与えた要素の一つだろうと思いますが、責任感の強いしっかりした人の場合、「子供たちのためにも」と強く思い過ぎることがかえって重い抑うつの原因になることもありえます。無責任な人や、やたらと人のせいにしたがる他責感情の強い人は口では大袈裟なことを言ってもめったに自殺することはないので、つまり、よい人ほど自殺しやすいのです。自殺が残念なのはそうした理由にもよるので、些細なことにも自責感情をもつような人ほど危険は大きいのです。
もう一つ、今は言葉の真の意味で spiritual な人には非常に生きづらい時代です。世俗的な欲求や願望がすべてというような人は感じないでしょうが、今の社会にはそのあたり、恐ろしく浅薄な面があって、魂のふれあいのようなものが深刻に阻害されているのです。深い部分で対話が成立するような人が減っている。これはその人がふだんから自分の深い心との交流ができていないことを意味します。だから話をしていても、表面的なことに終始することが多いので、僕のような人間にはそれは退屈で、人と話をしているという気がしない。こうした問題について書き始めると長くなってしまうので、それはやめておきますが、これは人が「心の栄養」を十分得られなくなっていることを意味します。本性上、世俗的でない人にはこれはそれ自体が深刻なダメージになるので、次第に元気を失うのです。僕は芸能界のことについては周りに笑われるほど無知ですが、三浦春馬さんや竹内結子さんは、あるいはそういうタイプだったのかもしれません。若い子でも、前に塾の生徒と話をしていて、「こういう話ができる相手が周りにほとんどいない」と言われたことが何度かあるので、それはいずれも多感な子たちでした。今はそういう突っ込んだ話をしようとすると、一律にネクラということで敬遠されてしまうようです。しかし、そういう人たちの場合、そういう突っ込んだ会話を交わせること自体が元気の源になるのです。
今の若い世代が感じる空虚さ(それが募るとうつに発展する)にはそういうことも関係するのではないか、そんな気がするのです。直接の引き金となる要因は様々でも、大本には何とも言えない底の浅いつまらなさが今のこの社会の人付き合いにはあって、それが外部的な要因以上に人を弱らせているのかもしれない。「死んではいけない」と言う側がどの程度それがわかっているかは疑問で、健康はある程度の鈍感さを不可欠としますが、それも程度問題なのだということを、僕らは忘れないようにしないといけないでしょう。
以上、まとまりのない話になりましたが、こういう問題では「まとまりよく話す」ということは不可能なので、あえてそのままにしておきます。
スポンサーサイト