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盤珪禅師の「不生の仏心」について

2020.05.30(12:58) 728

 二年ほど前ですが、拙訳『偉大なる異端』(アーサー・ガーダム著 ナチュラルスピリット刊)を読んで感銘を受けたという北九州市に本部を置くさる団体の会長さんに、「翻訳よりも、自分で本を書くべきだ」と言われて、僕はそんなにおだてに乗りやすい方ではありませんが、一つ、自分自身の体験から学んだものとして、これだけは書き残しておきたいと思うことがあったので、『〈私〉からの自由』と題したものを書いたことがあります。全部で6万4千字ほどの文章で、薄手の本一冊分にはなる。論文調で書くと読む人が難しく感じるだろうと思い、ちょうどその頃月に一度、これもその人の勧めで地域のコミュニティセンターを借りて、オトナ相手の講座をやっていたので、そのときの口調を真似て第一部は講話形式、第二部はそれに対するQ&A、第三部は盤珪禅師についての話という三部構成にしたのですが、その人はそんなことを言うからには出版社と話がついているのだろうと思ったら、そうではなかったらしく、たぶんそのとき書いたものはその人が予期したようなものとはかなり違っていたのでしょう、反応も今一つで、元々僕の側に自分の本を出したいという積極的な思いがあったわけではないので、そのままになりました。

 それでそのまま忘れていたのですが、先日、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の最中、久しぶりに大学院生の息子とスカイプで話をしていて、それに関係する議論になりました。何がきっかけでそうなったのか、彼が僕には不案内なフーコーの話をしたあたりから哲学談議に入ってしまったのだと思いますが、カントのいわゆる「形而上学の不可能」に関する話になって、そこから「現象と実在」「体験そのものとその解釈や言語化の際に生じる厄介な問題」、さらには「そもそも意識とは何か?」という話に進んで、後で考えてみると、そこに書いたことと重なり合う部分が多かったので、そのときの議論の補いとして、彼に読ませてみることにしたのです(ちなみに、彼自身の専門は哲学ではなく、古代ギリシャ・ローマ史学です)。僕はわが子に自分の「思想」を吹き込んだり、特定の考え方を押しつけたりといったことは一度もしたことがありません。むしろそうならないよう用心してきたので、今後もそんなことをするつもりは全くないのですが、小さい頃は遊びの相手(この前書いた、失敗に終わったウシガエル捕獲作戦もその一つ)、高校生ぐらいになってからは議論の相手をして、だんだんそのレベルが上がってくるのを楽しんでいたのですが、たまたま議論がその方面に流れて、父親の思想のいわば「原点」的なものに触れることになって、彼はそれに大きな関心を示したのです。

 幸い、コピーが手元に一部あったので、それを送ったら、着いて数日後、メールで返事があって、面白かったので一晩で一気に読んだという話で、その感想がたんに字面を追ったのではない、観念的な理解では済まない厄介な部分を含むこともよく押さえた上での行き届いたコメントだったので、嬉しく思いました。最後に、「以上が僕の感想ですが、これを読み終えた後に、少し気分が楽になって自由に考えられるような気がしてきました。これはそれ自体が普段〈自分〉というものに囚われて生きていることの証みたいなものなので、あまり喜ばしいことではないかもしれませんが(笑)」とあって、僕はそれを人を悩ませるためではなく(途中でいくらか話がややこしくなるのは避けられないとしても)、「気分が楽になって自由に考えられる」助けにするために書いたので、大いに意を強くしたのです。これはひょっとしたら、頭の柔軟な若者には理解されるのではないか?

 それで、彼には第一・二部の方が面白かったようですが、そちらはこういうところに載せるには長すぎるので、最後の盤珪さんについての章だけ、少し手を入れてここで公開しておこうかという気になりました。これはそれだけ独立させても、理解に大きな支障はなく、伝記的な紹介も入っているし、盤珪禅師入門の役目ぐらいは果たせそうだからです。僕が面白いなと思うのは、今年に入ってから「拍手ボタン」というのをこのブログにつけたのですが、最初の「主客二元思考の克服」という文だけ、拍手が多くなっていて、政治的な与太話には僅かな拍手しか与えられていないことです。データからして、その拍手数はアクセスの数とは比例しないので、これは読者が何を期待してこのブログを見ているかを示すものかもしれません。つまり、「よけいなことばかり書くな」と言われているということです(涙)。人間には多様な側面があるので、「政治嫌いの政治的人間」というのも僕の一面なのですが。

 前置きが長くなりましたが、とにかくそういう由来の文章なので、読まれる方はそのつもりでお読み下さい。ちょうど前に書いたジョン・マックの翻訳の件で、無事版権が取得できたというしらせが入って、近々編集者とのやりとりに入れそうなので、ここに与太話を書く頻度もしばらくは減るでしょう。長文なのは、それを補う意味も含めてと、好意的にご解釈下さい。(尚、お読みになって疑問・ご質問等ありましたら、それには可能な範囲で誠実にお答えします。但し、それは真面目な、その方にとって切実な問いであることが要件です。「悟りごっこ」――ガーダムはそういうものに耽りたがる人をスピリチュアル・アスリートと呼びました――には僕は何の興味もないからです。)




 今回は「異端の禅僧」と呼ばれる、江戸時代の禅師、盤珪(ばんけい)さんについてお話しさせていただきます。この人を僕は「途方もなく偉い人」と尊敬しているのですが、それは別に僕が「異端」好きだからではありません(笑)。盤珪さんはお坊さん特有の「専門用語」を使わず、庶民にもわかる日常の平俗な言葉で教えを説き、その核となるものが「不生の仏心」なのですが、僕が「途方もなく偉い」と思う理由は、その教えを自ら生きた徹底ぶりと、人格的な高邁(こうまい)さにあります。

「とてもではないが、こういう人にはかなわないな」という人格の立派さがこの人にはあるので、僕など対抗する気がないからただ「偉い人」ですんでしまうのですが、もしもお坊さんでそれに張り合おうという人がいれば、絶望的な気分になってしまうかもしれません。いわゆる「悟った」人は今の世の中にもいるでしょうが、ここまで「身を持するに厳」な人はほとんどいない。外側だけそれを真似ようとすれば、窮屈になり、妙に底意地の悪い人になってしまうだけでしょう。現代人とは何か「人間の格」が違うという感じがするのです。

 それなら、僕ら現代の凡人には真似できないのだから、参考にもならないのではないかと思われるかもしれませんが、盤珪さんの教えそれ自体は「凡人にもわかる」ものだし、それを生かすことも分に応じてできる、と僕は考えています。盤珪さん自身がそう言っていたので、それを疑う理由はないのです。

 それで、その盤珪さんの教えについて今回はお話ししたいのですが、その前に、伝記的な事実についても少しご紹介しておきたいと思います。


 伝記的素描

 盤珪さんは元和八年、西暦で言うと一六二二年の三月八日に、この三月八日は旧暦なので、今なら四月一八日に当たると、ウィキペディアには出ていますが、播磨国揖西郡網干郷濱田村(現在の兵庫県姫路市網干区浜田)というところに生まれています。「父の姓は菅原氏、母は野口氏」と、『大法正眼国師盤珪琢大和尚行業曲記』にはある。幼名は母遅(もち)でした。ご本人は「もと四国浪人」という言い方をしていますが、生家は代々儒医の家柄だったらしく、盤珪さんはその五男四女の三男坊でしたが、十歳で父をなくしました。昔は数えで言うので関連文献では「十一歳」となっていますが、満で言うと十歳でしょう。それで今で言う母子家庭になったのですが、家督は長兄が継いだものと見られます。

 ご本人の回顧談によれば、盤珪さんは幼少の頃、かなりの利かん坊、腕白坊主だったようです。同時に死というものに強い恐怖心を抱いていたので、死に真似をしたり、誰かが死んだという話をすると、ぴたりと泣きやんだり、悪さをやめるということがあったようですが、『正眼国師逸事状』というエピソード集にもこういう話が出ています。昔は五月五日(今は「子供の日」ですが、当時は「端午の節句」と言った)に、男の子たちが川を挟んで二手に分かれて石つぶてを投げ合い、勝敗を競うという、今なら危険だし、野蛮すぎるというので禁止されること疑いなしの風習があったようですが、こういうとき、向こうに盤珪少年(こういう言い方をあえてさせてもらうと)の姿が見えると、相手の子供たちはその場所を避けたというのです。「蓋(けだ)し師勝たざれば則ち未だ敢て退かざるなり」と回りくどい漢文体で書かれているのがかえって可笑しいのですが、要するに、自分が勝つまでは決してやめない、そういう強情きわまりない子供であったことがわかるのです。極道の道に進めば、無敵のボスになる、そういうキャラです(笑)。『逸事状』の筆者があえてこの話を載せているのは、その「果敢勇烈」の気性が後年の仏道修行における峻烈さにそのままつながっていると言いたいがためのようです。

 さて、これは有名な話なのですが、盤珪さんがどうして出家して禅坊主になったのか、そのきっかけが面白いのです。十一歳の時、「師匠どり」をして、儒学の先生(そういう塾が当時はあって、庶民向けには寺子屋がありました)に漢文の素読を習うようになった。盤珪さんは腕白坊主だっただけではなく、神童の誉れも高かったと言われますが、ある意味これが「運の尽き」だったのです。ああいうのは初級が『小学』、上級が『大学』で、「具体から抽象へ」というふうにテキストの内容が仕組まれていたようですが、盤珪さんはこの『大学』の「大学の道は明徳を明らかにするにあり」という箇所に引っかかってしまった。この「明徳」とは何なのか? それで先生に聞くと、それは「性善」、人の本性が善であることだとか、「天の理」のことだとかあれこれ説明してくれるのですが、その「性善」だの「天の理」だのは実際のところどういうものなのですかと突っ込むと、あちこち聞き回っても、どの儒学者も明確な答えができない。ある先生が言うには、自分たちも口では文字の道理を説いているものの、本当のところは「明徳」が何であるかを知らないのだと。正直な先生です(笑)。それで、そういう難しいことは禅僧などの方がよく知っているだろうから、そちらに行って問え。

 それで盤珪さんはあちこち説法や講釈があると出かけて聞いて回ったのですが、一向埒(らち)が明かない。盤珪さんは親孝行な息子でもあったので、母親にもそれを教えて、納得して死ねるようにしてあげたいと願望していたのですが、聞きかじった話はできても、自分で得心した話ではないので、それも叶わない。

 とにかく、この「明徳」が盤珪少年にとっては最大の躓きとなって、先の『行業曲記』によれば、「此より疑情鬱結して、亡羊として切りに事業を排し、伶俜(れいへい)として方所なし、家兄その学業の就(な)らざるを喜ばずして師を放逐す」ということになってしまったのです。言葉がやけに難しいが、「亡羊」は「どうしていいかわからなくなって途方に暮れること」、「伶俜」は「落ち込んで一人ぼっち」ぐらいの意味です。そればかり気になって、お勉強も何も、全く手につかなくなってしまった。父親代わりの長兄は、そんな内面のことはわからないので、怒って盤珪さんを追い出してしまった、というのです。

 僕の場合は、前にお話したように、中学生の頃、1+1=2がなぜ正しいのか理由がわからないというので、それをきっかけに自分の頭に浮かぶ考えがすべて疑わしくなり、ひどい不安に陥りました。ことに頭を使おうとすると不安が倍加するので、その年齢ではどうしていいかわからず、相談できる人もいないので、元々学校の教科書勉強は面白くないので好きではありませんでしたが、勉強嫌いにいっそう拍車がかかって、高校進学さえ怪しくなってしまいました。川や山に逃避して遊んでばかりいたので、ただの怠け者にしか見えない。あまりにひどいと業を煮やした母親に「おまえには努力という一番大事な才能が欠けている」と言われてしまい、「やかましい!」と癇癪玉を破裂させるというようなことになったりしたのですが、盤珪さんの場合は対象が「明徳」なので、そのあたり僕よりずっと高級です(笑)。しかし、その強迫的なこだわり方には似たところがある。そこに引っかかって、他のことはロクに手がつかなくなり、それをずっと引きずってしまうのです。

 その間、色々なエピソードがあったようですが、長くなるのでそれは省くとして、盤珪さんは結局はこの「明徳」への疑問のせいで出家することになったのです。ここはウィキペディアをそのまま引用(但し、二箇所文字を修正)させてもらうと、「十七歳のとき、臨済宗妙心寺派随鷗寺(赤穂にあった)の雲甫和尚に参禅。ここで出家し、永琢という法名を与えられ、激しい修行に取り組む」という展開になるのです。

 それで修行に専念し、十九歳になると「諸方に歴参し、大方の知識を叩く」、つまり、あちこちに師と呼ばれる人を訪ね歩いて教えを乞い、厳しい修行(期間が誇張されていると思われますが、「五条の橋の下にも乞食四年」という記事まである)を重ねたのですが、自得するところがない。二十三歳になって、随鷗寺に戻り、雲甫和尚に泣いて窮状を訴え、どうすればいいですかと訊ねるのですが、和尚の方も「頭で考えただけではどうにもならない(擬せんとすれば即ち差〔たが〕う)」と教える他なく、それでいっそう座禅に打ち込むことになった。しかし、異常なほど烈しい修行を続けたために、病気になり、血痰まで出るようになって、ご本人が言うには、「おやゆびのかしら(頭)程なる血の痰がかたまって、ころりころりとまん丸に成りて出ました」というほどになるのですが、それでもまだ悟れない。あの「明徳」がどうしてもわからないのです。

 その時点では見る影もなく憔悴して、やせこけている。おまけに明らかな肺病です。それで見かねた周囲が庵室で養生しろと言うので、それに従ったが、このまま死んでも思い残すことはあまりないが、かんじんなあのことがわからずに死ぬのだけは情けないと、「明徳」にとりつかれて一途にそれを追い求めてきた永琢青年は思ったわけです。

 ところが、そうして死にかけたときに奇蹟が起きた。ある朝、うがいをしようとして外に出たとき、梅の香りがふと鼻を打った。その瞬間、「恍然として大悟す」ということになったのです。二十六歳の春です。疑念は消滅して、後年の禅師・盤珪がここに誕生した。病気も急速に快方に向かったのです。

 むろん、大事だったのはそこから先なので、禅の世界では一般に悟後の修行を「聖胎長養」と言って重視しますが、それからの修行の徹底ぶりがまた半端ではないのです。通常の座禅工夫、諸方歴参はもとより、再度「花子(こじき)隊に混入」し、「修心錬行」したことさえあったという記事が先の『逸事状』には見られます。他の文書と照らし合わせると、これは三十代半ばの頃と思われますが、三十歳頃、長崎在住の唐からの渡来僧・道者超元にその真価を認められ、すでにその方面では名が知られ始めているのに、功を誇るとか、自分を甘やかすということが全くない。そこらへんがふつうのお坊さんとは違うところなので、ご本人もこう述懐しています。これは『佛智弘済禅師法語』にある言葉で、大意を現代語訳しますが、「自分が二十六歳の時に体得した道理それ自体は、その頃と今とで、寸分の違いもない。しかし、ものを見る眼が透徹して、大法に通達し、大自在(自由)を得たことに関しては、当時と今とでは天地の隔たりがある」と。だからおまえたちも一片の悟りを得たことに満足せず、法眼成就の日を期して修行に努め励め、と弟子たちを激励したのですが、盤珪さんは明徳=不生の仏心をじかに洞察しただけでなく、長時間をかけてその「人格化」をはかり、いわば「生きた不生の仏心」になったのです。そこが並外れている。

 盤珪さんが日常生活上もどれほど厳格に身を持したかについては多くのエピソードがありますが、たとえばトイレに行ったとき、小の場合でもしぶきを散らして汚さないように大便所にしゃがんで用を済ませたとか、たいていは歩きだったが、やむなく駕籠に乗るときは駕籠かきの負担を減らすために蹲踞(そんきょ)の姿勢を取ったとか、女性が相談に訪れたときは、必ず弟子の誰かを隣室に控えさせ、あらぬ疑いが起きないようにしたとか、一番有名なのは、盤珪さんは若い頃の苛烈な修行がたたって病気がちだったので、それは大勢の人が集まる大結制のときのことだったようですが、味噌が悪くなった時があって、一番弟子の大梁という人が、皆はこれでも大丈夫だが、師の盤珪先生は病者ゆえ味噌があたっては大変なことになると、新しい味噌をつかせて盤珪さんにだけそれを食べさせたことがあった。盤珪さんはすぐその味の違いに気づいて、これは味がよいが、前の悪くなった味噌はもうなくなったから、皆にこれを出すようになったのかと給仕の僧に聞いたところ、いや、違います、こういうわけで禅師のだけ別にしろと言われたのですと答えたところ、盤珪さんは怒り、大梁を呼んで確認すると、「それならわしに何も食うなと言うのだな」と言って、そのまま部屋に閉じこもってしまった。いくら謝っても許してもらえず、師弟二人とも絶食したまま、七日もたってしまったので、ある信士が一同を代表してわびを入れることになり、禅師だけでなく大梁も何も食べていないのですと言うと、「自分はともかく、大梁が食べないのはよくない」とやっと顔を出して、許しが下り、その際、このすぐれた高弟に向かって、「よいか大梁、人の鑑となる師家がわずかでも私意をさしはさむようなことがあってはならぬ。おまえは私の身を思いやってそのようなことをしたのだろうが、それは私にとっては仇(あだ)になるだけだ。よく合点したか」と厳しく諭したというのです。差別を嫌う類似の話は他にもたくさんあるのですが、およそ徹底している。ふつうなら、師匠思いの弟子の心遣いとして、ほめられてもいいはずが、全然そうはならなかったのです。そこらのなまぐさ師匠だと、逆に特別扱いしてくれないことに怒る(笑)。

 盤珪というお坊さんはそういう人だったのですが、それでも最初「不生の仏心」の教えを説き始めた頃は、「外道かキリシタン」のように思われ、気味悪がって誰も人が寄りつかなかったそうです。そのシンプルな教えはふつうの坊さんが説くそれとは違う感じがしたからでしょう。それが晩年になると、宗派を問わず、僧俗多数の人々が群れをなして押し寄せ、対処に困るほどになった。「物には時節があるものでござる」と言っていますが、それは「時節」だけでなく、盤珪さんの成熟と人間的感化力の増大も関係していたでしょう。師弟の礼を取った人が計五万人いた、というのは誇張ではないようです。盤珪さんの没年は元禄六年九月三日(一六九三年一〇月二日)で、満七十一歳で亡くなったのですが、最後まで病をおして慈愛に満ちた応接を続けたのです。

「少し」のはずが長くなってしまいましたが、この他にも色々なエピソードがあって、僕は岩波文庫の『盤珪禅師語録』(鈴木大拙編校)を基にお話ししているのですが、そこにはいわゆる超能力を思わせる話や、不思議な話もたくさん含まれています。ご本人はきっぱりその手の能力は否定していますが、にもかかわらず、それ(未来予知の話が一番多い)はあったようです。また、これは超能力ではありませんが、中には西洋の聖フランチェスコを思わせるような逸話もあって、盤珪さんはあるとき、旅の途中で、大きな狼が近づいてくるのに出くわした。当時の日本にはまだオオカミがいたのです。その狼は盤珪さんの前に来ると大きく口を開けました。そのとき、盤珪さんはその口の中を覗き込むと、無造作に中に手を突っ込んだ。喉の奥に大きな骨が刺さっていたので、それを取ってあげたのです。狼は大いに喜んで、耳を垂れ、尻尾を振って感謝の意を表すると、姿を消した。以後、盤珪さんがその周辺を通りかかると、目的地まで必ず護衛したと言われています。狼の弟子までいたわけです(笑)。他にも、「讃海」とあるのは瀬戸内海だろうと思うのですが、盤珪さんが乗った船がそこを渡っているとき、朝日を受けて金色に輝く巨大な海亀が海面に姿を見せて、数里(一里は約四キロ)にわたって並走したとか、子供の頃の水難事故で視力を失ったが、その際龍が乗り移って驚くべき聡明さと才能を得た青年が、涙を流しながら熱心に盤珪さんの説法に耳を傾けていた話なども出てくるので、こういうのはたんなる荒唐無稽な伝説の類だと思われるかもしれませんが、この龍の話など、他でもない盤珪さん自身が、「渠(かれ)は龍なり。仮に体を溺子にかりて以て聴法す」とその正体を霊視で見抜いていたのだから、信憑性はあるのです(これは、盤珪さんがその熱心な青年に「汝いまだ畜生道を脱せず」と厳しい言い方をしたのを不審に思った人が後で理由を聞いたときの返事です)。ただ、そういうことを詳しくお話ししていると、キリがなくなります。

 さて、前置きが長くなったので、少し早いですが、一度ここでトイレ休憩を取ります。ここのコミュニティセンターの男子トイレの小用の便器の上には、「一歩前へ!」と書かれているので、男性の方は盤珪さんみたいに大の方へ行かなくてもいいが、その指示を守って、こぼさないようにして下さい(笑)。


「不生の仏心」とは何か

 ここでやっと本題に入りますが、盤珪さんの「不生の仏心」とは何なのか? よく「不生不滅」と言いますが、それは生まれることも滅することもない、永遠の存在を指すのに用いられます。盤珪さんが言うのもこれで、「不生」といえば「不滅」はそれに含まれるから、後ろは略したというのです。その永遠不滅の「仏心」がすべての人には生まれつき備わっている。それに目覚め、それに従って生きよ、というのが盤珪さんの教えです。他のことは何もいらないのだと。

 では、その「仏心」とはどういうものなのか? それは知恵と慈悲(愛)の結晶またはエネルギー体みたいなもので、それ自体で完璧です。それは絶対的に信頼しうるものです。ところが人間はそれがわからなくなっている。というのも、後天的に生じた自我というものに頭も心もやられてしまって、自分がそれだと思い、意識の置き所を間違えてしまったからです。現代風に説明すれば、そういうことになります。

 だから、無用な「我のはからい」を捨てさえすればいいのだということになる。そうすると「霊明な仏心」の働きが自然に輝き出るようになる、というのです。そうなると、たとえ周りの人全員が黒を白だと言い張るようなことがあっても、そういうことには騙されなくなって、正しい判断ができるようになる。それが徹底すれば「人を見る眼(まなこ)が開ける」のだとも言っています。

 シンプルそのものです。僕らは日常、自分で殊更そうしようと意識しなくても、各種の音や声を聴き分け、物を見分け、様々な臭いをかぎ分けることができる。これは霊妙な「不生の仏心」が生まれつき備わっている証拠で、事の是非善悪もそれに備わった叡知の働きで弁別することができる。そこにおかしな我というものを持ち込むからその働きが狂うのだと。

 これに対して、江戸のある儒者がこう訊ねたとのこと。なるほどご尤もなお話ですが、人間は死ぬと、いくら話しかけても返事はせず、目はものを見ず、耳も聞こえなければ、香りもわからなくなる。不生不滅ならなぜそうなってしまうのですかと。

 これに対して盤珪さんは、次のように答えたということです。以下、『盤珪佛智弘済禅師御示聞書』に出てくる、そのときの返事の意訳です。

「これは一見したところ、尤もな批判のようであるが、実はそうではない。むしろそれによっていっそう不生の教えの道理が通るので、それはこうである。
 人間のこの体というものは、地水火風(物質的諸元素)を一時的に借り集めてできたものなので、生滅の法則に従って、やがては消えてなくなる。これに対して心は不生なものなので、肉体は朽ちて灰や土となっても、一緒に消えてなくなることはない。ただ、生じた肉体を一時の家として宿り、体が生きている間はそれを道具として様々な働きを見せるが、それが滅すると、住家がなくなるので、その働きも消える。ただそれだけの話であって、一心は元より一心なのであり、そうした物質現象を超えた次元に存在する。だからこそ不生不滅と言えるのだと」

 この「一心は元より一心」のところは盤珪さんの言葉そのままで、「一心は元よりの一心でござるによつて、不生滅」と原文にあります。この「一心」は「個別の魂」のようなものを指して言っているのではなくて、絶対的な、僕らが共通してもつ「一心」のことです。それは「不生滅」であると、盤珪さんは確信していたのです。

 こういうのは僕が先にお話しした話と似た話ではないかと思われる人もいらっしゃるでしょう。人だけではない、「蚊や草木にも意識の保護がある」というような話をしましたが、それもこの「一心」の働きと見ることができるからです。そういうものとして自覚されているかどうかは別として、それはこの宇宙に沁み渡った途方もないエネルギーで、働きを通じてその存在がわかるのです。実際、用語に違いがあるだけで前にお話したのと内容はほぼ同じです。僕と盤珪さんの決定的な違いは、僕と違って盤珪さんはそれを生き、深く体得した偉人だったということです。それが人間としての大きな違いを生んだので、「理」のレベルではそんなに違わないのです。

 これは別に盤珪さんを侮辱したことにはなりません。盤珪さん自身がよく、「この中には一人も凡夫はござらぬ」と言って、誰でもそれに気づくことができる、と言っていたからです。僕にわかったということは、当然皆さんにもわかる。盤珪さんも言うように、こういうことはむしろ無駄に知識が多い人ほどわからなくなるのです。それは知識が自尊心のつっかえ棒みたいになっているからで、その犬も食わない卑小な自尊心をまず叩き潰すことが先決なのですが、それには必死に抵抗して、新たな「知のアクセサリー」を増やすことだけに熱心になる。これでまた人に能書きを垂れるときの材料が増えた、というようなものです(笑)。それは誤解にきまっているから、聞かされる方は迷惑なのですが、余計なことをするなと言っても聞かない。盤珪さんはそういうのを「脇かせぎ」と呼んでいますが、そういう人に欠けているのは言葉の真の意味での正直さです。じかにわが心を見ようとしないから発見がなく、真実に辿り着かない。


 短気の直し方

 話を戻して、ここからは盤珪さんの応接の仕方を少し具体的に見てみたいと思います。そうすると「不生の仏心」という言葉の含みがもっとよくわかり、それをただの知解からもっと深いレベルに浸透させるのにも役立つでしょう。なまくらな僕にとっても、それは勉強になるのです。

 この岩波文庫本の最初に出てくる話は、「短気」についてのものです。ある僧が、自分は生まれつき短気で、師匠にはよくそれで叱られ、自分でもこれは悪いことだと思うので直したいと思うのですが、何しろ生まれつきなので直りません。どうすれば直るでしょうかと盤珪さんに相談するのです。

 これに対して盤珪さんは、そなたは面白いものをもって生まれついたものだな。直してやるから、今ここにその「短気」とやらを出してみなさいと言います。いや、今はないので、何かの時にひょっとそれが出てしまうのです、と僧は答える。

 それならそれは生まれつきではない、と盤珪さん。それはそなたが何かの縁に遭遇して自分から仕出かしているもので、わが身の贔屓ゆえに、向こうのものに取り合って、我意を立てようとして、勝手に仕出かすもので、それを「生まれつきの性格」というのは、親に責任を転嫁する大不孝者と言うべきだ。親が産みつけたのは「不生の仏心」だけで、他のものは何も産みつけていない。迷いというものはすべてわが身の贔屓から出るもので、自分から仕出かしておいて、それを生まれつきというのは愚かなことである。仕出かさなければいいだけの話で、そうすれば短気なんてものはなくなるのだ。そなたの短気が出るのは、誰か相手の者がそなたの気に逆らうようなことを言ったりしたりしたとき、用もないのに自分の思惑を立てようとして、それに取り合い、自分から短気を出すからで、わが身の贔屓をせず、相手に取り合わず、我意を立てさえしなければ、そんなものが出る幕はない。そなたはおそらく、小さい頃から周囲の人が短気を出すのを見習い、聞き習いして、無意識に自分の中にそれを取り込んでしまったのだろう。そしてそれが気癖となってしまい、生まれつきだと思うようになった。それは愚かなことなので、このことの非をよく理解して、今後長く短気を出さないようにさえすればよい。短気を出してから直そうとするのはよけいなことで、初めから出さなければ直す短気というものはなくなってしまう。短気だけではない、およそ迷いというのはすべてそういうもので、親が産みつけたものはただ「不生の仏心」一つで、他には何もないのだということをよく信得して、まず三十日間その状態でいれば、自然とそれができるようになる。不生の仏心一つですべては整うということをよく納得し、その状態でいれば、そのまま活き仏になるというものではないのか。

 そういうことを、原文はもっと繰り返しが多いのですが、諄々と説くのです。どういう相談を持ち込まれても、大体言ってることは皆同じだと言ってよい。だから「知的」な人には物足りなく思えるかも知れず、実際このときも、ある「出雲の俗人」が居合わせて、「お示しが少し軽すぎるのではありませんか?」と言うのですが、「お手前が仏心を何でもないものと思って、腹を立ててはそれを修羅道に仕替え、我欲を出しては餓鬼に仕替え、愚痴を出かしては畜生に仕替え、いとも安易につまらない種々のものに仕替えてしまうのが軽すぎるのだ」と逆襲されてしまうのです。軽いどころか、それは重いのだ。だからこそ皆の衆は仏心でいられずに、迷いに明け暮れることになる。しかし、重いといっても、この仏心の道理をしっかり腹に入れて迷いに引きずり回されなくなれば、骨も折らず、軽く、心やすく、活き仏でいられるようになるのだと。


 修行のポイント

「不生の仏心」が何かをよく理解するためには、この点も重要です。それがわかりそうなものをいくつか見てみましょう。

 ある人(僧侶とは書かれていない)がこうたずねました。修行に励もうとしますが、どうしても進むより退く方が強くなってしまって、悩んでいます。どうすれば退かないようになるでしょうか?

 盤珪さんの答。不生の仏心でいなさい。そうすれば、進むこともしりぞくことも不要になる。不生の人は進退にはあずからないので、常に進退を超えているのだと。

 この場合、質問した人は、自分という実体が別にあると思っていて、それが進歩したり、退歩したりしていると思っているのです。まずそこが間違っていて、その地平に終始していたのでは、盤珪さんの言う「不生の仏心」には永遠に行き着かない。それを手放せ、と言えば、また〈誰が〉それを手放すのかという話になってしまいそうですが、それは前にお話ししたことを思い出していただければ、おわかりかと思います。個別の自分が「不生の仏心」を取り込んで豊かになるとか、そういう話ではないのです。それがあると思っている間は、「進退にはあずからぬ」不生の心はわからない。盤珪さんの言葉で言えば、そのとき人は本来の心を離れ、「一心を二心にしてしまう」過誤に陥っているのです。

 この話の後、有名な禅の公案の一つ、「百丈野狐」の話(「因果をくらまさず」というあれですが、ここは直接関係がないので説明はカットします)で悩んでいるという僧侶が登場します。長年それで骨を折っているが、いまだによくわからない、どうすればいいかご教示ください、というのです。

 盤珪さんはこれに対して、「自分のところではそのような古法具(ふるほうぐ)の詮索はしない」と答えます。他のところでも公案を無用の長物視するような発言はいくつも出てくるのですが、公案を重視する臨済宗のお坊さんがそんなことを平気で言うというのは面白い。盤珪さんによれば、しかし、そういう疑念をわざわざでっち上げて、それに頭を悩ませるというのはよけいなことなのです。それは盤珪さんがかつて苦しんだ「明徳とは何か?」のような本物の疑問ではない。作為的な、あてがわれたニセの疑問にすぎない。となると、それは「仏心を疑団に仕替えさせ」ることで、「人に毒を食わせる」ことでしかない。公案の狙いというのは、僕の理解するところでは、頭でいくら考えても解決のつかないような問題を修行者に吹っ掛けて、行き詰まらせ、その「考える自分」そのものを崩壊させるところにあるのでしょう。そのとき洞察が生じるというものですが、盤珪さんに言わせれば、そういう回りくどいことをするより、じかにそこにあるものを指し示してあげる方がいいのです。

 公案擁護派のお坊さんたちは、いや、それでは大事なことはわからない、長年の思考習慣の罠を破って心の深い自覚に至らせるにはそういうテクニックも必要なので、指し示すだけでかんたんに悟れるなら、誰も苦労はしないのだと。

 僕も四十前後の頃、「百尺竿頭進一歩」(ヒャクシャクカントウに一歩を進む、と読む)という、昔何かで読んだ言葉を突然思い出して、それが頭に貼りついて困ったことがあります。禅坊主でもないのに全く余計なことですが(笑)、「オレに死ねと言うのか?」といくらか被害的になって、というのも、竿の先っぽに立っていて、そこからさらに踏み出せば、物理学の法則によって、転落して死んでしまうからです。むろん、それでビルの屋上にのぼって、そこから足を踏み出すなんて自殺行為はしなかったのですが、それとは違うが、心理的には何か似たようなことが必要なのだとはわかっていた。それまではよく自覚していなかった無意識の隠れた恐れや抵抗が残っていて、それを突破しないと先には進めないなと感じていたのです。そこを脱け出るのに数年かかった。地獄のような鬱の数年で、ずいぶんと人にも迷惑をかけてしまいました。むろん、これは禅の坊さんたちが言っているのとは違う意味での解釈でしょうが、そういうことは僕にはどうでもよかったので、妙なものを思い出してしまったものですが、それはたしかに公案の用は果たしてくれたのです。

 話を戻して、だから公案も役に立つことはあるが、下手をするとそれは際限もない観念の遊戯に落ち込んでしまうことがある。盤珪さんの言う「脇かせぎ」になってしまうことはあるでしょう。ああいうのは師匠がよほど偉くないと駄目です。

 次に、「戒律」の問題です。これは子供たちの学校で言えば「校則」のようなものです(笑)。最近はそのようなものが多すぎるようで、僕も塾で生徒たちから「容儀検査」なるものの話を聞いて、やれ前髪が眉にかかっているだの何だの、よくもそんなアホらしいことやってるなと、自分は一度も経験したことがないものだから呆れるのですが、律僧の比丘(びく=お坊さん)がこういう質問をしたという記録があります。

 私どもはつねに二百五十戒を保つようにしていて、これで成仏を遂げようとしているのですが、これはよいことでしょうか、それとも悪いことでしょうか?

 盤珪さん。「それは悪いことではなく、よいことでしょう。しかし、最上とは言いかねる。元々律というのは悪比丘のために作られたもので、まともな僧侶は初めからそんなことはしない。酒を飲まない者には飲酒(おんじゅ)戒はいらず、盗みをしない者には偸盗(ちゅうとう)戒はいらず、嘘をつかない者には妄語戒はいらない。だから戒をたくさん立てて、それを守っていると触れ回るのは、自分たちが悪比丘の集団だと宣伝しているようなもので、自慢にはならない。不生の仏心のままでいれば、初めから戒を守るの、破るのといった沙汰はなくなる。不生の見地からすれば、枝葉末節の事柄で、論じるに足りないことである」と。

 一般世間のことでも、ごく一部の不心得者のおかげで、法律だの規則だのが増え、規制がどんどん強化されます。まともな人間を基準にしていない(笑)。それで、あれこれ不自由、不便なことが増えるが、それで社会がよくなるなんてことはまずないのです。かえって主体性のない人間が増えて、規制しないと何をしでかすかわからないというので、さらに規則や法律が増え、いっそう窮屈になる。「不生の仏心」を信頼していない(笑)。

 これはずっと前に読んだもので、記憶が定かではないのですが、たしかダライ・ラマの自伝だったかと思います。中国に侵略される以前のチベットのお話です。あるとき、どこかの村で夫婦喧嘩の果て、夫が妻を包丁で刺し殺すという事件が起きた。それは一大ニュースとなって、国中が震撼したというのですが、その程度のことで「震撼」するというのは、いかに当時の仏教国チベットが平和であったかということです。日本を含めたいわゆる先進国では、そのようなことはニュースにもならない。少なくともその程度のことで「震撼」する人は誰もいないのです(笑)。当時のチベットのことを僕はよく知りませんが、あそこはおっとりした国で、社会の法律・規則の類もそんなに厳しくはなかったはずです。だから外部的な規制に頼りすぎるというのは、何かが根本的に間違っているのです。

 だいぶ詰め込んだ話をしてしまったので、皆さんお疲れでしょうから、ここでまた一息入れます。盤珪さんというのは割と心理学関係で注目する人が多いような気がするのですが、最後に「心理学的な見地から見たその教え」ということで、僕が気づいたことをお話ししたいと思います。


 雑念の払い方

 これに関して取り上げたいのは、「雑念の払い方」に関する、こういう話です。これは先の『御示聞書』の番号11の付いた箇所で、岩波文庫本の21~22ページ、「師示衆曰」(「師、衆に示して曰く」と読みます)で始める段落の意訳です。盤珪さんがすぐれた心理学者でもあったことがよくわかる一文です。

「人は身びいきから迷いを起こす。たとえば隣の人同士が喧嘩をしたとして、それが自分に無関係なら、どちらの言い分に理があるということを正しく分別して、腹を立てるということはない。自分のことならそうはいかず、すぐに頭に血をのぼらせてしまう」

 これは皆さんどなたにも覚えがありますよね? 自分のことを言われると心がザワザワっとしてきて、次の瞬間、もう「不生の仏心」どころではなくなっているのです(笑)。それはともかく、ここからが盤珪さんの説明の素晴らしいところです。

「仏心は霊明なものなので、自分のこれまでの思考や感情の痕跡をすべて影としてとどめている。その影に引っかかり、それに執着するからまた迷いを起こしてしまう。しかし、それは影にすぎない。念(思い)は底にあって起こるものではない、つまり、霊妙な仏心それ自体に所属するものではなくて、それに映る影であり、その影に対する自我の反応にすぎない。従って、念に実体はない。だからその種の反応は起これば起こるまま、消えれば消えるままにして、いちいちそれに取り合わなければいいだけである。そうすれば迷いは生じない。それに執着して引きずられさえしなければ、たとえ念が群がり起こっても、ないのと同じになる。少しも妨げにはならないので、努力して抑圧したり、排除したりしなければならない念というものは一つもなくなるのである」

 盤珪さんの言う「仏心」は完全なものなので、逆にそのことが災いして、あらゆるものを影として映し出してしまう。無知な僕らはそれに引っかかってしまうというわけです。影だけ見て悩み、葛藤して、かんじんなそれを映す明鏡の存在には思い至らない。鏡それ自体は見えないからです。そこに気づけ、と教えてくれているので、こんな適切なアドバイスはめったにないと、僕は感心します。尚、おまえはかなり恣意的に訳しているのではないかと言われるかもしれませんが、そんなことはないので、僕は翻訳屋のはしくれとして、ふだんできるだけ意味が明確な、わかりやすい文にする努力はしていますが、その際、内容を歪めるようなことがあってはならないと戒めているので、「念に実体はない」というあたりも、原文は「もとより念に実体はありはしませぬよつて」となっているので、何ら恣意的ではないのです。

 もう一つ、こちらは『法語』の番号12、文庫本の100ページのところです。今のところと直接内容的につながっています。

「世俗のある人がたずねた。『念が底にあって起こるものではないというのはわかりましたが、次から次へとそれが起こってやむことがなく、不生になれません』
 盤珪さんがこれに答えて言うには、『生まれたときは不生の仏心だけだが、成長するにつれて周りの人の誤った心の使い方を見習って無意識に条件づけられてしまい、いつのまにか本来なかった迷いの心を身につけてしまって、迷いが達者になってしまうのだ。しかし、迷いは心本来のものではないがゆえに、〈本体は迷いのない不生の心である〉という自覚を強くもつなら、無用な念は消滅するものである。たとえば酒好きの人がいたとする。病気になって酒が飲めなくなると、自然に禁酒になる。その後酒を飲む機会があれば、また飲みたい気持ちは起こるが、そう思うだけで飲まなければ、何の問題も起きなくなる。迷いの念もこれと同じである。思いが起これば、起こるまま、やむままにして、それに動かされて行動に移らず、またそれを嫌って無理に抑圧したりしなければ、妄念はいつのまにか不生の心の中に消え去ってしまうものである』」

 さらにもう一つ、同じテーマです。やはり『法語』の7、文庫98ページ。

「ある人がたずねた。『起こる念を振り払おうとすると、またその後から別の念が生じて、果てしのないことになってしまいます。これはどのようにすれば防げるでしょうか』
 盤珪さんが答えて言うに、『起こる念を払おうとするのは、血で血を洗うようなものである。初めの血は落ちても、また別の血がついて、汚れがなくなることはない。こういうことをしてしまうのは、心が本来迷いのない不生不滅のものであることを知らないからである。念を実体視して、それにいちいち取り合うから、それにからめとられて念の相続が起き、果てしなく輪廻することになる。念は仮に生じた現象にすぎないということを知って、それに自己同一化したり、逆にそれを嫌って排除したりすることなく、起こるまま、やむままにするがよい。不生の心と念との関係は、鏡とそれに映る映像の関係と同じである。鏡はその映る影によって汚染されることはない。それをよく自覚するがいい。そうすれば鏡より何万倍も精妙で明るい仏心は、その光の中に影を消し去ってくれるだろう。この道理をよく納得すれば、念はいくら起きても妨げにはならないのである』」

 現代語訳だけで、もう説明の要はないと思えるのですが、「盤珪心理学」がふつうの心理学や精神分析と大きく異なるところは、意識と無意識、分析する主体と分析される対象といった二元的な対比がそこにはないことです。意識的な自己が無意識を探求して、そこから何かを取り込むとか、分析によって自己のあり方を修正するとか、そういったものではないのです。そうしたことはむしろ事態を複雑化、悪化させるだけだと見る。


 自己理解の要諦

 次のものは、今ご紹介した『法語』12の次の13の訳です。それに続けて同19と、二つ並べてみます。

「ある僧がたずねた。「煩悩や妄想を鎮めることができません。どのようにすればそれができるでしょうか」
 盤珪さんが答えて言う。『妄想を鎮めようと思うのもまた妄想である。妄想は本来存在しないものだが、自分があれこれ分別するところから生まれるのである』」

「ある俗人がたずねた。『先年、雑念が起きるのをどうすれば止められるかとおたずねしましたところ、念は起こるまま、やむままにせよとの仰せでした。その後そのお教えに従いましたが、起こるまま、やむままになりません」
 盤珪さんが答えた。『そなたは起こるまま、やむままにする方法が何かあると思っているから、それができないのだ』」

 どちらも同じことの指摘ですが、僕らは内面の問題でも、無意識に「自分」と「問題」とを分けて、前者が後者を解決するという図式で考えます。そこらへんは江戸時代も今も変わりがないわけです。しかし、「問題を解決する自分」という観念それ自体が問題なのだと、盤珪さんは教えるのです。それ自体が「妄想」の一部なのだと。「方法」が出てくるのも同じ理由によります。「私」が「念」を消そうとすると、「どうやって?」という問題が必ず出てくるからです。心の中で「私」という妄想と、取り除くべき「念」とが戦っている。妄想と妄想との間の熾烈な戦いです。

 ある意味、ここが最重要ポイントです。真面目な人は自分の心の中を眺めてこう言います。「私の中にこのような醜い思いがあってはならない」と。それで取り除こうとするのですが、それはその人の自己イメージを傷つけるからです。私の心の中は高貴なもの、美しいもので溢れていなければならないのです。皆さん苦笑しておられますが、ここにおられる方は正直な人たちなので、僕らの心の中は実際はその逆であることの方が多いということをよくご存じなのでしょう。

 さて、どうしてそういうことになってしまうのか? 理由はかんたんで、それは他でもないその「私」、自己イメージそのものが利己的で醜いものだからです。「美しい私」などというものは存在しません。あると思ったとすれば、それはたんなる自己欺瞞です。美や愛というものは個人の所有物ではなく、所有しようという意識が働くときには消えてしまう、あるいは変質して歪んでしまうものだからです。しかし、「私」という観念には必ずこの所有欲と排他性が伴います。ゆえに「美しい私」は存在しえないのです。

 そうした自己観念それ自体が、心に醜いものをつくり出す元凶なのです。さらに言えば、その醜いものが、それを消そうとして葛藤する思いが、その矛盾した感情が、「私」というものの実際の中身なのです。「私」がそれを消し去れるわけがない。そうしようとすればするほど、事態は複雑化するのです。「血で血を洗う」結果になってしまう。

 盤珪さんは、そういうことをやめろと教えてくれているのです。盤珪さんは今述べた「私」と、それがつくり出す各種の妄想・煩悩を鏡に映る影にたとえました。そして、それを映し出す、その背後にある鏡こそが「心の本体」であると言うのですが、どうして僕らにそれが認識できないのかといえば、「私」という観念に基づいてそれを捉えようとするからです。その場合、捉えられるのはそこに映った影のみで、それを相手に悪戦苦闘するだけになってしまう。「念と念とで相撲とる」(盤珪さんの和歌より)という不毛な事態に落ち込んでしまう。第一部でもお話ししたように、「私」という限定されたものに無限定なもの、絶対的なものは理解できません。その錯誤に気づいて、そこから意識を解放することが必要なのです。

 それが盤珪さんの言う「気づき」なので、僕は別のところで「主語のない意識」という表現を使ったこともあるのですが、「私」以前に存在するその意識でもって、誰がと問うことなく、ただ眺めるのです。それは可能だと、僕は最初のお話で申し上げました。理由も説明しました。「私」自体がたんなる観念、妄想なのです。一個の生命体として機能できるように、僕ら各人の脳には「統合ソフト」のようなものが備わっています。それは「機能」であって「実体」ではないと、そのとき申し上げました。しかし、思考が肉体の見かけ上の独立性をモデルとして、その「機能」にすぎないものを「実体」に祭り上げてしまい、その架空の自己に感情的に自己同一化して、意識がそこに張りついてしまうところから種々の混乱が始まるのです。けれども、幸いなことに僕らはそれが倒錯であることに気づくことができる。盤珪さんの言う「不生の仏心の霊明な働き」ゆえにそれが可能なのです。そのとき「実体」視されていたもの(=自己)は感情の重しを取り除かれて、元のたんなる「機能」に戻る。それはもはや「妄想の発生源」であることをやめる。そのとき影も消え始める。浮かんでも、それらが深く根づくことはなくなるのです。

 盤珪さんのこうした教えは、僕らが盤珪さんのようなすぐれた人格者にならなくても、役に立ちます。それによって僕らは無用の苦悩・葛藤から解放され、心はその分軽くなり、頭もよく働くようになって、以前より知恵も出るようになるでしょう。この根本的な真実をつかんでいるかどうかは大きな違いです。盤珪さんはくだけた調子の和歌もいくつか詠んでいるのですが、「死んで世界によるひるくらせ〔夜昼暮らせ〕、それで世界が手に入るぞ」という自在の境地までは行かなくても、「いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす」苦しさからは、理解の度合いに応じて解放されるでしょう。僕が盤珪さんの話を持ち出したのは、何よりこのあたりのことをお伝えしたかったからです。ご清聴、ありがとうございました。

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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


2020年05月
  1. 盤珪禅師の「不生の仏心」について(05/30)
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