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反日カルト国家の自縄自縛~『反日種族主義』を読んで

2019.11.25(02:45) 672

 韓国で「親日」本としては異例のベストセラーになったこの本は、日本語版(文藝春秋)が発売されるやたちまちアマゾンでトップになり、日本ではすでに25万部を売り上げたとのこと。関心が高いのは今の韓国があまりに異常だからでしょう。

 その異常さについて、あらためておさらいしておくと、文在寅は、韓国大法院の奇怪な判決を「三権分立の国だから」と言って放置・追認して、日韓請求権協定(1965年)の実質的破棄を行ない、前・朴槿恵政権のときに成立した日韓慰安婦合意も「内容及び手続き面で重大な欠陥がある」とこじつけて、日本が10億円を拠出して作った「和解・癒やし財団」を勝手に解散してしまいました(例の反日左翼団体、挺対協改め正義連はこの合意に猛反対していて、文政権はそれに歩調を合わせたのですが、多くの元慰安婦や遺族はむしろ歓迎して、お金を受け取った)。前者の文言には「完全かつ最終的に解決」、後者には「最終的かつ不可逆的に解決」といった言葉が盛り込まれていましたが、そんなものには縛られない“国際法にも優越する超法規的”政権であることを自ら誇らしげに示したのです。その他にも旭日旗事件とか、レーダー照射事件とか、非常識としか思えないことが色々あって、これにはネトウヨとは無縁の、ふだんおとなしいフツーの日本人も呆れてしまったのです。

 だから日本政府が韓国を貿易面で「ホワイト国待遇」から外す決定をしたときも、「あんな信義も何もない反日国を貿易優遇する筋合いは何もない」と、国民の大部分はこれを支持したのですが、怒った文在寅はこれに、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄の通告でもって応じた。それは韓国の外相ですら知らなかった大統領(とその反日の取り巻きたち)の独断的決定でした。

 それは、文とその取り巻き以外の人には大方予想できたものですが、アメリカをひどく怒らせてしまった。GSOMIAは元々、アメリカが根回しをして日韓両国に結ばせたものだったからです。それでアメリカは「破棄撤回」を強く文政権に迫ったが、「自分は正しい」と言い張り、韓国の世論も5割超が破棄を支持した。「今の韓国人は頭がおかしいのではないか?」と多くの日本人はあらためて思いましたが、彼のその思考回路がどういう構造になっているかは、終了期日が迫る中、「国民との対話」なるイベントで、ご本人が語ったところから明らかになりました。

「GSOMIA終了問題は日本が原因をつくったのだ」というのがかねてからの彼の主張でしたが、その「原因」とは上記の、日本が韓国を貿易面での「ホワイト国待遇」から外したことです。まず「韓国は日本の安保にとって大きな部分で防波堤役をしてやっている」と恩着せがましく言った後で、「なのに日本は輸出規制をする際、『韓国を安保上、信頼できないため』という理由を挙げた」と述べ、「安保上、信頼できないと言いながら、軍事情報は共有しようというなら矛盾した姿勢だ」とお得意の三百代言的ロジックを開陳し、「(北朝鮮に武器に転用可能な物資を横流しするのに見て見ぬふりをしているといった)疑惑自体がとんでもないが、日本が仮にそうした疑いを抱いているのなら、輸出物資統制を強化してほしい、あるいは韓日間の意思疎通を強化しようと言うべきなのに、何の事前要求もなしにある日突然、輸出規制措置を取った」、こんな無礼なことが果たして許されるのか、だから対抗措置を取ったまでで、非は全面的に日本側にあるのだ、とのたまうのです。

 日本側からすれば、「ある日突然」もクソもない、大法院のあの国際的非常識判決でも、慰安婦財団の解散のときでも、文は日本政府にいかなる相談、意思疎通の努力も見せなかったのです。これはA→B→C→D→Eと原因と結果の連鎖が続いて関係が悪化していくプロセスで、それ以前の因果関係には目もくれず、いきなりDから事が始まったとする理解に基づくもので、通常は幼稚なジコチュー人間しかやらないことです。事情を知る第三者なら、「その前に自分がやらかしたいくつものひどいことは何でもなかったわけ?」と呆れるはずですが、それを恥ずかしげもなく一国の大統領が自己陶酔的に吹聴するというところが恐ろしい。おそらく彼にはその自覚が全くないのでしょう。

 結局、彼は失効直前になって、GSOMIA延長を決めました。さらなる外交的孤立とアメリカを恐れたためだと見られていますが、「日本に対する8月の破棄通告の効力を停止する」(共同通信)というややこしいかたちでそれを発表したのです。むろん、負け惜しみの強い文政権は「これはあくまで『一時的な停止』であって、日本側が過ちを改めない場合にはいつでも廃棄できる」と付け加えるのを忘れないのですが、悪い経済指標が関係官庁から発表されるたびに決まって出される「大本営発表」的な無駄にポジティブな経済政策の自画自賛にしても、こういう滑稽としか言いようのない強がりにしても、現実を見ずに愚行を重ねて、それでどうしようもなくなると苦しい言い逃れに走るというのは、とても一国の政治指導者のやることとは思えない。トランプならずとも、「どうしてあんな人が大統領になったのか?」と言いたくなりますが、それでも支持率はまだ4割台もあるのです。

 これは僕にとってだけでなく、多くの日本人にとって謎でしょう。大統領就任以来、彼が取ってきた対応でまともなものはほとんどありません。あのチョ・グクの法相任命の時もそうでした。次から次へと出てくる疑惑に、「疑惑だけで任命しなかったら、悪い先例になる」と珍妙な理屈をこねて任命を強行しましたが、検察の捜査が進むにつれてその疑惑がさらに濃厚になるにつれ、とうとう持ちこたえられずに辞任する羽目になったのです。こういうのはアメリカでもヨーロッパでも、日本でも、ありえないことです。同じく「ありえない」のは彼の北朝鮮対応で、日本に対してはどんな些細なことでも逆上するのに、金正恩に対してはアホバカ呼ばわりされても怒ることすらない。北朝鮮は人権蹂躙の野蛮な時代錯誤の独裁国家である、というのは国際常識です。「瀬戸際外交」なるもので経済援助をゆすりとりながら、約束は守ったためしがない。それを、文は北朝鮮が核開発とミサイル実験に狂奔する中、かの国の平和志向は明確であるとして、使い走りよろしく、西欧諸国首脳に「経済制裁緩和」を説いて回ったのです(呆れられて終わりでしたが)。また、「北朝鮮は危険な敵国ではない」ので、進んで対北戦力を削減する方針を示した。北朝鮮は過去何度も「ソウルを火の海にしてやる」と恫喝しましたが、文在寅が見るところでは、金正恩は良識に満ちた偉大な政治指導者で、そんな危険性は全くないのです。先頃は脱北の意思を示した漁民二人を北朝鮮に強制送還しました。これは韓国史上初の出来事で、彼らは同じ漁船に乗った十数人の同胞殺害の疑いがもたれていたのですが、帰順の意思を示している者なら、いったん亡命を受け入れて自国の裁判所で裁けばよいものを、北朝鮮のご機嫌を損じるのを恐れて、ロクな取り調べもせず、証拠物件の漁船もろとも金正恩様にお返ししたのです。その一人は、目隠しをされて連行されたら、それが国境で、目の前に北朝鮮兵士が立っているのを見て卒倒したそうですが、文在寅にはその理由が理解できない。理想国の北朝鮮なら、韓国でよりもずっと公正な裁判が受けられるはずだからです。国際的な人権監視機構であるヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)は、国際法違反の暴挙だとこれを手厳しく批判しましたが、極端な親北の文政権には馬耳東風なのです。

 文政権の異常性について長々書きましたが、これらはリアルタイムで起きたことで、誇張や虚偽は含まれていないだろうと思うので、もしもあったらご指摘いただきたいのですが、一体こうした通常人の理解を絶したコリアン・メンタリティはどこに淵源するのか? 上に見てきたことすべては、ふつうの日本人の感覚からすれば人間のクズのやることです。しかし、困ったことにその「人間のクズ」が隣国の大統領で、韓国民がこれを深く恥じている様子もない。一体それはどうしてなのでしょう?

 ここでやっと話は『反日種族主義』に入りますが、この本を読む際の僕の最大の関心は、こうした非常識かつ無能な男を大統領に選出し、なおも一定の支持を与え続ける韓国民のメンタリティにありました。彼らはどうしてあの男と、取り巻き連中を異常だとは思わないのか? 韓国の保守派はむろん批判していますが、それが国民的な広い理解を得られないのはなぜなのか、いくら考えてもわからないところがあったのです。

 編著者の李栄薫氏は、プロローグを「嘘の国」と題して、韓国の異常な「嘘つき文化」の描写から始めます。「韓国の嘘つき文化は国際的に広く知れ渡っています」という書き出しで、偽証罪、誣告罪による起訴の件数(人口比で日本のそれぞれ430倍、1250倍)、保険金詐欺(アメリカの100倍)の桁外れの多さをまず指摘するのです。それは2014年の具体的なデータを示してのものなので、事実なのでしょうが、驚くべき話です。それで「お互いが信じ合えないので各種の訴訟が入り乱れ」、「ある社会運動家は、韓国の一人当たりの民事訴訟の件数は世界最高だ、と嘆きました」と述べて、その後、「嘘をつく政治」、「嘘つきの学問」、「嘘の裁判」と論を進めて、嘘が韓国社会全体を覆っていることを示すのです。

 そこで述べられている嘘のいくつかは、大方の日本人も先刻承知しているものですが、本文のそれぞれの章も、全部「反日韓国人の嘘」を暴くものです。非難が事実に基づかないものなら、それは中傷に他なりませんが、今の韓国人は「反日自体が正義」なので、日本相手ならどんな嘘をつこうが、虚偽に基づいて非難しようが、何ら罪悪感を感じないのでしょう。「あれは間違ったから、謝ります」と言ったという話を、僕は一度も聞いたことがありません。一例は、「朝鮮半島の少女や若い女性の20万人が日帝によって強制的に慰安婦にされた」という挺対協が広めた荒唐無稽な大嘘ですが、日本にあれほどしつこく謝罪と賠償を要求しながら、彼らは自らの非を認めて日本に謝罪するなどということは決してしないのです。国連やILOにまでその一方的な主張を持ち込み、慰安婦少女像なるものを仲間の彫刻家夫妻に作らせ、それをあちこちに「建立」しながら、虚偽と誇張に基づく日本人の悪評を世界に広めるのに、彼らは尽力してきたのですが、間違いを指摘されても居直るだけなのは驚くべきことです。挺身隊と慰安婦を混同していたという話は有名になりすぎたので、団体の名称を「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(略称「正義連」)に変えたのはご愛嬌ですが、ウィキペディアにも「北朝鮮工作機関の傘下にある朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会と協力関係にあり、産経新聞は、この団体は日韓両政府の慰安婦問題解決に向けた歩み寄りを度々妨害してきた、としている」とあるとおり、「元慰安婦の救済」ではなく、反日イデオロギーの強化を目的とする札付きの「市民団体」なのですが、今の「反日でなければ人に非ず」の韓国社会では大きな影響力をもっているのです。

 この挺対協の目に余る「悪行」については、第22章「韓日関係が破綻するまで――挺対協の活動史」に詳述されているので、そちらをご覧いただきたいのですが、文政権はこれにべったりなので、だから慰安婦財団も解散したのです。「もっと日本を懲らしめてやらねばならない」というのは、彼らの共通信念なのでしょう。北朝鮮の深刻な人権侵害については何も言わないのも同じです。そこには理性的な現実認識というものがそもそもない。

 著者たちはそれを「反日種族主義」と命名し、呪術的な朝鮮半島のシャーマニズムと結びつけていますが、たしかにこれは一種の「宗教カルト」です。文在寅はその「神官」であり、挺対協はその「巫女」のごときものです。彼らは「反日儀式」を司り、それに異を唱える者は「悪魔の手先」として“積弊清算”の対象となるのです。いかがわしい「親日」の痕跡は「日帝残滓」とされ、撲滅されねばならない。だから学校の校歌も、親日的な人物が作ったものであれば歌うのをやめねばならず、校庭の樹木でさえ、植民地時代に日本から持ち込まれたという俗説のあるものは「親日の木」として伐り倒さなければならない。過去の歴史全体が、反日ファンタジーに合わせて書き換えられなければならないのです(だから恥ずべき親日政権の朴正熙時代の「漢江の奇跡」なども教科書から削除された)。

 この本には一つ、とびきりこっけいな話が出てきます。それは第13章「鉄杭神話の真実」で述べられている話で、僕はこの「鉄杭騒動」というのは知りませんでしたが、何でも「文民政府だと宣言した金泳三政権(1993~1998年)」のとき、「鉄杭引き抜きが一種の国策事業」として行われたらしいのです。一体これはどういうわけなのか?

 民族抹殺政策の一環として、日本人は我々民族の精気と脈を抹殺しようと、全国の名山に鉄杭を打ったり、鉄を溶かして注いだり、炭や瓶を埋めた。風水地理的に有名な名山に鉄杭を打ち込み、地気を押さえ、人材輩出と精気を押さえ付けようとしたのだ(p.166)。

 これは、「ソウル国立民族博物館で開かれた光復五〇周年記念の『近代一〇〇年民族風物展』に展示され」た「楊口で除去された鉄杭」に添えられた説明文だとのこと。それで全国で鉄杭抜きの作業が必死に行われ、それは「日帝」が残したものかどうか、よくわからないものが多かったそうですが、とにかく片っ端から抜いて回った。事実は、その憎き「日帝」が残したものも、風水とは関係がなくて、「日本は朝鮮を併合した後、土地調査のため(朝鮮の)歴史上初めて近代的測量を行ない、その過程で測量基準点の標識を全国の高い山に設置」したのが、迷信深い民衆からそう誤解されたにすぎなかったのですが、二〇世紀末になってもまだ、政府まで乗り出して大々的にそんなことが行われたのです。

 うーむ。僕はオカルトや神秘主義には詳しい方ですが、さすがにこれには呆れたので、「鉄杭神話は、韓国人の閉ざされた世界観、非科学性、迷信性が、長い歴史と共に反日感情と結合して作られた低劣な精神文化を反映しています」と著者が述べているのは尤もです。これでは韓国人悲願のノーベル科学賞など、永遠の夢でしかないでしょう。全体に理性的、現実的な思考ができない人たちなのです。「いや、人材輩出と精気を押さえ付けようとした日帝の悪だくみは粉砕したから、今後は気がうまく流れるようになって、天才が続出するはずだ」と言うかもしれませんが。

 こういうのは今の日本人には理解し難いことですが、オウム真理教のようなカルトを考えるとわかりやすいかもしれません。あれもある意味、迷信に彩られた古い心性の復活と考えられるからです。彼らは精神病質人格の麻原というグルの下、社会を敵視し、「毒ガス攻撃を受けている」という被害妄想を共有しました。そうしながらサリンを製造してそれをばらまき、社会を大混乱に陥れ、「ハルマゲドンがやって来る」と言いつつ、自作自演のハルマゲドンを計画したのです。虚栄心が強く、東大法学部→政治家→総理大臣という誇大妄想的な夢をもちながらその入り口にも辿りつけず挫折した麻原は、屈折した内面の持主でしたが、その心理的補償として高学歴の若者たちをリクルートし、彼らを幹部に登用しました。宗教的な嘘は別として、オウムの嘘は信者の一人を誤って死なせてしまい、その発覚を恐れて隠蔽を図ったところから始まった。嘘をごまかすために次の嘘が必要になるというかたちでそれはエスカレートしたのですが、そのプロセスでどんどん攻撃性も増し、最初は事故死の隠蔽にすぎなかったものが積極的な殺人と強引なその教義的正当化へとエスカレートし、ついには大量殺人、国家転覆という途方もない妄想へと発展したのです。それは「最初にして最後の最終解脱者」である「至高の尊師」が支配する「至福の千年王国」樹立という“ポジティブ”な包装紙にくるまれていたのですが。

 文在寅が麻原と同じだとまでは僕も言いません。しかし、彼は虚偽にまみれた「南北統一後のユートピア」を夢想する、自国の屈辱と挫折にまみれた歴史を全否定して「あるべき歴史」に作り替えたいという願望に支配された一個の妄想家なのです。それはカルトの神官にはうってつけの素質で、韓国社会は新たな神官を得て、これまで見え隠れしていた古い心性とその自閉的な「神学体系」が露骨なものとして前面に出てきた。そう考えるといくらかわかりやすくなります。

 いくら馬鹿に見えても、彼らは知能が足りないのではない。オウム事件の時も、本来頭のいいはずの若者たちがどうしてあのような妄想に取り込まれたのか、人々は不思議に思いました。おかしいなと思っても雰囲気的に内部ではそれに逆らえないという集団心理も手伝っていたのでしょうが、現実を直視したのでは自分の信仰や価値観が一気に崩壊してしまうので、何としてでもその妄想にすがりつきたいという思いが大きかったのでしょう。彼らの知的能力は、現実と照らし合わせてそちらを修正するのではなく、その虚偽の妄想体系を精緻化し、正当化する努力に注がれたのです。彼らが世間の批判に何と言って反論していたか、記憶している人もいるでしょう。

 韓国の「反日神学」もこれと似ています。『反日種族主義』の良心的な著者たちは、「このままでは国が亡びる」という危機感の下、それに正面から異論を叩きつけたのですが、文在寅の右腕だった、「疑惑のタマネギ男」と呼ばれていたチョ・グクなどはこれを「ヘドが出る本」だとして斬り捨てたのです。文は疑惑の渦中で彼を法相に任命し、世論の批判に耐えかねてついに辞任するに至ったのですが、文政権とその取り巻きが一個のカルトに他ならないと理解すれば、あの非常識な任命劇もよくわかるのです。カルトの内部においては何よりも「神学への忠誠」が重要であり、人格面はどうでも、チョ・グクはそれには欠けるところがなく、神学の正当化・精緻化をはかる上でも不可欠の人材だったからです。

 オウムと文政権の共通点は他にもあります。それは自らを高しとする、その並外れた自惚れです。オウムの信者たちにとって俗世間は「高度な精神性をもたない、不潔な妥協に満ちた世界」でした。文一派にとっても韓国の保守派は「ゴミ溜め」にすぎないのです。とくに親日派ほどけがらわしいものはない。オウムの信者たち同様、自分の内面の醜さ、ご都合主義的な虚偽体質は自覚しないのです。他方、北朝鮮は、その現実に照らせば人権無視の、野蛮かつ醜悪な時代錯誤の独裁国家にすぎませんが、文のカルト信仰に照らせば、それは「反日の旗幟鮮明な、民族自立の本道を歩いてきた」尊敬すべき友邦なのです。だから自分の愚行を棚に上げてすぐ日本には腹を立てるが、金正恩にはどれほど罵倒されても、苦痛の色は見せてたとしても不快は表明することがない。その極端なコントラストを説明してくれるのは、彼のカルト信仰なのです。神官・文在寅に見えているのは現実ではない、彼自身の幻想世界なのです。

 幻想を通じて世界を見る人間は、その幻想に合わせて現実の人間や出来事を割り振ります。事実どうなのかということは重要ではない。だからそれを軽視してしまうのですが、それでは現実からきついしっぺ返しを受けることは避けられない。彼の現実無視の「理想」に基づく経済政策はものの見事に失敗しました。韓国の宿痾である財閥中心の経済構造の改革も全く進んでいない。彼の支持母体であった「自己利益追求集団」の巨大労組はさらにのさばり、それが経済悪化と格差社会に拍車をかける。日本との関係については、戦後最悪です。しかし、幻想に固執する彼は容易にそれを認めない。鵜の目鷹の目で好都合な材料を探して、「すべてはうまく行っている」と言い張るのです。一部問題はあると認める場合でも、非難すべきは不都合を作り出した悪しき現実であって、自分の幻想の方ではない。これは典型的なカルト思考です。

 カルトは平気で嘘をつきます。その幻想体系それ自体が虚偽なのですが、彼らにとってはそれは正義であり、絶対なので、その幻想を共有しない者相手にどんな嘘をつこうが、それはさしたる問題ではないのです。幻想が真実なら、現実は虚偽になる。そこでは価値が転倒しているので、話が噛み合わないのはあたりまえです。

 例の反日歴史教科書問題にしても、日本人は「あまりにも史実無視の嘘が多すぎる」と憤りますが、彼らにとってはその幻想の中にある「歴史ファンタジー」こそが重要なので、まず歴史的資料の客観的かつ詳細な吟味・分析があって、それに基づいて歴史理解が進むという近代精神的なやり方にはならないのです。ファンタジーに合わせて資料解釈も行われる。『反日種族主義』の著者たちは例外として、韓国の歴史研究者たちの間では、そのファンタジーに適合する資料探索が熱心に行われ、新たにそれらしきものが発見されると、そのファンタジーをより強化する方向での歴史記述の修正が行われる。マスコミも政府もこぞってそれを称賛し、後でその資料がいかがわしいものであったり、恣意的利用が甚だしいものであることが判明したとしても、深く咎められることはないのです。そしてそれはそのまま真実として受け入れられる。これとは反対の、皆が信奉するファンタジーの正当性を疑わしくさせるようなケースでは、異常なまでに厳しく吟味され、それはほとんど揚げ足取りに等しいものですが、一部に語句の「不適切な使用」や誤りが発見されるとそれが針小棒大に報じられて、全部が虚偽として葬り去られるのです。その「取り調べ」の雰囲気は、西洋中世の異端審問のそれに近い。僕は『帝国の慰安婦』の著者、朴裕河さんの裁判のとき、そう感じました。近代国家でどうしてああいうことが起きるのかと。

 韓国を被害者意識と病的なナルシシズムに冒された、神経症的な「反日カルト国家」だと理解すれば、こうした数々の「非常識」も了解可能なものになります。1980年代の「民主化」以降、とくにそれが顕著になったというのは皮肉なことですが、政治的抑圧から解放された時、呪術と迷信にまみれた古いシャーマニズム的心性も一緒に現われ、それに呑み込まれてしまったのかもしれません。おそらく、韓国は元々、日本以上に集団心性の支配力が強く、個が稀薄な国です。それも関係しているのだろうと思います。

 もう一つ、僕にはかねてから不思議なことがありました。韓国人はどうしてああも深く過去のことを根にもち、しつこいのかという素朴な疑問です。朴槿恵・前大統領は「恨みは千年たっても忘れない」という名言(?)を残しましたが、それが「恨(ハン)の文化」だと言われても、それだけではよくわからない。しかもその恨みが、しばしば甚だしく主観的なものであることで、それが客観的に妥当性のあるものなのかどうかなどということはあまり気にかけないのです。

 こういうのは、史実の見地からすれば「99%嘘」の韓流歴史王朝ドラマなどにもよく表われているので、両班の重臣たち(その多くは権力を悪用して私腹を肥やしている)は派閥に分かれて血みどろの抗争を繰り返し、その中の悪役の首領のたちの悪さ、諦めを知らない執念深さは半端なものではありませんが、最後にとうとうつかまって死を免れなくなっても、呪詛の言葉を口にしたり、「こんな私に誰がした」と責任転嫁するのを忘れないのです。何でも、彼(彼女)は昔、よい人間であったが、誰かに手ひどく裏切られるとか、権力の無慈悲な暴力によって家族を奪われるなどして、あるいは「権力の蜜の味」にスポイルされるとか、王様の寵愛を失うなどして、人格が変容し、このような悪しき人間になってしまったのです。韓国流「甘えの構造」の面目躍如で、それが度の過ぎた悪行の正当化にどうしてなるのかわからないが、なってしまうのです。そして部下たちも、その悪行に手を貸し続け、最後には主人の処刑に涙し、あるいは憤る。むろん、善玉の主人公だけは「清く正しい(しかもありえないほどに)」のですが、全体として見た場合、著しく「公」の観念に乏しいことは否めないので、私的な怨念を晴らすことか、自己及び一族の繁栄、権力の伸長をはかることこそが正義で、それを超えた「正義」の観念などあまりなさそうに思えるのです。

 これは基本的に今の韓国でもあまり変わっていないのではないでしょうか。だから『反日種族主義』のプロローグの指摘にもあったように、今の韓国社会では並外れて不正が多いのです。韓国の儒教社会においては「名分」というものが何より重視されてきました。歴史王朝ドラマでは、重臣たちが陰謀をたくましくするとき、きまってこの言葉が出てきます。敵を非難して陥れたり、卑劣な陰謀を正当化する際、この「名分」が錦の御旗として使われるのです。今の韓国でも同じく、与野党の攻防でも、マスコミの批判でも、この名分が多用される。それは韓国が「理の国」だからだそうですが、それは道具、タテマエにすぎないので、社会がそれで道徳的になることは決してない。むしろ逆なのです。儒教の始祖たる孔子その人がこの危険性をよく承知していた。だから「正名論(名称と実質を一致させること)」を説いたのですが、名分がタテマエとして他者への道徳的非難や自己正当化に乱用されるとき、それは嘘をつくことに他なりませんが、社会全体の道徳規範は著しく低下するのです。

『反日種族主義』が指摘するように、これは今の韓国社会の深刻な病理であると思われますが、李栄薫氏の説明によれば、こういうのも「韓国の文明史に古くから存在するシャーマニズム」が関係するのです。少し長いが、日本語版p.336~8にそのまとまった説明が出てくるので、そこを引用します(カッコ部分は引用者の補い)。

 シャーマニズム、物質主義、種族主義は、お互い深く通じ合っています。〔韓国の〕シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です。私は朝鮮の奴隷制度を研究する中で、このような生と死の原理に気づくようになりました。そう気づいてから、韓国の文明史について多くの点を新しく考え直すようになりました。このような生と死の連鎖の中で、善と悪の絶対的区別や、死後の審判は成立しません。どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間の霊魂が永遠の救済に至る道です。それで両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことも、不法にお金を儲けることも、みな正当化される物質主義社会が成立しました。シャーマニズムと物質主義の関連は、このようなものです。

 物質主義社会で政治的に対立する集団の間には、共有する真理や価値観はありません。二つの集団が衝突する場合、これを調整する客観的な弁論は許されません。一方の集団はその物質的成就のため、もう一方の集団を排斥し、敵対視します。その集団に「自由な個人」という要素は存在しません。個人は全体に没我的に包摂され、集団の目的と指導者を没個性的に受容します。このような集団が種族です。このような集団を単位にした政治が「種族主義」です。(中略)

 このような韓国の政治文化が、対外的に日本との関係に至ると、非常に強い種族主義として噴出します。古い昔から日本は仇敵の国でした。反日種族主義の底辺には、そのように歴史的に形成された敵対感情が流れています。中国に対する敵対感情は歴史的に稀薄でした。そのため、反中種族主義というほどのものはありません。むしろ中国に対しては、朝鮮王朝がそうしたように、事大主義の姿勢を取ることが多いのです。中国がひどいことを言っても怒らず、ひどいことをしても我慢して過ごします。韓国の民族主義には、自由な個人という範疇がありません。二つの国に対する態度も、その未熟な世界観によって顕著に不均等です。それで私は、韓国の「民族主義」は「種族主義」と呼び変えるのが正しい、と主張するのです。

 反日種族主義は一九六〇年代から徐々に成熟し、一九八〇年代に至り爆発しました。自律の時代に至り、物質主義が花開いたのと軌を一にしました。反日種族主義に便乗し、韓国の歴史学会は数多くの嘘を作り出しました。この本が告発したいくつかは、そのほんの一部にすぎません。嘘はまた反日種族主義を強化しました。過ぎし三〇年間、韓国の精神文化はその悪循環でした。その中で韓国の精神文化は、徐々に低い水準に堕ちて行きました。


 そしてとうとう、文在寅のような大統領を誕生させ、日韓関係を「戦後最悪」と言われるレベルにまで悪化させたのですが、その「反日種族主義」は没理性的なものであるだけに、対応が難しい。それはカルト集団相手に話し合いが成立し難いのと似ています。「洗脳」を先に解かないことには、どうしようもない。

「なぜ韓国人はああもしつこいのか」という先の疑問に戻りますが、それを解くヒントも上の引用にありそうです。それは「〔韓国の〕シャーマニズムの世界では、両班は死んでも両班であり、奴婢は死んでも奴婢です」という箇所です。だから、「どんなことをしてでも両班になるのは、一人の人間の霊魂が永遠の救済に至る道」だということになって、「両班の身分に昇格するため、必要ならば嘘をつくことも、不法にお金を儲けることも、みな正当化される」ということになるのです。

 これは韓国人には超越的な、言葉の真の意味での「彼岸(ひがん)」はないことを意味します。日本人のような「死ねば仏」という観念はないのです。あの世はこの世の延長で、身分差別もそのまま維持される。「あの世」は「この世」の従属物でしかなく、奴婢で死んだ人は何度も生まれ変わって、この世で両班(貴族)の地位を得るまでは救済されず、その救済も身分差別に立脚する歪んだものでしかないのです。

 再び韓流歴史王朝ドラマを持ち出すと、それには典型的な「貴種流離譚」などが多いが、低い身分の女性が王様の寵愛を受けて高い地位を授けられる、といったものもあります。この場合も、賤民が貴族に“昇格”するのであって、それ止まりです。現代ドラマだと、財閥の御曹司がその威光を恐れぬ庶民女性に恋をして、といったふうなものが多いようです。華やかな上流階級がやはり舞台となるのです。「そんなクソみたいなもの、相手にしてられるか」といった見地から作ったのでは一般受けがしないのでしょう。貧しい庶民は富裕層の相次ぐ不正に怨嗟の声を上げる一方、それに憧れて仲間入りを熱望するといった矛盾した心理の中に置かれているのです。その中で身分社会は維持される。

 厳密には、それでは救済にはならない。身分差別のある現世の中で、勝ち組になるまで戦い続けるしかなくなるのですから。「千年たっても恨みは忘れない」ことが是とされる国、民族というのは、その救いのない宗教観から生まれたものなのでしょう。それだけに現世的な恨みつらみも根深いものになるのです。韓流ブームの起点となったドラマ『冬のソナタ』は、美男美女によるその「一途な愛」で日本のおばさんたちを熱狂させたのですが、あれなども見方を変えれば現世的な感情執着の強さを讃美するもので、醜男醜女のそれなら、ストーカーじみたしつこさになります。愛であれ、恨みであれ、韓国的シャーマニズムの心性では、それが成就するまで維持されるのが望ましいことなのです。日本でいえば、江戸時代の有名な四谷怪談のお岩さんの心理です。それが今の韓国ではまだ生きている。挺対協改め正義連などは、元慰安婦の代理人を自称し、いくら日本政府が謝罪・賠償しようとも、それは彼らが主張する「性奴隷」の苦痛には見合わないものだとして拒絶し、非難を続けているのですが、その主張の高度の幻想性・主観性とも相まって、「呪詛の宗教」そのものです。そういう団体が韓国社会で孤立するどころか大きな影響力をもつというのは、社会がそういうものに親和的な体質をもつからでしょう。この本の第1章では「荒唐無稽『アリラン』」として、韓国で累計350万部を売り上げたという「今日の韓国で一番よく知られた人気小説家」、趙廷来(チョ・ジョンネ)の“反日国民的小説”『アリラン』の並外れた虚偽を暴いていますが、その中でこの人気作家は史実的にありえない「悪鬼のような日本人による朝鮮人虐殺」の場面をいくつも迫力満点の筆致で描き出しているそうです。歴史小説の場合、読者はそれを事実を踏まえたものと誤解しやすいので悪質です。李氏は彼を「狂気がかった憎悪の歴史小説家」と評していますが、これも「呪詛の宗教」です。

 長くなったのでこれくらいにしますが、韓国のあの異常さがどこから、どのようにして出てきたのかという僕の疑問は、ある程度この本によって答えられました。文政権は著者たちのいう「反日種族主義」から生まれたカルト政権で、その幻想性において、過去のどの政権をも凌ぐ。対日外交は彼らのその幻想に基づくものなので、僕ら日本人には理解し難いのです。しかし、彼らの幻想は日韓関係を極度に悪化させたのみならず、国内経済面でも、国家内部の政治対立を極大化させて自国民の間に深刻な分裂を生み出してしまったという点でも、行き詰まってしまった。幻想は現実を前に立ち往生してしまったのです。

 韓国でこの本がベストセラーになった理由を、著者たちは、文政権の度の過ぎた「反日」に韓国民が危機感を感じるようになったためではないかと分析しているようです(意外にも、露骨な反日歴史教育を受けて育った30代が一番多く買っている由)。僕が前にここにちょっと書いたロバート・J・リフトンは、Losing Reality で、完全な洗脳は不可能で、健康な部分は必ずどこかに残っているものだと書いています。文政権はその硬直したカルト的体質ゆえに、逆に韓国民の間に本能的な警戒感を呼び覚ましたのかもしれません。だとすれば、文政権は日本人に韓国の異常な思考形態と歴史教育にあらためて注意を向けさせただけでなく、韓国民の洗脳にも目覚めのきっかけを与えたと言えるかもしれません。このカルト大統領は皮肉な功績を残したことになるわけです(これとは別に、高校生たちが韓国教組の教師たちの反日思想強制に抗議の声明を出したというニュースもありました)。

 仕方なく妥協はしても、体質にそもそもの問題があるので、文のカルト政権ぶりが変わることは望み薄です。彼のあの「神官」じみた能面のような顔つきは変わらないでしょう。本格的な関係改善はその後の政権に期待するしかありませんが、韓国社会そのものは、まだ柔軟性のある若い世代から徐々に変わってくるかもしれない。それに期待したいところです。

 相変わらずだなと思ったのは、この本の著者たちは、『帝国の慰安婦』の朴裕河さんと同様、言論の場での対等のやりとりではなく、語句の揚げ足取りで訴訟攻めに遭うのではないかと危惧していたら、案の定、「強制徴用労働者像」なるものが、韓国人労働者のものとして流布された日本人労働者の写真(そういう“誤って”転用された写真は少なくない)をモデルとしたものではないかという記述(p.72)が名誉棄損に当たるとして、像の彫刻家夫妻が損害賠償の訴えを起こしたそうです。ニュースに「キム・ウンソン、キム・ソギョン夫妻」とあったので、ひょっとしたらと思って調べたら、やはりこれはあの慰安婦少女像で有名な、挺対協とタッグを組んでいる夫妻です。彼らがやせこけてあばら骨が浮いた徴用工像も作った。モデル問題というのは彫刻などの場合、本人が「違う」と言い張れば、それでおしまいなので、本書で名指しで批判されている挺対協が意趣返しに焚き付けたものなのでしょう。『帝国の慰安婦』のときと同じ構図で、そういうところは、相変わらずの韓国なのです。

 しかし、挺対協のそうしたやり方は支持を失うかもしれない。この本の挺対協批判の章は非常によくできていて、僕も読んで胸のつかえが下りたのですが、ふつうに読めばこれがどんな団体なのか、よくわかるからです。本書の他の細かい部分、たとえば「強制労働」の解釈をめぐる箇所などでは一部から尤もな批判が出ていますが、僕がネットで検索して読んだかぎりでは、感情的な反発は別として、他に立論を覆すような強力な反論はほとんど出ていない。文政権御用新聞のハンギョレは過日、「民族問題研究所と日本軍「慰安婦」研究会は〔10月〕1日、ソウル龍山区(ヨンサング)の植民地歴史博物館で『反日種族主義』緊急シンポジウムを開き、この本の主張に逐一論破した〔最後、日本語がヘンだが、そのまま〕」として、そのシンポジウムの模様を伝えていましたが、実際は「論破」になどなっていないので、反日イデオロギーに基づく従前の主張を飽きもせずただ繰り返しているだけです。

 最後に、『反日種族主義』の編著者、李栄薫氏の日本記者クラブでの記者会見(今月21日)のときの冒頭発言の全文が産経に出ているので、URL を付けておきます(産経を引用したからといって「右翼に転向したのか!」と決めつけないでください)。

李栄薫氏「韓国人の自己批判書だ」 発言全文


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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


2019年11月
  1. 反日カルト国家の自縄自縛~『反日種族主義』を読んで(11/25)
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