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大学入試・新共通テストの無知蒙昧

2019.10.30.14:35

 まず、記事を二本引用します。

筑駒生、大学入学共通テスト中止を訴える 「ぼくたちに入試を受けさせてください」

大学入試改革を民間に丸投げする文科省の狙い

「いじればいじるほど悪くなる入試制度」と言いますが、僕は「大混乱になるよ」とずっと前から予言していて、その通りになっているのですが、天下の筑駒生にこう言われたとなると、文科省も頭が痛いでしょう。昔、今のセンター試験の前身、共通一次がスタートする前も、東大の法学部と医学部(文Ⅰと理Ⅲに対応)がうちは参加しないと言って、文部省(当時)が激怒するという一幕があったと聞きました。国立文系と理系の偏差値トップに拒否されたのだから、面目が丸潰れになってしまったのです(むろん、そういう例外は認められなかったのですが)。

 しかし、あれは、つまり、今のセンター試験そのものが「失敗」だったのです。当初、京大の方は協力的な態度を取り、「共通一次重視」の配点でこれに応えました。ところが、しばらくしてその弊害でキャンパスの風景が一変することになり、「こういう小利口・表面的な、深くものを考えない暗記馬鹿ばかりになったのでは教育はできない」というので、数年を経ずして二次重視に切り替えることになったそうで、今は難関大はどこも二次重視の配点に変わっています。僕もそれは正しいと思います。あんな試験で適切な学力・資質判定はできない。

 そもそも、なぜ共通一次=センター試験のような広く浅く式のつまらない試験が導入されたのか? あれは一般の高校教師たちが文句を言ったからだと言われています。入試で問われる学力レベルと、高校の授業のレベルが違いすぎるから、生徒は学校授業を軽視するようになり、それがけしからんというので、一般的な高校の授業レベルで最低6割は得点できるというコンセプトのあれが導入されたのです。

 しかし、これは頭が悪すぎる話でした。げんに今のセンターでも、東大・京大は総合得点で9割前後がボーダーになっている。他の旧帝大レベルでも8割以上必要なので、要するに、あんなものでは差がつかず、二次の個別試験でふるいにかけるしかなくなるからです。東大だけ昔は独自の一次試験がありましたが、あれは今のセンターとは微妙に質が違っていて、怠惰な不良の僕も昔、地学か何かの問題を見ていて、「これなら国語力だけで解けるな」と色気を起こしかけたことがあったくらいなので、知識というよりは文脈力、思考力を見る色彩が濃かったのです(従って、今のセンター試験よりはるかにマシだった)。

 話を英語にかぎると、新テストですぐに英語がなくなるわけではありません。上の二番目の記事にもあるように、全面廃止は「2024年度から」らしいので、それまでは「リーディング100点、リスニング100点」の組み合わせになって存続し、リスニングの配点が一気に増え、筆記では発音・アクセント・文法などの単独出題はなくなり、これにさらに民間テストが加わるということなのです。その民間試験の受験を出願要件に含めるかどうかは大学によって相違し、さらに、出願要件に含める大学も、その民間試験の成績を点数換算するかどうか、比重をどうするかで対応はバラバラなのです。

 受験生が怒るのも無理はない。教育再生会議と文科省の元々の意図は、新テストに申し訳のように記述式を混ぜ(それも国数だけですが)、暗記力だけでなく思考力や判断力も見たという名目にし、英語は民間試験に移し替えることによって、「グローバルな英語力」なるものを判定したことにして、二次では基本的に学力テストは行わず、面接や志望理由書、小論文、ボランティアや部活等の記録によって合否を決めるという方向にもっていこうとしたのでしょう。あの大惨事になっている法科大学院のときと全く同じで、アメリカのサル真似をしようとしたのです(共通テストが2種類というあたりも同じです)。

「考える力」がまるでない、わが国の「有識者」なるもののお粗末さが際立つ話ですが、英語塾の教師として僕はこう見ています。英語の場合、「四技能」とよく言われ、この四技能とは、listening、speaking、reading、writing の四つです。今のセンターにはリスニングは入っていますが、スピーキングやライティングは入っていない。それで全部が満遍なく入った新テストを、ということになるのですが、ライティング、すなわち英作文は、すでに二次の英語には入っています。それは伝統的な和文英訳と、あるテーマについて意見を英語で書かせる自由英作文に分かれますが、両方入っているケースが多い。要するに、スピーキング以外の部分はすでにカバーされているのです。

 このうち英作文について言うと、今の受験生の能力は楽観できるものではありません。まず和文英訳については、その場で日本語の意味を取って自分で正しく表現できる英語文に転換することが彼らはおしなべて苦手だし、テーマについて論じる自由英作文となると、英語以前に、何を書いていいかわからない、何も思い浮かばないという生徒が増えているのです。それで無理に書くと、「なんじゃ、それは」というような、読む価値ゼロの英文になって、文法のミスを修正してもよくはならない。何も特別才知溢れることを書く必要はないが、そこで問われていることに対するごく基本的な知識もなかったりするのです。それではたしかに書きようがない。これは今は試験されていないスピーキングについても同じことになるでしょう。帰国子女などはたしかにしゃべれるかもしれないが、無意味なことをいくらペラペラしゃべっても意味はないのです。語るべき内容がまずなければならないが、それは英語とはまた違う次元の問題になるのです。たんなる思慮のなさや無知をさらけ出すために英語でしゃべっても、何か意味がありますか(逆に、ips細胞の山中教授のように、発音が「日本人英語」でスピーチをしても、内容があるから尊敬されるのです。国際会議のニュースなど見ていると、外国人は、ドイツ人やインド人などその典型ですが、日本人にはたいへん聞きとりやすい英語を話していて、それは発音が英語的ではないということですが、それで何も問題はないわけです)。

 要するに、現実の状況をよく見ずに「教育再生実行会議」なるものは無責任な提言を行ない、二流官庁の文科省が十分に議論を詰めることもせず決定してしまったのがこの新テストなので、記述学力はすでに二次で問われているから、そんなものを無理に共通テストに入れ込む必要はなかったわけです。英語も、目下問われていないのはスピーキングだけですが、すでに述べたようにしゃべれさえすればいいというものではないし、現状でも大学入学後、やる気のある生徒は必要に応じて必要なレベルのそれを身につけるでしょう。げんにうちの塾の元生徒でも、大学入学後TOEFLを受験して留学した学生は何人もいるし、中には高得点(120点満点の100点以上)を取って「受験英語は役立たない」説を否定して見せた者もいるのです。何にせよ、それで一年も向こうにいれば、話す方も自然に上達する。いや、どんな生徒でも全員スピーキングができなければならないのだと言うかもしれませんが、事実上そんな必要はないし、上にも書いたように、無内容なことを、アメリカ人の真似をして、舌をむやみと転がしたり、猫みたいに喉を鳴らしながらガイジン風に発音してみたところで、軽薄さが際立って侮蔑を買うだけの話なのです(昔の日本人留学生は、最初は沈黙がちで劣っているように見なされても、文法力も理解力も教養もあったので、そのうち真価を発揮して、一目も二目も置かれるようになることが多かったと聞きます)。

 センターは「眠たいだけの試験」だと僕はよく悪口を言っているのですが、これに対して、二次の英語長文には今は非常に面白いものが多い。それには明らかに価値があるので、僕らの「常識」の多くはたんなる「思い込み」にすぎませんが、入試英語ではそれを問い返し、突き崩すような内容の英文がかなりたくさん出ているのです。それは広義の「哲学的訓練」ともなって「自明を疑う力」を育むので、知的好奇心の強い高校生には面白いのです。また、大学側はそれを面白がるような生徒をほしがっているので、それは教育機関としては当然だと思います。それを廃止して、センターであれ、それに代わる民間試験であれ、実用重視のつまらない表面的な語学力だけを問う試験だけで済ませて、あとは志望理由書と面接だけで合否判定をしろというのでは、ノーベル賞はおろか、健全な判断能力をもつ一般市民ですら生み出せなくなってしまうでしょう。愚民化政策として、政治家や官僚にはそれは好都合なことかもしれませんが。

 僕はセンター廃止論者でしたが、試験の内容もさることながら、その最大の理由は、「無駄に科目数だけ多い」という点にありました。国立は原則一律で文系なら英数国に加えて社会二つ、基礎理科二つ、理系なら地歴一つに理科(詳しい方)二科目をセンターで強要されるので、そのための暗記勉強で超多忙になり、それは飛び抜けた秀才には大して負担ではないでしょうが、ふつうの受験生は何もかもが中途半端になり、自分で好き勝手考えたり、本を読んだりする余裕もなくなるから、正味学力が低下してしまうのです(先に述べた、なぜ英作文が苦手かという理由も明らかにこれと関係する。多忙なためやることが機械的になって、立ち止まって考えたり、自分で工夫したりといったことをしない悪癖がつくのです)。大学別の試験だけに戻せば、センター用、二次用と勉強を分ける必要もなく、多くの大学ではもっと試験の科目数も減るでしょう。その代わり、もっと板についた各教科の学力を受験生は身につけられるようになるのではないか、そう思ったのです。

 ついでに言うと、今の高校のヘンテコなところは、授業科目は逆に減っていることです。たとえば昔なら、僕は文系のクラスにいましたが、理科は生物、地学、化学、物理、四教科の授業がありました。社会の方は、日本史、世界史、地理、政治経済、倫社、全部やったので、国語も現国、古文、漢文と、授業が分かれていて、それぞれ先生が違っていた。文系だと数学は数Ⅲはやらないと、その程度の違いだったので、入試の見地からすれば、「いらない科目」だらけだったわけです。当時は大学進学率が今ほど高くなかったこともありますが、進学希望者も学校の授業と入試を直結させる考えはもっていなかったので、高校で一通り全教科をやるのはあたりまえだと思っていたのです。

 今は違うので、たとえば英文で物理学や生物学に関する議論が出てきたとして、理系の生徒ですら、自分の選択は生物と化学、あるいは物理と化学なので、物理は、生物は知りませんとなる。文系でも、世界史に関する話が出てきて、この人あるいは事件は有名なので知ってるよねときくと、いや、私は日本史または地理を選択しているので、世界史は何も知りません、というようなことになる。代わりに英語の授業回数などは昔より増えているようですが、それで彼らの英語力が上がっているという事実はないので、一体どんな授業をしているのかと不可解なのです。ロクな説明もない文法の授業は自分でよい英文法の参考書を見つけて勉強した方が早そうだし、リーディングでもリスニングでも、今はインターネットがあるから、生きた教材は山のようにある。英語の授業数を減らしてその分、今やっていない理科社会の授業を増やし、全般的な基礎知識を教えた方がいいように思われるほどです。国語にしても、高校レベルとなると、現国、古文、漢文、一人の先生がちゃんと教えられるのかは疑わしい。その全部に詳しい人などほとんどいないだろうからです。

 こうなってしまった最大の理由は、高校の授業科目とセンター試験の科目を無理にリンクさせてしまったことにあるのでしょう。つまり、試験でやる科目しか高校の授業でやらなくなったのです。たまにそれで困った問題も出てくるので、たとえば東大の文系には「地歴二科目」が必須です。二次がそれなのでセンターの選択も自動的にそうなるはずですが、「東大命」の有名進学校はカリキュラム上、そんな不備はないでしょうが、地方のふつうの公立高校の生徒は文系でも地歴から一つしか学校では選択できないので、もう一つは独学するしかなくなるのです(京大文系学部の大半も2014年度までは地歴二科目が必要でした。翌年から文系はすべて地歴1+倫政経の組み合わせが可能になったのですが)。

 こういうのは僕には釈然としないので、悪い意味で高校が予備校化してしまったのです。入試に関係ない科目は全然知らないという若者が量産される。暗記勉強は定期テスト前の一夜漬けだけだったとしても、初めから全くやらないのといくらか触れたことがあるのとでは後々微妙に違ってくると思うのですが、どんなものでしょう?

「余計なことを言うな。それでなくても大変なのに、この上入試に無関係な教科まで増やされてたまるか!」と受験生は怒るかもしれませんが、僕は受験科目は減らした方がいいと言っているのです。むろん、あの退屈な学校授業のやり方はぜひとも改めてもらわなければなりませんが、基本的な教養としては試験に使わない教科にも触れておいた方がいいかも知れないと思うのです。それとこれとは別の話だということで(大体、好き勝手本や雑誌を読んだり考えたりすることも、純粋にそれが面白いからで、入試のためにするのではありませんが、結果としては入試にも役立つことが多いのです)。

 話を新テストに戻して、冒頭の筑駒生が言うように、国語や数学に新たに導入される記述方式は「考える力」とは別に何の関係もないとして、受験生は新たにその「対策」もしなければならなくなって、大して意味のないことにまた時間とエネルギーを奪われるのです。かくて事態は悪化するのみ。ちなみに、その新テストの記述式問題の採点業務を落札したのはベネッセだという話で、これはすなわち「ベネッセの採点基準」が記述式問題の基準になるということで、公平性の見地からも大問題になる。それをそのまま大学が丸呑みしろということになると、民間の一企業が、大学入試まで支配することになります。おそらくこういう問題点は再生会議や文科省は何も考えていなかったのでしょう。だからアホなのです。

 結局、新テストのそうした弊害(趣旨の異なる複数の英語民間試験に公正な統一基準が見つからないのもその一つ)を考慮するなら、大学側は自己防衛上、これまでのセンター以上にそれを軽視して、二次の独自試験で合否判定をする方向に動かざるを得ないでしょう。受験生の負担が無駄に増えただけで、得るものは何もなかったということになる。

 繰り返しますが、センター試験は新テストなど作らず、単純に廃止し、大学入試センターも税金の無駄遣いなので解体して、その分を国立大学の補助金増額に回した方がいい。今は共通一次以来、それに依存しすぎたのと、愚かな安倍政権下で進められた教養教育軽視の弊害でその方面の教員不足に陥り、問題作成能力を十分持たなくなっている大学も少なくないだろうから、四、五年猶予期間として仕方ないからその新テスト(英語の民間試験はいらない)をやって、「あとは各大学で工夫して入試をやって下さい」ということで、「余計なお世話」から撤退する。試験内容は昔とは変わって当然ですが、システムは昔と同じ大学ごとの独自試験だけにするのです。

 おそらくそれがベストです。有識者先生や文科省のお役人の犬も食わない見栄やメンツのために、こうしたトンデモ「改悪」案を撤回できないというのは、オトナの恥以外の何ものでもないでしょう。それにつけても嘆かわしいのは、予備校や教材会社などの受験産業が、まともな批判は何もせずに、「ビジネスチャンス到来!」とばかり、その尻馬に乗って対策授業、対策教材の売り込みにやっきになっていることです。「入試のプロ」なら、問題点はよくわかっているはずです。「受験生の味方」を自称するなら、なぜきちんとこうした出鱈目さを批判しないのか。社会的責務の感覚が皆無だからと言う他はありません。

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