やや旧聞になりますが、このスウェーデンの16歳少女は一躍世界的な有名人になったようです。僕には本質的なこととは思えない彼女の「発達障害」も大きく取り上げられた。
・トゥンベリをからかったトランプの投稿、障害者への侮辱に
記事の最後に、「実年齢よりも大人びたトゥンベリは、トランプ大統領の屈辱的なツイートにも屈せず、それを茶化す余裕を見せた。トゥンベリは自身のツイッターアカウントのプロフィール欄を一時、『明るく素晴らしい未来を楽しみにしているとても幸せな若い女の子』に変更した」とあるように、切り返しの見事さでもこの16歳少女の“完勝”ですが、そもそもの初めから、非科学的な「地球温暖化は存在しない」信者のトランプやアメリカのネオコンがアホすぎるので、あのスピーチで彼女が言ったことは正しいのです。
そのスピーチの動画は次の記事についているので、あらためてご覧ください。
・「よくもそんなことが」気候行動サミット、トゥンベリさんが遅い対応に怒り
「よくもそんなことが」と訳されているのは、How dare you(do that)! の箇所です。大学受験には必須のフレーズなので、高校生は忘れないように。それはともかく、僕はこれを見て感動したので、他の動画を探すと、有名なTEDのこういうのが出てきました。字幕もついていて親切なサイトなので、英語を勉強している人は、そちらの意味でも為になるでしょう(彼女の母国語は英語ではないはずなので、その点でもすごい)。
・気候危機を訴える学校ストライキ ─ ルールを変えて世界を救おう | グレタ・トゥーンベリ | TEDxStockholm
実に堂々たる、完璧なスピーチで、あらためて驚いたのですが、いくらか迷信深い僕の解釈によれば、これは超鈍感で愚かな人類のために、神がこの世に遣わしたエージェントです。わが“心眼”には、この可愛い少女の背中に大きな白い羽根が生えているのが見える。
彼女の「障害」については、こういう記事もあります。
・「アスペルガーは私の誇り」グレタ・トゥーンベリさんが投げかける「障がい」の意味
「グレタさんは、アスペルガー症候群と強迫性障害、選択性緘黙であることを公表している」とありますが、三番目のTEDのスピーチによれば、彼女が「アスペルガー症候群と強迫性障害、選択性緘黙であること」がわかったのは11歳のとき、環境問題で深刻に悩み、鬱状態になってしまって、食べることも話すこともしなくなったのがきっかけのようです。それで僅か2ヶ月で10キロもやせてしまい、たぶん親が心配して医者のところに連れて行ったのでしょう。それで、身体的には何も異常がないことが判明し、心理的な面に何か問題があるのかもと調べたら、そういう「障害」があることが判明した、そういうことなのかなと思います。
しかし、こういうのが「障害」なのかどうか、僕はそれを疑問視しています。むしろ人間としては正直で「まとも」すぎるから、自分の私生活上の問題をはるかに超えるこうした問題をわが事として悩むわけで、ミーイズム全盛の折柄、こういう若者がいることは一服の清涼剤であるのみならず、人類の未来にとっての希望と言えます。トランプみたいな自分にとって損か得かという打算しかない、目立ちたがりの悪徳不動産屋が世界最大の国家の大統領になるというのはそれ自体、今の文明社会が深刻に病んでいる何よりの証拠ですが、それとは正反対です。彼女の爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなる。
アスペルガーは天才科学者・芸術家などにも少なくないと言われていますが、元々が「病気」のように言われる多くのものが実は病気でも何でもなくて、それは自然が作り出した「個の多様性」だと考える人もいます。一定数毛色が違う個体がいるからこそ、文化や文明は進歩するので、同質のものばかりでは発展はなく、種の存続自体がそれでは危うくなる。
僕は塾教師として、たくさんの子供と接してきましたが、少し変わっている子供の方が相手をしていて面白いのです。そうした個性が醜いものとなるのは、利己主義と深く結びついたときだけで、そうでなければそれはいずれも魅力のある、愉快なものとなるのです。
にしても、僕が驚いたのは、ヤフーのニュースサイトにはコメント欄がありますが、関連記事のそれを見ると、彼女に対する否定的なコメントがずらりと並んでいたことです。ほめているのだろうと思ったので、びっくりした。とくに上に引用した最後の記事など、コメント数は四千件を超え、それがほとんど利口ぶったオトナの難癖コメントなのだから、ほんとに今の日本人にはロクなのがいないなと呆れてしまうのです。
・もう少し彼女が穏やかになれるように、周りでフォローしつつ、問題点を攻撃的ではなく、理性的に、改善できるような話し方ができれば、もっと環境に興味を持つ人が出るのではないでしょうか。
このやり方では、彼女自身に対する反感や嫌悪感が大きくなりそうで、かわいそうな気がします。
環境や動物愛護に熱心な人は、とにかく相手に攻撃的で恐ろしさを感じます。
見た目は親切ぶっていて尤もらしいが、ただの難癖です。話し方がよろしくないと言うのですが、微笑でも浮かべて、淡々とていねいな語り口で地球環境の危機について語って、「皆さん、ぼちぼち環境問題について考えてみませんか?」とでも言えばいいのか? そしたらもっと効果が上がると? 馬鹿馬鹿しい。別に「彼女自身に対する反感や嫌悪感が大きくなりそう」な様子はないので、書き手が「反感や嫌悪感」を隠しもっているだけの話でしょう。しかし、これなんかはまだいい方です。
・考え方が0か100なんだよねぇ。
全てを0にしてしまえない事情もあり、難しいんだよね。
アスペルガーである子供と考えたらこれを放置するのは良くない。
いろんな考えがあるのを学ぶ必要がある。
正義感だけでは人を傷つけることもあるのだと。
親はどうしているんだろう?
この子が広告塔のようになるのは良いことだと思っているのだろうか。
・『私のようなアスペルガーの人間にとっては、ほとんど全てのことが白黒どちらかなのです。』
ここが全てを物語っていますね。
0と1だけのコンピューターロジカルで容易に解決できるのは導かれるべき正解がひとつしかない計算処理くらいでしょう。
・アスペルガーが全員同じだとは思いません。
思わないからこそ、この方の極端な思い込みの激しい思想は『アスペルガー代表』のような体裁であまり公式に取り扱わない方が良いのではないかと感じます。意義・主張は大いに結構。とても素晴らしいです。でも、『自分が絶対に正しい』と信じて疑わず聞く耳持たず脳天から噛みつくその姿勢は障がい云々関係なく問題があるのではないでしょうか。
まだまだ子供、伸び代はたくさんあると思います。
まずは被害妄想・誇大妄想をカウンセリングで軌道修正するなどして論理的思考が可能になるようにトレーニングを受ける等、是非とも頑張ってください。
一体何を考えて、こういう下らない御託を並べているのか?「いろんな考えがあるのを学ぶ必要がある。正義感だけでは人を傷つけることもあるのだと」「『自分が絶対に正しい』と信じて疑わず聞く耳持たず脳天から噛みつくその姿勢は障がい云々関係なく問題があるのではないでしょうか」――こういうのは日本人お得意の論法ですが、環境問題の悪化は深刻な問題で、「私は青が好きだが、あなたは黄色が好き」というような問題とは性質が違うのです。彼女にとってはそれは切迫した問題だが、私にとっては別に大したことはないので、自分の給料が上がるかどうかが何より切実なのだ。そういう私を非難しているみたいに感じるから、正義ぶらないでほしい。せいぜいがその程度の話でしょうが。正直にそう言え。
彼女はおそらく、こういう子です。ある問題について激論になったとする。TEDのプレゼンテーションを見てもわかるように、彼女は非常にロジカルです。だから、そのやりとりの中で自分の考えが間違っていると思えば、ぱっと考えを改めるでしょう。どうしてなのかというと、彼女にとっては何が真実で、何が正しいのかということが何より重要だからです。そこに、下らない自分のメンツがどうのといった問題は介入してこない。そういう点、いわゆる「ふつう」の人よりずっと柔軟なのです。
むしろ「正常」を装っている人に頑固なのが多いので、議論になって自分が負けそうになると、「人の考えはそれぞれだから」と言い出す。だから、自分の浅はかな考えや間違った考えも等しく尊重されるべきだと言うのですが、それはケチな自尊心が何より大事だからで、考えと人格の区別も付けられないほど幼稚なのです。それで同類の人間ばかりで集まって、「そうだよねー」と盛り上がる。
僕がこういうことを言うのは、アスペルガーだったかどうかは知りませんが、自己主張の強い、白黒はっきりさせないと気が済まない、言うことが「すべて結論」みたいな独断的な父親をもったからです。気質が似ていたからそうなったのかどうか、長男の僕は二十代の半ばになるまで、顔を合わせるたびに父と衝突していました。どちらかが「それは違う!」と言い出して、喧嘩になるのです。他の家族は雲行きが怪しくなると、必死に話題を他に向けさせようとしましたが、二人ともそんなものにごまかされる人間ではなかったので、正面から激突することになったのです。後で考えると、人生経験豊富な父の方が正しかったなと思うことの方が多いのですが、彼には一つ不思議なところがあって、たまに突然沈黙して、「今のはおまえが正しい」と言うことがあり、そういうときは一瞬で考えを改めたのです。ホンネとタテマエのややこしい区別とか、そんなものはなかったので、そこは非常にわかりやすかったのですが、そういう人間だったので、僕は父とやり合うことが無駄だと思ったことは一度もないのです。彼は昔の尋常小学校卒の学歴しか持っておらず、元が名うての悪ガキで、学校のお勉強はさっぱりだったという人間でしたが、昔の田舎の人間にしてはずいぶんと進歩的な考えをもっていた。不良息子の相手をしているうちにそうなったので、僕は父から多くのことを学びましたが、父もまた変化したのです(断っておきますが、僕自身はわが子を育てる際には、自分の父親とは全く違うやり方をしました)。
トゥーンベリさんは、TEDで「私たちは嘘をつくのがあまり上手ではありません」と言っていますが、僕の父も嘘をつかない、正直な人間として有名でした。いわゆる「空気を読む」人間ではなく、そんなことにはおかまいなしで、目上の人に無遠慮にきついことを言うことも珍しくなかったので、母はハラハラしていましたが、そのあたりもアスペルガー的です。父の前ではこちらも嘘がつけなかった。全部見破られてしまうという感じがあったので、いわゆる「アスペ的」な人というのは、そういう直観力も人よりすぐれているのかもしれません。
今の会社では受けが悪いのでそういう人は減っているようですが、「ワンマン上司」というのがいて、昔は社長や部長クラスにそういう人が結構いた。僕は学生アルバイトの時代も含めて、そういう人の相手をするのを得意としていました。ふだん敬して遠ざけられ、「あの人は全然人の言うことを聞かないから…」などと部下に陰口を叩かれているのですが、僕は「この人はうちの親父に似ているな」と親近感をもつことが多かったのです。それで異見を言いに行くと、「何か文句があるのか?」みたいな不機嫌そのものの顔つきをする。「あの指示はおかしいのではありませんか?」と言うと、「何だと!」なんて言い方も平気でするのです。大方の人はそれで引いてしまうが、僕は父親の相手をしていたおかげで免疫がついていたので、かまわずその理由の説明を始める。仕方なく話を聞き、反論してくるが、あるところまで話が進んで分が悪いと知ると、苦笑を浮かべて、「じゃあ、おまえはどうすればいいと思っているんだ?」ときく。それで意見を言うと、「わかった。それでやってみろ」と言ってくれる。そういう切り替えも早いのです。後で、「あの若いのはほんとに生意気だな」と言ったという話は聞いても、嫌われていないことはよくわかるので、昼休みに見かけると、「おまえ、メシはまだか?」と言って食事に連れて行ってくれたりする。誰も一緒に行きたがらないので、それで周りからとやかく言われることもないのです。そういう人は面白いので、歩きながら通りかかった犬に、「シロ、シロ」と呼びかけているから、「あの犬はシロって名前なんですか?」ときくと、「知らん。色からしてあれはクロのはずはないから、そう言ってみただけで、色々言ってればどれかは当たるだろ」なんて澄まして答えるのです。
こういう人には信念やハートがあり、決断力と行動力に富んで、性格的にもカラッとしていることが多いので、僕は好きなのですが、世間の人は誤解することが多い。彼らは見た目ほど頑固ではないのです。反対に見た目は受容的で、うんうん言って話を聞くふりをするが、実際は非常に自己防衛的で、それまでの議論がなかったみたいに「でもねえ…」と没論理的なことを決まって言い出し、話すだけ無駄という人はたくさんいるのです。議論でやりこめられたりすると、深く根にもって、陰湿なやり方で仕返しをしようとするのもこのタイプの人たちで、それがいわゆる「ふつう」の人たちの中にどれほど多いか。アスペルガーがどうのこうのと言う人たちは、そちらの「異常」についても少しは考えてみたらどうかと思います。この社会を本当に毒しているのは、自分のつまらないメンツや硬直した価値観に執着して変化に抵抗する、そういう人たちなのです。
彼女の病名には「強迫性障害」というのも入っていますが、僕なども子供のときはこれだったので、精神科を受診させれられていれば、そう診断されたでしょう。トゥンベリさんは11歳のとき、環境問題で悩んで鬱状態に陥った。僕も12歳頃、「1足す1はどうして2なのか?」という疑問にとりつかれて、それから7年間、それについて考え続ける羽目になったのです。何が問題だったのかと言うと、それが正しい理由がわからなかったからです。それから僕は自分の頭に浮かぶ考えに「正しいという根拠」を問い質す癖がつき、ずっと辿っていくと、1+1=2の場合と同じく答が見つけられなくなるのに気づいて戦慄したのです。周りの子供たちが自信たっぷりなのが羨ましかった。
元々学校の勉強が嫌いでしたが、おかげで勉強すること自体ができなくなった。頭を使うと、必然的にそうした疑惑と不安が強化されるからです(自然の中にいるときだけ、それを忘れることができた)。それでほとんど受験勉強もしないままビリで高校に入って、それから苦労したのは、たとえば数学の問題を解く際、僕はいちいちそれに使う公式を証明してからでないと取りかかれなかったのですが、その公式がいくつもあって、三角関数みたいに芋づる式に遡れる場合、全部を証明しないと気が済まず、また、昨日その証明を済ませていた場合でも、今となると疑わしく思えるので、もう一度やり直さなければならないのです。それというのも、根本に1+1=2への不安があるからで、その不安がそうした強迫的な確認行為を誘発するのです。暗記科目が嫌いで苦手な僕は、数学とは割と相性がよかったのですが、それが原因で数学を遠ざけるようになった。
むろん、試験前にはそれを一時的に眠らせて対応したし、昔はバイク免許取得が禁止されているということもなかったので、それを取ってバイクで走り回ったり、ふつうの高校生がするようなことは全部やって、それなりに生活をエンジョイしていたのですが、その疑問は強迫観念として僕の心に貼りついたままだったのです。
それでどうなったかと言うと、自分の頭で考えられるようなことはほぼ考え尽くして、どうしようもなくなっていたのですが、はたちの誕生日を迎えたばかりの頃、そうした疑惑が一気に消滅するという不思議な体験をした。その直前、僕は他のことに多忙で、自分のことを考えるのをすっかり忘れていたのですが、ある朝ふと気づくと、頭の中のモヤモヤがすっかり消えていたのです。そんな馬鹿なと思った僕は、一週間ほど意図的にその疑惑をぶり返させようとしました。しかし、それは二度と戻ってこなかった。
しかし、確認癖そのものは生まれつきの性格として残っていたので、何が起きたのかを今度は解明しようとしました。何かがわかって、だからそれは消えたはずだが、その「何か」が何なのか、わからないのです。それで僕は哲学、心理学、精神病理学など様々な本を読んだのですが、そのプロセスで、自分の「病状悪化」のピーク時点でのそれが、統合失調症(当時は精神分裂病と言った)のある患者の描く内界と酷似しているのを知って驚きました。もしもその当時医師の診断を受けていれば、そう診断されることもありえた、ということです。
その二年後に、僕は「わかった!」と叫んで、その問題についての論文もどきを書きました。そのとき友達に聞いたところでは、数学者による1+1=2の証明は既に存在していて、それは「背理法」を使うものだったと記憶しているという話でしたが、僕は「逆説」という言葉を使ったので、似たところがあるのかもしれません。しかし、僕はそれを哲学の問題として解こうとしたのです。それは三段構成になっていて最後は証明不可能な直観に依拠するので、ふつうの意味での証明にはならなかったのですが、その直観に対する僕の信頼はその後一度も揺らいだことがないので、大げさな言い方をすれば、それはその後の自分の思想的営為の基底をなすものとなったのです。
後でこの話を聞いた僕の母親は、「おまえは大学生にもなって、そんな幼稚園の子供でも知っているようなことを知らなかったのか!」と驚き呆れ、「そうだ」と答えると、「世間に恥ずかしい」から、絶対にそんなことは口外してはならぬ、と口止めされました。「かねておまえが非常識なアホだとはわかっていたが、まさかそこまでとは思わなかった」と半端でない嘆きようでした。落第の言い訳にそんな馬鹿げた話を持ち出すのは言語道断だというのです。
世間の大方の人はたぶんうちの母親と同じ反応を示すでしょう。1+1=2は自明のことであって、今さらそれがどうして正しいのかなどとは考えない。それが「正常」というものです。しかし、「強迫性障害」をもつ僕はそれに引っかかって、しまいにはそれを問う「自己」そのものを疑って精神崩壊の危機にさらされる羽目になったのです。しかし、その結果、僕は自分にとって重要なものをつかんだ。それもたしかなのです。僕はその発見を「シェア」したいと思っています。それがわかれば、無意識の不安の多くが消えて、もっと安心してものが考えられるようになるだろうと思うからです。しかし、多くの人はそれを説明しても、それをたんなる観念として受け取るだけで、実感としてそれが何を意味するかを理解することはないようなので、そこが難しいのです。水はH²Oだと説明しても、それで水がわかったことにはならないのと同じです。それに触れ、そこで泳いでみて、初めてそれが実感としてわかる。それが実在するものだと確信できるのです。
科学でも哲学でも、文化芸術でも、それらは何か特殊な「こだわり」をもつ人たちによってつくられたものです。社会活動家にしても、半端でないしつこさをもたなければ、事は成し遂げられない。そう言ってよければ、彼らには何かきちがいじみたところがあるのです。知性や才能はむろん必要ですが、それだけでは足りない。実験に百回失敗すれば、諦めるのが「分別」というものです。しかし、彼らは手を変え品を変え、しぶとく続ける。それは「異常」なことですが、そのおかげで彼らは何かを発見したり発明したりし、結果として僕らはそのおかげをこうむることになるのです(注意すべきは、彼らのそうしたこだわりは見栄から出たものではないということです)。心理学者や精神医学者たちはそうした彼らの性格を異常視して「発達障害」と呼ぶ。アインシュタインの相対性理論は、常識を平気で無視する彼の性格に負うところが大きかったと言われています。ニュートン流の時空観念をそれは否定するもので、「非常識」でなければ、ああいう発想自体ができないからです。そして彼は典型的なアスペルガー型天才の一人だったとされているのです。
僕はグレタ・トゥンベリさんの将来に期待しています。「ああいうのはテロリストになる恐れがある」なんてアホな中傷コメントをしている人もいましたが、なるわけない(笑)。彼女は遠い将来ではなくて、今行動を起こさねば間に合わないのだと言い、そうしているわけですが、同時に環境問題についての勉強を熱心にしているようなので、警世活動を続ける生態学者、地球環境学者や、疲れを知らぬ環境保護活動家になるかも知れません。頭のいい彼女なら、そのどれにもなれそうです。僕らオトナは、アスペルガーだからどうのこうのと下らない御託を並べるのではなく、彼女が突きつける疑問に正面から答えられるようにしなければならない。それが間違っているというのなら、彼女の主張のどこがどう間違っているか、ロジカルに説明しなければならないのです。それができないので、人格や病気を持ち出すというのは卑劣極まりないことなので、僕は彼女が言っていることを聞いて、「君の言うとおりだよ」としか言えませんでした。「今の人間世界では変えるのは難しいのだ」なんて、彼女は先刻承知なので、にもかかわらず、変えなければならないと言っているのです。彼女と違って僕らが切迫感をもたないのは、鈍感で不勉強で、馬鹿だからにすぎない。なぜそれを素直に認められないのかと、それが不思議でならないのです。僕は塾でも、自分が間違えたときは生徒にちゃんと謝ってますよ。それは恥ではないので、それを認めないことこそが恥なのです。
・トゥンベリをからかったトランプの投稿、障害者への侮辱に
記事の最後に、「実年齢よりも大人びたトゥンベリは、トランプ大統領の屈辱的なツイートにも屈せず、それを茶化す余裕を見せた。トゥンベリは自身のツイッターアカウントのプロフィール欄を一時、『明るく素晴らしい未来を楽しみにしているとても幸せな若い女の子』に変更した」とあるように、切り返しの見事さでもこの16歳少女の“完勝”ですが、そもそもの初めから、非科学的な「地球温暖化は存在しない」信者のトランプやアメリカのネオコンがアホすぎるので、あのスピーチで彼女が言ったことは正しいのです。
そのスピーチの動画は次の記事についているので、あらためてご覧ください。
・「よくもそんなことが」気候行動サミット、トゥンベリさんが遅い対応に怒り
「よくもそんなことが」と訳されているのは、How dare you(do that)! の箇所です。大学受験には必須のフレーズなので、高校生は忘れないように。それはともかく、僕はこれを見て感動したので、他の動画を探すと、有名なTEDのこういうのが出てきました。字幕もついていて親切なサイトなので、英語を勉強している人は、そちらの意味でも為になるでしょう(彼女の母国語は英語ではないはずなので、その点でもすごい)。
・気候危機を訴える学校ストライキ ─ ルールを変えて世界を救おう | グレタ・トゥーンベリ | TEDxStockholm
実に堂々たる、完璧なスピーチで、あらためて驚いたのですが、いくらか迷信深い僕の解釈によれば、これは超鈍感で愚かな人類のために、神がこの世に遣わしたエージェントです。わが“心眼”には、この可愛い少女の背中に大きな白い羽根が生えているのが見える。
彼女の「障害」については、こういう記事もあります。
・「アスペルガーは私の誇り」グレタ・トゥーンベリさんが投げかける「障がい」の意味
「グレタさんは、アスペルガー症候群と強迫性障害、選択性緘黙であることを公表している」とありますが、三番目のTEDのスピーチによれば、彼女が「アスペルガー症候群と強迫性障害、選択性緘黙であること」がわかったのは11歳のとき、環境問題で深刻に悩み、鬱状態になってしまって、食べることも話すこともしなくなったのがきっかけのようです。それで僅か2ヶ月で10キロもやせてしまい、たぶん親が心配して医者のところに連れて行ったのでしょう。それで、身体的には何も異常がないことが判明し、心理的な面に何か問題があるのかもと調べたら、そういう「障害」があることが判明した、そういうことなのかなと思います。
しかし、こういうのが「障害」なのかどうか、僕はそれを疑問視しています。むしろ人間としては正直で「まとも」すぎるから、自分の私生活上の問題をはるかに超えるこうした問題をわが事として悩むわけで、ミーイズム全盛の折柄、こういう若者がいることは一服の清涼剤であるのみならず、人類の未来にとっての希望と言えます。トランプみたいな自分にとって損か得かという打算しかない、目立ちたがりの悪徳不動産屋が世界最大の国家の大統領になるというのはそれ自体、今の文明社会が深刻に病んでいる何よりの証拠ですが、それとは正反対です。彼女の爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなる。
アスペルガーは天才科学者・芸術家などにも少なくないと言われていますが、元々が「病気」のように言われる多くのものが実は病気でも何でもなくて、それは自然が作り出した「個の多様性」だと考える人もいます。一定数毛色が違う個体がいるからこそ、文化や文明は進歩するので、同質のものばかりでは発展はなく、種の存続自体がそれでは危うくなる。
僕は塾教師として、たくさんの子供と接してきましたが、少し変わっている子供の方が相手をしていて面白いのです。そうした個性が醜いものとなるのは、利己主義と深く結びついたときだけで、そうでなければそれはいずれも魅力のある、愉快なものとなるのです。
にしても、僕が驚いたのは、ヤフーのニュースサイトにはコメント欄がありますが、関連記事のそれを見ると、彼女に対する否定的なコメントがずらりと並んでいたことです。ほめているのだろうと思ったので、びっくりした。とくに上に引用した最後の記事など、コメント数は四千件を超え、それがほとんど利口ぶったオトナの難癖コメントなのだから、ほんとに今の日本人にはロクなのがいないなと呆れてしまうのです。
・もう少し彼女が穏やかになれるように、周りでフォローしつつ、問題点を攻撃的ではなく、理性的に、改善できるような話し方ができれば、もっと環境に興味を持つ人が出るのではないでしょうか。
このやり方では、彼女自身に対する反感や嫌悪感が大きくなりそうで、かわいそうな気がします。
環境や動物愛護に熱心な人は、とにかく相手に攻撃的で恐ろしさを感じます。
見た目は親切ぶっていて尤もらしいが、ただの難癖です。話し方がよろしくないと言うのですが、微笑でも浮かべて、淡々とていねいな語り口で地球環境の危機について語って、「皆さん、ぼちぼち環境問題について考えてみませんか?」とでも言えばいいのか? そしたらもっと効果が上がると? 馬鹿馬鹿しい。別に「彼女自身に対する反感や嫌悪感が大きくなりそう」な様子はないので、書き手が「反感や嫌悪感」を隠しもっているだけの話でしょう。しかし、これなんかはまだいい方です。
・考え方が0か100なんだよねぇ。
全てを0にしてしまえない事情もあり、難しいんだよね。
アスペルガーである子供と考えたらこれを放置するのは良くない。
いろんな考えがあるのを学ぶ必要がある。
正義感だけでは人を傷つけることもあるのだと。
親はどうしているんだろう?
この子が広告塔のようになるのは良いことだと思っているのだろうか。
・『私のようなアスペルガーの人間にとっては、ほとんど全てのことが白黒どちらかなのです。』
ここが全てを物語っていますね。
0と1だけのコンピューターロジカルで容易に解決できるのは導かれるべき正解がひとつしかない計算処理くらいでしょう。
・アスペルガーが全員同じだとは思いません。
思わないからこそ、この方の極端な思い込みの激しい思想は『アスペルガー代表』のような体裁であまり公式に取り扱わない方が良いのではないかと感じます。意義・主張は大いに結構。とても素晴らしいです。でも、『自分が絶対に正しい』と信じて疑わず聞く耳持たず脳天から噛みつくその姿勢は障がい云々関係なく問題があるのではないでしょうか。
まだまだ子供、伸び代はたくさんあると思います。
まずは被害妄想・誇大妄想をカウンセリングで軌道修正するなどして論理的思考が可能になるようにトレーニングを受ける等、是非とも頑張ってください。
一体何を考えて、こういう下らない御託を並べているのか?「いろんな考えがあるのを学ぶ必要がある。正義感だけでは人を傷つけることもあるのだと」「『自分が絶対に正しい』と信じて疑わず聞く耳持たず脳天から噛みつくその姿勢は障がい云々関係なく問題があるのではないでしょうか」――こういうのは日本人お得意の論法ですが、環境問題の悪化は深刻な問題で、「私は青が好きだが、あなたは黄色が好き」というような問題とは性質が違うのです。彼女にとってはそれは切迫した問題だが、私にとっては別に大したことはないので、自分の給料が上がるかどうかが何より切実なのだ。そういう私を非難しているみたいに感じるから、正義ぶらないでほしい。せいぜいがその程度の話でしょうが。正直にそう言え。
彼女はおそらく、こういう子です。ある問題について激論になったとする。TEDのプレゼンテーションを見てもわかるように、彼女は非常にロジカルです。だから、そのやりとりの中で自分の考えが間違っていると思えば、ぱっと考えを改めるでしょう。どうしてなのかというと、彼女にとっては何が真実で、何が正しいのかということが何より重要だからです。そこに、下らない自分のメンツがどうのといった問題は介入してこない。そういう点、いわゆる「ふつう」の人よりずっと柔軟なのです。
むしろ「正常」を装っている人に頑固なのが多いので、議論になって自分が負けそうになると、「人の考えはそれぞれだから」と言い出す。だから、自分の浅はかな考えや間違った考えも等しく尊重されるべきだと言うのですが、それはケチな自尊心が何より大事だからで、考えと人格の区別も付けられないほど幼稚なのです。それで同類の人間ばかりで集まって、「そうだよねー」と盛り上がる。
僕がこういうことを言うのは、アスペルガーだったかどうかは知りませんが、自己主張の強い、白黒はっきりさせないと気が済まない、言うことが「すべて結論」みたいな独断的な父親をもったからです。気質が似ていたからそうなったのかどうか、長男の僕は二十代の半ばになるまで、顔を合わせるたびに父と衝突していました。どちらかが「それは違う!」と言い出して、喧嘩になるのです。他の家族は雲行きが怪しくなると、必死に話題を他に向けさせようとしましたが、二人ともそんなものにごまかされる人間ではなかったので、正面から激突することになったのです。後で考えると、人生経験豊富な父の方が正しかったなと思うことの方が多いのですが、彼には一つ不思議なところがあって、たまに突然沈黙して、「今のはおまえが正しい」と言うことがあり、そういうときは一瞬で考えを改めたのです。ホンネとタテマエのややこしい区別とか、そんなものはなかったので、そこは非常にわかりやすかったのですが、そういう人間だったので、僕は父とやり合うことが無駄だと思ったことは一度もないのです。彼は昔の尋常小学校卒の学歴しか持っておらず、元が名うての悪ガキで、学校のお勉強はさっぱりだったという人間でしたが、昔の田舎の人間にしてはずいぶんと進歩的な考えをもっていた。不良息子の相手をしているうちにそうなったので、僕は父から多くのことを学びましたが、父もまた変化したのです(断っておきますが、僕自身はわが子を育てる際には、自分の父親とは全く違うやり方をしました)。
トゥーンベリさんは、TEDで「私たちは嘘をつくのがあまり上手ではありません」と言っていますが、僕の父も嘘をつかない、正直な人間として有名でした。いわゆる「空気を読む」人間ではなく、そんなことにはおかまいなしで、目上の人に無遠慮にきついことを言うことも珍しくなかったので、母はハラハラしていましたが、そのあたりもアスペルガー的です。父の前ではこちらも嘘がつけなかった。全部見破られてしまうという感じがあったので、いわゆる「アスペ的」な人というのは、そういう直観力も人よりすぐれているのかもしれません。
今の会社では受けが悪いのでそういう人は減っているようですが、「ワンマン上司」というのがいて、昔は社長や部長クラスにそういう人が結構いた。僕は学生アルバイトの時代も含めて、そういう人の相手をするのを得意としていました。ふだん敬して遠ざけられ、「あの人は全然人の言うことを聞かないから…」などと部下に陰口を叩かれているのですが、僕は「この人はうちの親父に似ているな」と親近感をもつことが多かったのです。それで異見を言いに行くと、「何か文句があるのか?」みたいな不機嫌そのものの顔つきをする。「あの指示はおかしいのではありませんか?」と言うと、「何だと!」なんて言い方も平気でするのです。大方の人はそれで引いてしまうが、僕は父親の相手をしていたおかげで免疫がついていたので、かまわずその理由の説明を始める。仕方なく話を聞き、反論してくるが、あるところまで話が進んで分が悪いと知ると、苦笑を浮かべて、「じゃあ、おまえはどうすればいいと思っているんだ?」ときく。それで意見を言うと、「わかった。それでやってみろ」と言ってくれる。そういう切り替えも早いのです。後で、「あの若いのはほんとに生意気だな」と言ったという話は聞いても、嫌われていないことはよくわかるので、昼休みに見かけると、「おまえ、メシはまだか?」と言って食事に連れて行ってくれたりする。誰も一緒に行きたがらないので、それで周りからとやかく言われることもないのです。そういう人は面白いので、歩きながら通りかかった犬に、「シロ、シロ」と呼びかけているから、「あの犬はシロって名前なんですか?」ときくと、「知らん。色からしてあれはクロのはずはないから、そう言ってみただけで、色々言ってればどれかは当たるだろ」なんて澄まして答えるのです。
こういう人には信念やハートがあり、決断力と行動力に富んで、性格的にもカラッとしていることが多いので、僕は好きなのですが、世間の人は誤解することが多い。彼らは見た目ほど頑固ではないのです。反対に見た目は受容的で、うんうん言って話を聞くふりをするが、実際は非常に自己防衛的で、それまでの議論がなかったみたいに「でもねえ…」と没論理的なことを決まって言い出し、話すだけ無駄という人はたくさんいるのです。議論でやりこめられたりすると、深く根にもって、陰湿なやり方で仕返しをしようとするのもこのタイプの人たちで、それがいわゆる「ふつう」の人たちの中にどれほど多いか。アスペルガーがどうのこうのと言う人たちは、そちらの「異常」についても少しは考えてみたらどうかと思います。この社会を本当に毒しているのは、自分のつまらないメンツや硬直した価値観に執着して変化に抵抗する、そういう人たちなのです。
彼女の病名には「強迫性障害」というのも入っていますが、僕なども子供のときはこれだったので、精神科を受診させれられていれば、そう診断されたでしょう。トゥンベリさんは11歳のとき、環境問題で悩んで鬱状態に陥った。僕も12歳頃、「1足す1はどうして2なのか?」という疑問にとりつかれて、それから7年間、それについて考え続ける羽目になったのです。何が問題だったのかと言うと、それが正しい理由がわからなかったからです。それから僕は自分の頭に浮かぶ考えに「正しいという根拠」を問い質す癖がつき、ずっと辿っていくと、1+1=2の場合と同じく答が見つけられなくなるのに気づいて戦慄したのです。周りの子供たちが自信たっぷりなのが羨ましかった。
元々学校の勉強が嫌いでしたが、おかげで勉強すること自体ができなくなった。頭を使うと、必然的にそうした疑惑と不安が強化されるからです(自然の中にいるときだけ、それを忘れることができた)。それでほとんど受験勉強もしないままビリで高校に入って、それから苦労したのは、たとえば数学の問題を解く際、僕はいちいちそれに使う公式を証明してからでないと取りかかれなかったのですが、その公式がいくつもあって、三角関数みたいに芋づる式に遡れる場合、全部を証明しないと気が済まず、また、昨日その証明を済ませていた場合でも、今となると疑わしく思えるので、もう一度やり直さなければならないのです。それというのも、根本に1+1=2への不安があるからで、その不安がそうした強迫的な確認行為を誘発するのです。暗記科目が嫌いで苦手な僕は、数学とは割と相性がよかったのですが、それが原因で数学を遠ざけるようになった。
むろん、試験前にはそれを一時的に眠らせて対応したし、昔はバイク免許取得が禁止されているということもなかったので、それを取ってバイクで走り回ったり、ふつうの高校生がするようなことは全部やって、それなりに生活をエンジョイしていたのですが、その疑問は強迫観念として僕の心に貼りついたままだったのです。
それでどうなったかと言うと、自分の頭で考えられるようなことはほぼ考え尽くして、どうしようもなくなっていたのですが、はたちの誕生日を迎えたばかりの頃、そうした疑惑が一気に消滅するという不思議な体験をした。その直前、僕は他のことに多忙で、自分のことを考えるのをすっかり忘れていたのですが、ある朝ふと気づくと、頭の中のモヤモヤがすっかり消えていたのです。そんな馬鹿なと思った僕は、一週間ほど意図的にその疑惑をぶり返させようとしました。しかし、それは二度と戻ってこなかった。
しかし、確認癖そのものは生まれつきの性格として残っていたので、何が起きたのかを今度は解明しようとしました。何かがわかって、だからそれは消えたはずだが、その「何か」が何なのか、わからないのです。それで僕は哲学、心理学、精神病理学など様々な本を読んだのですが、そのプロセスで、自分の「病状悪化」のピーク時点でのそれが、統合失調症(当時は精神分裂病と言った)のある患者の描く内界と酷似しているのを知って驚きました。もしもその当時医師の診断を受けていれば、そう診断されることもありえた、ということです。
その二年後に、僕は「わかった!」と叫んで、その問題についての論文もどきを書きました。そのとき友達に聞いたところでは、数学者による1+1=2の証明は既に存在していて、それは「背理法」を使うものだったと記憶しているという話でしたが、僕は「逆説」という言葉を使ったので、似たところがあるのかもしれません。しかし、僕はそれを哲学の問題として解こうとしたのです。それは三段構成になっていて最後は証明不可能な直観に依拠するので、ふつうの意味での証明にはならなかったのですが、その直観に対する僕の信頼はその後一度も揺らいだことがないので、大げさな言い方をすれば、それはその後の自分の思想的営為の基底をなすものとなったのです。
後でこの話を聞いた僕の母親は、「おまえは大学生にもなって、そんな幼稚園の子供でも知っているようなことを知らなかったのか!」と驚き呆れ、「そうだ」と答えると、「世間に恥ずかしい」から、絶対にそんなことは口外してはならぬ、と口止めされました。「かねておまえが非常識なアホだとはわかっていたが、まさかそこまでとは思わなかった」と半端でない嘆きようでした。落第の言い訳にそんな馬鹿げた話を持ち出すのは言語道断だというのです。
世間の大方の人はたぶんうちの母親と同じ反応を示すでしょう。1+1=2は自明のことであって、今さらそれがどうして正しいのかなどとは考えない。それが「正常」というものです。しかし、「強迫性障害」をもつ僕はそれに引っかかって、しまいにはそれを問う「自己」そのものを疑って精神崩壊の危機にさらされる羽目になったのです。しかし、その結果、僕は自分にとって重要なものをつかんだ。それもたしかなのです。僕はその発見を「シェア」したいと思っています。それがわかれば、無意識の不安の多くが消えて、もっと安心してものが考えられるようになるだろうと思うからです。しかし、多くの人はそれを説明しても、それをたんなる観念として受け取るだけで、実感としてそれが何を意味するかを理解することはないようなので、そこが難しいのです。水はH²Oだと説明しても、それで水がわかったことにはならないのと同じです。それに触れ、そこで泳いでみて、初めてそれが実感としてわかる。それが実在するものだと確信できるのです。
科学でも哲学でも、文化芸術でも、それらは何か特殊な「こだわり」をもつ人たちによってつくられたものです。社会活動家にしても、半端でないしつこさをもたなければ、事は成し遂げられない。そう言ってよければ、彼らには何かきちがいじみたところがあるのです。知性や才能はむろん必要ですが、それだけでは足りない。実験に百回失敗すれば、諦めるのが「分別」というものです。しかし、彼らは手を変え品を変え、しぶとく続ける。それは「異常」なことですが、そのおかげで彼らは何かを発見したり発明したりし、結果として僕らはそのおかげをこうむることになるのです(注意すべきは、彼らのそうしたこだわりは見栄から出たものではないということです)。心理学者や精神医学者たちはそうした彼らの性格を異常視して「発達障害」と呼ぶ。アインシュタインの相対性理論は、常識を平気で無視する彼の性格に負うところが大きかったと言われています。ニュートン流の時空観念をそれは否定するもので、「非常識」でなければ、ああいう発想自体ができないからです。そして彼は典型的なアスペルガー型天才の一人だったとされているのです。
僕はグレタ・トゥンベリさんの将来に期待しています。「ああいうのはテロリストになる恐れがある」なんてアホな中傷コメントをしている人もいましたが、なるわけない(笑)。彼女は遠い将来ではなくて、今行動を起こさねば間に合わないのだと言い、そうしているわけですが、同時に環境問題についての勉強を熱心にしているようなので、警世活動を続ける生態学者、地球環境学者や、疲れを知らぬ環境保護活動家になるかも知れません。頭のいい彼女なら、そのどれにもなれそうです。僕らオトナは、アスペルガーだからどうのこうのと下らない御託を並べるのではなく、彼女が突きつける疑問に正面から答えられるようにしなければならない。それが間違っているというのなら、彼女の主張のどこがどう間違っているか、ロジカルに説明しなければならないのです。それができないので、人格や病気を持ち出すというのは卑劣極まりないことなので、僕は彼女が言っていることを聞いて、「君の言うとおりだよ」としか言えませんでした。「今の人間世界では変えるのは難しいのだ」なんて、彼女は先刻承知なので、にもかかわらず、変えなければならないと言っているのです。彼女と違って僕らが切迫感をもたないのは、鈍感で不勉強で、馬鹿だからにすぎない。なぜそれを素直に認められないのかと、それが不思議でならないのです。僕は塾でも、自分が間違えたときは生徒にちゃんと謝ってますよ。それは恥ではないので、それを認めないことこそが恥なのです。
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