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意識と輪廻

2019.01.13(01:34) 618

 年末から正月にかけて、面白い本を二冊読みました。

①『あなたの知らない脳~意識は傍観者である』(デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 ハヤカワ文庫)

②『ブッダが考えたこと~プロセスとしての自己と世界』(リチャード・ゴンブリッチ著 浅野孝雄訳 サンガ)

 ①は米国スタンフォード大准教授の神経科学者の本、②はオックスフォード大学のサンスクリット講座の主任教授を28年間にわたって務めたという英国仏教学の泰斗の本ですが、訳者の浅野孝雄氏はこの種の本を訳す人としては異例の、東大医学部卒のお医者さんで、脳科学の専門家です。どちらも訳文は達意で、読みやすい。①は科学読み物として面白く、僕が宣伝しなくても単行本が文庫化され、大いに売れているようですが、②は昨年4月に出たもので、テーマがあまり一般的ではないことと、頭も使わされるかなり大部な本なので、ロングセラーで少しずつ息が長く売れる、という性質の本でしょう(この一年で僕が読んだ本の中で一番刺激的で読み応えがあったのがこの本です)。

 拙文は書評を意図したものではありませんが、これは二つ並べて論じるというのは難しい組み合わせです。どちらも「意識」の問題を取り上げているが、畑が違うと、意識の定義も違ってくるからです。この言葉が面倒なものであることについては、『リターン・トゥ・ライフ』の訳者あとがきでも触れましたが、②のゴンブリッチ本の内部ですら、文脈によって異なる意味の「意識」が出てきて、その語義の理解は読者に委ねられているので、本当に厄介なのです。

 ①のサブタイトルになっている「意識は傍観者である」の意味は、僕らは通常、〈私〉という主人がいて、それが自分の行動や思考を指揮・監督していると思い込んでいるが、さにあらずで、それは広大な大洋に浮かぶ豆粒大の島のようなものにすぎない、ということです。人間の内蔵の働きなどは意識とは無関係に「自動運転」されているということは誰でも自覚しているでしょうが、脳の病変や損傷によって人間の「人格特性」と見られているものまで激変してしまうことがあることからして、脳とは分離独立した人格とか魂とかいったものが存在するかどうか疑わしい、という話も出てきて、著者の立場は中立的で、「脳のありようがすべてを決定する」というようないわゆる「唯脳論」ではありませんが、素朴な心身二元論を完全に否定するものだとは言えそうです。

 同じく②のサブタイトル、「プロセスとしての自己と世界」は、この本の内容全体を一語で言い表したもので、僕らに認識される「自己と世界」は、それ自体が一個の「プロセス」に他ならず、それ以上でも以下でもない、ということを言ったものです。仏教は元々この現象世界に「実体」的なものを認めませんが、自己も世界も「変化してやまないプロセス、意識の流れ」としてしか存在しないというのが全体のコンセプトです。

 しかし、そもそも「意識」とは何なのか? ①に出てくる「意識」の場合、それが何であるのかというような抽象的、哲学的議論は何も出てきませんが、僕らが「ああしよう、こうしょう、これは避けたい」とか思う場合、そこに「意識」が働いていると見なされるのですが、それはその思念と切り離せないもので、抽象化された「意識」ではありません。このことは②の議論ともつながってくる。「ブッダは、意識とはつねに何ものかについての意識だと言っている」(p.240)とあるからです。彼は意識というものをそのように捉えることによって、ウパニシャッド的な意識に関する教義を否定した、というか、別の現実的な意識理解をもたらした、というのです。

 ①のイーグルマンの「意識」の場合、そこに〈私〉、意識主体というものが措定されているのはたしかです。「ああしよう、こうしよう、これは避けたい」とあれこれ思う場合、それは〈私〉がそう思う、感じると理解されているのであり、名称はどうあれ意識主体となるものが無意識に前提されているのです。その場合の意識は「その思念と切り離せないもので、抽象化された『意識』ではない」と言いましたが、通常はその思念とは別の、抽象的な実体、自己が存在すると思われているのです。その「自己」が「意識」の中心にいて、それを所有しているのだと考える。

 ②の仏教的見地からすれば、こういうのは「妄想」なのですが、この文明社会はその「妄想」によって運営されている。デカルト先生も「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったではないか。意識や思考が存在するとすれば、そこには同時に必ずその担い手、主体が存在するはずだ。頭がおかしいのはおまえの方ではないか、と反撃されてしまうのです。

 さらにややこしいのは、仏教の場合、「輪廻」というものが“正式教義”として認められていて、その場合、何が輪廻するのかという問題が出てくることです。ピュタゴラスに遡る西洋神秘主義の伝統では「魂が輪廻」するのであり、霊魂は不滅とされるのですが、仏教が「そんなものはない」と言うのなら、じゃあ何が輪廻しているのか、そこをはっきり説明してもらわないと困る。無我だが、輪廻はあるなんて、わけのわからないことを言ってもらっては困るのです。「ないようで、あるのですよ」といった没論理の東洋的曖昧主義で納得するのは、ものを突き詰めて考えない人にかぎるでしょう。

 これに対するゴンブリッチ先生の回答は、いささか拍子抜けがするほどかんたんなものです。これは「不変の我は無い」または「不変の魂は無い」という意味なのだと。あったりまえでしょうが、そんなこと! 魂であろうと、人格であろうと、変化しないものはない。変化しないそういうものを措定して、わざわざそれを否定して見せるなど、全く馬鹿げたことに思われます。しかし、ウパニシャッドでは「恒久不変のアートマン」なるものが出てくるし、ブッダが相手をしていた当時の聴衆は、「個々人の核に、生から生へと輪廻する恒久的な実体がある」と信じていたので、それを否定しておく必要があったのだと、何かそんな感じのお話です。そうして先生はおっしゃる。

「仮に、無我の教義が個人の連続性の否定を意味するならば、それは道徳的責任の放棄という恐るべき結果を招くであろう。…(中略)…それは正しい解釈ではありえない。なぜなら仏教は、人々(あるいは他の生命)が死ぬと、自らの道徳的行為にふさわしい境地に生まれ変わると教えるからである。…仏教徒は無限に繰り返される一連の生に及ぶ、個人の連続性を信じている」(p.39)

「カルマの教え全体の要訣は、あらゆる個人は自分自身に対して責任を有すると説く点にある。ブッダの言葉を引けば、我々は『自らの行為の相続人』である。仮に我々が、他人の行為まで相続することとなったら、道徳体系のすべてが崩壊してしまうであろう」(p.283)


 うーむ。これはそれ自体としては全くご尤もなお話ですが、僕に一つ疑問なのは、西洋の輪廻説、ソクラテスやプラトンも信じていた魂の輪廻は、魂がそのプロセスで変化することを前提としていなかったのか、ということです。変化しなければ、輪廻それ自体が意味を失う。魂はそのプロセスで向上したり堕落したりする、それあってこその輪廻だからです。ゴンブリッジ式解釈では魂は「不変の実体」なのかも知れませんが、元々それはそういうものではないでしょう(そこに「本質」というものが措定されていて、それは「不変」と見なされていると言いたいのかもしれませんが…)。

 そうすると、どういうことになるか? 魂が元々「恒久不変性」をもたないとすれば、そう理解する方が自然だと僕には思われますが、輪廻するのは魂またはそれに相当するものだと言っても差し支えないことになり、仏教説も実質的には変わらないことになります。「無我」というと「我自体が存在しない」意味なのかと思ってしまいますが、ただ「変化しない我は存在しない」という陳腐きわまりない意味にすぎなかったということになってしまうのです。

 僕は仏教学者ではなく、仏教信者ですらないので、詳しいことはわかりませんが、本書全体の叙述の印象としては、「恒久不変」なものは「涅槃」(それについてはのちに触れます)以外にないとされ、類似点の指摘が一ヵ所出てきますが、ヘラクレイトスの「万物流転」的な徹底した見方――すべては因果関係の中で生起するプロセスである――をブッダはしていた、というような書きぶりなので、やっぱり「いかなる実体的なものも認めない」立場なのかなとも思えるので、そこらへん、いくらか釈然としない思いです。が、人の議論をなぞるのは僕は苦手で、ここまででも十分苦労しているので、ここから先、少し自由に自分の考えを書かせていただきます。

 僕の考えでは、輪廻するのは思考や感情・記憶の集合体で、「残念」という日常語が日本語にはありますが、その本来的な意味の「残った念」が輪廻するのです。そしてそれらをにかわのようにくっつけて、一つのかたまりにしているものは、ずっと続いてきた「私という思い」です。それは僕らの無意識の底に貼りついた感情で、それが「無明」というものなのだろうと僕は理解していますが、それによって形成された心的構造物が輪廻するのです(それは通常の意味ではネガティブなものだけではない。「やり残したこと」も当然含まれるはずだからです)。

 このゴンブリッジの本で、一つ非常に僕に有益で面白かったのは、対比的に使われるウパニシャッド、ヴェーダ思想の説明です。僕はそれをよく知らなかったのですが、何と自分の考えと似ているかと驚いたので、そのへんをちょっと引用させてもらいます。

「(『プリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』によれば)ブラフマンは意識(cit)として、全宇宙に遍満する」(p.172)

「ブッダは、意識とはつねに何ものかについての意識だと言っている。これは、意識は世界精神たるブラフマンに内在し、ゆえに、個人の魂であるアートマンにも内在するとする――これは究極的にブラフマンと同一であるから――『ウパニシャッド』の教義とは正反対である。…」(p.240)

「『ウパニシャッド』において、意識は外部にある何かについての意識ではなく、そのような意識〔が存在するため〕の前提条件であった。またそれは、真の存在と不可分に結び合っているから、ここでは存在論と認識論が一体となっている。意識とはつねに、何ものかについての意識でなければならないとする点において、ブッダに同意するかはともかく、存在論と認識論を分離している点では、ブッダの見解が我々にとって親しみやすいものであることに疑いはない。」(同上)


 この前の訳書のあとがきにもちょっと書いたのですが、僕はこんなふうに考えています。意識は元々世界に内蔵されていて、それが人間のレベルにまで脳が進化した時、その働きを初めて自覚的に感受できるようになったのだと。たとえば、蚊を叩こうとすると、彼らはその気配を敏感に察知するように見えます。僕の解釈では、これは世界が内蔵する意識のおかげでそうできるので、その普遍意識が蚊にも分け与えられていて、それが保護的な働きをしているのです。どの生物もその根源的意識のおかげをこうむっている。それが人間のように意識にのぼらないだけで、いわば「意識以前の意識」としてそれは作用しているのです。機械と生きものの違いはそこにある(そのうち機械‐ロボットにもそれと似た能力が付与されるかもしれませんが、これはその「気配」が物理的電気〔化学?〕的な何らかの信号として捉えられるようになった場合でしょう。その場合でも、生命体と機械では危険回避のシステムが異なっているだろうと僕は考えますが、長くなるのでそのへんの議論は割愛します)。

 上の引用文に照らせば、これは「ウパニシャッド的」です。この場合の「意識」は本来一つのものだと見なされているのですから(始原においては「意識は非二元的である」、そこには「いまだ主体と客体の分裂が見られないからだ」という記述もp.269に出てくる)。

 だから僕らの通常の意識も、上の引用文にある「前提条件」としてのその普遍的意識のおかげで成立するものと理解されるのです。どの宗教にもある神秘主義の伝統には、瞑想などで意識が個別性、相対性を離れてその根源的なレベルの自覚にまで達すると、途方もない絶対感、自由感が体験され、一神教文化では、その根源的なものは「神」と観念されるので、「われは神なり!」と叫んで不敬罪で捕らえられ、処刑されたりすることもあるのですが、それは意識のそういう性質によるのです。

 しかし、僕ら人間は意識のそういう性質を誤解してしまった。〈私〉が意識を持っているのだと思い込むのです。僕はたまに、塾の高校生に何かのついでに「君らは〈自分〉というものが存在していると思ってる?」と訊くことがあるのですが、ほぼ百パーセントがイエスと答えます。混乱させるとよくないので、それ以上の話はしないのですが、今の文明世界ではそれは自明のことで、多くの人たちにとってこの自分、〈私〉こそが「神聖犯スベカラザル実体(もちろんそれは変化成長するものと思われている)」と受け止められているのです。

 どうしてそうなってしまうのか? 僕らは一応肉体的に分離独立したからだをもっています。そして誕生と同時に名前をもらい、ずっとその名で呼ばれて、「君は可愛い」とか「おまえは頭がいい」とか言われながら育ち、人間の脳には一個の生命体として機能するための「統合ソフト」と思考の働きが備わっているので、自分の体、自分の能力、自分の性格、自分の家族、自分の学校・会社、自分の国…というふうに、すべてがmyという所有格付きで解釈されるようになる。社会によっても、脳によっても、十重二十重(とえはたえ)の条件づけを受けて「私という実体」(より正確に言えば、それが存在するという思い込み)が生まれるのです。そして本来誰のものでもないその普遍的な意識の働きを感受、自覚するとき、それも「私のもの」と解釈してしまう。そして防衛的な自意識が生まれ、それに支配された思考や感情の下、その働きを歪めたり、局限したりしてしまうのです。

 もう一つ、面白い文を引きます。これはヴェーダの「宇宙創成論」に触れたくだりです。

「アートマン(註:ここはブラフマンと同じ)は創造された世界に名と形を与えた後、その中に『つま先に至るまで』入り込む。こうして主体(意識とも言えよう)となった彼は、客体とともに自らのアイデンティティを認識し、最終的にそれに形を与える。…父が息子の中に生きているように、アートマンは名と形を与えられた我(self)において認知を行う。
 だが、名と形を通じての自己表現は、創造者が自己認識を続けることを可能にするだけではない。同時に、彼は身を潜めてしまい――あたかも、複数の異なる名と形に分割されたかのように――一つの全体として見られる能力を失う。こうして、名と形を与える行為はまた、認識を不可能に、あるいは、少なくとも困難なものとする」(p.271~2)


 いかがですか? これは寓話的な表現ですが、今僕が言ったことをよく説明してくれるものと思われるのです。それぞれのものに「名と形」を与えることによって、近視眼的な認識の過誤が起こり、「全体として見られる能力を失う」(根源者の側から見れば)ことになってしまうのです。それぞれの個物が自分を「分離独立した実体」だと思い込み、互いにそう主張し合って、分裂がひき起こされる。

 それは有害無益なことなので、ゴンブリッジ先生によれば、「実用主義者」のブッダはこういう誤解につながりやすいヴェーダ的思考原理そのものを廃棄しようとした、ということのようですが、仏教でも、時代がずっと下って大乗仏教になると(大乗非仏説というのがあって、それは正しいと僕も思いますが)、それは復活してしまう。たとえば禅では、「父母未生(ぶもみしょう)以前本来の面目」なんてことを言います。おまえの両親が生まれる以前の本来の自己を言え、と禅坊主は弟子に迫ったりするのですが、通常の理解だと、親が生まれる以前には当然自分はまだ存在しなかった。親が生まれてからもしばらくは存在しなかったので、父母がたまたま出会って結婚し、おぎゃあと産声を上げて初めて今の自分は出現したのです。しかし、そんなものは本当の自己ではない。むろん、前世でおまえは誰だったのかというようなことをきいているのでもないので、個別性を離れた、根源的な意識の自覚を、これは指しているのです。

 この場合、意識の座が「小我」から「大我(真我)」にシフトした、というようなことではそれはない。梵我一如と言いますが、アートマン(個我)とブラフマン(宇宙我)が合一したというわけでもないので、そういう捉え方をするなら、それは誤解だと言われてしまうでしょう。それは日常の思考習慣の産物にすぎず、その縛りから自由になってこれを見れば、そこに実体的なものは何も存在しないことが理解される。そしてその根源的なあるものの洞察によって、「実体としての自己が存在する」という思い込みそのものが脱落、消失するのです。それでノー・プロブレムであることがわかった。むしろそれで初めて「如実知見」、あるがままにものが見えた、ということになるのです。

 このとき、それによって自我人格が永久的に消えてしまって、神のようになる、ということにはならない。そういう「おとぎ話」を信じるのは、そういう体験が何もなくて観念と想像だけでものを考える人にかぎられます。そういう人はオウムの麻原や、この前僕がここで英文の長いスキャンダル記事を翻訳紹介したソギャル・リンポチェ(世界的ベストセラー『チベットの生と死の書』の著者)みたいなお粗末なグルに手もなく引っかかってしまうのですが、現実にそういうことはありえないのです。未熟な人間がたまさか神秘体験をして、その意味を誤解すると、ユングのいう病的な自我膨張が生じて、大方の場合、前より悪くなってしまう。それによって生じた夜郎自大なふるまいは早晩彼を破滅に追い込むでしょう。そうなると「悟らなくて幸せ」ということになってしまうのです。

 それがわからないのは憐れむべきことです。自我は本来一つの機能のようなものなので、それには持ち場があって、僕らはそれ抜きでは日常生活すらまともに送れない。それが自分というものの本質なのだという思い込みからよけいなものをあれこれまといつかせてしまうことが問題なので、そこから無用な感情的負荷を取り除いていくことが肝要なのです。禅で「悟後の修行」というものが重要視されるのもこの理由によるので、自我人格をその体験に基づく自覚を通じて陶冶する必要があるからです。自我人格そのものを消すのではなく、そこからよけいなものを取り除く。自我人格が消滅するのはそれが不要になったとき、つまり死ぬときです。

 それで何も問題はない。ゴンブリッジ先生が心配する「個人の無責任」もそれで防止できる。自我人格はこの社会における一つの「約束事」みたいなものです。仮にそれを実体として扱いましょうということで、それなら問題にはならない。

 こういう話は、しかし、あまり歓迎されません。「仮定としての自己」なんて怪しげなものしかないというのでは頼りなくて仕方がない。「でも、本当の自分というのはどこかにあるはずですよね?」という話になって、「さあ、やっぱりそんなものはないんじゃありませんか? あの精神分析なんかも、タマネギの皮むきと似ているので、サルにあれを投げ与えると、中に実が入っているはずだと思って、涙を流しながら必死に皮をむいていって、何もなかったのに気づいてキッキーと怒って皮を投げつけるそうですが、無意識も所詮はその『皮』の集まりで、そんなものをいくら分析しても埒は明かないのです」と答えると、大方のスピリチュアルな人は気を悪くするのです。それで、こんな頼りないネガティブな話しかできない奴は何の役にも立たないと判断して、ハイヤー・セルフ本などにまた戻ってしまう。

 この「仮定としての自己」という考え方については、本書にもよく似た説明が出てきます。

「彼らの考えでは、ブッダは個人的存在を、物質的要素(色)、快苦などの感覚(受)、統覚(想)、意欲(行)、意識(識)という、五つの要素に分解した。したがって『ジョンは部屋を出た』という言明が、仮に通常の意味において正しいとしても、それは便宜的にそうであるにすぎない。五蘊の特定の組み合わせが、ジョンという名前を冠することは、便宜的に合意されたことでしかないからだ。究極的には、部屋を出たのは五蘊の組み合わせにほかならないというのが、アビダンマの主張である」(p.305)

 僕も、別に五蘊(ゴウンと読む)がどうのといった理屈はこねませんが、同じような理解をしているので、こういう文章を読むと心強く感じるのです。日本人はことに権威に弱い人が多いので、今度から説明をするときは「お釈迦様もそう言ったそうですよ」と付け加えて、「権威付け」することにします。

 にしても、どうしてこういう話は受け入れられにくいのか? 僕らは観察したり、ものを考えたりするとき、そこに必ず何らかの主体――〈私〉――が存在するはずだと考えます。デカルト先生も言ったように、「われ思う」ということは、そこに「われが在る」証拠だというのです。しかし、これは後でつけた理屈にすぎません。デカルトはずば抜けて頭のいい人ですが、この点では彼はミスをしたのです。①の『あなたの知らない脳』にも、有名な「電気と磁気を統一する基本方程式を考え出した」マックスウェルが死の床で、あれを発見したのは「自分の中の何か」であって自分ではないと言った、という話が出てきます。「アイディアがどうやって浮かんだのかわからない、ただ降りてきたのだと認めている」というわけです。似たような体験をしたブレイクやゲーテといった文学者の例も挙げられている。その後で著者のイーグルマンはこう述べる。

「あなたの内面で起こることのほとんどがあなたの意識(註:これは通常の自己意識です)の支配下にはない。そして実際のところ、そのほうが良いのだ。意識は手柄をほしいままにできるが、脳の中で始動する意思決定に関しては、大部分を傍観しているのがベストだ。わかっていない細かいことに意識が干渉すると、活動の効率が落ちる。ピアノの鍵盤のどこに指が跳ぼうとしているのか、じっくり考え始めると、曲をうまく弾けなくなってしまう」(p.21)

 こういう話は誰でも経験として知っているので、「たしかに…」と思うでしょう。むろん、意図的な学習や訓練というものは勉強でも、仕事でも、スポーツでも必要です。よく「からだに覚え込ませる」と言いますが、正確には脳に新たなシナプスかニューロンか知りませんが、新たな配線が確立するまで鍛え、練習するのです。そうすると脳は「自動運転」でうまくやってくれるようになる。マックスウェルやゲーテは、それにふさわしい脳の機構を整えていたから、インスピレーションがやってきたので、僕らが「何でオレのところにはいいものが降りてこないんだ!」と文句を言っても、それはあちこちに木の生えた、草も伸び放題の凸凹の無秩序な原野にジャンボジェット機が降りられないのと同じです。迎え入れる準備ができてから、文句は言わなければならない。

 宮本武蔵の『五輪書』に、「見の目弱く、観の目強く」という言葉があったと記憶しています(順序が逆かもしれませんが)。それが剣の極意の一つだというのですが、今のイーグルマンの言う「意識」はこの場合の「見の目」です。「観の目」はこれに対して、自意識を排除した、「全体を観じる目」です。それはあれこれ忙しく思いはからう意識、〈私〉が居座っていると出現できない。一時的にせよ、それは消えてもらわなければならないのです。

 以上で、〈私〉、自意識というものが「なくもがなの妨害物」で、考えたり、観察したり、能力を高めて行動を円滑にする際には必要でないことがおわかりいただけたかと思うのですが、人が無意識に自分というものを探し、それにしがみつこうとするのは、それがないと不安に感じるからでしょう。でないと底なしの奈落に落ちてしまうような気がするのです。

 何か絶対的なものが、拠り所がほしい。仏教の場合だと、それが「涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)」です。これはものの本では「煩悩の火が消えた状態」とか、ゴンブリッチの本にも「悟りを得た人間の死をも意味する」といった説明が出てきますが、「をも」とあるとおり、これはそういった消極的な意味だけの言葉ではありません。

「我々の世界とは、われわれが経験するところのものだ。それは変化、生成、およびプロセスの世界である。それは我々の認知器官によって、構成、生成される。しかしながら、生成されることなく、本来的に存在するものがたった一つだけあり、それこそが涅槃である。それはたんに『現われる』のではなく、〈ある〉のだ」(p.306)

「比丘たちよ、生まれず、成されず、作られず、複合されないものが存在する。仮にそれが存在しないとすれば、生まれ、成され、作られ、複合されたこと(もの?)から逃れる道が、知られることもないであろう」(p.313~4)


 それは縁によって生起したり、変化したりする「条件づけられたもの」ではなくて、絶対的なものです。逆に言えば、その「条件づけられていないもの」を知ることなしには、「条件づけられたもの」を正しく知ることもできない。だから相対的なものに過ぎないもの(個我観念もその一つ)を絶対視してしまう過誤が生じるとも言えるので、仏教的な万物流転、プロセス論的な世界・人間理解は、それ自体矛盾した「すべては相対的なものにすぎない」という皮相な相対主義とは違って、裏に涅槃という「絶対的実在」に対する堅固な確信を秘めているのです。

 ウパニシャッド的に言えば、それは「ブラフマン」だということになるのでしょうが、それはいかなる意味でも個我観念の拡張や、その投影の産物ではない。それは何らかの「もの」や個体ではないので、僕らが通常認識できるのは、その作用、はたらきだけです。意識もそうなら、知性もそうなので、淵源にその絶対的なものがある。僕のようなひねたオヤジがこう言うのは口幅ったいのですが、愛や慈悲というものも、そこから出てくるのです。僕らが「よい働き」ができるのは、無用な自意識に災いされず、いわば「賢明にそれに所有される」ときだけなのです。

 それではその、涅槃でも、ブラフマンでも、「神妙不可思議なる空(くう)」でも、名称は何でもいいとして、絶対的なものはどうすれば洞察、体験されるのでしょう? そういう体験にもおのずと深浅というものがあるのでしょうが、僕は専門用語(?)を多用して誰が上だとか下だとか「悟りの較べっこ」みたいなことをしている人たちを見るとアホらしく思ってしまうので、その種の議論には関わりたくありません。一つだけ、僕の乏しい体験から言えることは、“自分”がそれを体得しようとか洞察しようとかしても、それは絶対に無理だということです。それはその種の悪戦苦闘の努力が破れたとき、初めて可能になる。〈私〉が〈真理〉に到達しようとか、それを所有しようとかするのですが、他でもないその思考習慣そのものが事の実現を妨げているのです。

 この点で僕が面白いと思っているのは禅の公案です。あれは通常の知的・観念的思考では解決がつかない奇妙な問いかけを行なって、いくら考えてもどうにもならないところまで人を追い込むためのものでしょう。そのとき人はその知的には解決不可能な問題に意識を張りつかせて、一種の強迫観念的状態、自家撞着に陥る。そして懊悩の日々が続いた後、ふとしたきっかけ、それは梅の香が鼻に触れたとか、池にドングリの実がぽちゃんと落ちる音が聞こえたとか、そういう何でもない日常的なことが多いようですが、そういう偶然のきっかけで、意識がそれを離れたとき起こるのです。そのとき出現する意識は、いわば「主(あるじ)のない意識」です。そのとき瞭然として事が明らかになる。そんな感じでしょう。それは科学者が問題を考えに考えた末、行き詰まり、もはや打つ手が見つからなくなったとき、ふとしたきっかけや夢うつつ、あるいは実際の夢の中でインスピレーションを得るのに似ています。それはつねに、通常の意識の〈外〉からやってくる、別元すれば、意識が〈悩める私〉を忘れ、それを離れたところで起こるのです(ついでに申し添えておくと、僕は別に公案禅を推奨しているわけではありません。盤珪が批判したように、それは「公案ごっこ」に堕する可能性があるので、それが「本物の疑団」にならなければ意味はないでしょう)。

 こうした体験は、その後それをどう解釈するかという問題が残っていて、僕にはそれで苦い経験があるのですが、ここでそんな面白くもない話をする気はありません。あのデカルト先生にしても、彼は有名な「炉部屋の一夜」である種の神秘体験、洞察体験をしたのです。それが彼の知性(普遍的なそれ)に対する全幅の信頼を生み出した。その霊妙完全なすがたが直覚された、いわばありありと“見えた”のです。そしてそれに支えられて彼は「あらゆるものを疑う」作業に乗り出したのですが、そこから先、「考える私」だの、循環論法だと批判される「神の証明」だの、いくらかスコラ的思弁に耽りすぎる結果になったのです。違う文化伝統の中に生まれていれば、体験(このゴンブリッジの本にも、ウィリアム・ジェームズの神秘体験についての記述が引用されていますが、本物のそれの場合、その洞察体験それ自体についての確信は揺るぎないものとして残る)の解釈も自ずと異なり、彼の思索はずいぶんと違った展開を見ることになったのではないかと、僕は思います。

 長くなりすぎたのでこれくらいにしたいと思いますが、最後に、輪廻の原因となるカルマについてのゴンブリッジの議論に触れて終わりにしたいと思います。怪しげな宗教では、この言葉を借用して、しばしば人の不幸や不運をダシに信者を脅します。「カルマの法則」は乱用されすぎているのであり、インドのようにそれを社会的に適用して、愚劣なカースト制度を作り、それを正当化するのに用いられることすらあります(仏教がインドで生まれたにもかかわらず、その後本国では衰退することになったのも、仏教思想がカースト的なものに対する根本的批判を含むものであったことが関係するでしょう)。

「実際のところ、人々はカルマの理論を後ろ向きに遡って当てはめようとする。ある人が病気に罹り、いかなる治療法も無効とわかった時、これは悪いカルマのせいに違いないと言い始めるのだ。ブッダ自身は、カルマの結果を、考えるべきでない四つの対象の一つであるとした。それについて考えることは、人の頭を狂わせるからである。おそらくこの警告は、まだ覚りを得ていない人々に向けられている。なぜなら、覚りにおいて生じる三種の知恵の第二は、衆生が行為の道徳的性質に応じて、いかに再生するかを見通す能力(天眼通)だからである。したがって、ブッダはカルマの働きをありありと見たのだが、それは我々には不可能なことだ。そして彼が見たことが、再生のプロセスを止滅するよりも火急のことはあり得ない、という確信をもたらしたのである」(p.58)

「それ(=カルマ)について考えることは、人の頭を狂わせる」というのは、言い得て妙だと思います。ブッダはそれを一種の物理学法則のようなものと見ていたようですが、その精妙なメカニズムを僕ら凡人は知りえず、当て推量でああだこうだと言っているだけなのです。中には自分はその「天眼通」を得ているのだと自称する教祖や霊能者もいるようですが、大方は思いつきの出鱈目を並べて、お布施を巻き上げるのに利用しているだけなので、そういうのに振り回されるようになると、混乱はさらに募り、目も当てられなくなってしまうのです。

 カルマの話ではありませんが、つまらない例を一つ挙げると、この前僕は自転車での通勤途中、ある「発見」をしました。仕事場まで信号が六つほどあるのですが、時によってやたら信号に引っかかるときと、奇蹟のように一つも引っかからず、スムーズにいくときとがあるのです。一体これはどういうわけだろう? 運がいいときと悪いときがあるのか? 僕はそういうことをあまり気にする方ではありませんが、あるとき、単純な理由に気づいたのです。最初の信号が青に変わった瞬間に出ると、僕が自転車をふつうにこぐときのスピードで行けば、うまい具合にその後が全部青で渡れるのです。それがずれるとうまく行かない。信号は機械的に切り替わるので、タイミング的にそれに合うかどうかだけの話だったのです。運気の上昇下降とは何ら関係がない。

 カルマについても、合理的に考えれば別の説明がつくことの方が多いので、何でもカルマのせいにしてしまうのは病気です。そういう人にかぎって、現実的な手立ては何も打たずに事態を悪化させるだけの対応をしていることが多いので、「悪しき宿命論」に陥るのです。早い話が景気がひどく悪化して、大量の失業者が出るようになると、あなたも失職する可能性が高くなる。それは別にあなたのカルマのせいではないので、原因は政府の経済政策の失敗にあるのです。「カルマ落とし」の儀式など執り行うより、政権を取り替えた方が早い。実際に失業したら、ハローワークに行けばよいだけです。

 これから入試シーズンで、今度の土日がセンター試験なのですが、学歴社会の今の日本においては、どの大学に入れるかはかなり大きく人生を左右する。僕は入試シーズンには訳本を出さないようにしていますが、これはそちらで運を使ってしまうと生徒たちに回す分が減るという迷信的思考によるものです。実際は無関係なのは知っていますが、気持ちの問題でそうしているだけです。

 去年、うちの塾で一人、センター直前にインフルエンザにかかった生徒がいました。別にそんなに流行っているわけでもないのに間抜けだなと笑ってしまいましたが、カルマ的思考にとりつかれた人なら、これは「悪いカルマ」のせいだと思うかもしれません。それで学校で一人だけ、わざわざ大阪まで追試を受けに行かなければならなくなったのです。一般に、センターは追試の方が難しいと言われています。しかし、僕は心配しませんでした。その生徒の学力レベルでは、多少の難易度の変化は影響しないからです。むしろ、二次のための追い込みが必要なこの時期、これは幸いするかもしれないと思った。インフルエンザは、治っても、感染の恐れがなくなるまで数日は学校を休まねばなりません。追試で移動するときも前後で休みが取れるでしょう。こんなことを言うと叱られそうですが、年明け後の学校の下手な授業はない方がずっとマシなので、その分自分の勉強ができるのです。それはその生徒にはプラスに働くでしょう。果たしてうまく行って、彼はその年学校で一番いい大学に合格し、後輩たちに崇め奉られることになったのです。

 人生、かくの如しです。十分な見込みがあったにもかかわらず、第一志望に落ちて泣く泣く第二第三志望の大学に行った場合でも、そこでその後の人生を決定づけるような先生や友人との喜ばしい出会いが待っているかもしれない。そういう場合は「悪しきカルマ」のせいではなく、「よいカルマの導き」だったということになるのです。「これで自分の人生は終わった」と思い込むような人にはそういう出会いは訪れないでしょうが。

 だから、カルマをそういう次元でとやかく言うことには意味がない。僕の理解では、カルマが重要なのはその深い道徳的側面と、その因果の射程をあの世と後世にまで延長するところにあります。先の引用文にもあったように、「カルマの理論を後ろ向きに遡って当てはめようとする」ことには意味がないのです。

 たとえば僕がハートのない不正直な人間で、しかし嘘と偽装能力には長けているので、陰で散々人を苦しめているが、うまく世間は欺き、かなりの成功を収めたとします。輪廻がなく、肉体の死と共に精神もきれいさっぱり消滅するのなら、僕はハッピーです。しかし、「厳粛なカルマの法則」があるとすれば、僕はいずれタダではすまなくなるので、恐ろしい報いが先に待ち受けているのです。それを恐れて、ということならたんなる打算になりますが、ともかくそう考えるなら、最初の動機はどうあれ、僕は少しはマシな人間になろうと努力するようになるでしょう。決して欺けない「何か」を、僕は気にかけるようになるのです。その「何か」は外部ではなく、僕らの心の奥深くにある。ブッダはつまり、良心に従って生きよと教えたのです。

 古代のバラモン教においては、「よいカルマ(行ない)」とは、祭祀を決められた手順に従って「正しく」行なうことでした。それは個人の生き方とは無関係な、外部的行為にすぎません(昔のキリスト教カトリックの「善」も、教会権力におとなしく従い、寄進をし、時に「十字軍」という名の殺戮行動に参加することでした)。ブッダはその意味を内面的な道徳に置き換えたのだというのが、ゴンブリッジ先生の説明です。今の時代も、世間道徳の多くはこのバラモンの祭祀行為に近いものになっています。人々は形式的なことにこだわり、心に愛のかけらもない人間でも、外面だけ取り繕っていれば紳士淑女として通り、裏で心ない仕打ちを重ねていても、自分は道徳的だと思い込めるのです。そうして鵜の目鷹の目で人の粗探しをして、形式倫理を振りかざしてしばしば人を非難するのですが、そうした浅ましいありようが「道徳的」でないのは明らかで、「カルマの法則」がそうした皮相な世間道徳、形式倫理に即して働くものではないのは自明の理と思われます。良心とはそうしたガラクタのことではない。カルマを恐れるなら、僕らは諸々の条件づけから自由になって、その良心が何であるかをまず知らなければならない。老子は「大道廃れて仁義あり」と言いましたが、その「大道」を発見して、それに従う努力をする必要があるのです。

 なかなか終わりにできませんが、最後の最後に、冒頭の①のイーグルマンの、人格や魂というものが独立した存在かどうか疑わしいという議論にあらためて触れておきましょう。脳に生じる異変が人格の変異とつながるのは、特殊な例を持ち出さずとも、長寿の時代、認知症の老人が増え、脳の萎縮が人格的な変貌までひき起こすのを身近に見るようになった今の僕らにはよくわかります。聡明で他者への思いやりや配慮に富んでいた人が、にわかに粗暴になったり、お金が盗まれるのではと被害妄想的になったりするのです。ときには別人格のように見えたりする。

 この場合、元のその人はどこに行ったのでしょう? それはたんなる偽装で、こちらが真の姿なのか? それとも人格というようなものがそもそも存在せず、脳がそのような幻像をつくり出していただけなのか?

 これは難しい問題で、どういう答え方をしてもそれは仮説にとどまるでしょうが、僕らの心や精神と呼ばれるものの働きがこの世界では脳の機能に依存しているのはたしかであるように思われます(古来の神秘主義では、心の座は脳ではなく、心臓やみぞおちにあるなどとも言われますが)。そして僕らの脳は、進化のプロセスで古いものに新しい部分が追加されるというかたちで大きくなった。昔、何かの本で、人間の脳の下にはワニの脳があるのだという話を読んだことがありますが、爬虫類が僕らの中には同居しているわけです。ネズミやサルもその中にはいる。人間的なものは大脳新皮質、とくに前頭葉に宿る。その部分が委縮すると、だんだん人間的なふくらみは失われてゆくわけです。

 前頭葉が社会生活上重要なのは、イーグルマンのこの本でも、「衝動抑制の弱さは、刑務所制度における犯罪者の大半がもつ顕著な特徴である」として、再犯防止のための「前部前頭葉トレーニング」なるものが提唱されていることからもわかります。老化に伴う脳の萎縮によって抑制が効かなくなり、「暴走老人」化する人がいるのも、同じ理由によるのでしょう。それによって別に「隠れた本性が露わになった」わけではない。人間としてまともに機能できなくなっただけなのです。

 仮に輪廻する魂があったとしましょう。僕は先に「何が輪廻するのか?」ということに関して自分なりの考えを書きましたが、その心的構造物を「魂」と呼んでも別に差し支えはないと思います。「カルマの法則」によれば、僕らのそれはそれぞれに見合った肉体と脳に宿るわけです。あなたの肉体と脳は、どういうふうにしてかは知りませんが、あなたの魂に見合ったものだから選択されたのです。但し、これは重要なことと思われますが、それは決定論的なものではない。脳は誕生後も成長し、また、高度な可塑性をもちます。なかばあなたの脳はあなたの魂が育てたものです。あなたが何に関心をもつか、またどれほどの意欲や愛情をもつかに、その成長・発達は大きく左右されるからです。子供の場合、これはそれ自体が大きく環境に左右されますが、カルマの影響が全体的なものだとすれば、環境的なものもそこには幾分かカウントされているのでしょう。

 こういうのは「取扱注意」な思想です。それは解釈の仕方によっては残酷なものにもなりうるからです。僕が冷たい見方でこういう話をしているのではない証拠に、少し自分のことを書かせてもらうと、子供の頃、僕は自分の脳には何か深刻な欠陥があるのではないかと思い悩みました。学校のお勉強には皆目興味がもてず、勉学意欲はまるで湧かないし、他の子供たちは自信満々ああだ、こうだ言っているように見えるが、僕には自分の考えに自信がもてるようなことは何一つなく、執拗な自己疑惑に悩まされ続けていたからです。健康な子供にはあるはずの自己に対する自然な信頼感というものが自分には欠けている。これは脳に欠陥があるからではないかと、実際にそう思ったのです(僕は十分な家庭的愛情に恵まれて育ったので、そちらに理由を見つけることはできません)。幸い自然豊かな田舎に育ったので、自然の中で夢中になって遊んでいるときだけはその不安を忘れられた。大人は概してこういうことには鈍感なもので、親も含めて周囲の大人たちはそういう少年のことを「喜怒哀楽丸出しの単純でわかりやすい子供」と見ていました。たしかにそういうところはあったので、ふつうの意味では別に陰気な子供ではなかったからです。

 しかし、あれは中2の頃だったかと思うのですが、居間に一人座って開け放った窓から庭をぼんやり見ていたとき、自分ははたち前に発狂して、精神病院送りになるだろうという考えが閃光のように頭に浮かび、絶望的な気分になりました。しばらくしてそれも忘れましたが、十代の末近くになったとき、現実的な脅威として、その恐怖は再び蘇ったのです。とくにその最後の二年間はすさまじいものでした。僕は精神科医やセラピストには一度もかかったことがありませんが、自分を持ちこたえるのがせいいっぱいだったのです。その間、僕はずっと生活費稼ぎのバイトをしなければならず、「抽象的煩悶」にばかり耽っているわけにもいかなかったのですが、なおさらイライラして喧嘩っ早くなり、ときに果し合いまがいのことまでやらかす始末で、そうした見た目の乱暴さのために、この時も「気の毒な病人」とは誰にも思ってもらえなかったのです。

 実際に脳に何か微細な器質的欠陥があってそうなったのかどうか、僕は知りませんが、僕が「厄介な脳」をもつ肉体に宿ったことは確かなので、それも何らかの「カルマ的な必然性」があったのだろうと思えば文句も言えないなと、そう考えているということです。もう一度同じことを繰り返せと言われれば、ご免こうむると、僕ははっきり言うでしょう。しかし、そのおかげでつかめたものもあるし、それは僕にはやはり必要なことだったのだろうと思うのです。

 話を戻して、脳の損傷や委縮などによって人格変容が起きた場合、魂はどうなっているのでしょう? それは物理的・肉体的な足場を失って、この世界での表現手段を失っただけで、その本体はまだそこに存在していると考えることもできます。それは不自由なまま、肉体から解放される日を待っているのです。むろん、だから安楽死が望ましいなどと言っているのではありません。自分の親が認知症が進んで正体不明になってしまった場合、子供はそれを悲しむでしょう。けれどもその背後にはまだ損なわれないあの愛しい親がいるのだと考えれば、いくらか慰めにはなるのではありませんか? そして肉体から旅立つ時、魂は再び若返り、想念体で気に入った年齢の姿をとり、あなたを見て微笑み、別れを告げるのです。僕はそんなふうに想像しています。

 えらく長くなってしまいましたが、これで一通りのことは書けたとして、パソコンのキーを叩く手を休めることにします。最後まで面倒な議論に付き合ってくださった方々には、お礼を申し上げます。



祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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2019年01月
  1. 意識と輪廻(01/13)
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