お久しぶりです。早いもので、もう年末です。滝に打たれて「悟り」を得て帰ってきました…というのはむろん嘘で、この前のあれはジョークの一部だったのですが、しばらく書かないでいると生来の無精のせいか、だんだん書くのがめんどくさくなって、そのままあれが「絶筆」なりそうで、これでは認知症予防の観点からもよろしくないと、そろそろ再開することにしました。
にしても、この前出したジム・B・タッカー著『リターン・トゥ・ライフ』の売れ行きが今一つのようで、元々僕の訳す本は、ある程度売れたものでも少し時間がたってからじわじわと(爆発的に売れるということは決してない)というパターンにしかならないのですが、最初にある程度は売れてくれないと、むやみと出版点数の多い今は、書店から完全に姿を消して、そのまま補充されることなく忘れ去られてしまう危険があるので、そうなっては出版社に迷惑をかけることになると、それがいくらか気がかりです(アマゾンにやっと一件、レビューが出たようです。どなたか存じませんが、レビュアー名をクリックして他レビューを見ると、この方面に詳しい方のようで、お礼を申し上げます)。
僕の周りではあの本は割と評判がよくて、中には「あんたの訳すのはマニアックなものが多くて人には勧めにくいが、これは“フツーの人”にも安心して勧められるよい本だ」と、ほめられているのかけなされているのかわからないようなことを言う人もいるくらいです。終盤、量子物理学のかなり専門的な議論(多少強引すぎるところもある)が出てくるので、あれが災いしているのかとも思うのですが、いや、あそこは難解だがとても面白かった、ついでにネットで量子力学の勉強をしたと言う人もいて、それならもう少し売れてもよさそうなものです。
結局のところ、生まれ変わり話というのが今はもうはやらないのかも知れません。あらためて調べてみると、最近この手の「実録物」でヒットしたものはほとんどないようで、「生まれ変わり? ああ、そういうのは昔、スティーヴンソンの本で読んだわ」で終わりになるとか、「そんなオカルト話につきあっていられるほどヒマじゃない」とか、いわゆる精神世界読者の間でも、目新しさがなく、チャネリングだのアセンション(元々は大文字で「昇天」ですが「意識の次元上昇」という意味で今は使われるらしい)だのと較べて「インパクトに乏しい」ということになるのかもしれません。
成り行きでそうなってしまったとはいえ、僕は元々オカルト畑の人間ではありません。若い頃一番熱心に読んだのは西洋の哲学書で、中でもデカルトが一番好きだったのですが、プラトン、カントと定番ものは大体読んで、先にショーペンハウエルを読んでしまったために、その影響で彼がこきおろしているヘーゲルは読まず嫌いになったのですが、そういうのに宗教書や、精神医学・心理学書、ヴァレリーの真似をして科学関係の本(ややこしい数式はまたいで)と、節操なく手を広げて、これに歴史書や政治学の本まで加わる(法学部だったので、試験用に仕方なくそちらの本も多少は読んだ)から、自分が何者なのか、よくわからなくなってしまったのですが、オカルト関係も気晴らしにかなりの点数読んでいて、そういうのも面白いと思えるものは全部取り込むから、「一体おまえの頭の中はどういう構造になってるんだ?」なんて友達に冷やかされたりしたものです。「弾がどこから飛んでくるかわからない」から、議論の相手をするのも大変だというわけです。
それでは博学かといえば、大方のことは関心が他に移れば忘れてしまうので、残念ながらそうはなっていないのですが、僕はかねて、オカルトや超常現象を扱うととたんに「まとも」とは見なされなくなるという風潮に疑問をもっています。今は科学の分野でも学際的な研究が増えていますが、それは「正統」と見なされる学問領域間のそれにかぎられるので、UFOや幽霊現象などはその埒外に置かれて、考古学などでもアトランティスがどうのなんてことを言うと、その人は学者村からいっぺんにはじき出されて不遇をかこつ羽目になるようです。
しかし、UFOや幽霊がげんに存在し、超古代文明アトランティスにもかなりの信憑性があるとすれば、それらを排除するのは学問的でも、科学的でもありません。生まれ変わり現象もその一つですが、「そんなもの、あるはずがないからないのだ」というような頭ごなしの幼稚な、非科学的態度では、この文明社会は浅薄で偏ったものになってしまうでしょう。そういうものも取り込んでこそ総合的で「まとも」になるのではないかと僕は思いますが、なまじインテリほどそうは思わないので、それが一種の洗脳によるものなのだという自覚はないのです。
もう一つ困るのは、この手の話には妄想か錯覚、またはたんなる思い込みにすぎないような話もたくさん混じっていることで、反対派はこれ見よがしにそこを衝いて、物笑いの種にして、全部をトンデモ扱いし、信用を落とそうとする。従って、この種の問題を学問領域や常識の中に適切に取り込もうとする真面目な人たちは、腹背に敵を抱えるのと同じになって苦戦を強いられることになる。そこが難しいところです。
そうは言ってもあんた、と言う人がいるかもしれません。幽霊や地縛霊が実在したとして、そんなものが、こわい話好きの女子中高生ならいざ知らず、ふつうの人間にとって何の意味があるのかと。正直、僕もそのようなものにはほとんど興味がありませんが、そういうのはいたとすればあの世に行きそびれた不幸な霊魂で、それは十分同情に値するし、死後そのような不幸な“迷える魂”になる可能性が人にはあるとすれば、そういう人を生み出さないような社会的努力をすることには大いに意味があるでしょう。また、どういうわけでそういう現象が起こるのか、そのメカニズムを解明することには価値がある。そのプロセスで心というものがどういう構造・性質のものか、今よりずっと掘り下げた深い理解が可能になるだろうからです。決して「きゃああ!」で終わる話ではない。
アトランティスなどのいわゆる「超古代文明」の場合には、それは「未開から文明へ」という直線的な歴史の図式にはあてはまらないから、そんなものあったはずがないし、またあってもらっては困るという思いが、ふつうの学者先生たちの側にはあるのでしょう。現生人類は大体20万年前ぐらいに出現したと言われていますが、この1万年間でどれほどの進歩を遂げたかを考えると、その前の19万年は停滞していたという方がむしろ不思議です。一度か二度、今をしのぐ高度なレベルに達し、しかし、「文明の利器」の誤用で破滅して、そのとき辺境に暮らしていたおかげで生き延びた原始的な部族がまたゼロから始めて、やっとこのレベルに達した、と考える方が合理的であるように思われるのです。げんに今の人類は心理的には幼稚になって、文明にスポイルされて生きものとしてもすっかり駄目になりかけているように僕には思えるので、つまらないことからなだれを打って第三次世界大戦に突っ込み、今や人類が手にしたテクノロジーの破壊力はすさまじいものなので、そのままジ・エンドになってしまう可能性はかなり高いのです。トランプみたいな、昔なら片田舎の村長にもいなかったようなヤマイダレのチセイの持主が世界最大の国家の大統領になっているのだから、それだけでもどれほど事態が深刻かがわかるでしょう。前にブッシュ・ジュニアが大統領になったとき、「ありえない話だ!」と僕は戦慄しましたが、あれよりもっと恐ろしいことになっているのです。政治指導者のレベルの低下は「無限定」になっている。テクノロジーの「進化」とは反比例しているので、こんな危険なことはない。
それで、ニューギニア奥地か、消滅が危惧されるアマゾンの密林に隠れて暮らす原始的な小部族だけが奇蹟的に生き延び、またゼロから始めることになって、そこから再び始まった文明は、「われわれの前に、人類は20万年も原始的な洞窟生活をしていた」という“わかりやすい”学説をまた一万年後ぐらいに立てて、それを学校で教えるのです。考古学で偶然発見されたスマホの残骸や、ミサイルの一部などは、「説明不能のオーパーツ」ということにされて、そんなものに関心をもつ学者は精神異常視され、学界から葬り去られる。レーザーを用いた手術法まで開発していたなんて、そんな馬鹿なこと、穴居人にあるはずはないと、その痕跡を発見して論文を書いた未来の“変人”考古学者は笑いものにされるのです。核戦争で滅びたという説も同様。まあ、トランプの頭蓋骨などは、未来の学者に「これは進化途上の未開部族の一酋長のものと思われるが、推定される知能から、穴居時代にぴったり」だと解釈されても、無理もないように思われるのですが…。
UFO(これはあちらではユー・エフ・オーと読むのがふつう)の場合はどうか? 前に僕はここでスティーブン・グリア著『ディスクロージャー』(廣瀬保雄訳 ナチュラルスピリット)の紹介文を書いたことがあるのですが、あれは驚くべく文書です。税込み4082円の大部な本であるにもかかわらず、かなり売れたようですが、メジャーな新聞雑誌の書評で扱われるようなことはたぶん皆無だったでしょう。オカルト関係は取り上げないという不文律があるかのようですが、社会的・文明学的にあれほど重要な書物はめったにないほどです。巨額にのぼる闇の国家予算、軍産複合体による巧妙な隠蔽工作、アメリカ大統領ですらその情報にアクセスできない(無理にやろうとすれば暗殺される)奇怪さなど、それがたんなる空想的・妄想的な陰謀論の類ではないことがかなりの説得力をもって述べられている。
Youtube で2001年に行われた、その「ディスクロージャー・プロジェクト」の記者会見の模様が見られます。
・UFO ディスクロージャー・プロジェクト(日本語字幕)
多忙な方は、主宰者のグリア氏(今はこの問題に専念するため引退したが、MDの肩書からもわかるように、元々は救命医が本職)の冒頭の説明だけでもご覧になるとよろしいでしょう。それだけでもこのプロジェクトの意図するところは明確に伝わるからです。これによってその後事態が大きく動いたかと言うと、それは否ですが、それもこの種の問題では「ふつう」のことなのです。
僕も一度延岡に来てからUFOらしきものを目撃したことはあるのですが、そのときはトンビかと思った鳥がハヤブサのような翼形で急降下をして、しかし地上には達しないまままた急上昇するのを見たときほどには驚きませんでした。その鳥は遊んでいるように見えましたが、よく見るとトンビより大きいようだし、あれは一体何なんだと不思議だったので、UFOのときはそんな驚きはなかったのです。ああ、あれがそうなのかという感じで、雨上がりの夏空に出現したその無音の“編隊”は、渡り鳥のように平和な光景に見えたのです(この数年で老眼が進みましたが、それまではメガネは全く不要で、両眼2.0の視力をずっと保っていたのです)。
僕は宇宙人による地球侵略などというSFは全く信じません。彼らのテクノロジーをもってすれば、それは赤子の手をひねるのと同じほどかんたんなことでしょう。なのに、これまでそんなことはしてこなかった。彼らが懸念しているのは人類の野蛮さと愚かさで、それは「宇宙的大惨事」を招きかねないからこそ、「あのアホどもは何をやらかすかわからない」と心配して時々姿を見せるので、軍事施設周辺に現われることが多いのも、それが関係しているのでしょう。ちゃんと情報を公開して、宇宙人の来訪を公に認め、友好的なコンタクトを取って、彼らから学ぶことが大切なことだと思われるのです(グリア氏によれば、それによって今人類を悩ませているエネルギー問題にも根本的な解決への道が開かれるのだという)。姿かたちが人類といくらか違っていたって、それでパニックになる人間が今どきいるとは思えない。指が四本だろうが、目が大きかろうが、耳たぶがなかろうが、誰が気にするでしょう。白昼、スマホに目を落としたまま平気で赤信号を渡っている若い娘を見てこの前僕は驚きましたが、そういうのの方がよっぽどエイリアン的で不気味なのです。やり手なのかどうか知りませんが、日産のゴーンみたいな欲の皮のつっぱり過ぎたオヤジも気持ちが悪い。実の父親と弟を謀殺しておいて、自分を道徳の鑑みたいにほめちぎる怪文書を作成して墓穴を掘った足立朱美のような自己愛性パーソナリティ障害の化け物も恐ろしいのです。これには賛同する人が多いのではありませんか? 宇宙人の方が今ではずっと「ふつうでまとも」と感じられるのです。人間の皮をかぶっただけの化け物が今は少々多すぎる。僕も宇宙人に誘拐されてどこか別の世界へ連れ去られたいほどです。
最後に、責任上、生まれ変わり話の重要性についても再言しておきましょう。前世があって現世があり、また現世によって来世もあるということになると、ある意味こわい話になってしまうので、これは僕にルナールの小説『にんじん』の一節を想起させます。
それはこういう話です。あるとき、父親のルピック氏が、にんじんの兄フェリックスに「もうじきおまえも卒業だ。社会に出たら何をするつもりだ?」と訊ねる。するとフェリックスは素っ頓狂な声でこう叫ぶのです。「えっ! 他にまだ何かあるの?」怠惰な彼は、面倒なのは学校だけでたくさんだと思っていたのです。この上まだしなければならないことがあったのか!
輪廻転生説によれば、それはあるのです。僕の想像によれば、人間の魂は肉体の死後、あの世に行って閻魔様の法廷に立たされます。それで、「おまえはどんな人生を送ってきた者か?」と問いただされるのですが、この世でのそれと同じ要領で自分に都合のいい話ばかりしても、それは通用しないのです。うしろに同時にパノラマのように人生の詳細が映し出されるので、嘘は全部バレる。嘘つきの中には嘘の自覚のないのがいくらもいて、そういう連中が一番始末に負えないのですが、それも通用しない。それで政治家や宗教家、教育者の多くはペンチで舌を引っこ抜かれて、そのまま赤鬼青鬼たちの手に委ねられる。大企業のCEOなどにもこの憂き目に遭う者が少なくないのです。閻魔大王が最も嫌うのは、些末な欠点や失敗の類ではなく、嘘つきとハートのない人間です。西洋のジョーク集の定番に、死後、魂が真珠門というところで、聖ペテロか誰かに会い、彼は生前の行いを記録したぶあつい帳簿をもっていて、それによってあんたは天国、あんたは地獄と振り分けられるというのがありますが、社会的肩書なんてものはそこでは何の役にも立たないのです。ローマ法王が自信たっぷりそこに着いたところが、「ホーオー? おまえがあの偽善と悪逆非道の元締めか?」というので、矯正のため火炎地獄に千年、なんてこともある。裁きは地上の法廷と違って公正そのものなのです。
それで人は生前の行いにふさわしいところに行って、こづき回されたり、いい思いをしたりする。しかし、それも永遠には続かないので、やがてこの地上に再び戻るか、別の世界に行くかすることになるのです。そういうのがえんえんと続く。かんたんに言えば、それが輪廻です。時間と空間の幻想世界をそうやって彷徨っている。
これを希望と見るか、絶望と見るか、それは人によって様々でしょう。お釈迦様はこれを後者と見たので、いいのも悪いのももうたくさんだということで、そこからの「解脱」をはかった。魂の個別性は消え、時空を超えた涅槃寂静の中に融解するのです。そうなればもう思い煩い一切なし。希望も絶望もなくなったのです。
しかし、大方はそうはいかないので、僕らは「続き」を生きることを余儀なくされる。いったんリセットされるが、それは完全なリセットではないので、前世の内容がそこには加味され、相続されているのです。ある意味、そこには「自己責任」の要素があるのです。肉体的に死んでも、字幕には“To be continued”と出ている。それを知らないとフェリックスみたいに、死んでから「えっ! まだ何かあるの?」と叫ぶ羽目になるのです。
閻魔様の法廷はただ恐ろしいだけではない。そこで人はこの世では得られなかった「完全な受容」も体験するのです。何もかもお見通しということは、全部わかってもらえるということです。だからそのとき魂は孤独も寂しさも感じない。地獄行きの場合もナットクなのです。そのときだけはどんな愚かな人間にも、自己欺瞞の化け物みたいな人にも、明知がもたらされる。
大部分の人は憶えていないが、子供にはこの地上に来る前のことを憶えている子がいます。彼は「大きな岩かスフィンクスみたいな神様」と話をしてから、宇宙空間を光速で飛んでやってきた、というような話をする。だから遠くで光る星が実際は巨大な球体だというようなことも知っているのです。「あの世」では皆からだの大きさがマチマチで、それには極端なほど差があって、今考えてみるとそれが不思議だなんてことも言う。おそらく彼らは想念体で存在していたのでしょう。
前世の話でも、こういった「あの世」話でも、幼児が話す相手はたいてい母親です。何かふとしたことがきっかけで無邪気にそんな話をするので、最初は驚くが、そんな経緯があってここに来たのなら、この子は偶然で生まれたのではない、何か深い仔細があってのことにちがいないと、神秘の感に打たれるのです。
たいていの場合、子供自身がすっかりそれを忘れてしまうし、最初は「天使」扱いしていた母親の方も、だんだん言うことを聞かなくなって子育てに手を焼くようになると、敬虔な感情などはそのうちどこかへ消し飛んでしまうのですが、仮に僕ら全員が「深い仔細」あってこの世に舞い戻ってきたのだとしてみましょう。そうするとこれはかなり大変なことなので、人生の見方も変わってしまうのです。変わりませんか?
多くの場合、それは誤解され、単純化されすぎているようですが、「因果の法則」なるものはたしかにある。悪名高いインドのカースト制度のように、前世の行いによって人は各カーストに割り振りされているのだから文句は言うな、アウトカーストの不可触賤民であっても、それは前世の行いのせいで自業自得である、なんてのはこの単純化の最たるもので、そういう愚劣な社会制度作りに悪用されたのでは「生をまたいだ因果論」はない方がずっとマシなのですが、困難な境遇に生まれた人も、これは「学習の機会」としてそれが与えられたのだろうと考えられれば、ロクな自助努力もせずに愚痴にふけっているよりずっと実りある人生が送れるようになるでしょう。僕の見るところ、むしろ安楽な境遇に生まれた人の方が、その楽さにかまけて努力と潜在能力発揮の機会を失ってしまうことが多いので、堕落しやすく「ツイてない」のです。また、浅薄な世間的価値観とは別の「生きる意味」を見つける機会も、そういう人生理解に基づけば多くなるでしょう。今生でははかばかしい成果を生むに至らなかった地道な努力も、次の人生では報われるかもしれないので、より長い目で物事を考えることができるようになるのです。
僕はいわゆる霊能者による「前世診断」なるものをほとんど全く信じていませんが、なまじスピリチュアル本なんか訳したおかげで、その種の人と引き合わされることも少なからず、「ほんまかいな?」と思うようなことを言われたことが何度かあります。僕は「己を知る」者なので、「そんないいものであったはずがないだろう」と一瞬で却下してしまう(相手に失礼なので、口には出さない)のがつねなのですが、中にはありそうな話だと思えるものもあって、たとえばある人(そういうことを職業としている人ではない)の「霊視」によれば、僕は昔、朝鮮半島の新羅かどこかから渡ってきた仏教僧の一人だったことがあって、権門には近づかず、庶民相手に教えていたそうですが、仏教がだんだん日本的に変質していくのを見ながら、「ほんとは違うんだけどなあ…」とブツブツ言いながら死んだ、というのです。この「ブツブツ言いながら死んだ」というところがリアルに感じられたので、だから悟りそこねてまた舞い戻ってくる羽目になったのかもしれない。後年母親から聞いた話では、僕は幼児の頃、よく風呂敷を袈裟代わりに肩にかけてもらって、嬉々として仏壇の前でお経を上げていたそうで、神様好きの祖母だけは「この子は信心深い!」と喜んだが、両親は葬式坊主の真似なんて縁起でもない、と顔をしかめていたそうなので、元坊主というのはありえない話ではないと思ったのです。また、僕は朝方生まれたのですが、前夜、若い在日朝鮮人夫婦が一夜の宿を借りていた。当時在日の人たちが橋の建設工事をしていたが、公民館に雑魚寝して作業に当たっていて、その中の一人を新婚の妻が訪ねてきたが、そういう状況では話もできなくてかわいそうだと、親方が気を利かせてわが家に頼みに来たのです。それは快諾されて、その若い夫婦は宿泊し、翌朝早く僕が生まれた。そういうことは後にも先にも一度きりだったらしいので、それは朝鮮半島との縁を示唆するものだったかも知れないので、両方併せれば辻褄が合うのです(当時は自宅出産がふつうで、祖母は地域のボランティアの産婆だった)。
僕は葬式仏教の悪口ばかり言っているし、韓国批判もここに何度も書いているので、べつだんだからどうということはないのですが、前にカタリ派の前世記憶をもつ人に会ったときは、だいぶたってから実はあなたを私は助けたことがある、旅の途中で倒れていたらしいのを荷馬車で通りかかったとき見つけて、自宅に連れて帰って介抱し、ワインを飲ませたことがあって、あなたは昔も一匹狼みたいな人でしたよと言われたことがあったので、どうやら迫害する側でなかったらしいのは幸いだと思ったのですが、その人は作り話をするようなタイプではないので、そんなこともあったのかも知れません。重要人物ではなく、カタリ派のゲリラの一人か何かだったのでしょう。何も訊かなかったのでそれで話は終わりになったのですが、その人は当時ピレネー山脈沿いの村に暮らしていて、今回は長野県の山岳地帯に生まれた。僕も果無山脈という大仰な名前の山のふもとに生まれたので、地形的に似たところを人は選ぶのかもしれません。
むろん、こういうのは何の証拠もない話なので、「あっても不思議ではない」というだけのことなのですが、話としては面白い。人それぞれに違った個性をもち、違った地域、違った環境に生まれてくるのですが、そうした特性の中には「前世のヒント」のようなものが隠されているのかもしれない。人間関係でも、古くからある諺に「袖すり合うも他生の縁」というのがあって、これは通りですれ違うだけのことでも前世の縁がなければ起きないことだ、という意味です。だから塾で、生徒たちにも、君らとこうして会うのも、何らかの前世の縁があったからなのかも知れないよと冗談半分言うことがあるのですが、昔の日本人はそういう感覚をもって人に会っていたので、だから人とのつながりも利害だけで考えず、大事に扱ったのです。それには順縁・逆縁両方あるのでしょうが、何らかの必然性があると考えた。何もかも「偶然」で片づけてしまうよりはそちらの方がよっぽど「文化的」で高級だと思われるのですが、いかがなものでしょう。
長くなったのでこれくらいにしますが、そういうふうに前世や後世というものを含めて考えると、人生の意味付けや生き方も相当変わってくるはずで、それはマイナスよりもプラスの影響の方がはるかに多いだろうと、僕には思われるのです。権力を乱用して悪事を働く人間は、この世の法の目は欺けてもいずれツケは必ず払わされるだろうし、今はネットで匿名を悪用して人をスケープゴートに祭り上げて愚劣な悪感情のはけ口にしている卑怯低劣な連中がたくさんいますが、いつか思い知る日がやってくるでしょう。僕のような極道チックな人間は、卑劣傲慢な奴はそこまで待たずに殴りに行きたくなったりする(若い頃は直接脅し上げるのを常とした)のですが、そこは閻魔様に任せた方が公平でいいのかもしれません。僕は理由にもならない理由でイラク戦争をおっ始めたブッシュやチェイニーにむかっ腹を立てましたが、ああいう手合いは死後地獄で百年は確実に過ごさねばならなくなるのです。そう考えると、いくらか慰めにはなる。
それではあまりに窮屈だと思う人もいるかもしれません。しかし、この世界は元々かなり窮屈なところなのです(でないと「修行」の場にならない)。それを忘れるからこういう出鱈目な、しまりのない、無秩序きわまりない世界になってしまうので、それで人々は余計に苦しむ羽目になるのです。自由というのが何なのか、その意味が全くわかっていない馬鹿が増えすぎた結果こうなったので、人間社会はおかげでよけいに不自由になったのです。この有様では遠からず人類が自滅するのは確実ですが、輪廻というものを考慮に入れるなら、今少し人間は行いを慎んでまともになるだろうと思われるので、残された時間の内でそれができるかどうか、人類の存続はそこにかかっている。そう言えば、あまりに大袈裟だと笑われるでしょうが、僕自身はかなり真面目にそう考えているということです。
それでは、皆さん、よいお年をお迎えください。株価は一時2万円割れを起こすし、他にもキナ臭い動きがたくさんあるようですが、「笑う門には福来たる」というので、新年最初の記事はこの前お話しした英語のジョーク集から選んだジョークの訳をいくつかお目にかける予定です。
にしても、この前出したジム・B・タッカー著『リターン・トゥ・ライフ』の売れ行きが今一つのようで、元々僕の訳す本は、ある程度売れたものでも少し時間がたってからじわじわと(爆発的に売れるということは決してない)というパターンにしかならないのですが、最初にある程度は売れてくれないと、むやみと出版点数の多い今は、書店から完全に姿を消して、そのまま補充されることなく忘れ去られてしまう危険があるので、そうなっては出版社に迷惑をかけることになると、それがいくらか気がかりです(アマゾンにやっと一件、レビューが出たようです。どなたか存じませんが、レビュアー名をクリックして他レビューを見ると、この方面に詳しい方のようで、お礼を申し上げます)。
僕の周りではあの本は割と評判がよくて、中には「あんたの訳すのはマニアックなものが多くて人には勧めにくいが、これは“フツーの人”にも安心して勧められるよい本だ」と、ほめられているのかけなされているのかわからないようなことを言う人もいるくらいです。終盤、量子物理学のかなり専門的な議論(多少強引すぎるところもある)が出てくるので、あれが災いしているのかとも思うのですが、いや、あそこは難解だがとても面白かった、ついでにネットで量子力学の勉強をしたと言う人もいて、それならもう少し売れてもよさそうなものです。
結局のところ、生まれ変わり話というのが今はもうはやらないのかも知れません。あらためて調べてみると、最近この手の「実録物」でヒットしたものはほとんどないようで、「生まれ変わり? ああ、そういうのは昔、スティーヴンソンの本で読んだわ」で終わりになるとか、「そんなオカルト話につきあっていられるほどヒマじゃない」とか、いわゆる精神世界読者の間でも、目新しさがなく、チャネリングだのアセンション(元々は大文字で「昇天」ですが「意識の次元上昇」という意味で今は使われるらしい)だのと較べて「インパクトに乏しい」ということになるのかもしれません。
成り行きでそうなってしまったとはいえ、僕は元々オカルト畑の人間ではありません。若い頃一番熱心に読んだのは西洋の哲学書で、中でもデカルトが一番好きだったのですが、プラトン、カントと定番ものは大体読んで、先にショーペンハウエルを読んでしまったために、その影響で彼がこきおろしているヘーゲルは読まず嫌いになったのですが、そういうのに宗教書や、精神医学・心理学書、ヴァレリーの真似をして科学関係の本(ややこしい数式はまたいで)と、節操なく手を広げて、これに歴史書や政治学の本まで加わる(法学部だったので、試験用に仕方なくそちらの本も多少は読んだ)から、自分が何者なのか、よくわからなくなってしまったのですが、オカルト関係も気晴らしにかなりの点数読んでいて、そういうのも面白いと思えるものは全部取り込むから、「一体おまえの頭の中はどういう構造になってるんだ?」なんて友達に冷やかされたりしたものです。「弾がどこから飛んでくるかわからない」から、議論の相手をするのも大変だというわけです。
それでは博学かといえば、大方のことは関心が他に移れば忘れてしまうので、残念ながらそうはなっていないのですが、僕はかねて、オカルトや超常現象を扱うととたんに「まとも」とは見なされなくなるという風潮に疑問をもっています。今は科学の分野でも学際的な研究が増えていますが、それは「正統」と見なされる学問領域間のそれにかぎられるので、UFOや幽霊現象などはその埒外に置かれて、考古学などでもアトランティスがどうのなんてことを言うと、その人は学者村からいっぺんにはじき出されて不遇をかこつ羽目になるようです。
しかし、UFOや幽霊がげんに存在し、超古代文明アトランティスにもかなりの信憑性があるとすれば、それらを排除するのは学問的でも、科学的でもありません。生まれ変わり現象もその一つですが、「そんなもの、あるはずがないからないのだ」というような頭ごなしの幼稚な、非科学的態度では、この文明社会は浅薄で偏ったものになってしまうでしょう。そういうものも取り込んでこそ総合的で「まとも」になるのではないかと僕は思いますが、なまじインテリほどそうは思わないので、それが一種の洗脳によるものなのだという自覚はないのです。
もう一つ困るのは、この手の話には妄想か錯覚、またはたんなる思い込みにすぎないような話もたくさん混じっていることで、反対派はこれ見よがしにそこを衝いて、物笑いの種にして、全部をトンデモ扱いし、信用を落とそうとする。従って、この種の問題を学問領域や常識の中に適切に取り込もうとする真面目な人たちは、腹背に敵を抱えるのと同じになって苦戦を強いられることになる。そこが難しいところです。
そうは言ってもあんた、と言う人がいるかもしれません。幽霊や地縛霊が実在したとして、そんなものが、こわい話好きの女子中高生ならいざ知らず、ふつうの人間にとって何の意味があるのかと。正直、僕もそのようなものにはほとんど興味がありませんが、そういうのはいたとすればあの世に行きそびれた不幸な霊魂で、それは十分同情に値するし、死後そのような不幸な“迷える魂”になる可能性が人にはあるとすれば、そういう人を生み出さないような社会的努力をすることには大いに意味があるでしょう。また、どういうわけでそういう現象が起こるのか、そのメカニズムを解明することには価値がある。そのプロセスで心というものがどういう構造・性質のものか、今よりずっと掘り下げた深い理解が可能になるだろうからです。決して「きゃああ!」で終わる話ではない。
アトランティスなどのいわゆる「超古代文明」の場合には、それは「未開から文明へ」という直線的な歴史の図式にはあてはまらないから、そんなものあったはずがないし、またあってもらっては困るという思いが、ふつうの学者先生たちの側にはあるのでしょう。現生人類は大体20万年前ぐらいに出現したと言われていますが、この1万年間でどれほどの進歩を遂げたかを考えると、その前の19万年は停滞していたという方がむしろ不思議です。一度か二度、今をしのぐ高度なレベルに達し、しかし、「文明の利器」の誤用で破滅して、そのとき辺境に暮らしていたおかげで生き延びた原始的な部族がまたゼロから始めて、やっとこのレベルに達した、と考える方が合理的であるように思われるのです。げんに今の人類は心理的には幼稚になって、文明にスポイルされて生きものとしてもすっかり駄目になりかけているように僕には思えるので、つまらないことからなだれを打って第三次世界大戦に突っ込み、今や人類が手にしたテクノロジーの破壊力はすさまじいものなので、そのままジ・エンドになってしまう可能性はかなり高いのです。トランプみたいな、昔なら片田舎の村長にもいなかったようなヤマイダレのチセイの持主が世界最大の国家の大統領になっているのだから、それだけでもどれほど事態が深刻かがわかるでしょう。前にブッシュ・ジュニアが大統領になったとき、「ありえない話だ!」と僕は戦慄しましたが、あれよりもっと恐ろしいことになっているのです。政治指導者のレベルの低下は「無限定」になっている。テクノロジーの「進化」とは反比例しているので、こんな危険なことはない。
それで、ニューギニア奥地か、消滅が危惧されるアマゾンの密林に隠れて暮らす原始的な小部族だけが奇蹟的に生き延び、またゼロから始めることになって、そこから再び始まった文明は、「われわれの前に、人類は20万年も原始的な洞窟生活をしていた」という“わかりやすい”学説をまた一万年後ぐらいに立てて、それを学校で教えるのです。考古学で偶然発見されたスマホの残骸や、ミサイルの一部などは、「説明不能のオーパーツ」ということにされて、そんなものに関心をもつ学者は精神異常視され、学界から葬り去られる。レーザーを用いた手術法まで開発していたなんて、そんな馬鹿なこと、穴居人にあるはずはないと、その痕跡を発見して論文を書いた未来の“変人”考古学者は笑いものにされるのです。核戦争で滅びたという説も同様。まあ、トランプの頭蓋骨などは、未来の学者に「これは進化途上の未開部族の一酋長のものと思われるが、推定される知能から、穴居時代にぴったり」だと解釈されても、無理もないように思われるのですが…。
UFO(これはあちらではユー・エフ・オーと読むのがふつう)の場合はどうか? 前に僕はここでスティーブン・グリア著『ディスクロージャー』(廣瀬保雄訳 ナチュラルスピリット)の紹介文を書いたことがあるのですが、あれは驚くべく文書です。税込み4082円の大部な本であるにもかかわらず、かなり売れたようですが、メジャーな新聞雑誌の書評で扱われるようなことはたぶん皆無だったでしょう。オカルト関係は取り上げないという不文律があるかのようですが、社会的・文明学的にあれほど重要な書物はめったにないほどです。巨額にのぼる闇の国家予算、軍産複合体による巧妙な隠蔽工作、アメリカ大統領ですらその情報にアクセスできない(無理にやろうとすれば暗殺される)奇怪さなど、それがたんなる空想的・妄想的な陰謀論の類ではないことがかなりの説得力をもって述べられている。
Youtube で2001年に行われた、その「ディスクロージャー・プロジェクト」の記者会見の模様が見られます。
・UFO ディスクロージャー・プロジェクト(日本語字幕)
多忙な方は、主宰者のグリア氏(今はこの問題に専念するため引退したが、MDの肩書からもわかるように、元々は救命医が本職)の冒頭の説明だけでもご覧になるとよろしいでしょう。それだけでもこのプロジェクトの意図するところは明確に伝わるからです。これによってその後事態が大きく動いたかと言うと、それは否ですが、それもこの種の問題では「ふつう」のことなのです。
僕も一度延岡に来てからUFOらしきものを目撃したことはあるのですが、そのときはトンビかと思った鳥がハヤブサのような翼形で急降下をして、しかし地上には達しないまままた急上昇するのを見たときほどには驚きませんでした。その鳥は遊んでいるように見えましたが、よく見るとトンビより大きいようだし、あれは一体何なんだと不思議だったので、UFOのときはそんな驚きはなかったのです。ああ、あれがそうなのかという感じで、雨上がりの夏空に出現したその無音の“編隊”は、渡り鳥のように平和な光景に見えたのです(この数年で老眼が進みましたが、それまではメガネは全く不要で、両眼2.0の視力をずっと保っていたのです)。
僕は宇宙人による地球侵略などというSFは全く信じません。彼らのテクノロジーをもってすれば、それは赤子の手をひねるのと同じほどかんたんなことでしょう。なのに、これまでそんなことはしてこなかった。彼らが懸念しているのは人類の野蛮さと愚かさで、それは「宇宙的大惨事」を招きかねないからこそ、「あのアホどもは何をやらかすかわからない」と心配して時々姿を見せるので、軍事施設周辺に現われることが多いのも、それが関係しているのでしょう。ちゃんと情報を公開して、宇宙人の来訪を公に認め、友好的なコンタクトを取って、彼らから学ぶことが大切なことだと思われるのです(グリア氏によれば、それによって今人類を悩ませているエネルギー問題にも根本的な解決への道が開かれるのだという)。姿かたちが人類といくらか違っていたって、それでパニックになる人間が今どきいるとは思えない。指が四本だろうが、目が大きかろうが、耳たぶがなかろうが、誰が気にするでしょう。白昼、スマホに目を落としたまま平気で赤信号を渡っている若い娘を見てこの前僕は驚きましたが、そういうのの方がよっぽどエイリアン的で不気味なのです。やり手なのかどうか知りませんが、日産のゴーンみたいな欲の皮のつっぱり過ぎたオヤジも気持ちが悪い。実の父親と弟を謀殺しておいて、自分を道徳の鑑みたいにほめちぎる怪文書を作成して墓穴を掘った足立朱美のような自己愛性パーソナリティ障害の化け物も恐ろしいのです。これには賛同する人が多いのではありませんか? 宇宙人の方が今ではずっと「ふつうでまとも」と感じられるのです。人間の皮をかぶっただけの化け物が今は少々多すぎる。僕も宇宙人に誘拐されてどこか別の世界へ連れ去られたいほどです。
最後に、責任上、生まれ変わり話の重要性についても再言しておきましょう。前世があって現世があり、また現世によって来世もあるということになると、ある意味こわい話になってしまうので、これは僕にルナールの小説『にんじん』の一節を想起させます。
それはこういう話です。あるとき、父親のルピック氏が、にんじんの兄フェリックスに「もうじきおまえも卒業だ。社会に出たら何をするつもりだ?」と訊ねる。するとフェリックスは素っ頓狂な声でこう叫ぶのです。「えっ! 他にまだ何かあるの?」怠惰な彼は、面倒なのは学校だけでたくさんだと思っていたのです。この上まだしなければならないことがあったのか!
輪廻転生説によれば、それはあるのです。僕の想像によれば、人間の魂は肉体の死後、あの世に行って閻魔様の法廷に立たされます。それで、「おまえはどんな人生を送ってきた者か?」と問いただされるのですが、この世でのそれと同じ要領で自分に都合のいい話ばかりしても、それは通用しないのです。うしろに同時にパノラマのように人生の詳細が映し出されるので、嘘は全部バレる。嘘つきの中には嘘の自覚のないのがいくらもいて、そういう連中が一番始末に負えないのですが、それも通用しない。それで政治家や宗教家、教育者の多くはペンチで舌を引っこ抜かれて、そのまま赤鬼青鬼たちの手に委ねられる。大企業のCEOなどにもこの憂き目に遭う者が少なくないのです。閻魔大王が最も嫌うのは、些末な欠点や失敗の類ではなく、嘘つきとハートのない人間です。西洋のジョーク集の定番に、死後、魂が真珠門というところで、聖ペテロか誰かに会い、彼は生前の行いを記録したぶあつい帳簿をもっていて、それによってあんたは天国、あんたは地獄と振り分けられるというのがありますが、社会的肩書なんてものはそこでは何の役にも立たないのです。ローマ法王が自信たっぷりそこに着いたところが、「ホーオー? おまえがあの偽善と悪逆非道の元締めか?」というので、矯正のため火炎地獄に千年、なんてこともある。裁きは地上の法廷と違って公正そのものなのです。
それで人は生前の行いにふさわしいところに行って、こづき回されたり、いい思いをしたりする。しかし、それも永遠には続かないので、やがてこの地上に再び戻るか、別の世界に行くかすることになるのです。そういうのがえんえんと続く。かんたんに言えば、それが輪廻です。時間と空間の幻想世界をそうやって彷徨っている。
これを希望と見るか、絶望と見るか、それは人によって様々でしょう。お釈迦様はこれを後者と見たので、いいのも悪いのももうたくさんだということで、そこからの「解脱」をはかった。魂の個別性は消え、時空を超えた涅槃寂静の中に融解するのです。そうなればもう思い煩い一切なし。希望も絶望もなくなったのです。
しかし、大方はそうはいかないので、僕らは「続き」を生きることを余儀なくされる。いったんリセットされるが、それは完全なリセットではないので、前世の内容がそこには加味され、相続されているのです。ある意味、そこには「自己責任」の要素があるのです。肉体的に死んでも、字幕には“To be continued”と出ている。それを知らないとフェリックスみたいに、死んでから「えっ! まだ何かあるの?」と叫ぶ羽目になるのです。
閻魔様の法廷はただ恐ろしいだけではない。そこで人はこの世では得られなかった「完全な受容」も体験するのです。何もかもお見通しということは、全部わかってもらえるということです。だからそのとき魂は孤独も寂しさも感じない。地獄行きの場合もナットクなのです。そのときだけはどんな愚かな人間にも、自己欺瞞の化け物みたいな人にも、明知がもたらされる。
大部分の人は憶えていないが、子供にはこの地上に来る前のことを憶えている子がいます。彼は「大きな岩かスフィンクスみたいな神様」と話をしてから、宇宙空間を光速で飛んでやってきた、というような話をする。だから遠くで光る星が実際は巨大な球体だというようなことも知っているのです。「あの世」では皆からだの大きさがマチマチで、それには極端なほど差があって、今考えてみるとそれが不思議だなんてことも言う。おそらく彼らは想念体で存在していたのでしょう。
前世の話でも、こういった「あの世」話でも、幼児が話す相手はたいてい母親です。何かふとしたことがきっかけで無邪気にそんな話をするので、最初は驚くが、そんな経緯があってここに来たのなら、この子は偶然で生まれたのではない、何か深い仔細があってのことにちがいないと、神秘の感に打たれるのです。
たいていの場合、子供自身がすっかりそれを忘れてしまうし、最初は「天使」扱いしていた母親の方も、だんだん言うことを聞かなくなって子育てに手を焼くようになると、敬虔な感情などはそのうちどこかへ消し飛んでしまうのですが、仮に僕ら全員が「深い仔細」あってこの世に舞い戻ってきたのだとしてみましょう。そうするとこれはかなり大変なことなので、人生の見方も変わってしまうのです。変わりませんか?
多くの場合、それは誤解され、単純化されすぎているようですが、「因果の法則」なるものはたしかにある。悪名高いインドのカースト制度のように、前世の行いによって人は各カーストに割り振りされているのだから文句は言うな、アウトカーストの不可触賤民であっても、それは前世の行いのせいで自業自得である、なんてのはこの単純化の最たるもので、そういう愚劣な社会制度作りに悪用されたのでは「生をまたいだ因果論」はない方がずっとマシなのですが、困難な境遇に生まれた人も、これは「学習の機会」としてそれが与えられたのだろうと考えられれば、ロクな自助努力もせずに愚痴にふけっているよりずっと実りある人生が送れるようになるでしょう。僕の見るところ、むしろ安楽な境遇に生まれた人の方が、その楽さにかまけて努力と潜在能力発揮の機会を失ってしまうことが多いので、堕落しやすく「ツイてない」のです。また、浅薄な世間的価値観とは別の「生きる意味」を見つける機会も、そういう人生理解に基づけば多くなるでしょう。今生でははかばかしい成果を生むに至らなかった地道な努力も、次の人生では報われるかもしれないので、より長い目で物事を考えることができるようになるのです。
僕はいわゆる霊能者による「前世診断」なるものをほとんど全く信じていませんが、なまじスピリチュアル本なんか訳したおかげで、その種の人と引き合わされることも少なからず、「ほんまかいな?」と思うようなことを言われたことが何度かあります。僕は「己を知る」者なので、「そんないいものであったはずがないだろう」と一瞬で却下してしまう(相手に失礼なので、口には出さない)のがつねなのですが、中にはありそうな話だと思えるものもあって、たとえばある人(そういうことを職業としている人ではない)の「霊視」によれば、僕は昔、朝鮮半島の新羅かどこかから渡ってきた仏教僧の一人だったことがあって、権門には近づかず、庶民相手に教えていたそうですが、仏教がだんだん日本的に変質していくのを見ながら、「ほんとは違うんだけどなあ…」とブツブツ言いながら死んだ、というのです。この「ブツブツ言いながら死んだ」というところがリアルに感じられたので、だから悟りそこねてまた舞い戻ってくる羽目になったのかもしれない。後年母親から聞いた話では、僕は幼児の頃、よく風呂敷を袈裟代わりに肩にかけてもらって、嬉々として仏壇の前でお経を上げていたそうで、神様好きの祖母だけは「この子は信心深い!」と喜んだが、両親は葬式坊主の真似なんて縁起でもない、と顔をしかめていたそうなので、元坊主というのはありえない話ではないと思ったのです。また、僕は朝方生まれたのですが、前夜、若い在日朝鮮人夫婦が一夜の宿を借りていた。当時在日の人たちが橋の建設工事をしていたが、公民館に雑魚寝して作業に当たっていて、その中の一人を新婚の妻が訪ねてきたが、そういう状況では話もできなくてかわいそうだと、親方が気を利かせてわが家に頼みに来たのです。それは快諾されて、その若い夫婦は宿泊し、翌朝早く僕が生まれた。そういうことは後にも先にも一度きりだったらしいので、それは朝鮮半島との縁を示唆するものだったかも知れないので、両方併せれば辻褄が合うのです(当時は自宅出産がふつうで、祖母は地域のボランティアの産婆だった)。
僕は葬式仏教の悪口ばかり言っているし、韓国批判もここに何度も書いているので、べつだんだからどうということはないのですが、前にカタリ派の前世記憶をもつ人に会ったときは、だいぶたってから実はあなたを私は助けたことがある、旅の途中で倒れていたらしいのを荷馬車で通りかかったとき見つけて、自宅に連れて帰って介抱し、ワインを飲ませたことがあって、あなたは昔も一匹狼みたいな人でしたよと言われたことがあったので、どうやら迫害する側でなかったらしいのは幸いだと思ったのですが、その人は作り話をするようなタイプではないので、そんなこともあったのかも知れません。重要人物ではなく、カタリ派のゲリラの一人か何かだったのでしょう。何も訊かなかったのでそれで話は終わりになったのですが、その人は当時ピレネー山脈沿いの村に暮らしていて、今回は長野県の山岳地帯に生まれた。僕も果無山脈という大仰な名前の山のふもとに生まれたので、地形的に似たところを人は選ぶのかもしれません。
むろん、こういうのは何の証拠もない話なので、「あっても不思議ではない」というだけのことなのですが、話としては面白い。人それぞれに違った個性をもち、違った地域、違った環境に生まれてくるのですが、そうした特性の中には「前世のヒント」のようなものが隠されているのかもしれない。人間関係でも、古くからある諺に「袖すり合うも他生の縁」というのがあって、これは通りですれ違うだけのことでも前世の縁がなければ起きないことだ、という意味です。だから塾で、生徒たちにも、君らとこうして会うのも、何らかの前世の縁があったからなのかも知れないよと冗談半分言うことがあるのですが、昔の日本人はそういう感覚をもって人に会っていたので、だから人とのつながりも利害だけで考えず、大事に扱ったのです。それには順縁・逆縁両方あるのでしょうが、何らかの必然性があると考えた。何もかも「偶然」で片づけてしまうよりはそちらの方がよっぽど「文化的」で高級だと思われるのですが、いかがなものでしょう。
長くなったのでこれくらいにしますが、そういうふうに前世や後世というものを含めて考えると、人生の意味付けや生き方も相当変わってくるはずで、それはマイナスよりもプラスの影響の方がはるかに多いだろうと、僕には思われるのです。権力を乱用して悪事を働く人間は、この世の法の目は欺けてもいずれツケは必ず払わされるだろうし、今はネットで匿名を悪用して人をスケープゴートに祭り上げて愚劣な悪感情のはけ口にしている卑怯低劣な連中がたくさんいますが、いつか思い知る日がやってくるでしょう。僕のような極道チックな人間は、卑劣傲慢な奴はそこまで待たずに殴りに行きたくなったりする(若い頃は直接脅し上げるのを常とした)のですが、そこは閻魔様に任せた方が公平でいいのかもしれません。僕は理由にもならない理由でイラク戦争をおっ始めたブッシュやチェイニーにむかっ腹を立てましたが、ああいう手合いは死後地獄で百年は確実に過ごさねばならなくなるのです。そう考えると、いくらか慰めにはなる。
それではあまりに窮屈だと思う人もいるかもしれません。しかし、この世界は元々かなり窮屈なところなのです(でないと「修行」の場にならない)。それを忘れるからこういう出鱈目な、しまりのない、無秩序きわまりない世界になってしまうので、それで人々は余計に苦しむ羽目になるのです。自由というのが何なのか、その意味が全くわかっていない馬鹿が増えすぎた結果こうなったので、人間社会はおかげでよけいに不自由になったのです。この有様では遠からず人類が自滅するのは確実ですが、輪廻というものを考慮に入れるなら、今少し人間は行いを慎んでまともになるだろうと思われるので、残された時間の内でそれができるかどうか、人類の存続はそこにかかっている。そう言えば、あまりに大袈裟だと笑われるでしょうが、僕自身はかなり真面目にそう考えているということです。
それでは、皆さん、よいお年をお迎えください。株価は一時2万円割れを起こすし、他にもキナ臭い動きがたくさんあるようですが、「笑う門には福来たる」というので、新年最初の記事はこの前お話しした英語のジョーク集から選んだジョークの訳をいくつかお目にかける予定です。
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