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遺伝か環境か?

2016.12.18(17:25) 424

「氏(うじ)か育ちか」と日本語では言います。英語ではnature or nurture? の語呂合わせになりますが、最近それに関する議論が活発になっているようです。

 火付け役になったのは、橘玲著『言ってはいけない 残酷すぎる真実 』(新潮新書)という本だそうで、今月になってから「柳の下のどじょう」作戦で、安藤寿康著『日本人の9割が知らない遺伝の真実』(SB新書)というのが出て、「そんなに騒ぐなら、きっと驚くべきことが書かれているのだろう」と、後者だけ買って読んでみました。

 でも、何のことはない、「日本人の9割が知らない」なんて少々羊頭狗肉が過ぎるだろうと思ってしまったので、この程度のこと、大方の人は経験的にわかってるのではありませんか? 僕になるほどと思われたのは、「年齢が上がるほど遺伝の影響が大きくなっていく」「人間は年齢と共に経験を重ねていくわけですから、環境の影響が大きくなっていきそうなものですが、実際は逆」だという話(p.117)ぐらいです。これも、「たしかにそうだろうな」と、言われてみればという感じなので、そう意外なことではありません。

 すぐれたスポーツ選手にもって生まれた能力、つまり遺伝の影響が大きいのは大方の人が認めるところでしょう。学校のお勉強だってそれが大きいのはわかりきった話で、親が大学教授や医者でも、お勉強のできない子はいますが、それは遺伝子の組み合わせで、お勉強のよくできる遺伝子が伝わらなかったというだけの話です。逆に、親が低学歴でも、東大に入るような子が生まれることはあって、これは突然変異でも何でもなくて、元々親も頭のいい人たちだったのが、環境の関係で進学できなかったのだというようなケースが多いでしょう。教育環境を整え、うまく指導しさえすれば誰でも東大に入れるなんてことはありえないのです。“元”がよくないと、どうにもならない。

 昔はこういうのは常識だったのが、今はそれが失われているのだとすれば、それは教育パパママの妄想によるのでしょう。妊娠中は「胎教」に励み、出産後は幼児英才教育に熱中して、小学生ともなればお受験のために大金をはたいて毎日中学受験塾に通わせるなんてことをしても、元々の素質がなければ、子供にとってはたんなる「虐待」にしかならないのです。仮にその子供にそれに応えるだけの素質があって、順当に上の学校に合格できても、そういう不自然な環境で育てたのでは、人格的な問題を抱えた人間になってしまうおそれがある。親にそういう「知恵」がないのだとすれば、むしろそちらの方が問題です。

 何の取柄もない子供というのは存在しないので、親や教師の務めはそれを見抜いて、長所を伸ばしてあげることでしょう。ないものねだりで、無理を強いて、子供を虐待してはならない。小学生の頃は、あるいは中学まではよくお勉強ができたといっても、それはそんなに難しいことをやっているわけではないからで、高校に入っても同じポジションを維持できるという保証は何もないのです。逆に、勉強嫌いの子供は、落ちこぼれはしないまでも、勉強しないから成績がぱっとしないだけ、というようなケースが少なくないし、おくての子供というのもいるので、そういうのは勉強し出すとぐんぐん伸び出すことがあるのです。

 むろん、環境は重要です。スポーツでもよいコーチがついていれば選手が伸びやすいように、お勉強でもおかしな教材を使って、何を言ってるのかわからないような無能な教師に教わっていたのでは、頭が混乱させられてわかるようにはならないでしょう。能力の高い子は、「こんなつまらない授業に頼っていたのではだめだ」と思って、自分で参考書を買って勝手に勉強し出したりするので、ヘボ教師にもかかわらず生徒の学力が伸びることはあるのですが、多くはその被害をモロにこうむってしまうのです。こういうのは、元々の素質のあるなしが大きいという話とは何ら矛盾しない。素質は適切な刺激があって初めて発現するわけですから。

 もう一つ、大事な要件があって、スポーツでも勉強でも、体力的に無理がかかりすぎるようなことを続けていると、いくら素質や才能があっても駄目です。僕はここの「延岡の高校」コーナーに何度も当地の県立普通科高校の批判を書いていますが、朝夕課外に過度の部活、多すぎる宿題で、毎日の睡眠時間が四、五時間しかとれないというような生活を長期間強いられていれば、疲れて頭の働きは鈍くなり、機械的な丸暗記は可能かも知れませんが、高度な思考力を働かせるなんてできる道理はないので、学力や知力が伸びるわけはないのです。それがわからない学校は「頭が悪い」としか思えない。塾で授業をしていても、この子たちは疲れてさえいなければもっとずっと吸収力が増すだろうにと、それが残念に思われるのです。教師たるもの、大脳生理学の基礎知識ぐらいは身につけておいてもらいたいものですが、教員採用試験にはそんなものはないらしく、その方面の理解は皆無なのです。

 この本によれば、「学業成績も遺伝の影響が50%以上ある」そうですが、それは純理論面での話で、メンタルな面や体力面での妨害要因がなく、順当にもてる能力が発揮されれば、の話でしょう。どんなに元々の頭がよくても、深刻な心理問題を抱えていたり、疲労困憊していれば、それは発揮されないので、それは忘れてはならないことです。

 そういうことは考慮されるべきだとしても、元々の遺伝の影響は非常に大きい。それを承知して、子供に過度な期待をかけないようにしろ、というのがこの手の本の一番の教訓でしょう。もう一つは、遺伝的なものが半分以上なら、よけいな妨害さえしなければ、能力のある者はいずれそれを発揮し出すのだから、先回りしてよけいなことはしなくていいということです。そういうことをしても、元々その能力がなければ失敗に終わるわけですし。

 僕自身は、わが子を生まれた時から「面白い生きもの」として眺めていました。ほんとに面白かったので、それをどうにかしようという気は全く起きず、小学生の頃、学校の勉強が全然面白くないと言うのも、それは自分の子どもだから無理はない(それこそ「遺伝」である)と笑って聞いていました。素質的に勉強に向いているのなら、いずれ勝手に勉強し出すだろうし、向いていなければ、好きなことの後押しをしてやればいいぐらいの考えで、終始受け身で構えていました。中学の頃はプロ野球選手になるのが本人の夢のようでしたが、遺伝的に考えてそれは無理だろうと思われ、そのうち本人も自覚するだろうと黙って見ていたら、果たしてそのとおりになった。小学生の頃はお笑い芸人になるのが夢で、「お笑い係」なるものを提案して、それは先生の受け入れるところとなったらしく、通知表を見たら役職欄のところが「お笑い係」になっていて、笑ったのですが、こちらは少しは才能があったかも知れません。小さい頃から自分でなぞなぞを作るのが好きだったし、「もうしませんとは申しません」なんて駄じゃれを、「ボクが今朝作ったちゃ。おとうさん、わかる?」なんて得意げに披露していて、なかなか言葉遊びがうまいなと思うことがあったからです(「吉本に入るには、試験があると?」と母親に恐る恐るきいていた由)。

 今は十八歳人口の実に52%が四年制大学に進学するという時代です。一定レベル以上の普通科高校なら、その比率は8割を超える。少子化の進展で総じて大学は入りやすくなっていますが、それでも競争はあるわけで、他のどんな能力にもまして「学力」が重要視されるから、「それも5割以上、遺伝で決まる」なんて言われると、親としては心穏やかではいられないわけです。アヒルが並んだわが子の通知表を見て、父親が母親に言う。「おまえのDNAに問題があるんじゃないか?」「何言ってるんですか、私のは優秀なんだけど、あんたの駄目サラリーマンの遺伝子がモロにこの子に出たってことでしょ!」なんて、夫婦喧嘩になる。「まあまあ、お二人さん」と、そこで子供が仲裁に入って言う。「ボクの見るところ、両方のDNAに問題があるんだと思うよ。お姉ちゃんができたのは、あれは隔世遺伝だよ」

「なるほど」ということで両親がナットクしてくれれば、子供は過度なプレッシャーから解放されてハッピーになるわけですが、そういう理解のある親は今は少ないわけで、むやみとわが子の尻を叩いて、子供をひどい勉強嫌いにしてしまうのみならず、健康な自己肯定感まで奪ってしまうということになると、勉強ができなくても社会的に成功している人はいくらもいますが、それも困難にしてしまうのです。

 だから、親御さんたちはゆったり構えた方がいい。わが子にできるだけ良い環境を用意してあげるのはいいとしても、それも勝手に子供の未来像を思い描いて、「こうなってもらわないと困る」なんて下心に基づくようだと、子供の素質がそれに合っていない場合、子供を苦しめるだけになるのです。大学受験でも、親が「最低限、この大学」なんて決めてかかっていると、子供には過度のプレッシャーになって学力が伸びず、それが災いして受かるものも受からなくなってしまうことが少なくないのです。

 難しいのは「遺伝的な素質」が大きいといっても、その子がどういうものをもっているかは、それが発現して初めてわかるもので、事前に予測可能ではないということです。子育ては植物の育成に似ています。但し、これが何の種なのかはわからないので、発芽して成長し始め、「へえー、これはこういうものだったのか」とわかり、さらに様子を見ていると、また違った姿に変化する。その成長を助けるためには「植え替え」(土壌の転換=環境変化)が必要になる場合も出てくるので、可能なかぎり、それにも応じてやる。大事なのは、成心なく、受け身でそれに接することで、a sense of wonder をもって、それを見守ることでしょう。積極的になるとすれば、そのときの対応を的確・迅速に行うことで、「このままだと枯れてしまう」というようなときに、愚図愚図してはなりません。青写真を勝手に作っておいて、それに合わないと放置するなんてのは最悪で、やることがさかさまなのです。

 英才教育本の場合、こういう子育て、教育をしたら、ハーバードに、東大理Ⅲに受かったというような話の流れになるので、幻想をもたない人は、「それは子供が元々素質的に優秀だったからだろう」と笑って相手にしませんが、教育ママパパたちの場合、「もしやわが子も…」と思って読んでしまうので、そこから様々な悲喜劇が生まれるわけです。確かに、今のわが国の学校教育にはいくらか問題がありすぎるので、おかげで子供の能力が伸ばせなくなっているというところはあると思います。その意味では参考になる話もあるでしょうが、それは限定された範囲でのことで、「そういうのを真に受けるな」というアンチで、この手の本が出ることは健康なことだと言えるでしょう。要はバランスの問題ですが、常識的な見地からすれば、どちらもそう驚くような話ではないのです。

 大事なのは、親が柔軟で多様な価値尺度をもつことです。そうすれば子供は精神的に楽で、その方が素質や能力を伸ばすのが容易になる。親の務めは環境中の妨害要因をできるだけ排除してあげることで、自分が最大の妨害要因になってしまったのでは困ります。

 僕の知るかぎり、親や教師に勉強しろと言われたから勉強するようになったという子供は一人もいないので、いたらその方が問題だと思うくらいですが、よく親御さんたちは「それはわかってるんですが、心配で、どうしても言いたくなるんですよ」と言います。気持ちはわかるので、僕も中三の頃、あんまり勉強しないので高校受験に暗雲が垂れ込め、見かねた母親に「努力も才能のうちだが、おまえにはその一番大事な才能が欠けている」と言われて腹を立てたことがありますが、やっぱり勉強するようにはならなかったので、そういうのはやはり無駄なのです。無駄なら、やはり言わない方がいいのです。そういう子供でも、ずっと後になってから突如として「勉強に目覚める」ことがあるものなので、あるいは永遠にそうならないこともあるかも知れませんが、そのへんは「遺伝子と運命のはからい」に任せる他ないと達観することです。少なくともその方が子供を勉強嫌いにすることが少なくて済むので、後々に期待がもてる。場合によっては「親の低すぎる期待」を覆す楽しみが子供に生じて、それがプラスに作用することもあるでしょう。

 要するに、子育てはケ・セラ・セラ、出てくるものを楽しみながら眺め、その都度柔軟な対応をするというのが、平凡なようでも一番賢いやり方であるように思われます。

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