(これは、関係者の間ではかなりの騒ぎになりそうだからどうしようかな…とちょっと迷った記事ですが、「真実は人を癒す」ということわざもあるので、そう期待してアップすることにしました。少なくとも生徒たちのためにはなるでしょう。)
前にこの英語教材(略称BG)については「早く使用をやめた方がいい」と書いたことがあります。生徒たちからも悪評ふんぷんですが、無駄に量ばかり多く、問題はワンパターンそのもので、やらされる側は「手だけ疲れる」と嘆き、それによって彼らの英文法理解が向上した形跡は何ら見られないからです。なかには「あればかりやらされているうちに、かえって文法がわからなくなってきた」と苦笑いする生徒もいて、それがとくによくできる生徒だったりするのは皮肉なので、にもかかわらず、入学後一年半の長きにわたって、英語の授業といえばほとんどあればかりで、そんな無駄なことをやっているから授業時間が足りなくなるのです。平板で退屈そのものなので、生徒の英語学習意欲も自然減退する。
大体が、実践性に乏しすぎるので、入試にもよく出る文法の重要ポイント(たとえば、高校生がよく間違える現在分詞と過去分詞の使い分けの注意点など)は説明されていないし、近年出題が増加している語法に関してはほとんど全く触れられていない。あんなものを使い続けるのは作成者本人(英語科のボスご自慢の作だと聞いていますが…)の自己満足でしかありません。唯一の「長所」は、あれは先生たちには授業のとき使い勝手がいいということだけでしょう。むやみと問題量だけは多いので、その答え合わせをしていれば、何となく授業時間は埋まってしまうからです。膨大な枚数があるので、次の教材に悩まなくても済む。一年半はもつからです。
塾として困るのは、それだけ文法ばかりやらされてきたのだから、せめて文法力がついていればいいが、全然そうではないことです。多くの生徒が受験学年になっても文法の基礎学力が不足しているので、三年になってやってきた生徒にももう一度文法を短期間でおさらいさせないといけない。入試と両にらみで、少ない時間でそれをやるのは大変なのです。
だから、あんな時間を食うだけで効果のない教材、初めから使うな、と僕は言っているのですが、学校側は“手作り感”が売りだと思っているのかもしれません。しかし、僕はそのプリントに出てくる問題で生徒の質問には答えても、見にくいので解説の部分は真面目に読んだことがありませんでした。ヴィジュアル的にも不細工そのもので、お世辞にも見やすいとは言えないからです。別にふつうの参考書よりわかりやすい説明をしているのでもなさそうだし、わざわざ「手作り」の印象を与えても、それが何なんだ、という感じなので、生徒たちにもそれを有難がっている様子はまるでありません。
ところが、去年、定期試験前に、それも範囲の一部だという「仮定法」の解説部分を何気なく見たら、「何?」という箇所があって、驚いてしまいました。それまでは単調すぎるのはたしかだとしても、まさか嘘まで書かれているとは思っていなかったので、これには正直驚きました。それで警戒モードで注意して見ていたら、すぐに同じ単元でもう一つ明白な間違いが見つかった。こういう迷解説を真に受けていたのでは、文法がわかるようにならないのも道理だな、とあらためて嘆息した次第です。
それはどういうところかと言うと、「仮定法=事実に反することを表わす」として、次のような説明を加えているのです。
仮定法ではIf節を用いるが、If節を用いるのは、
①条件文 と ②仮定法 の二つである。
この区別をつけておこう!
①条件文
「明日晴れれば、ハイキングに行きます」
If it is fine tomorrow, we can go hiking.
明日の天気については、晴れも雨もわからない。つまり、事実がない。
→ 事実がないのだから、仮定もできない。これはただの条件文である。
②仮定法
「今日晴れだったら、ハイキングに行けるのに」
If it were fine today, we could go hiking.
今日の天気は晴れていないという事実がはっきりとわかる。
→ 事実があれば、仮定もできる。これは仮定法の文である。
「へえー、大先生にかかると、仮定法もこういう摩訶不思議な話になっちゃうんですね」と僕は思わず笑ってしまったのですが、いかがですか? 使われている英文そのものは正しい。しかし、説明が出鱈目なのです。
仮定法が「事実に反する」場合に用いられるというのは正しいのですが、それはまた、「現在または未来についての可能性に乏しい想像や願望」にも用いられるのです。だから、「事実がないのだから、仮定もできない」というのは大嘘なので、上の例文を使えば、
If it should be fine tomorrow, we could go hiking.
という文は文法的に十分可能なはずです。「今、雨が降っているし、明日も多分雨だろうが、もしも晴れてくれれば、ハイキングに行けるんだけどねえ」みたいな感じです。
このshould、were to は「仮定法未来」というのに分類されることもあるので、「ここは仮定法過去について述べただけだ」と言い訳するかもしれませんが、それはかなり苦しい。というのも、If you got a million dollars, what is the first thing you would do? なんてのは「仮定法過去」を使っていますが、「“今後”百万ドル手に入ったら」ということなので、明白に未来を含んだ仮定なのです。大体、「事実がないのだから仮定もできない」なんて、僕は生まれて初めて聞く話なので、「今度の年末ジャンボで一億円当たったら」とか「もし彼女が僕のプロポーズにイエスと言ってくれたら」とか、ふつうに使われる仮定でしょうが。それはまだ「事実」としては存在しない未来に関わる仮定なのです。
生徒たちにとっては、「未来や現在について述べるとき、どういう場合に条件法を、どういうときに仮定法を使えばいいのか?」がアクチュアルな疑問になるので、「事実がなければ条件文」というのは嘘を教えているのと同じになるのです。
むろん、逆もまた真なりで、「事実がある」現在についての仮定でも、仮定法ではなく条件法を使う場合はあるのです。二例挙げておきましょう。
① If you mix red and yellow, you get orange.
② If he is in this town, he should come to see me.
①は「赤と黄色を混ぜればオレンジになります」という「当然の事実」を述べているので、これは「時」とは無関係。②は、彼が町にいるかどうかを話者は知らない(すなわち今のことだから事実はあるが、その確認が取れていない)ので、「いるとすれば」と推測の上、「それなら会いに来るはずだ」と言っているのです。十中八九いないだろうと思っているなら、If he were(or was)…と仮定法を使うでしょう(こういうのはいわゆる「開放条件」と「却下条件」の違いです)。かんたんに言えば、十分ありうる(あるいは確実にそうである)と思っているときは条件法を、ありそうもない(その可能性は低い)と感じているときは仮定法を使うのです(すでに「事実」のある現在にも、それはない未来にも、です)。条件法か仮定法かの使い分けのポイントはそこにあるので、「仮定法=事実に反することを表わす」だけで片づけられたのでは困る。こういうのは「常識」に属するので、上記ベーシック・グラマーの説明は、そもそも仮定法の何たるかをわかって書いているのか疑わしくなるような性質のものだということです(仮定法過去完了の場合には「過去の事実の反対」という理解でよい。過去についての仮定でも、上の説明のとおり事実が未確認で可能性が高いと見ていれば、条件法を使ってifが来ていても過去形のままということはあるのですが)。
もう一つ、僕が??と思ったのは、先ほど触れた「shouldとwere toの使い分け」です。それに関してはこう書かれている。
should=「まずないと思われるが、ひょっとすると…」
were to=「絶対にありえない」
この説明も間違いです。正しくは、should は「絶対にありえない」ことには使えないとされているのに対しwere to の方は実現の可能性を問題とせず、「両方に使える」ということです。たとえばセンター試験に、
If you were to fall from that bridge, it would be almost impossible to rescue you.
という英文が文法問題で出たことがあります(下線部が設問箇所)が、あなたがあの橋から落ちることはまずないとしても、「絶対にありえない」話ではないのです。要するに、「お天道様が西から昇るようなことでもあれば、おまえの言い分を信じてやらあ」(この場合は一種の反語表現)みたいな文には、一般にshouldは使えないということにされている(しかし、実際にはそういうshouldの使用例も皆無というわけではない)だけで、were to を使った文にも、可能性のあるものはたくさんあるのです(だからそういう場合はどちらを使ってもいいことになる)。区別としては、were toは「実現可能性とは無関係に発想」しているのに対し、should は「実現可能性を念頭に置いて、可能性は低いが、仮にあったとすれば」という含みがあると説明されることがあって、僕も大体そんな感じかな、と思っています(これを「実現可能性の高低」だけで分けようとすれば、実際の英文を見て困惑する羽目になるでしょう)。
「ややこしい!」と高校生たちは文句を言うかも知れませんが、日本語のニュアンスだって外国人にはややこしいので、それは仕方がありません。それでも、ベーシック・グラマーのトンデモ解説よりはずっと納得がいくでしょう? 要は、BGの説明にあるような白黒分離的なものでは決してないということなので、無理に単純化して「明快」を気取ってみても、実際の運用からして明白な嘘なのだから、誤解と混乱を招くだけに終わるということです。
仮定法に関しては以上ですが、もう一つ、僕はかねて延岡高校の生徒たちが「時制に弱い」ことを不思議に思っていたのですが、これは間違いとは言い切れないとしても、時制の項にも誤解を招きやすいことが書かれているのです。それは何かというと、「時制のイメージ」なるものを「過去」「現在」「未来」と直線上に“点”で示して「解説」している箇所があるのですが、
「時の流れ」を数直線で表した際、●の部分がその時制を表わす!
どれも数直線上の一点であるところに注目!
とあって、ごていねいに「数直線上の一点であるところに注目!」には波線が引かれて強調されているのですが、何を根拠に「点」などと言っているのかがわからない。いわゆる「現在の習慣」や「真理・社会通念」など、現在形が使われるのですが、そのとき話者の頭にあるイメージは「点」ではないし、過去なども点ではなく、ある一定の幅をもつものとして考えた方がいい場合があるので、たとえば、センター試験の過去問に、
“ Have you ever seen that movie? ”
“ Yes. When I was in Tokyo, I ( ) it three times.”
① had seen ② have seen ③ saw ④ would see
というのがあると、ほとんどの生徒は①か②を入れてしまうのです。それで僕はホワイトボードに時間の流れを示す線を引き、その上にwhen I was in Tokyoと書いて、対応部分を線上に長方形で示して、その中に〇を三つ入れ、「この〇はどの時制になる?」ときくと、生徒たちは「過去!」と即答して、問題はめでたく解決するのです(つまり正解は③)。
これを僕は「三回見たことがある」という日本語訳の連想から間違えてしまうのかなと思っていたのですが、when I was a child など、そういうのは当然かなりの時間的な幅をもつので、点でだけ考えるとおかしなことになるよと教えるのですが、学校のこういうプリントの「解説」で、おかしな「点のイメージ」を植え付けるから混乱させられてしまったとも考えられるのです。さらに具合が悪いのは、先の説明の次に現在完了の図を示して、それは長方形になっているから、「幅があるのは完了形」と勘違いしてしまいやすいのでしょう。こういうのは「よけいなお世話」に属します。別の単元に、「論理的思考力があれば、かんたんに理解できる!」などと自慢げに書かれていたりするのですが、先の仮定法の見当外れ解説といい、とても緻密な思考力の持主が作っているとは思えない。やたらと話を単純化したがるところから、作っている人の頭の構造が割と「かんたんに」できているらしいことが推測できるのみです。
ついでにもう一つ、上の「論理的思考力があれば…」というのは否定の項に出てくる名言(?)なのですが、そこにも、これは僕には「論理的思考力」が不足しているせいなのか、どうにも理解できない箇所があるのです。それは、
「no+単数名詞」=単数扱い「1つの~もない」
「no+複数名詞」=複数扱い「少しの~もない」
とあるところで、名詞が単数なら単数扱い、複数なら複数扱いなのはわかりきった話ですが、「1つの~もない」と「少しの~もない」の意味の違いが分からないのです。どなたかわかる方、いらっしゃいますか? いるわけないと思うのですが…。
一般に、この二つの違いは、「社会通念や期待」によって決まるとされていて、説明を加えるなら、むしろそのあたりのことについてでしょう。しかし、そのかんじんな説明は何もない。それで代わって説明を試みると、たとえば I have no child. とI have no children. の場合、どちらも表現としては可能でしょうが、後者の方がより一般的だろうと思います。これに対して、I have no wife. かI have no wives. かということになると、一夫多妻制の国ではともかく、前者が正しいとされるでしょう。むろん、その際、「私には一人の妻もいません」なんてのはヘンテコな訳なので、あっさり「私には妻はいません」とする。
要するに、「何なの、それは?」というナンセンスなことだけ書いて、生徒の頭を無駄に混乱させ、かんじんな説明は何もないのです。それなら初めから書くなよと言いたくなる(実際こういう例示は、入試の見地からしても重要性に乏しいので、なくていいのです)。
他にも、「入試には結構出るのに、何でこれの記述は省かれてるわけ?」と思う箇所や、「自分なら違う説明をするし、その方が正確でわかりやすいだろう」と感じられる箇所もあるのですが、そういうのは不備ではあっても大きな欠陥ではないと解釈して、ここでは触れないことにします。ともあれ、先に述べた仮定法や時制は入試にも頻出する最重要単元の一つなので、そこにすでに見たような、正しい理解を妨げるような性質の「もどき解説」が載せられているのだから、文法教材としては致命的と言って差し支えないでしょう。
これの解説部分だけ集めたものを呆れたことに延岡高校では今の三年生全員に200円で強制的に買わせ、表紙には「Try again!! この一冊で『英文法』をマスター!」なんて書かれているのですが、こんな欠陥解説冊子で「マスター」なんてできるわけがないので、いかにもオヤジ的な駄ジャレを言わせてもらえば、作成教師のマスターベーション(自慰)以外の何ものでもないのです。あれで「英文法トラウマ」になった生徒たちは「見る気もしない!」と言っているので、「先生にあげます」ということでもらったのを見ながら、僕は今これを書いているわけで、この記事を書く役には立ったというだけの話なのです。
今の延岡高校の三年生に聞けばわかりますが、彼らはこのおかしな文法プリントを長期にわたってやらされた上に、次から次へと色々なテキストを買わされ、それが大方は尻切れトンボ状態で、「やれって、こんなにたくさんある教材をどうやって終わらせるんですか?」と途方に暮れる状態になっているのです。やることが行き当たりばったりで、そこには何ら計画性というものがない。買わされた無駄な教材費だけでも相当額にのぼるでしょう。しかも、「こんなのよりもっと使いやすい問題集」があるといって、他のを買って自分で勉強している生徒は少なくないのだから、そういうのは「捨て金」になってしまうのです。
塾としては学校の授業がお粗末な方が繁盛していいんじゃありませんか、と皮肉を言う人がいるかも知れませんが、傍迷惑なだけなのです。学校でセンターレベルの基礎をきちんと教え、二次試験レベルのことは塾が担当するというのならいいのですが、基礎も応用も少ない時間で教えなければならず、しかも彼らは長い授業時間で拘束されたうえ、多くの宿題を負った身なので、やりにくいことこの上なしなのです。「学校に妨害されている」としか思えない。これは生徒も塾も、です。
あのプリントを作った先生の英語理解能力(人格的にも疑問符がつくのは、僕がこのコーナーで何度も取り上げた異常な、キレやすい教師が彼なのだといえば、それだけでおわかりでしょう)は疑わしいとしても、他の英語の先生が皆「彼以下」だとは考えられない(実際、優秀な先生がいるのも僕は知っています)ので、それなのになぜ上記のような「明白な誤り」を含んだプリントが使われ続けているのかといえば、たぶん先生たちもその「解説」の部分はロクに見ていないからなのでしょう。ボスから「これを使え」と言われているから仕方なく使っているだけで、馬鹿馬鹿しいから「解説」なんて見ていないのです(それをそのまま口移しで繰り返している場合には「学力のなさ」の証明になりますが)。学校内部のおかしな権力関係でそういうことになっているというのは嘆かわしいことで、そういうところからしても「生徒第一の指導」にはなっていないのです。
「よけいなお世話」ついでにもう一つ書かせてもらうと、もう何年も前ですが、僕は学校で生徒たちが市販の単語集を指定の上買わされているのを知っていたので、長文の授業の途中、「この単語は憶えておいた方がいいもので、君らの単語集にも出ていると思うけど」と言ったところ、それを見た生徒たちに「バッテンがついてます!」と言われたことがあります。聞けば、わざわざ「覚える必要のない単語」というのを指示して、それにバツを付けさせていたのです。それはかなりの数に上った。
これもまた、「英語と入試のエキスパート」を自称するその英語科のボスが指示したようですが、今の単語集というのはたいていコンピューター分析も活用していて、「出ない単語」が入っているわけは基本的にないのです。そもそも、単語でも熟語でも、多く知っておいて損することはない。僕なども日頃、英文の本や記事を読んでいて語彙力の不足を痛感させられることが多いので、英語教師がそんなことをするというのが僕にはそもそも不可解なのですが、その単語など、よく出ることを知っているから、単語集でも確認してごらん、と言ったのです。皆で笑ったのは、同じようなことがその後何度も起きたことです。つまり、僕はよく出る重要単語だと思っているものが、学校の指示では「出ない単語」に指定されている。少なくともそういうことが何度か続いたのです。
僕が塾で使っているのは二次の英語問題(多くが過去五年以内のもの)なので、それは「センターには出ない」という意味なのかもしれません。しかし、それなら、生徒たちは二次で討ち死にしろというのでしょうか? 実に有難い、助けになる「指導」です。
一体何を根拠にその単語を選定しているのか知りませんが、何かその種のタネ本でもあるのかも知れません。そうして、市販の単語集より自分の方が信用できるということをアピールしたいがためにそんなことをあえてしているのでしょう。「やっぱり先生は凄い!」と思ってもらいたいのです。しかし、うちの塾に来ていた生徒は、それが全くの出鱈目だということを知って、「何なんだ、これは…」ということになってしまったのです。事実、目の前の入試問題に、「出ない」とされた単語がいくつも出ているわけですから(その年はたまたまですが、「類は友を呼ぶ」の法則で延岡高校三年のトップ10の生徒の半分がうちの塾に来ていたので、インパクトは大きかったのです)。
下らない教材で無駄に時間を潰しておいて、こういうよけいなことはしてくれるのです。買わせる英単語集はコロコロ変わっているようですが、今でも同じようなことは続けているようなので、生徒諸君はそんなもの真に受けてはならないということです。
以上ですが、僕が英語塾の一教師として怒っているのは、「しなくていいことをする」からなのです。何か特別なことをしろと要求しているのではない。むやみと量に頼るのではなく、良質なオーソドックスな教材(下手な“手作り”はもういいから、信用できる既製の出版物にして下さい)をえらんで、ていねいな授業を心がければいいのに、それをしないからなのです。
学校の授業は一教師のつまらない自己満足や自己顕示欲のためにあるのではない。生徒のためにあるのだということを忘れないでいただきたいと思います。
前にこの英語教材(略称BG)については「早く使用をやめた方がいい」と書いたことがあります。生徒たちからも悪評ふんぷんですが、無駄に量ばかり多く、問題はワンパターンそのもので、やらされる側は「手だけ疲れる」と嘆き、それによって彼らの英文法理解が向上した形跡は何ら見られないからです。なかには「あればかりやらされているうちに、かえって文法がわからなくなってきた」と苦笑いする生徒もいて、それがとくによくできる生徒だったりするのは皮肉なので、にもかかわらず、入学後一年半の長きにわたって、英語の授業といえばほとんどあればかりで、そんな無駄なことをやっているから授業時間が足りなくなるのです。平板で退屈そのものなので、生徒の英語学習意欲も自然減退する。
大体が、実践性に乏しすぎるので、入試にもよく出る文法の重要ポイント(たとえば、高校生がよく間違える現在分詞と過去分詞の使い分けの注意点など)は説明されていないし、近年出題が増加している語法に関してはほとんど全く触れられていない。あんなものを使い続けるのは作成者本人(英語科のボスご自慢の作だと聞いていますが…)の自己満足でしかありません。唯一の「長所」は、あれは先生たちには授業のとき使い勝手がいいということだけでしょう。むやみと問題量だけは多いので、その答え合わせをしていれば、何となく授業時間は埋まってしまうからです。膨大な枚数があるので、次の教材に悩まなくても済む。一年半はもつからです。
塾として困るのは、それだけ文法ばかりやらされてきたのだから、せめて文法力がついていればいいが、全然そうではないことです。多くの生徒が受験学年になっても文法の基礎学力が不足しているので、三年になってやってきた生徒にももう一度文法を短期間でおさらいさせないといけない。入試と両にらみで、少ない時間でそれをやるのは大変なのです。
だから、あんな時間を食うだけで効果のない教材、初めから使うな、と僕は言っているのですが、学校側は“手作り感”が売りだと思っているのかもしれません。しかし、僕はそのプリントに出てくる問題で生徒の質問には答えても、見にくいので解説の部分は真面目に読んだことがありませんでした。ヴィジュアル的にも不細工そのもので、お世辞にも見やすいとは言えないからです。別にふつうの参考書よりわかりやすい説明をしているのでもなさそうだし、わざわざ「手作り」の印象を与えても、それが何なんだ、という感じなので、生徒たちにもそれを有難がっている様子はまるでありません。
ところが、去年、定期試験前に、それも範囲の一部だという「仮定法」の解説部分を何気なく見たら、「何?」という箇所があって、驚いてしまいました。それまでは単調すぎるのはたしかだとしても、まさか嘘まで書かれているとは思っていなかったので、これには正直驚きました。それで警戒モードで注意して見ていたら、すぐに同じ単元でもう一つ明白な間違いが見つかった。こういう迷解説を真に受けていたのでは、文法がわかるようにならないのも道理だな、とあらためて嘆息した次第です。
それはどういうところかと言うと、「仮定法=事実に反することを表わす」として、次のような説明を加えているのです。
仮定法ではIf節を用いるが、If節を用いるのは、
①条件文 と ②仮定法 の二つである。
この区別をつけておこう!
①条件文
「明日晴れれば、ハイキングに行きます」
If it is fine tomorrow, we can go hiking.
明日の天気については、晴れも雨もわからない。つまり、事実がない。
→ 事実がないのだから、仮定もできない。これはただの条件文である。
②仮定法
「今日晴れだったら、ハイキングに行けるのに」
If it were fine today, we could go hiking.
今日の天気は晴れていないという事実がはっきりとわかる。
→ 事実があれば、仮定もできる。これは仮定法の文である。
「へえー、大先生にかかると、仮定法もこういう摩訶不思議な話になっちゃうんですね」と僕は思わず笑ってしまったのですが、いかがですか? 使われている英文そのものは正しい。しかし、説明が出鱈目なのです。
仮定法が「事実に反する」場合に用いられるというのは正しいのですが、それはまた、「現在または未来についての可能性に乏しい想像や願望」にも用いられるのです。だから、「事実がないのだから、仮定もできない」というのは大嘘なので、上の例文を使えば、
If it should be fine tomorrow, we could go hiking.
という文は文法的に十分可能なはずです。「今、雨が降っているし、明日も多分雨だろうが、もしも晴れてくれれば、ハイキングに行けるんだけどねえ」みたいな感じです。
このshould、were to は「仮定法未来」というのに分類されることもあるので、「ここは仮定法過去について述べただけだ」と言い訳するかもしれませんが、それはかなり苦しい。というのも、If you got a million dollars, what is the first thing you would do? なんてのは「仮定法過去」を使っていますが、「“今後”百万ドル手に入ったら」ということなので、明白に未来を含んだ仮定なのです。大体、「事実がないのだから仮定もできない」なんて、僕は生まれて初めて聞く話なので、「今度の年末ジャンボで一億円当たったら」とか「もし彼女が僕のプロポーズにイエスと言ってくれたら」とか、ふつうに使われる仮定でしょうが。それはまだ「事実」としては存在しない未来に関わる仮定なのです。
生徒たちにとっては、「未来や現在について述べるとき、どういう場合に条件法を、どういうときに仮定法を使えばいいのか?」がアクチュアルな疑問になるので、「事実がなければ条件文」というのは嘘を教えているのと同じになるのです。
むろん、逆もまた真なりで、「事実がある」現在についての仮定でも、仮定法ではなく条件法を使う場合はあるのです。二例挙げておきましょう。
① If you mix red and yellow, you get orange.
② If he is in this town, he should come to see me.
①は「赤と黄色を混ぜればオレンジになります」という「当然の事実」を述べているので、これは「時」とは無関係。②は、彼が町にいるかどうかを話者は知らない(すなわち今のことだから事実はあるが、その確認が取れていない)ので、「いるとすれば」と推測の上、「それなら会いに来るはずだ」と言っているのです。十中八九いないだろうと思っているなら、If he were(or was)…と仮定法を使うでしょう(こういうのはいわゆる「開放条件」と「却下条件」の違いです)。かんたんに言えば、十分ありうる(あるいは確実にそうである)と思っているときは条件法を、ありそうもない(その可能性は低い)と感じているときは仮定法を使うのです(すでに「事実」のある現在にも、それはない未来にも、です)。条件法か仮定法かの使い分けのポイントはそこにあるので、「仮定法=事実に反することを表わす」だけで片づけられたのでは困る。こういうのは「常識」に属するので、上記ベーシック・グラマーの説明は、そもそも仮定法の何たるかをわかって書いているのか疑わしくなるような性質のものだということです(仮定法過去完了の場合には「過去の事実の反対」という理解でよい。過去についての仮定でも、上の説明のとおり事実が未確認で可能性が高いと見ていれば、条件法を使ってifが来ていても過去形のままということはあるのですが)。
もう一つ、僕が??と思ったのは、先ほど触れた「shouldとwere toの使い分け」です。それに関してはこう書かれている。
should=「まずないと思われるが、ひょっとすると…」
were to=「絶対にありえない」
この説明も間違いです。正しくは、should は「絶対にありえない」ことには使えないとされているのに対しwere to の方は実現の可能性を問題とせず、「両方に使える」ということです。たとえばセンター試験に、
If you were to fall from that bridge, it would be almost impossible to rescue you.
という英文が文法問題で出たことがあります(下線部が設問箇所)が、あなたがあの橋から落ちることはまずないとしても、「絶対にありえない」話ではないのです。要するに、「お天道様が西から昇るようなことでもあれば、おまえの言い分を信じてやらあ」(この場合は一種の反語表現)みたいな文には、一般にshouldは使えないということにされている(しかし、実際にはそういうshouldの使用例も皆無というわけではない)だけで、were to を使った文にも、可能性のあるものはたくさんあるのです(だからそういう場合はどちらを使ってもいいことになる)。区別としては、were toは「実現可能性とは無関係に発想」しているのに対し、should は「実現可能性を念頭に置いて、可能性は低いが、仮にあったとすれば」という含みがあると説明されることがあって、僕も大体そんな感じかな、と思っています(これを「実現可能性の高低」だけで分けようとすれば、実際の英文を見て困惑する羽目になるでしょう)。
「ややこしい!」と高校生たちは文句を言うかも知れませんが、日本語のニュアンスだって外国人にはややこしいので、それは仕方がありません。それでも、ベーシック・グラマーのトンデモ解説よりはずっと納得がいくでしょう? 要は、BGの説明にあるような白黒分離的なものでは決してないということなので、無理に単純化して「明快」を気取ってみても、実際の運用からして明白な嘘なのだから、誤解と混乱を招くだけに終わるということです。
仮定法に関しては以上ですが、もう一つ、僕はかねて延岡高校の生徒たちが「時制に弱い」ことを不思議に思っていたのですが、これは間違いとは言い切れないとしても、時制の項にも誤解を招きやすいことが書かれているのです。それは何かというと、「時制のイメージ」なるものを「過去」「現在」「未来」と直線上に“点”で示して「解説」している箇所があるのですが、
「時の流れ」を数直線で表した際、●の部分がその時制を表わす!
どれも数直線上の一点であるところに注目!
とあって、ごていねいに「数直線上の一点であるところに注目!」には波線が引かれて強調されているのですが、何を根拠に「点」などと言っているのかがわからない。いわゆる「現在の習慣」や「真理・社会通念」など、現在形が使われるのですが、そのとき話者の頭にあるイメージは「点」ではないし、過去なども点ではなく、ある一定の幅をもつものとして考えた方がいい場合があるので、たとえば、センター試験の過去問に、
“ Have you ever seen that movie? ”
“ Yes. When I was in Tokyo, I ( ) it three times.”
① had seen ② have seen ③ saw ④ would see
というのがあると、ほとんどの生徒は①か②を入れてしまうのです。それで僕はホワイトボードに時間の流れを示す線を引き、その上にwhen I was in Tokyoと書いて、対応部分を線上に長方形で示して、その中に〇を三つ入れ、「この〇はどの時制になる?」ときくと、生徒たちは「過去!」と即答して、問題はめでたく解決するのです(つまり正解は③)。
これを僕は「三回見たことがある」という日本語訳の連想から間違えてしまうのかなと思っていたのですが、when I was a child など、そういうのは当然かなりの時間的な幅をもつので、点でだけ考えるとおかしなことになるよと教えるのですが、学校のこういうプリントの「解説」で、おかしな「点のイメージ」を植え付けるから混乱させられてしまったとも考えられるのです。さらに具合が悪いのは、先の説明の次に現在完了の図を示して、それは長方形になっているから、「幅があるのは完了形」と勘違いしてしまいやすいのでしょう。こういうのは「よけいなお世話」に属します。別の単元に、「論理的思考力があれば、かんたんに理解できる!」などと自慢げに書かれていたりするのですが、先の仮定法の見当外れ解説といい、とても緻密な思考力の持主が作っているとは思えない。やたらと話を単純化したがるところから、作っている人の頭の構造が割と「かんたんに」できているらしいことが推測できるのみです。
ついでにもう一つ、上の「論理的思考力があれば…」というのは否定の項に出てくる名言(?)なのですが、そこにも、これは僕には「論理的思考力」が不足しているせいなのか、どうにも理解できない箇所があるのです。それは、
「no+単数名詞」=単数扱い「1つの~もない」
「no+複数名詞」=複数扱い「少しの~もない」
とあるところで、名詞が単数なら単数扱い、複数なら複数扱いなのはわかりきった話ですが、「1つの~もない」と「少しの~もない」の意味の違いが分からないのです。どなたかわかる方、いらっしゃいますか? いるわけないと思うのですが…。
一般に、この二つの違いは、「社会通念や期待」によって決まるとされていて、説明を加えるなら、むしろそのあたりのことについてでしょう。しかし、そのかんじんな説明は何もない。それで代わって説明を試みると、たとえば I have no child. とI have no children. の場合、どちらも表現としては可能でしょうが、後者の方がより一般的だろうと思います。これに対して、I have no wife. かI have no wives. かということになると、一夫多妻制の国ではともかく、前者が正しいとされるでしょう。むろん、その際、「私には一人の妻もいません」なんてのはヘンテコな訳なので、あっさり「私には妻はいません」とする。
要するに、「何なの、それは?」というナンセンスなことだけ書いて、生徒の頭を無駄に混乱させ、かんじんな説明は何もないのです。それなら初めから書くなよと言いたくなる(実際こういう例示は、入試の見地からしても重要性に乏しいので、なくていいのです)。
他にも、「入試には結構出るのに、何でこれの記述は省かれてるわけ?」と思う箇所や、「自分なら違う説明をするし、その方が正確でわかりやすいだろう」と感じられる箇所もあるのですが、そういうのは不備ではあっても大きな欠陥ではないと解釈して、ここでは触れないことにします。ともあれ、先に述べた仮定法や時制は入試にも頻出する最重要単元の一つなので、そこにすでに見たような、正しい理解を妨げるような性質の「もどき解説」が載せられているのだから、文法教材としては致命的と言って差し支えないでしょう。
これの解説部分だけ集めたものを呆れたことに延岡高校では今の三年生全員に200円で強制的に買わせ、表紙には「Try again!! この一冊で『英文法』をマスター!」なんて書かれているのですが、こんな欠陥解説冊子で「マスター」なんてできるわけがないので、いかにもオヤジ的な駄ジャレを言わせてもらえば、作成教師のマスターベーション(自慰)以外の何ものでもないのです。あれで「英文法トラウマ」になった生徒たちは「見る気もしない!」と言っているので、「先生にあげます」ということでもらったのを見ながら、僕は今これを書いているわけで、この記事を書く役には立ったというだけの話なのです。
今の延岡高校の三年生に聞けばわかりますが、彼らはこのおかしな文法プリントを長期にわたってやらされた上に、次から次へと色々なテキストを買わされ、それが大方は尻切れトンボ状態で、「やれって、こんなにたくさんある教材をどうやって終わらせるんですか?」と途方に暮れる状態になっているのです。やることが行き当たりばったりで、そこには何ら計画性というものがない。買わされた無駄な教材費だけでも相当額にのぼるでしょう。しかも、「こんなのよりもっと使いやすい問題集」があるといって、他のを買って自分で勉強している生徒は少なくないのだから、そういうのは「捨て金」になってしまうのです。
塾としては学校の授業がお粗末な方が繁盛していいんじゃありませんか、と皮肉を言う人がいるかも知れませんが、傍迷惑なだけなのです。学校でセンターレベルの基礎をきちんと教え、二次試験レベルのことは塾が担当するというのならいいのですが、基礎も応用も少ない時間で教えなければならず、しかも彼らは長い授業時間で拘束されたうえ、多くの宿題を負った身なので、やりにくいことこの上なしなのです。「学校に妨害されている」としか思えない。これは生徒も塾も、です。
あのプリントを作った先生の英語理解能力(人格的にも疑問符がつくのは、僕がこのコーナーで何度も取り上げた異常な、キレやすい教師が彼なのだといえば、それだけでおわかりでしょう)は疑わしいとしても、他の英語の先生が皆「彼以下」だとは考えられない(実際、優秀な先生がいるのも僕は知っています)ので、それなのになぜ上記のような「明白な誤り」を含んだプリントが使われ続けているのかといえば、たぶん先生たちもその「解説」の部分はロクに見ていないからなのでしょう。ボスから「これを使え」と言われているから仕方なく使っているだけで、馬鹿馬鹿しいから「解説」なんて見ていないのです(それをそのまま口移しで繰り返している場合には「学力のなさ」の証明になりますが)。学校内部のおかしな権力関係でそういうことになっているというのは嘆かわしいことで、そういうところからしても「生徒第一の指導」にはなっていないのです。
「よけいなお世話」ついでにもう一つ書かせてもらうと、もう何年も前ですが、僕は学校で生徒たちが市販の単語集を指定の上買わされているのを知っていたので、長文の授業の途中、「この単語は憶えておいた方がいいもので、君らの単語集にも出ていると思うけど」と言ったところ、それを見た生徒たちに「バッテンがついてます!」と言われたことがあります。聞けば、わざわざ「覚える必要のない単語」というのを指示して、それにバツを付けさせていたのです。それはかなりの数に上った。
これもまた、「英語と入試のエキスパート」を自称するその英語科のボスが指示したようですが、今の単語集というのはたいていコンピューター分析も活用していて、「出ない単語」が入っているわけは基本的にないのです。そもそも、単語でも熟語でも、多く知っておいて損することはない。僕なども日頃、英文の本や記事を読んでいて語彙力の不足を痛感させられることが多いので、英語教師がそんなことをするというのが僕にはそもそも不可解なのですが、その単語など、よく出ることを知っているから、単語集でも確認してごらん、と言ったのです。皆で笑ったのは、同じようなことがその後何度も起きたことです。つまり、僕はよく出る重要単語だと思っているものが、学校の指示では「出ない単語」に指定されている。少なくともそういうことが何度か続いたのです。
僕が塾で使っているのは二次の英語問題(多くが過去五年以内のもの)なので、それは「センターには出ない」という意味なのかもしれません。しかし、それなら、生徒たちは二次で討ち死にしろというのでしょうか? 実に有難い、助けになる「指導」です。
一体何を根拠にその単語を選定しているのか知りませんが、何かその種のタネ本でもあるのかも知れません。そうして、市販の単語集より自分の方が信用できるということをアピールしたいがためにそんなことをあえてしているのでしょう。「やっぱり先生は凄い!」と思ってもらいたいのです。しかし、うちの塾に来ていた生徒は、それが全くの出鱈目だということを知って、「何なんだ、これは…」ということになってしまったのです。事実、目の前の入試問題に、「出ない」とされた単語がいくつも出ているわけですから(その年はたまたまですが、「類は友を呼ぶ」の法則で延岡高校三年のトップ10の生徒の半分がうちの塾に来ていたので、インパクトは大きかったのです)。
下らない教材で無駄に時間を潰しておいて、こういうよけいなことはしてくれるのです。買わせる英単語集はコロコロ変わっているようですが、今でも同じようなことは続けているようなので、生徒諸君はそんなもの真に受けてはならないということです。
以上ですが、僕が英語塾の一教師として怒っているのは、「しなくていいことをする」からなのです。何か特別なことをしろと要求しているのではない。むやみと量に頼るのではなく、良質なオーソドックスな教材(下手な“手作り”はもういいから、信用できる既製の出版物にして下さい)をえらんで、ていねいな授業を心がければいいのに、それをしないからなのです。
学校の授業は一教師のつまらない自己満足や自己顕示欲のためにあるのではない。生徒のためにあるのだということを忘れないでいただきたいと思います。
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