映画『スポットライト』雑感

2016.09.24.16:51

 そろそろ出ている頃だとレンタルビデオ店に行ったら、果たしてあったので、やっと映画の『スポットライト』をDVDで見ることができました。予想以上の出来ばえで、一人一人の役者の演技がいいし、全体に実にていねいにつくられているなという印象で、カトリック信者(元々わが国には少ない)の中には「信仰に水を差すようなものは一切見たくない」という人もいるかも知れませんが、それ以外の人にはお薦めです。若者たちがこれを見れば、その「記者魂」に感動して、昨今の「報じるべきことを報じない」マスメディア不信で減っているらしいジャーナリスト志望者もまた増えるかもしれません。

 軽薄なセンセーショナリズムは一切なし。最後の画面で、ボストン・グローブ紙が2002年に600本近い関連記事を掲載し、「249人の神父が性的虐待で告発され」「被害者は推定1000人以上にのぼる」という驚くべき事実が文字だけで淡々と告げられた後、“隠蔽工作の元締め”とも言うべきロー枢機卿が、同年「12月、ボストン大司教を辞任。ローマにあるカトリック教会最高位の教会に転属した」(原文には教会名まで出ていますが)と出るのは皮肉が利いているので、「身内に甘い」この巨大宗教組織の体質がいかなるものであるかをよく物語っています(最後に「虐待が判明した主な都市」の長大なリストが流される。あまりに多すぎて一度には出せないので、何度も画面が切り替わるのです)。

 僕は先に本の方を読んで、それについては「宗教と悪」と題して前に書いたので繰り返しませんが、このカトリック教会神父の性的犯罪の全容とバチカンの隠蔽体質については、ウィキペディアの次の記事に詳しいので、そちらをご覧ください。その「沈黙の壁」を破ってそれを世に知らしめるきっかけとなったのが、この映画に描かれたアメリカの一地方紙ボストン・グローブの「スポットライト」チームによる綿密な取材を基にした一連の記事だったわけです。

・カトリック教会の性的虐待事件

 要するに、カトリックの聖職者というのは、性的変質者、病的な小児性愛者にとっての絶好の隠れ蓑にして「理想的な職種」になっていたということですが、わが国でももしカトリックが巨大勢力で、社会的支配力が大きく、神父の数も多いと、同じ深刻で広範な被害を出すことになっていたでしょう(映画にも出ていましたが、性的虐待の被害を受けた子供たちを治療している専門家によれば、カトリック神父の実に6%がこれに該当するという)。僕の見るところ、日本の場合、この種の変態は小学校の教師などに紛れ込むことが多いようで、だからその種のニュースが多いのだろうと思いますが、その場合は発覚すれば懲戒免職になるでしょう。いじめ問題などではよく学校ぐるみの「隠蔽工作」が指摘されますが、カトリック教会と違って「ヘンタイの保護」にまでは手が回らないらしいことは幸いです。

 子供相手に性的いたずらや、性行為を行うというのは最悪の犯罪の一つで、神父たちが働いたそれのために被害者が自殺に追い込まれたケースも少なくないようですが、自殺とまでは行かなくとも、それは被害者とその家族にとって癒しがたい深刻なトラウマになります。カトリック当局による組織的隠蔽が何より悪質なのは、「神の愛」なるものを説きながら、普通人でももっているはずの人間的なシンパシーや愛情がなく、そうした被害者や家族の苦悶を無視して、「組織の社会的体面」を守ることしか考えていなかったというところにあります。そしてそのために権力を悪用して関係各方面に圧力をかけていた。それは彼らが「人間のクズ」だったことを意味するので、「一部に変態が混じっていました。ごめんなさい」で済むような話ではない。変態どもに劣らず上位聖職者も悪質だったので、それで御大層な道徳的お説教を垂れるとは偽善の最たるもので、人々の信頼を失うのは当然のことだったのです。

 ついでに、小児性愛ということで僕が思い出したのは、いっときわが国でも大人気だった、インドの聖者サイババのことです。これも信者の子供たちに性的いたずらをしたり、オーラルセックスを強要したりしていた、というスキャンダルが公になって、西洋にも信者が大勢いたのでそれは「衝撃」だったようです。僕個人は手から粉末を出してみせるとか、ブレスレットやら時計やらを「物質化」してみせるとか、そういう手品じみた(実際「手品」だったようですが)「奇蹟」には関心のない人間なので、それを崇拝する心理は理解しかねたのですが、彼の場合には、ご本尊そのものが立派なヘンタイだったわけで、目も当てられないことになってしまったのです。熱烈な信者はこうした告発に中傷、でっち上げだと強く反発したようですが、おおもとのところは真実だったようで、インド政府は彼が亡くなったとき「国葬」の扱いをしたそうですが、サイババは世界中から集めたその莫大な寄付金の類で病院やら学校やらを作り、一種の「サイババ産業」の総帥であったことから、その功績を認めてそういうことになったのでしょう(インド政府そのものが恐ろしく腐敗しているのは、インド人天才女流作家・文明批評家のアルンダティ・ロイの読者なら誰でも知っていることです)。

 企業などでもセクハラ、パワハラは多く報告されていますが、宗教と性犯罪がとくに相性がいい(と言えば語弊がありますが)のは、信者の側の信仰や崇拝心理がそれを容易にし、発覚が遅れるためでしょう。映画『スポットライト』にもあったように、被害者が続出しても、組織権力がこれを揉み消そうと動くだけでなく、信者団体も自分たちの信仰が揺るがされるのを恐れて、それを否認しようとする。ボストンのような町ではカトリック信者が多く、教会当局と自治体上層部(裁判所や検察も含む)は癒着していたのでなおさら、告発は困難になるわけです。教会当局者にとっては保身が、信者たちにとっては自分の信仰が大事なので、全体から言えば少数の被害者たちの声は届きにくくなる。虚偽の訴えや誇張だとして、かえって罵倒や嘲笑を浴びせられたりして、二重に侮辱されることになるのです。それなら黙っていた方がまだマシということになる。

 何であれ、一定の権力をもつ組織や団体の旧弊を改めさせるというのは容易ではありません。別にそれは性犯罪に関するものではありませんが、僕は六年前にここに「教育という名の児童虐待」という一文を書き、延岡(というよりこれは宮崎県全体の問題であるようですが)の県立普通科高校の病的な管理教育を批判しました。ここ二、三年で前よりはだいぶマシになったなという印象をもっているのですが、当初は反響ゼロで、こういうひどい実態を知れば、延岡の人たちも「そんなことは許されない!」と“立ち上がる”だろうと思っていたら、まるっきりそんなことはなくて、肩透かしを食らいました。書くに当たってはちゃんと裏取りを行ったので、そこには虚偽も誇張もなかったのですが、何の反応もない。だいぶたってから当該高校の生徒たちがそれを読んでメールで友達に教えたりして、徐々に認知度は上がったようですが、地元の地域紙ですらこの問題を取り上げる気配は全くないし、県教委や高校と正面切った論争になれば実りある成果も期待できるだろうと思っていたのに、読んでいながら黙殺戦術を決め込んだままなので、結局は独り相撲で終わり、半端でない徒労感を覚えたのです。

 なかには「大野さんのあれは、かなりの影響を与えていますよ」と言ってくれる人もいますが、実情としては平和な延岡では僕は浮いた存在なのです。まあ、僕が許しがたいと思っていた腐れ暴力教師もその後だいぶおとなしくなったようだし、課外の縛りもいくらか緩くなったようなので、意味が全くなかったとは思いませんが、常識的に考えて「どう見ても異常でしょう」ということですら、それが組織の旧習であるなら、変えるのは容易なことではないのです。言うまでもなく、僕はこの「一人キャンペーン」(その後何本も書いて、それらは「延岡の高校」コーナーに分類されている)を、何より生徒たちがかわいそうだと思ったから始めたのですが、張り合いのないこと夥しかったのです。中には自分の母校が攻撃されていると、おかしな愛校心からろくすっぽ読みもせず、反論するのも馬鹿馬鹿しいような見当外れの難癖をつけてくる人もいたぐらいで、こういうのは宗教団体の信者とも似ているのです(うちの塾生の親には、むろんそんなヘンな人はいませんが)。

 こういう問題で難しいのは、僕は騒ぎ立てるのが目的ではなく、その「改善」を目的としていたのに、そこに書き込まれるコメントなど見ると、何が目当てでこんなことを書いているのだ?と疑問をもつようなものも混じっていることです(あまりに愚劣なものは気がつくたび消すことにしているのですが)。明らかにこの人は病気だなという人もいて、実際アポもとらずにいきなり塾に押しかけてくる“熱烈な”人もいたのですが、そういう御仁におかしな具合に騒がれると、かえって問題解決が遠のくので困るのです。あなた、そういうんじゃ駄目ですよ、といくら言っても、話が通じたようには思えない。そういう人にいくら「賛同」されても、僕は嬉しくないのです。かえって事態がこじれてしまう。

 話を戻して、地域の学校ですら、動脈硬化に陥った組織は変革が容易ではないということで、似たような問題は今の日本社会のいたるところにあるのではないかと思うのですが、大方の場合はメディアもそこの住民も腰が引けていて、とにかく波風を立てまいとする。それで問題はそのままになって、社会の風通しが悪くなり、たまったうっぷんをネットの匿名による中傷や罵詈雑言で晴らす、というような非生産的なことになっているのではないかと思います。誰かの尻馬に乗って騒ぐにしても、騒ぐことそれ自体が目的になってしまうのです(他に、現実逃避のために「瞑想」の類にふける、なんてケースもあるでしょう。それで「平安」を覚える人たちは、お幸せと言うべきです)。

 信仰も所属も関係ない、是は是だし、非は非なのです。個人もメディアも、そこに腰を据えて活動するようになれば、世の中はどんなにかよくなるだろうにと思うのです。この『スポットライト』という映画の一般日本人にとっての最大のメッセージは、そこらへんにあるのではないでしょうか。

【訂正】ウィキペディアの記事が正しく表示されなくなっていたので、直しました。失礼しました。(9.25)
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