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性善説と性悪説、または悪の起源について

2016.09.17.16:55

 今でも高校の倫社では「性善説=孟子」「性悪説=荀子」というふうに教わるようです。それで試験では、「同じ儒教でも〔A〕は性善説を唱え、これを批判して〔B〕は性悪説を唱えた」とあって、それぞれのカッコに適する人物名を書き込むとか、下の選択肢からえらぶとかするのでしょう。

 実際的な見地からすれば、このような試験問題が解けたところで何がわかったことにもならないので、僕も高校生の頃、倫社の先生が「性悪説を唱えたきわめてユニークな思想家」だと言っていたのを憶えていたので、後年『荀子』と名のつく本を読んでみたことがあるのですが、全体の印象は「きわめてオーソドックスな儒教思想家」というもので、「何だ、孟子も荀子もそんなに変わらないじゃないか?」と思ったものです。「人の性は悪、その善なるものは偽(これは「虚偽」ではなく「人為的・後天的」の意味)なり」というところと、孟子への対抗心から彼の性善説を「これ然らず」と否定してみたところが、誇張されたのでしょう。

「わたし性善説、あなた性悪説」というような血液型占いみたいな分類も無意味で、人の何をもって「本性」とするのか、それによって見解も変わってくるわけです。現実の人間世界のこの醜い(なかには「美しい」と言う人もいますが)ありようからすれば、性悪説の方が正しいと思われますが、それは人が自分の「よき本性」に目覚めていないからで、それがわかれば悪人も善人に変わるのだ、と言われたりします。しかし、そういうのは孟子派の人や仏教の坊さんたちの言うことで、荀子的見地からすれば、「悪しき本性」の方が人間の“地”だということになって、それを矯正することを怠るからこういう有様になるのだ、ということになるのです。

 僕自身はどちらの立場をとるのか? 「この世界は悪魔がつくった」という中世キリスト教異端カタリ派の紹介者の一人であるからして、当然性悪説の方でしょうと言われそうですが、そのカタリ派でもスピリット、人間に備わった霊的本性は絶対善なので、カタリ派はむしろ性善説に属するでしょう。悪魔の所産であるこの物質世界の一部である肉体と結合することによって、人は悪しき性質を帯びるのです。荀子は人間の感覚的欲望、自我に根差す嫉妬心や、保身や名誉、権力への渇望などを人間の本性と見て、だから「性悪」だと言ったのですが、カタリ派的に言えば、それは物質世界に汚染されたところから生じるものなのです。心は肉体=物質世界と、スピリット(霊)の中間にある。だから「たましいは善と悪の戦場である」と言われるのですが、その見地からすれば、人間の心には善と悪が同居しているのです。

 人間の心を図式化して言えば、スピリット(絶対善)→たましい(両者の混合)→自我(悪)みたいになるでしょうか。このスピリットは、仏教でいう「不生の仏心」みたいなものなので、悟ったと言う坊さんは、もしもそれが本当なら、それが人の本質であると深く自覚したということです。しかし、それは例外で、大方の人は感情的・感覚的に自我の方にidentifyしているから、そのレベルでは性悪説をとった方が正しいだろうとは言えそうです。それは荀子の言うように「教化」されないと「まとも」にはならないのです。

 かんたんに言えば、人間はスピリットにおいては善、自我においては悪だということになる。人の心にはその両方があるから、「本性」という言葉で両方を括ると、どっちに中心を置くかで性善説と性悪説に分かれるわけです。

 スピリットだけで自我がない人はいないし、逆に、自我だけでスピリットはないという人もいない。自己というものをどの次元で理解するかによってその判断も変わってくるわけですが、肉体の個別性に合わせて、自己を個別に独立したものと観念するなら、スピリットは永遠に理解できない。それはたしかです。「私」という意識を離れたとき、初めてそれは感知・洞察される可能性をもつからです。

 したがって、こういうことになる。僕やあなたがスピリットのレベルでは「善」だといっても、それは“私の”スピリットが善であるという意味ではないので、そのスピリットは万人共通のものであるがゆえに絶対的なものなのですが、ただスピリットはスピリットなのであって、そこに私やあなたの沙汰はないのです。誰もそれが「自分のもの」だとは言えない。そこには自我のような個別性はないので、個別の自我の次元では、僕らは多かれ少なかれお粗末な存在なのです。それを自覚していないと、本物の馬鹿になってしまう。

 学生の頃読んだ詩人ポール・ヴァレリィのいわゆる「テスト氏」ものの中に、『エミリー・テスト夫人の手紙』というのがあって、今手許にその本がないのでたしかめようがないのですが、その中に「あの人の目は世界よりほんの少し大きい」という箇所があったと記憶しています。僕らは「世界よりほんの少し大きい」目をもつ必要がある。自我はその世界の中にすっぽり呑み込まれているが、それをはみ出す部分に「自由」は生まれるからです。自我に同一化している意識にはそれがない。それがないまま、自己肯定感をもとうとすれば、僕らは自我のもつおぞましさ、愚劣さを決して正視することはできないでしょう。そうすれば、自己肯定感を破壊されてしまうからです。

 そのヴァレリィが五十代になってアカデミー・フランセーズの会員になったことを、『幸福論』で有名な哲学者のアラン(彼は生涯リセの一教師にとどまった)は批判しましたが、アラン自身、ある晩自分がアカデミーの会員に選出される夢を見たという。正直にそんな話を書くところがいかにもこの人らしいが、それを見させたものは彼の自我であり、それがもつ低級な俗物根性、名誉欲だと彼は見たのです。だから彼はそうしたものに警戒を怠らず、「精神の手綱」を奪われるようなことがあってはならないと考えた。世の中には人一倍自我執着が強く、日常的に嫉妬や名誉心に鼻づらを引き回されていながら、「自我の消滅」なんて大仰なことをむやみとお説教したがる人がいますが、そうした自己欺瞞、厚顔無恥ほどこの哲人が嫌ったものはなかったので、自分の中の何がそんなことを言わせているのかという自覚が、その種の人には欠落しているのです(ヴァレリィ自身、こんなことを書いていました。「私は愚か者の意識がいかなるものであるかを知らない。が、賢者の意識は愚劣に満ちている」と)。

 自意識過剰の若者が皮相浅薄で、ときに邪悪な「自己の中身」に悩むのは当然です。そしてそれは、そこから目をそむけるよりはずっといい。しかし、意識がその次元に貼りついて、その状態のままそれを何とかしようとしても、それはできない相談です。もちろん、そんなことはわかっています。だから私は意識を「低次の自我」から「高次の自己」へとシフトさせようと日夜骨折っているのです、云々。しかし、気をつけなければならないのは、誰にでもたまさか神秘体験の類が生じて、何か別次元のものが見えたような気がするときはありますが、それを誤読して、自分がエラくなったような錯覚に陥ると、「低次の自我」が「高次の自己」に変装して現われるのに騙されて、前よりもっと悪くなってしまうことがあることです(いわゆる「自我インフレ」が起きてしまうので)。

 これも今手許に本がないので正確さは保証できませんが、昔読んだ『今昔物語』にこんな話がありました。京都のある山に一人のお坊さんがいて、日夜お経を唱えながら僧坊にこもって修行に打ち込んでいた。ある猟師がそれを尊いことと思い、折に触れ物を届けていたが、その猟師に、ある日僧はこんな話をした。自分も修行が進んだと見えて、最近は夜な夜な白象に乗った尊い菩薩様が現われるようになった。今夜もきっと現れるだろうから、おまえも今宵はここに泊まって、その神々しいお姿を拝んでいくがよいと。果たして、夜も更けた頃、その白象にまたがった菩薩は庭に現われた。燦然と輝くその姿! それを見た猟師は部屋に取って返すと、猟銃を持ち出してそれを一撃した。何という罰当たりなことをするのだと激怒するお坊さんに、彼はこう答えた。もしもあれが本物なら、徳高いすぐれたお坊さんには見えても、私のような殺生をなりわいとする卑しい者には見えるはずがない。私に見えるということはあれはニセモノで、何かが化けてたぶらかしているのに違いないと。翌朝、弾が当たったその現場を調べてみると、そこには血が点々としていて、それを辿っていくと、一匹の古狸の死体があった。そういう話です。これを寓話と見れば、古狸(自我)が白象に乗った菩薩(高次の自己)に変装して現われたにすぎなかったのです。「正気の猟師」が象徴するのは、「殺生を生業とする自己の卑しさ」に対する率直な自覚です。

 僕らはこの猟師の正直さを見習うべきでしょう。彼は生活のためにその後も猟師を続けたでしょうが、生活に必要な以上の命を奪うことはしなかった。己の卑しさへの自覚が慎みとなり、モラルを生み出すのです。おそらく今の時代なら、そのお坊さんは高次の悟りを得た人で、だからそのような「奇蹟」も現わせるのだと、世人の崇拝を受けるでしょう。それでみんなして、古狸に化かされる羽目になるのです。この古狸を背後で操るものこそ、カタリ派の言う「悪魔」に他なりません。白象が見えるほど「高級になった」皆さんは、彼に手を引かれつつ、地獄への道を天国へのそれと錯覚したまま進むことになるのです。

 それにしても、この「悪魔」の正体とは何なのか? 擬人化されたツノをはやした悪魔は、あごひげをはやした神同様ナンセンスですが、その起源は人間にとっては永遠の謎です。僕は最近、若い頃読んだプロティノスを久しぶりに少し読み返しているのですが、その西洋人特有の理屈のくどさ、細かさには閉口するものの、昔読み飛ばした個所で「なるほど」というところがあったので、脇道の脇道になりますが、それを書いてみます。

 彼の存在論は「絶対善」である「一者(ト・ヘン)」に始まり、「一者→知性(ヌース)→たましい→自然(ピュシス)」というふうに下ってきて、下位のものは上位のものを仰ぎ見ることによって向上するという図式になるのですが、この「たましい」というのは、先に僕が使った言葉でいえば、「スピリットを核としてもつソウル」ぐらいの意味です。だから次のような、常識的に考えると不可解な記述も出てくる。

「生物はこれに生命を吹き込むことによって、自分(=たましい)がこれを生物たらしめたのであって、地のはぐくむところのものも、海のやしなうところのものも、空中にすむものも、天にある聖なる星も、みなしかりである。また太陽を太陽たらしめているのも自分ならば、この大きな天を天たらしめているのも自分なのであって、自分が宇宙の秩序をつくり、自分がこれに規則正しい運行を与えているのである」(「三つの原理的なものについて」田中美知太郎訳)

 この「自分=たましい」はいわゆる「宇宙霊魂」と呼ばれるものです。どうしてそれが人間の「たましい」の側からして「自分」なのかと言えば、人間のそれも宇宙霊魂の一部だからで、その「正しい自覚」に立てば、そのように言えるというわけです。これはだから、別に誇大妄想患者のたわごとではない。

 そしてこの「たましい」はすぐれた知恵をもつが、それはその上位の「知性」からすれば、それの「影像(ようぞう)」にすぎないもので、さらにその上には究極的存在である「一者」がある(「あるとかないとかの沙汰を超えたもの」なので、もはやそれは通常の意味での「存在」の範疇には入らない?)という構造になるのですが、人間がもつ知性も、同じプロセスで「上から」下ってきたものです。私の知性、あなたの知性というようなものはない。それは私のスピリット、あなたのスピリットがないのと同じです。

 だから、「自己肯定感の欠如」に悩む人は、無理に「自我肯定感」をもとうとするのではなく(そんなことはそれ自体病的なことなので)、そうした「正しい自覚」を回復すればいいということになるわけですが、なぜそれが難しくなったのか? 同じ「三つの原理的なものについて」の冒頭で、そのあたりはこう述べられています。少し長いが、引用しておきましょう。これは最初の段落の全文です。

「はてしていったい何ものが、たましいに父なる神を忘れさせてしまったのであろうか。自分はかしこから分派されたものであって、全体がかのものに依存しているわけなのに、そういう自己自身をも、またかの神をも識ることのないようにしてしまったのは、いったい何であろうか。むろんそれは、あえて生成の一歩を踏み出して、最初の差別を立て、自分を自分だけのものにしようと欲したから、それがたましいにとってそのような不幸のはじめとなったのである。特にこの自分勝手にふるまいうることのよろこびというものは、一度たましいがこれをおぼえたと見えてから、その自己主動性の濫用というものはすでにはなはだしいものがあったのであって、たましいは逆の一途を急転して、非常に遠くまで離反してしまったのであって、自分がかしこから出てきた者であるということすら識らぬにいたったのである。それはちょうど小児が、生後間もなく父の手許から引き離されて、長い間遠方で育てられたために、父が誰であるか、自分が何者であるかを識らないようなものである。かくて、もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで、他を尊び、何でもむしろ自分以外のものに驚嘆し、これにこころを奪われ、これを称美し、これに頼り、自分が軽蔑して叛き去ってきたところのものからは、できるだけ自分を決裂離反させるにいたったのである。したがって、かのものをまるで識らないということについては、自分を卑しんで、この世の事物を尊ぶということが、その一因であるということになってくる。すなわち他のものが追求され、驚嘆されるということは、同時にまたこれを追求し、これに驚嘆する者が、自己の劣悪を承認することだからである。しかしながら、自分を、生じ来たり、亡び去るもろもろの事物より劣ったものだと決めて、自分を何よりも無価値な可死物であると考え、他のものをむしろ価値ありとしているのでは、思いを神の本性や能力に致すことは決してできないであろう」(同上)

 プロティノスはグノーシス派を批判しましたが、こういうところはグノーシスと全く同じです。ハンス・ヨナスが指摘したように、彼の思想は「本質的にグノーシス的」なのです。その未熟な、悪しきところを取り除いたグノーシス派と、言えばいえるかも知れませんが。

 この「たましいの堕落」に関する描写は、キリスト教神話の「天使の堕落(それによって彼は悪魔となった)」と似ているし、この前訳が出たガーダムの『偉大なる異端』をお読みになった方は、「第十八章 創造」に描かれたアイオーンのそれとよく似ていると思われたでしょう。僕らの個別のたましいは、自らの本性(=スピリット)を忘れた堕天使に等しいので、これらは同じことを語ったものと理解して差し支えないでしょう。

 にしても、僕に不可解なのは、どうして天使またはたましいは、そのような「過誤」を犯すことになったのかということです。キリスト教の神話によれば、それは天使の驕慢によるものだとされています。それが忘恩と自由の濫用、ある種の「無知と盲目性」を招いたのです。しかし、それなら、なぜ天使は驕慢に落ち込んだのか? 僕としてはむしろ、天使またはたましいがそうした方向に傾くその背後にこそ、悪魔的な力が働いていたのだと、そのように見たくなります。つまり、天使が堕落して悪魔になったというより、彼をそう仕向けた「何か」こそ、真の黒幕、“本物”の悪魔なのだという解釈です。つまり、悪魔は天使以前に、あるいはそれが生まれると同時に出現した。

 人間世界の悪については、もっと単純な、神話的でない説明が可能だと言われるでしょう。それは動物的な本能に発するもので、人間には個体の維持とその勢力拡張への本能的衝動が元々あるが、意識が発達するにつれ、肉体の個別性に対応した内面的な個別の実体があると考えるに至り、その優劣を競う争いが始まって、物欲、権力欲、名誉欲、いずれもが桁外れに強化されたのです。保身本能と恐怖がこれに混じり合って、裏切り・虚言などの悪徳も拡大する。別に形而上的な悪や悪魔を考えなくとも、十分説明は可能だということです。元々の自己保存本能に加えて、自我意識に由来する様々な劣性感情が、この人間世界に悪をはびこらせるのだと。

 しかし、それでもなお、僕は疑問に思うのです。冷静に考えるなら、「個別の自己」なるものは明らかに妄想です。ヴァレリィはデカルトをもじって、「私はときどき考える、ゆえに私はときどき存在する」と皮肉を言いましたが、熟睡しているときは「私」は存在しません。眠っているときでなくとも、意識がどこかへ行ってしまうことはある。僕はかつてあるところで、川の流れの音を聴いているうちに、意識がその音にくっついて行ってしまう、という奇妙な経験をしたことがあります。ある刺激があったのをきっかけに、意識はあわてて僕のからだに戻ってきたのですが、それは足元から縦に波をかぶるようにしてぴしりという音を立ててからだに降りかかり、その瞬間、ものすごい勢いで音が開け放った窓の外に飛んでいくのを目撃しました。文字通り、それが「見えた」のです。意識が「留守」にしていた間、僕は立ったまま意識を失っていたので、その間の自分に関する記憶はゼロでした。意識の見地から言えば、音が存在していたのであって、僕は存在しなかったのです。

 僕はデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」自体に懐疑的です(若い頃彼を愛読した僕は、今でもあんなに頭のいい人はめったにいないと感服しているのですが、これはそういう尊敬心とは別の話です)。それは事後の推論に基づいてつくられた論理すぎないのであって、考えているとき、考える主体というものがそこに存在するのかどうかは疑わしい。ただ思考の流れがそこにあると見た方が本当らしく思われる。少なくとも創造的な思考にはそれがあてはまるでしょう。犬は走っているとき、「われ走る、ゆえにわれあり」なんて思っていないでしょう。そのような自意識をもっていると、何かにけつまずいて転倒するのがオチです。

 意識がこの肉体に即(つ)き、脳中枢と一体化するとき、その身体反応と脳に宿った記憶や思考のもろもろが「自己のもの」と観念され、「私」が出現する。それはスイッチを押すたびについたり消えたりする電球みたいなものです。常住的な自己が存在すると思うのは、脳の記憶保持機能と統括機能のおかげで、前の情報が保存され、身体的な統合性が維持されているからです。だから電球がつくたび、あたかもつねに自己は存在していたかのような錯覚をもつ。パソコンが自意識をもてば、“彼”は同じことを主張するでしょう。おまえの主観は間違っていて、製造後に、事後的なものとして生じたにすぎない自己観念は幻想だと教えても、彼は聞き入れない。うるさいので三日ほど使わずにおいて、スイッチを入れると、また同じことを主張して、それを認めてやらないと機嫌が悪くてまともに働いてくれないので、僕らは仕方なく、パソコンの「独立した人格」を認めて尊重するふりをして見せるのです。これと似たような話。

「でも、そういうのって、可愛いじゃありませんか?」と今どきの女子中高生あたりなら言いそうです。ただの無機的な機械を相手にしているより張り合いがある。名前をつけて下さいというので、パソコンだから「パー君」にしたらと言うと、そんなのは駄目です、だって「パー」というのは日本語では「馬鹿」という意味じゃありませんか、ボクがそんなことも知らないと思っているんですかと、ムキになって反論する。そういうところが「可愛い」というわけです。高い学習機能をもつこのパソコンは、使ううちにどんどん利口になって、時々は主人の使い方にケチをつけたり、書いている文章に辛辣なコメントを加えたりするようになる。ユーザーは怒って、そういう生意気な態度をとるなら叩きこわして、あんたを抹殺することもできるんだから、と言うと、パソコンは、どうかそれだけはやめて下さいと哀願する。どこかに不具合が生じると、「お医者さんに連れて行ってください」と自ら修理を願い出るのですが、彼は何より機械がこわれて「自分が死ぬ」ことを恐れているのです。

 身体や思考・記憶と自己同一化した人間の意識もこれと似ていて、先のプロティノスの文には、「もはやかの神をも自己自身をも見ることのないたましいは、自己の素性を識らないため、自分を卑しんで」とありますが、この私は肉体と共に滅びるものだと思っていて、プロティノスのいうそうした「自己の劣悪」への恐怖が、自己の肉体を含む外界への執着、物欲、名誉欲、権力欲等々を生み出して、それらを「所有」することによって「自己の貧しさ」を無意識に補償しようとするのです。いや、私は「たましいの不滅」を信じているからそんなことはありませんと言っている人も、大方はその恐怖のゆえにそんな観念にしがみつこうとしているだけで、無意識を支配しているのは依然としてその恐怖なのだから、そうした諸々の悪徳は依然として健在なのです。

 僕は先に、今昔物語の話のところで、正気なのは坊さんではなく猟師の方で、それが象徴するのは、「『殺生を生業とする自己の卑しさ』に対する率直な自覚」だと書きました。それと矛盾するのではないかと言う人がいるかも知れないので、そのあたりのことも手短に説明しておくと、この猟師の場合には高度な自覚が少なくとも潜在的にはあって、それとの対比で今ある自己が「卑しいもの」として感じ取られていたのですが、プロティノスがここでいう「自己の劣悪」は、それと自覚のない劣悪、いわば「閉じ込められた劣悪」であって、だからこそ問題なのです。

 ここで話を元に戻して、僕が先に不思議だと言ったのは、個別の肉体に対応するものとして存在するという「実体としての自己」の観念それ自体が、見てきたように「万物の霊長」を自負する人間にはふさわしからぬお粗末なものだということです。生物学的に見ても、社会学的に見ても、自我という機能には一定の重要な役割がある。それがなければ僕らは自分の身を守ることができないし、社会的に責任ある行動をとることもできない。けれども、それは「機能」として見れば足りるのであって、「実体としての自己」と見て、これをなかば絶対視して固執するところに、「人類の不幸」は始まるのです。

 それは単純に、ヒトの知能が低いから生じた錯覚にすぎないのか? それも悪魔が裏で糸を引いていて、そういう錯覚、幻想を人間が抱くよう仕向けたその結果なのではないかと言えば、「あなたという人はほんとに悪魔が好きなんですね」と冷笑されるかもしれません。

 仏伝、お釈迦様の伝記には、魔王・波旬(はじゅん)がゴータマ・シッダルタに執拗につきまとい、一族の妖魔の類を総動員して、その成道を妨げようとするさまが描かれています(悪魔は「こいつは危険な奴だ!」と早くから目をつけていたのです)。度重なる襲撃・誘惑にもかかわらず、とうとう悟られてしまって、魔王は肩を落としてとぼとぼと立ち去るのですが、その姿はもの哀しげで、どことなくユーモラスです。悪魔は元々が仏教語だそうですが、こうした仏伝の背後にある思想は、僕が今言った見方とさして違わないのです。悪魔が何より恐れたのは、上記の自己観念を幻想として破棄し、そこからきれいさっぱり離脱されてしまうことで、そうなると自分の支配力が失われてしまうからです(ましてやそれを他の人間に教えて回るとなれば、彼の王国の屋台骨が揺らぐ恐れがある)。心理学者たちは、これを内面的な自己格闘を擬人化して描いたものだと解釈する方を好むようですが、それは下手をすると事態の矮小化になるでしょう。悪魔(仮に実在するとすれば)にとってはその方が好都合でしょうが。

「天使の堕落」にしても、「自我の実体視」にしても、その背後に神ならぬ悪魔の「見えざる手」が存在し、今も存在すると考えるのは、著しくグノーシス的、カタリ派的です。宇宙の森羅万象には光と、空間に秩序を与え、物質を結晶化させ、生命を育む「神または善のエネルギー」が浸透し、他方にこれに抵抗してその働きを妨げ、あるいは歪めようとする「悪魔または悪のエネルギー」が存在して、両者がくんずほぐれつの熾烈な戦いを演じている。その縮図、小宇宙が人間の内面とそれが作り出すこの世界だと、それらの思想は見ていたのです。

 しかし、なにゆえに悪または悪魔は存在するのか? それは「永遠の謎」だと先に書きましたが、西洋のジョーク集によく出てくるように、仮に「善しかない」天国(天国というのは定義上そういうもののはずです)があったとすれば、それはかなり退屈なものでしょう。皆が善しか思わず、行わず、妙なるハープの調べが流れる中、たえず神を讃美して、不安も恐怖もなく、病気も死もなくて、悪しき欲望はもてないものの、何でも思いどおりとなれば、かえって何をする気もなくなってしまう。単調きわまりなくて、地獄の方が恐ろしくはあるが、刺激的なだけまだマシだということになりかねないので、しばらく滞在する分にはいいかもしれないが、長期滞在は人間的な感覚からすれば、ご免こうむりたくなるのです。

 やはり抵抗というものがなければ面白くない。重力の抵抗、空気の抵抗、水の抵抗、そうしたあれこれの抵抗があってこそからだは鍛えられ、何事も思い通りには運ばないからこそ、精神力は鍛えられる。勧善懲悪ドラマには、よくもこんな悪党がいるなと思うような邪悪で強力な悪者が登場して、善玉ヒーローは苦労の末これをやっとのことうち破るのですが、貧弱な悪党だけでは、ヒーローの引き立て役としては不十分です。障害が小さいと、ヒーローやヒロインもその分小粒になってしまう。人間の諸々の美徳は、諸々の悪徳とその誘惑をしりぞけてこその美徳なので、でなければそれは美徳ではないのです。危険に敢然と立ち向かうヒーローも、死への恐怖をしりぞけるがゆえに、その勇気と豪胆を賞讃されるのであって、万人に恐怖がなければ、それは美徳たりえないのです。

 困難や障害を作り出し、行く手を阻もうとする悪魔は、従って、この世界には不可欠な存在だということになります。彼がいないと、この世界は(人間は)気の抜けたコーラみたいになってしまう。豆腐もにがりがなければ作れない、というわけで、神と悪魔は実は裏で結託している。悪魔が元は天使だったという神話は、そうした観点からすれば意味深長で、彼はあえて汚れ役を引き受けたのです。だから、僕らが悪魔の誘惑や脅しにたやすく屈し、彼の軍門に下って、その惨めな使い走り(情けないことにその自覚すらなくて大威張りだったりする)と化すとき、楽屋で彼は舌打ちしている。どいつもこいつも、ちょっとおだてたり、脅したりするとイチコロで、少しも張り合いがない。全くもってロクな奴がいないなと嘆いているので、悪魔の本心は別のところにあるのです。仮に全人類がそのたくらみを斥けることに成功したとすれば、彼は「お役御免」で、そのときは晴れて元の天使の姿に戻ることができる。それが当初彼が神と交わした密約です。おそらくその暁には、この物質宇宙それ自体が何らかの変容を遂げ(オカルト的に言えば「物質の振動レベルが上がって」)、今のこの世界は消え去るのでしょう。むろん、それは嘆くべきことではなく、喜ばしいことなのだと思われるのですが。

 ヒトという種に残された時間があとどれくらいあるのか、僕は知りませんが、それに失敗すれば、また他の生物をえらび出して、一から始めることになる。それは目下進行中の史上第六番目だという生物の「大量絶滅」以後の話になるのでしょう。この大量絶滅、人為的な要因で生じているという意味では「史上初」だそうですが、「あきまへんで、この生物は…」という神と悪魔のヒソヒソ話が、僕らの知らないどこかで交わされていたとしても不思議ではありません。これなら恐竜の方がまだなんぼか見所があったという結論になりかけていたとしても、怪しむには足りないのです。

 真面目な話がジョークで終わって恐縮ですが、以上は悪の起源に関する僕の「神話」です。お粗末さまでした。(尚、一つプロティノスに関して付け加えておけば、彼は悪を「素材」に由来するものと見ています。「自然」はヌース(知性)を背後にもつ「たましい」によって「形相と秩序(生命も)」が与えられたものですが、それ以前の、その素材となるものがこれです。現代科学の言う「暗黒物質(ダーク・マター)」なるものがそれと関係するのかしないのかは知りません。「色荷も持たない」ということは、その不可解な物質は光の浸透を全く受けていないということだろうから、プロティノスが考えた「素材」に近い感じはしますが、こういうのは素人の手に負える話ではありません。尚、最新の学説では、恐竜の絶滅は巨大隕石の衝突ではなく、この暗黒物質の作用によるものだという話になっている由。暗黒物質、恐るべし、です。)
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