再び「日本会議」について

2016.08.28.00:58

 オリンピック明けに、青木理著『日本会議の正体』(平凡社新書)を読みました。前に菅野完氏の『日本会議の研究』について、「カルトに使役される政治」と題してここに書いたことがあって、あの本以降類書が何冊も出ているようですが、僕が「日本会議」関連の本を読むのはこれが二冊目です。青木理さんの文章は週刊誌などでもときおり見かけて、いつも興味深く読んでいるので、この著者でこのタイトルなら面白いだろうと、買ってみる気になったものです。

 両者の論述は多くが重なり合っていますが、僕はあの時ブログに、「資金源はどこなのか?」という疑問を書きました。これについては、当の日本会議の秘密主義(それを公開しないというのは本来おかしな話ですが)の壁に阻まれて推測するしかないようですが、青木氏は関係者の話から、「神社本庁、とくに明治神宮」あたりだろうと見ているようです。これに関係宗教団体の“上納金”みたいなものから、金持ちの大口カンパなどが加わって、かなり潤沢な資金をもつ。そんなところなのかと思いました。イベントの大量動員には、各種関係宗教団体が協力していて、宗教団体は組織的な動員はお手のものだから、一万人程度はかんたんに集められる。それを「草の根世論」の表われだと称して、実際はそんなものではなくても、デモンストレートしているわけです(産経新聞はよくリベラル派の集会については「動員」がどうのという冷やかしを書いていますが、こちらについては書かない)。

 日本会議及びその別動隊の中心にいるのが元「生長の家」の学生メンバーであるという点は、菅野・青木両氏の一致しているところで、昔の左翼学生運動華やかなりし頃の、それに対するカウンターとして活動していた民族派右翼の面々が、左翼はその後衰退する一方だったが、今も生き残っていて、安倍政権の出現と共に、「わが世の春」を迎えた、という構図です。

 そのやり方はきわめて巧妙で、昔の左翼が得意としたオルグ活動はもとより、事あるごとに地方に「キャラバン隊」を送って、地方議会を抱き込んで“愛国的”な「○○決議」なるものを出させ、併せて署名活動にも取り組んで、「世論の盛り上がり」を演出する。それで中央政治に圧力をかけるというより、今の安倍政権下では、「見なさい、私にはこんなに世論の支持がある」と言わせるためのサポート役を務めているわけです。

 思い出すのは、僕が大学生だった70年代後半の大学のありようです。自治会はいまだに左翼過激派が牛耳っていることが多くて、一般学生はそういうものに魅かれることはなかったが、彼らが何かにかこつけて反対闘争などをやってくれると、試験が潰れたりして都合がいい。今のように、「授業料を払っているのだから、ちゃんと大学が授業をやってくれないと困る」なんて真面目な学生は少数派で、連中が大学をロックアウトしたり、試験がなくなって楽なレポートに振り替えられたりすることはウェルカムだったのです。僕のいた大学では、学園祭の入場料が革マルの資金源になっているという話でしたが、その程度のことは大目に見てやらねばならないみたいなところがあって、その政治信条に対する共感はゼロでも、授業や試験が潰れるメリットがあるので、これを「容認」していたのです。

 今の日本会議が主導する運動については、しかし、そんな気楽な構え方はできないでしょう。当時の「生学連(生長の家学生会全国総連合)」の生き残りが運動の中心にいて、これは僕には「右翼版革マル」みたいにしか見えませんが、彼らが安倍政権の思想的バックボーンになっていて、マスコミはこれに対して沈黙したままだし、「国家を乗っ取る」ような事態になっているからです。日本会議が主導する各種イベント、署名活動は「世論の声」のあらわれだということにされ、上と下が呼応して、結果として“右翼版革マル”の思惑が次々と実現する。行き着く先はどこなのか、心配になるのは当然です。

 最近僕に気になっているのは、妙な具合に「宗教心」が強くなっている人たちが多いことです。神社仏閣にやたらと参拝したり、そうすると「心が落ち着く」というのですが、正直かなり薄気味が悪い。そういう人たちの大半は善良で、政治的な動機からそうしているのではないので、「心の拠り所」がほしくてそうなっているようですが、こういうのは日本会議の面々にとっては都合のいいことでしょう。「○○神社に行ってきました。心が洗われる思いでした」なんてメールが届くたび、その種のことに特段の感銘を受けない僕は返答に窮するので、まさか「そういうことで、あなたという人間の中身が変わったわけではないでしょう」なんて返すわけにもいかない。冷たくてひねくれた人間だと思われるだけだからです。

 この本には、宗教学者で東大名誉教授の島薗進氏へのインタビューも入っていますが、その中で氏は次のように述べています。

「戦前もそうでしたが、停滞期において不安になった人びとは、自分たちのアイデンティティを支えてくれる宗教とナショナリズムに過剰に依拠するようになる。戦前の場合は国体論や天皇崇敬、皇道というようなものに集約されたわけです」

 生前退位の意向を表明されている今の天皇皇后両陛下がすぐれた人格者だということに関してはほとんど異論はないでしょう。僕もそう思います。しかし、そこに過剰な感情的思い入れをして、「人間以上」の存在と見る気には僕は全くなれないので、それは両陛下が望んでおられることでもないでしょう。今の政治状況に一番危惧を覚えておられるのは実はお二人ではないかと僕は思っているほどですが、天皇を「神聖犯スベカラザル存在」に祭り上げて、「万世一系ノ天皇」が「統治」するこの国が「神国」で、他国・他民族に優越するというユダヤ教顔負けのアナクロニズムが今も存在するというのは驚くべきことですが、それは存在するのです。以下は『日本会議の正体』に引用されている、日本会議事務総長の椛島有三が『祖国と青年』という機関誌に書いた文章。

「日本の政治史は、天皇が公家、武士、政治家に対し政治を『委任』されてきたのが伝統である。天皇が国民に政治を委任されてきたというのが日本の政治システムであり、西洋の政治史とは全く歴史を異にする。天皇が国民に政治を委任されてきたシステムに、主権がどちらにあるかとの西洋的二者択一論を無造作に導入すれば、日本の政治システムは解体する。現憲法の国民主権思想はこの一点において否定されなければならない」

 実際は時の権力や狂信的愛国者がその権威づけに天皇を利用してきたにすぎないと見るのが正しいと僕は思いますが、この手の人にそんなことを言っても通じない。近代それ自体の否定がここにはあって、明治憲法の時代ですら「天皇機関説」に見られるように、実質的な「国民主権」は認められていたはずなのに、それを「不敬」として糾弾した軍部や極右と同じ狂信性(それが日中戦争、太平洋戦争へと導いた)を、このグループの人たちは今も保持しているのです。

 同じ『祖国と青年』には、建国記念日式典に関連して、こうも述べられている由。

「今重要なことは、無感動・無思想と言われる今日の青年に、伝統と歴史の力によって感動を呼び起こさせることにある。感動の源泉は正しい歴史を確立することにあるとの感慨を持つと共に、その意味においてこの度の神武建国、聖寿万歳をめぐっての建国論争は実に大きな意義を持っていた」

「ご親切にどうも」という感じですが、僕は日の丸を見ても何ら「感動」は覚えないし、君が代と来た日には歌詞すらロクに知らない有様ですが、こういうのは憎むべき左翼「日教組教育」の産物で、こうしたありようは根本から変えねばならないのです。だから学校の式典でも日の丸・君が代は強制されねばならないし、元号は法制化されて、僕は計算がめんどくさいので、いつも日付は西暦で書きますが、公的な文書は元号表示に統一されねばならなかったのです(国旗国歌法、元号法制化、教育基本法改正の裏にはすべて、彼らの圧力団体としての「地道な努力」があった)。

 そうして、「感動の源泉は正しい歴史を確立することにある」とされていますが、その「正しい歴史」とは、先の戦争が断じて「侵略戦争」などではなく正当な「自衛」のそれだったと信じ、「自虐史観教科書」の類は撲滅して、わが国は中国や韓国、東南アジアの国々に、恩恵を施しこそすれ、非道なふるまいなどは決してしなかったことを子供や若者に「理解」させることなのです。「たんなる神話にすぎない」と言われる「神武建国」も、それは肝心かなめのポイントであるからして、「真の歴史」の中では強調されねばならない。

 アメリカのキリスト教原理主義者たちが「ダーウィンの進化論は聖書の記述に反する」として、学校で子供たちに教えるなと言うのと同じで、この手の人たちはどこにでもいるとして、こういうのが政治の表舞台に登場して、時の権力と一体化し、次々その所願を達成しつつあるというのは異常で、島薗教授も言われるように、「かつては“危ない勢力”と認識されていた者たちが、いまや立派に見えてしまっている。これは驚くべきこと」なのです。

 神社に参拝して、「心が洗われる」「厳粛な気分になった」と言う人たちのどれくらいがこういうアナクロニズムに「共感」するのか知りませんが、自己肯定感に乏しい人たちほど、「われら神国の民」というような言説は、自尊心をくすぐられるようで魅力的に感じられるでしょう。今の社会の「道徳的腐敗」は「古き良き皇国の伝統」を見失ったためだと言われると、「そんなもの、関係あるかい」と僕などは思いますが、なるほどと頷いたりする。取るに足りない名無しの権兵衛では元気が出ないが、「選ばれし国の民」だと言われると、何となく誇らかな気分になって、「元気が出る」のです。

 そういうのは馬鹿馬鹿しい自己欺瞞にすぎないと考える僕は、わが子にも、塾の生徒たちにも、「自分の感性と頭で合理的に考えて、自分の背骨で立てる人間になれ」と教えてきましたが、こういうのは日本会議的な見地からすれば、利己主義者を生み出すにすぎないので、外部の「大いなるもの」に帰依してこそ、利己主義を免れ、徳性を高め、共同体との絆がもてて、「信念から行動する」強さも身につくということになるのでしょう。僕にとってそのようなものは「権威崇拝のおぞましい排他的集団主義」を結果するにすぎないと見えるのですが。

 そう言うおまえは、カタリ派なんぞという、カトリックの十字軍に完膚なきまでにやられてしまった西洋中世のいかがわしい異端宗派の信奉者で、「偏った政治的・宗教的信条」の持ち主ではないかと冷やかされそうですが、僕はカタリ派はカトリックより宗教として百はマシだったと思っているものの、別に特殊な宗教的信条をもつ者ではありません。大体カタリ派は政治にコミットしなかった。彼らにとってそれは「悪魔の領分」だったからです。にもかかわらず人気を博して自然拡大し、久しい以前から恐怖の国際神権政治と化していた「祭政一致」のカトリックには大きな脅威となったので、手段をえらばずの苛烈な迫害を受けて滅ぼされたのです(その遣り口がどんなにえげつないものであったかは、この前出した訳書『偉大なる異端』をお読みになればわかります)。

 話を戻して、日本会議の面々が信奉する「皇国史観」や「国家神道」そのものがミもフタもない言い方をすれば「近代に行われたでっち上げ」で、それに基づく「歴史記述」なるものは学問的な検証に耐え得るものではありません。椛島氏の讃美してやまない「わが国の国柄」である「祭政一致の国家哲学」においては、「大嘗祭を含めた宮中祭祀」はきわめて重要な意味をもつもののようですが、その「大嘗祭を含めた宮中祭祀」にしてからが、

「神武創業の昔(が歴史的にあったとして)にこの祭祀がなかったのはもちろん、室町時代には廃絶し、その再興は江戸時代になってからであった。その間に口伝は当然消滅・断絶していたから、「朝儀再興」には古代の文献を解読・解釈し、その記述を再構成する必要があった。
 したがって、正志斎の時代に行われていたのは江戸時代に新たに創出された大嘗祭であって、古代の王朝儀礼そのものではない」(小島毅著『増補 靖国史観』ちくま学芸文庫)


 のです。この東大教授・小島毅氏の本は前にも一度紹介したことがありますが、名著で、学問的にも信頼の置けるものだと思われるのですが、これを読むと、「皇国史観」なるものも同じようにして「創作」されたものだったことがよくわかる。それは儒教的なイデオロギーに基づいて江戸から明治にかけて作られ、流布された、かなり狂信的かつ党派的な「過去の歴史の合理化」にすぎなかったのです。

 いや、歴史においては「心情」こそが重要なのであって、歴史的な事実がどうだったかは関係ない、と言う向きには、こういう批判は無効でしょうが、それならそれはファンタジーであって歴史ではないので、個人的に何を信じようと勝手ですが、公的に人に押しつけることは許されない。ましてや学校でそんなものを教えるとなると、悪しき「洗脳教育」以外の何ものでもないということになるでしょう。戦前に戻すためにそれをやりたいのかも知れませんが、フィクションを事実として教えこみ、それに基づいて「民族の誇り」をもたせようなどというのは、カルト宗教と全く同じです。カルトに入ったつもりは全くないのに、それを強要されるなんて馬鹿な話がどこにあるのでしょう?

 僕はこういうのは「公害」以外の何ものでもないと思いますが、日本会議はそのような妄想的歴史観と「国柄」信仰に基づいて行動している人たちで、その方向で着実に「成果」を挙げているのだから、恐ろしいのです。

『日本会議の正体』の著者、青木氏は、AERAに「安倍晋三の生い立ちと素顔などを追跡する長期連載ルポルタージュを発表し」、それは近く書籍化されるそうなので、僕はそれを楽しみにしていますが、彼には「少なくとも、現在の政治スタンスにつながる知性を鍛え上げた様子も、政治史などの知識を積み上げた形跡も、ほとんど見られなかった」そうで、だからこそ日本会議みたいなアナクロニズムの頑固な信奉者たちに信頼を寄せる羽目になったのでしょう。無知だから、日本会議の関係者たちには都合がよかった。取材の途次、今の安倍の姿を、「会社員時代の上司」は次のように評したという。

「子犬がオオカミの子と群れているうち、ああなってしまった。僕はそう思っています」

 そうだろうなと、僕も思います。学生時代から何十年とオルグ活動を続けてきた日本会議に集うしたたかな面々は、コンプレックスと不勉強ゆえの無知がないまぜになった未熟な世襲政治家の彼に、宿願実現のための格好の器を見出した。うまくヨイショしつつ、支援のための組織と運動を十重二十重にはりめぐらして、今やそれは長期政権となった。左翼全盛の頃から耐えに耐えてきた彼らの野望が、今やついに実現の時を迎えたのです。「信念で病気は治る、事は成就する」みたいな陳腐な(失礼!)「谷口雅春師」の教えが、ここに実を結ぼうとしているのです(シンゾー君が「後継者」視するトモちんも、父子で『生命の実相』のお世話になり、父は肺病を克服して京大に入れ、娘は司法試験に合格できたのだとか。僕の腰痛なども『生命の実相』で治るでしょうか? 別の方法で大幅に改善しましたが…)。

 が、まだ諦めるのは早い。そういう「裏事情」を知れば、「そんなのにはおつきあいできませんよ」と言う人は今の日本にもたくさんいるだろうからです。こういうわけでこうなっているのだということが分かれば、今後の憲法改正論議、国民投票などにも注意の向け方が変わってくるでしょう。そう願いたいものです。
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