「憑依(ひょうい)」は英語ではpossessionです。これはpossess「所有・占有する」という、大学受験には必須レベルの動詞の名詞形なので、当然「所有・占有」の意味があって、むしろそちらがふつうなのですが、これに「憑依」の意味があるのは、おかしな悪霊の類に人間が「所有・占有」されてしまうのが憑依という現象だからです(ユングは「人が無意識をもつのではない、逆に無意識が人を所有するのだ」とどこかに書いていましたが)。
今のような「科学の時代」には表向きそんなものは存在しないことになっていますが、僕は自分の体験に照らして、それが存在することを確信しています。そしてそれに無警戒・無関心な世の中の人たちにかねて驚いているので、「そういう考えで、そういうことばかりしていたら、いずれおかしなものに乗っ取られますよ」と警告して、それが受け入れられるような社会環境ができるのが望ましいと考えています。
何を念頭にこういうことを書いているのかは、読者にはすでにおわかりでしょう。神戸の酒鬼薔薇事件や、オウム真理教事件のときにも、僕は背後に「この世のものではない」不吉なものの影を感じましたが、今回の神奈川県相模原市の障害者施設で起きた陰惨きわまりない無差別集団殺人事件にも同じ印象をもちました。自首した犯人の植松聖は入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせたそうで、「平成以降最悪の殺人事件」だと報じられていましたが、こういうのはたんなる精神病の所産ではありません。愚かなこの男は何年もかけて自ら悪霊の棲家にふさわしい内面をつくり、準備してきたので、憑依はおそらく段階を追ってなされたのでしょうが、今年二月に例の「手紙」を衆院議長公邸に届けようとした(その後の報道によれば、同趣旨の手紙を首相宛にも出すつもりでいた)頃には、その憑依は「完成」していたのです。
そういう深刻な状態がわずか十二日間の「措置入院」などで「改善」するわけがない。例の手紙は議長公邸から警視庁に送られ、さらに神奈川県警にも行っていたようですが、警察は措置入院時に彼を診断した二人の精神科医にその手紙の写しを見せていなかったのでしょう。もしそうしていれば、別に憑依説など信じていない医者でも、よほど目が節穴でないかぎり、事態の深刻さは認識できたでしょう。「反省の言葉」を口にしたから信じましたなんて、ナイーブにもほどがある。「正直な悪霊」なんてものは存在しないので、嘘つきが彼らの本性なのです。
テレビのニュースなどでは一部の紹介だけだったので、以下にその手紙の全文(ハフィントンポストより引用)をご紹介しておきます。これは「読解力のテスト」です。
衆議院議長大島理森様
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
文責 植松 聖
作戦内容
職員の少ない夜勤に決行致します。
重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。
見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。
職員は絶体〔正しくは絶対〕に傷つけず、速やかに作戦を実行します。
2つの園260名を抹殺した後は自首します。
作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。
新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。
美容整形による一般社会への擬態。
金銭的支援5億円。
これらを確約して頂ければと考えております。
ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。
想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
植松聖 (住所、電話番号=略)
悪霊に憑依された人間はしばしば能弁です。弁舌さわやかと言ってよいほどで、いかにもロジカルな語り口ですが、全体としては支離滅裂で、身勝手きわまりないという特徴を示します(酒鬼薔薇事件の時もそうでした)。
この文章にもそれがよく表われているので、「常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります」「今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だ」などと、いかにも「世のため人のため」を思っているかのようです。彼は「日本国と世界平和の為」やむにやまれぬ思いから、かかる極悪非道の殺人を決行するのだと言うのです。
しかし、その同じ口で、「逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。新しい名前(伊黒崇)。本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。美容整形による一般社会への擬態。金銭的支援5億円」を平然と「要望」するのです。尤もらしい衣装をまとって「神」のふりをして見せるが、足はと見るとブーツをはき忘れたらしく、ヒヅメが丸出しで、衣装の下からは妙な尻尾がのぞいているのです。
こういうのが悪霊に憑依された人間の特徴です。妙に利口ぶって見せるが、本性は丸出しなのです。植松はあんまり知能は高くないと見えて、その論理も稚拙ですが、もう少し頭がよければ、悪霊はその「論理」をもっと緻密なものにできたでしょう。しかし、基本構図は変わらない。どうしようもなく感情的に浅薄で、利己的なところは絶対に出てしまうので、見る人が見ればはっきりそれとわかるのです。憑依を見分ける重要なポイントはこのあたりにあります。精神的に混乱した誠実な人も論理的な混乱を示しますが、そういうのとは全体のトーンが全く違う。植松のこの文には「苦悩」の影は全くありません。妙にペラペラと、能弁に語るのです。そして彼が事件前に周囲の人に対して示したように、「何かおかしいのではないか?」と言われるとただちに逆上する。悪霊にとりつかれたから独善的になったのか、元々独善的すぎるから悪霊にとりつかれたのか、たぶんその両方でしょうが、それもこの手の人間の特徴の一つなのです。
この種の事件を「常識」の線から「理解」しようとするのは基本的な間違いです。彼は父親と同じ小学校教師になり損ねて、失意のまま事件を起こした障害者施設に勤めた。そこで仕事の大変さに悩んでかかる妄想に取りつかれるようになったのだろう、などと。
仕事上、十分な意思疎通ができないことに苛立ったり、ときに死んでしまえと思うようなことがあったとしても、ふつうはこういう飛躍は起きません。その間には大きな断絶があるのです。同様に、高齢者人口がかつてないほど増大して、それで医療保険や年金支払いの負担が増えたのは老人が多くなりすぎたせいだと腹を立てる人がいたとしても、一方では誰が悪いわけでもないと思うし、ましてやだから高齢者を集団殺害しようなどとは考えないでしょう。僕の母親は次男(僕の弟)から、「大体、今の年寄りは長生きしすぎや」と言われたというので、「優しい息子や」と笑っていましたが、彼は三人の息子の中で一番善良で親思いなので、口で言っていることと実際の対応はまるで違うのです。父親譲りで口が悪いだけなので、ふつうはそういうものなのです。
植松はかなり前から大麻をはじめとする薬物に中毒していたという話ですが、その影響はあったのでしょうか。それはあったでしょう。それによって精神的荒廃が加速化したのです。大麻それ自体には殺人を誘発する要素はありません。それは意識下にあるものを表面化させるだけです。それが強烈なネガティブなものなら、バッド・トリップになる。飲酒でもそのあたりは同じですが、大麻であれ、アルコールであれ、それは意識のコントロール力を弱めるので、その繰り返しの摂取は意識的精神の支配力を弱め、ネガティブな感情を多く抱え込んだ人間の場合、精神的な荒廃を募らせ、悪霊による憑依の最良の培地を用意することになってしまうのです。
元々の彼の素質はどうだったのか。精神医学には「精神病質人格」という概念があります。これは実はかなり曖昧なものですが、子供の頃の植松は「明るい目立ちたがり屋」だったという。妙に愛想もよかったようです。この手のタイプには、しかし、非常な精神的脆さを感じさせる人が珍しくありません。何か大きな精神的挫折でも経験すると、どういうふうに転がってしまうかわからないなという危うさを感じさせる子供や若者がたまにいるのです。その「明るさ」には何か不自然なものがあって、それは内気で神経質で繊細だが、芯の強いところがある子供とは正反対の印象を与えるのです。ふつうは後者の子を周りの大人は心配し、前者については懸念がもたれることは少ないようですが。
家庭環境については現時点では詳しいことはわかっていません。犯行時、彼は凶行の現場となった施設からわずか五百メートルほどの実家に一人で住んでいた。父親は小学校の図画工作の教師(そんな職種があるのを僕は初めて知りましたが)で、元は母親と三人暮らしだったが、両親は東京の八王子に引っ越していたという。『女性セブン』2016年8月11日号のネット記事によれば、
「家族3人暮らしでしたが、4、5年前から親子げんかの声が頻繁に聞こえるようになりました。近所まで響くぐらいの。その直後にご両親は八王子市のほうに引っ越しされ、聖くんが1人、戸建ての自宅で暮らすようになりました」(近隣住民)
措置入院が解除された時、その条件の一つは「家族との同居」だったが、それは守られていなかった。彼の入退院については施設側は何も知らされていなかったというのも杜撰すぎますが、警察も市も事態を甘く見ていたのでしょう。いつもの「平和ボケ」パターンです。
ネットでは「すでに大学時代(これが帝京大だったことはすでに産経新聞の記事にも明記されていたから、大学側は頭を抱えているでしょう)から入れ墨を入れていた」というのが騒がれているようですが、それで公立小学校の教諭になろうというのがすでに矛盾したことで、型のごとくそれには失敗して、上記女性セブンの記事によれば、「夢を絶たれた植松容疑者は大学卒業後、大手飲料メーカー関連の配送会社に勤め始める。配送車を運転し、缶やペットボトルを自動販売機に補充する仕事をしていたが、『給料が安い』と半年で辞めた」とのこと。それからしばらくして事件の「やまゆり園」に勤務し始め、三年余りたった今年二月、「障害者は殺すべきだ」なんてことを口走って、「自主退職」となったのですが、すでに見たように、その頃はすでに(僕の解釈では)「悪霊による憑依」は完成していたのです。
今のいわゆる「マイルドヤンキー」の間では入れ墨がはやっているのでしょうか? 僕は大学生の頃、入れ墨を入れている人を個人的に複数知っていましたが、それは現役のヤクザか元ヤクザでした。その高校生の娘さんから、父親が入れ墨(それは極彩色の見事なものでしたが)を入れた頃、それが化膿するので、薬局でメンタムを大量に買ってきて、毎日それを背中に塗らされたという話を聞いて、「へえー、ああいうのも結構大変なんだね」と苦笑したことがあるのですが、昔はカタギが手を出すようなものではありませんでした。それはそれ自体、裏街道に生きるという宣言文みたいなものだったので、それでふつうに就職できるなんて考える方がどうかしているのです。
今はファッション化しているのかも知れませんが、いずれにせよそれで公立学校の教師は無理にきまっているので、その段階ですでに彼の精神は破綻をきたしていたのでしょう。ヤンキー仲間に加わって強がりたかったのかもしれませんが、弱い者いじめは腐れチンピラの特性なので、その方面でも彼に未来はなかったものと思われます。親がそういうのに気づかないとか、放置するというのも異常に思われますが、かたちだけの「仮面家族」はすでに早い段階からのことだったのかも知れません。精神の荒廃が進むにつれて彼の方が愛情を拒絶するようになったのか、親が経済的支援は与えても、子供が満足できる成果を見せないというので愛情を失ったのか、そのへんのことはわかりませんが、「愛なき孤立」の状態に落ち込んで、薬物乱用で正気を失ううち、元々精神的な脆さをもっていた彼は、悪霊に支配されることが多くなっていった。そう考えても、別に無理はないのです。
人はどのようにすれば悪霊に憑依されるのか、今回の事件はそのモデルケースの一つになるように思われますが、こういう見方は「悪霊の憑依による心神喪失」を犯人に主張させる(すでに彼は手紙で「心神喪失による無罪」を主張していました)だけになるのではないかと言われるかもしれません。
これについては「飲酒による酩酊状態によって生じた心神喪失」の主張が裁判でどう扱われてきたかが参考になる。飲酒による交通事故や暴行の場合、本人が「心神喪失」を主張しても、それが容れられることはない。どうしてかというと、飲酒すればどういう状態になるか、それを予見することはできるからです。いわゆる「予見可能性の法理」で、「こうすればこうなる」ということは予見できたにもかかわらずそうしたのだから、それを回避しなかった責任が当人にはあると認定されるのです。
憑依の場合も同じで、彼は時間をかけて、悪霊に憑依されるような内面の状態を自ら準備し、つくったのです。その意味で明白に責任能力はある。おそらく死刑判決が下されるでしょうが、ついた悪霊もろともあの世(もちろんあまたの悪霊が集まるあの場所です)に行くしか手立てはないでしょう。とりついた人から引き離され、豚の群れに乗り移る許可をイエスに求めた聖書に出てくる悪霊は、「われはレギオンなり」と名乗ります。レギオンとは「軍団」のことですが、彼らは団子みたいに多数の悪霊が群れ固まった状態で存在するのです。有難くないことに、これで団子のコブがまた一つ増えたことになる。
最後にあと二つ。彼は「障害者は抹殺すべし」というナチスばりの歪んだ優生学思想をもつにいたったようですが、日本には全く違った障害者理解があることを書き添えておきたいと思います。
何からそういう話になったのかは忘れましたが、僕は若い頃、母親からこういう話を聞かされたことがあります。彼女はこんなことを言いました。お金持ちの旧家などには障害をもつ子が生まれることが割とよくある。そういう場合その家族は、その子をこの上なく可愛がり、大切にする。それは、その子が一族のカルマ的な悪いものを皆に代わって引き受けてくれていると考えるからだ、というのです。自分たち一族の繁栄はこの子のおかげで維持されているのだと、そんなふうに解釈して感謝し、その子を慈しむというのです。
西洋哲学と心理学にかぶれていた僕は、なぜだか「なるほど」と思いました。それは「オカルト的」で科学的ではないが、非常に人間的で、好感のもてる理解と思われたのです。ついでに思い出したので書いておくと、やはり僕が若い頃の話ですが、母はあるとき、霊能力のあるマッサージ師から、一人の女性があなたのそばに見えるが心当たりはあるかときかれました。母はそれを聞いて驚きましたが、特徴を言われて、それが誰なのかはすぐにわかりました。何年か前に亡くなった障害をもつ一人の女性だったのです。僕もその人のことはよく憶えていました。小学生だった僕は言葉がよく聞き取れない、姿勢も歩き方もギクシャクしたその「ヘンな人」を少しこわがっていました。その人は通学途中などで会うと、いつも大げさな身振り(そうしないと声が出せなかったのだろうと後で思いましたが)でお母さんは元気かとききました。母はその人にいつも親切だったので、たいそう母を好いていたのです。母の方もその人の善良さを愛していたようでしたが、障害があってからだが弱かったので、気の毒に早くに亡くなったのです。にしても、「何で家族のところではなく自分のような者のところに…」と母にはいくらか不気味に思われましたが、マッサージ師はその霊は何ら害になるものではなく、あなたを守ろうとしているように見えると言いました。
そういうことが関係するかどうかは知りませんが、母は二度、あわやという目に遭ったことがあります。一度は山から薪を背負って帰るとき、計算するとそれは僕が九歳の頃(その女性はまだ存命だった)のことですが、バランスを崩して薪を背負ったまま、右側に倒れ、坂の急斜面を転げ落ちたのです。それは僕の目の前で起きました。おなかには下の弟が入っていました。驚いた僕は必死で道を駆けおりて、途中横に走った径があったので、どこまで落ちたかわからないものの、落ちたあたりを探そうと走ってゆくと、その幅一メートルほどの細い道の上に、薪を背負ったままの母がちょこんと正座しているのを見つけました。どうしたのかと聞くと、くるくる回転しながら落ちて、なぜだかこういう姿勢でここに止まったのだと言いました。怪我はなく、流産もしませんでした。上から二十メートルはありました。
もう一つは、それから数年後、今度は切り立った崖の上から岩だらけの斜面をやはり二十メートルほど下まで落ちました。当時は副業で養鶏をやっていて、途中まで父が車で上げた飼料(一袋二十キロ)を、一度に二つほど一輪車に載せて狭い径を運ぼうとして、やはりバランスを崩したのです。それも手伝っていた僕の目の前で起きました。一瞬、僕は母は死んでしまったと思いました。頭の方から転落したので、岩に打ちつけたらひとたまりもないからです。母によれば、落ちる途中はスローモーションのように感じたそうで、ボンボンとからだがはねるのを感じながら下を見て、「ああ、今度あの岩に当たったら死ぬな」と思いながら落ちていたそうですが、不思議と毎回その間をすり抜けたので、擦り傷だけで骨折もなしにすみました。僕は帰るたびにその崖を見下ろして(今は危険なので落下防止柵が設けられている)、こんなところを落ちて、母はどうして無事だったのだろうと不思議に思うのです。上のは斜面が草地だったからまだしも、こちらはほとんど奇蹟です。
人間は誰に、何に守られているかわからない。そのとき僕はこれは氏神様のおかげだろうと思いましたが、あるいはその障害をもつ女性のおかげだったかも知れない。僕らは人を目に見える能力、役に立つかどうかで価値の上下を無意識につけていますが、ほんとのところは植松が「無価値」と見た障害のある人たちの見えない大きな力がこの社会と人々を助けてくれているのかも知れないのです。それは神のみぞ知るで、現代人はそうした「目に見えない力」への畏怖を忘れている。狭い利己的な料簡で勝手な理屈をつけて、この人は役に立つとか立たないとか、幸福だとか不幸だとか、決めつけているのです。この世界というものはそんな単純なものではないということを忘れている。
宗教的な伝説の類では、神が貧しく無力な人や病人、ときにライ病者の姿をとって現われることがあります。それによって対応する人の人間性が試されるのです。そこには深い仔細があるのではないかと僕は思います。
犯人の植松聖は、「聖」という名前にもかかわらず、ただの一ぺんもそんなことは考えたことがなかったのでしょう。言葉の真の意味での「罰当たり」とは、そういう人間のことを言うのです。だからロクでもないものにとりつかれてしまう。
もう一つ、僕が言っておきたいと思うことは、社会や時代の雰囲気によって、悪霊がはびこりやすくなったり、善霊が力を発揮しやすくなったり、するのではないかということです。それは人間の側の心がけによってコントロールできる。ドブ川には清流に住む魚はいないのと同じで、外見だけいくら小ぎれいにしていても、悪霊を喜ばせるような醜悪な内面の持ち主ばかりになれば、この社会はドブ川に等しくなるのです。心にウジをわかせているような人が多いところに、よいものはやってこない。そうするとそこら中に目には見えない悪霊がはびこるようになって、それにとりつかれる人もまた増えるわけです(人間の「自由意志」なるものは多くが幻想で、何に操られているかわかったものではないと思ってたまに自分を省みるのは、精神的健康を保つ上ではたいそう有益です)。
その意味では、この社会全体にも責任がある。植松のような男はその「犠牲者」だということになるからです。僕がここに書いてきたことは全部「迷信」ですが、科学的世界観とやらもまた、別種の「迷信」かも知れないのです。問題は、どちらの「迷信」の方がマシか、価値があるかです。それはお読みになった人たちの自由なご判断にお任せします。
今のような「科学の時代」には表向きそんなものは存在しないことになっていますが、僕は自分の体験に照らして、それが存在することを確信しています。そしてそれに無警戒・無関心な世の中の人たちにかねて驚いているので、「そういう考えで、そういうことばかりしていたら、いずれおかしなものに乗っ取られますよ」と警告して、それが受け入れられるような社会環境ができるのが望ましいと考えています。
何を念頭にこういうことを書いているのかは、読者にはすでにおわかりでしょう。神戸の酒鬼薔薇事件や、オウム真理教事件のときにも、僕は背後に「この世のものではない」不吉なものの影を感じましたが、今回の神奈川県相模原市の障害者施設で起きた陰惨きわまりない無差別集団殺人事件にも同じ印象をもちました。自首した犯人の植松聖は入所者19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせたそうで、「平成以降最悪の殺人事件」だと報じられていましたが、こういうのはたんなる精神病の所産ではありません。愚かなこの男は何年もかけて自ら悪霊の棲家にふさわしい内面をつくり、準備してきたので、憑依はおそらく段階を追ってなされたのでしょうが、今年二月に例の「手紙」を衆院議長公邸に届けようとした(その後の報道によれば、同趣旨の手紙を首相宛にも出すつもりでいた)頃には、その憑依は「完成」していたのです。
そういう深刻な状態がわずか十二日間の「措置入院」などで「改善」するわけがない。例の手紙は議長公邸から警視庁に送られ、さらに神奈川県警にも行っていたようですが、警察は措置入院時に彼を診断した二人の精神科医にその手紙の写しを見せていなかったのでしょう。もしそうしていれば、別に憑依説など信じていない医者でも、よほど目が節穴でないかぎり、事態の深刻さは認識できたでしょう。「反省の言葉」を口にしたから信じましたなんて、ナイーブにもほどがある。「正直な悪霊」なんてものは存在しないので、嘘つきが彼らの本性なのです。
テレビのニュースなどでは一部の紹介だけだったので、以下にその手紙の全文(ハフィントンポストより引用)をご紹介しておきます。これは「読解力のテスト」です。
衆議院議長大島理森様
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
文責 植松 聖
作戦内容
職員の少ない夜勤に決行致します。
重複障害者が多く在籍している2つの園を標的とします。
見守り職員は結束バンドで見動き、外部との連絡をとれなくします。
職員は絶体〔正しくは絶対〕に傷つけず、速やかに作戦を実行します。
2つの園260名を抹殺した後は自首します。
作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。
逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。
新しい名前(伊黒崇)本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。
美容整形による一般社会への擬態。
金銭的支援5億円。
これらを確約して頂ければと考えております。
ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に、何卒(なにとぞ)よろしくお願い致します。
想像を絶する激務の中大変恐縮ではございますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。
植松聖 (住所、電話番号=略)
悪霊に憑依された人間はしばしば能弁です。弁舌さわやかと言ってよいほどで、いかにもロジカルな語り口ですが、全体としては支離滅裂で、身勝手きわまりないという特徴を示します(酒鬼薔薇事件の時もそうでした)。
この文章にもそれがよく表われているので、「常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります」「今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だ」などと、いかにも「世のため人のため」を思っているかのようです。彼は「日本国と世界平和の為」やむにやまれぬ思いから、かかる極悪非道の殺人を決行するのだと言うのです。
しかし、その同じ口で、「逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。心神喪失による無罪。新しい名前(伊黒崇)。本籍、運転免許証等の生活に必要な書類。美容整形による一般社会への擬態。金銭的支援5億円」を平然と「要望」するのです。尤もらしい衣装をまとって「神」のふりをして見せるが、足はと見るとブーツをはき忘れたらしく、ヒヅメが丸出しで、衣装の下からは妙な尻尾がのぞいているのです。
こういうのが悪霊に憑依された人間の特徴です。妙に利口ぶって見せるが、本性は丸出しなのです。植松はあんまり知能は高くないと見えて、その論理も稚拙ですが、もう少し頭がよければ、悪霊はその「論理」をもっと緻密なものにできたでしょう。しかし、基本構図は変わらない。どうしようもなく感情的に浅薄で、利己的なところは絶対に出てしまうので、見る人が見ればはっきりそれとわかるのです。憑依を見分ける重要なポイントはこのあたりにあります。精神的に混乱した誠実な人も論理的な混乱を示しますが、そういうのとは全体のトーンが全く違う。植松のこの文には「苦悩」の影は全くありません。妙にペラペラと、能弁に語るのです。そして彼が事件前に周囲の人に対して示したように、「何かおかしいのではないか?」と言われるとただちに逆上する。悪霊にとりつかれたから独善的になったのか、元々独善的すぎるから悪霊にとりつかれたのか、たぶんその両方でしょうが、それもこの手の人間の特徴の一つなのです。
この種の事件を「常識」の線から「理解」しようとするのは基本的な間違いです。彼は父親と同じ小学校教師になり損ねて、失意のまま事件を起こした障害者施設に勤めた。そこで仕事の大変さに悩んでかかる妄想に取りつかれるようになったのだろう、などと。
仕事上、十分な意思疎通ができないことに苛立ったり、ときに死んでしまえと思うようなことがあったとしても、ふつうはこういう飛躍は起きません。その間には大きな断絶があるのです。同様に、高齢者人口がかつてないほど増大して、それで医療保険や年金支払いの負担が増えたのは老人が多くなりすぎたせいだと腹を立てる人がいたとしても、一方では誰が悪いわけでもないと思うし、ましてやだから高齢者を集団殺害しようなどとは考えないでしょう。僕の母親は次男(僕の弟)から、「大体、今の年寄りは長生きしすぎや」と言われたというので、「優しい息子や」と笑っていましたが、彼は三人の息子の中で一番善良で親思いなので、口で言っていることと実際の対応はまるで違うのです。父親譲りで口が悪いだけなので、ふつうはそういうものなのです。
植松はかなり前から大麻をはじめとする薬物に中毒していたという話ですが、その影響はあったのでしょうか。それはあったでしょう。それによって精神的荒廃が加速化したのです。大麻それ自体には殺人を誘発する要素はありません。それは意識下にあるものを表面化させるだけです。それが強烈なネガティブなものなら、バッド・トリップになる。飲酒でもそのあたりは同じですが、大麻であれ、アルコールであれ、それは意識のコントロール力を弱めるので、その繰り返しの摂取は意識的精神の支配力を弱め、ネガティブな感情を多く抱え込んだ人間の場合、精神的な荒廃を募らせ、悪霊による憑依の最良の培地を用意することになってしまうのです。
元々の彼の素質はどうだったのか。精神医学には「精神病質人格」という概念があります。これは実はかなり曖昧なものですが、子供の頃の植松は「明るい目立ちたがり屋」だったという。妙に愛想もよかったようです。この手のタイプには、しかし、非常な精神的脆さを感じさせる人が珍しくありません。何か大きな精神的挫折でも経験すると、どういうふうに転がってしまうかわからないなという危うさを感じさせる子供や若者がたまにいるのです。その「明るさ」には何か不自然なものがあって、それは内気で神経質で繊細だが、芯の強いところがある子供とは正反対の印象を与えるのです。ふつうは後者の子を周りの大人は心配し、前者については懸念がもたれることは少ないようですが。
家庭環境については現時点では詳しいことはわかっていません。犯行時、彼は凶行の現場となった施設からわずか五百メートルほどの実家に一人で住んでいた。父親は小学校の図画工作の教師(そんな職種があるのを僕は初めて知りましたが)で、元は母親と三人暮らしだったが、両親は東京の八王子に引っ越していたという。『女性セブン』2016年8月11日号のネット記事によれば、
「家族3人暮らしでしたが、4、5年前から親子げんかの声が頻繁に聞こえるようになりました。近所まで響くぐらいの。その直後にご両親は八王子市のほうに引っ越しされ、聖くんが1人、戸建ての自宅で暮らすようになりました」(近隣住民)
措置入院が解除された時、その条件の一つは「家族との同居」だったが、それは守られていなかった。彼の入退院については施設側は何も知らされていなかったというのも杜撰すぎますが、警察も市も事態を甘く見ていたのでしょう。いつもの「平和ボケ」パターンです。
ネットでは「すでに大学時代(これが帝京大だったことはすでに産経新聞の記事にも明記されていたから、大学側は頭を抱えているでしょう)から入れ墨を入れていた」というのが騒がれているようですが、それで公立小学校の教諭になろうというのがすでに矛盾したことで、型のごとくそれには失敗して、上記女性セブンの記事によれば、「夢を絶たれた植松容疑者は大学卒業後、大手飲料メーカー関連の配送会社に勤め始める。配送車を運転し、缶やペットボトルを自動販売機に補充する仕事をしていたが、『給料が安い』と半年で辞めた」とのこと。それからしばらくして事件の「やまゆり園」に勤務し始め、三年余りたった今年二月、「障害者は殺すべきだ」なんてことを口走って、「自主退職」となったのですが、すでに見たように、その頃はすでに(僕の解釈では)「悪霊による憑依」は完成していたのです。
今のいわゆる「マイルドヤンキー」の間では入れ墨がはやっているのでしょうか? 僕は大学生の頃、入れ墨を入れている人を個人的に複数知っていましたが、それは現役のヤクザか元ヤクザでした。その高校生の娘さんから、父親が入れ墨(それは極彩色の見事なものでしたが)を入れた頃、それが化膿するので、薬局でメンタムを大量に買ってきて、毎日それを背中に塗らされたという話を聞いて、「へえー、ああいうのも結構大変なんだね」と苦笑したことがあるのですが、昔はカタギが手を出すようなものではありませんでした。それはそれ自体、裏街道に生きるという宣言文みたいなものだったので、それでふつうに就職できるなんて考える方がどうかしているのです。
今はファッション化しているのかも知れませんが、いずれにせよそれで公立学校の教師は無理にきまっているので、その段階ですでに彼の精神は破綻をきたしていたのでしょう。ヤンキー仲間に加わって強がりたかったのかもしれませんが、弱い者いじめは腐れチンピラの特性なので、その方面でも彼に未来はなかったものと思われます。親がそういうのに気づかないとか、放置するというのも異常に思われますが、かたちだけの「仮面家族」はすでに早い段階からのことだったのかも知れません。精神の荒廃が進むにつれて彼の方が愛情を拒絶するようになったのか、親が経済的支援は与えても、子供が満足できる成果を見せないというので愛情を失ったのか、そのへんのことはわかりませんが、「愛なき孤立」の状態に落ち込んで、薬物乱用で正気を失ううち、元々精神的な脆さをもっていた彼は、悪霊に支配されることが多くなっていった。そう考えても、別に無理はないのです。
人はどのようにすれば悪霊に憑依されるのか、今回の事件はそのモデルケースの一つになるように思われますが、こういう見方は「悪霊の憑依による心神喪失」を犯人に主張させる(すでに彼は手紙で「心神喪失による無罪」を主張していました)だけになるのではないかと言われるかもしれません。
これについては「飲酒による酩酊状態によって生じた心神喪失」の主張が裁判でどう扱われてきたかが参考になる。飲酒による交通事故や暴行の場合、本人が「心神喪失」を主張しても、それが容れられることはない。どうしてかというと、飲酒すればどういう状態になるか、それを予見することはできるからです。いわゆる「予見可能性の法理」で、「こうすればこうなる」ということは予見できたにもかかわらずそうしたのだから、それを回避しなかった責任が当人にはあると認定されるのです。
憑依の場合も同じで、彼は時間をかけて、悪霊に憑依されるような内面の状態を自ら準備し、つくったのです。その意味で明白に責任能力はある。おそらく死刑判決が下されるでしょうが、ついた悪霊もろともあの世(もちろんあまたの悪霊が集まるあの場所です)に行くしか手立てはないでしょう。とりついた人から引き離され、豚の群れに乗り移る許可をイエスに求めた聖書に出てくる悪霊は、「われはレギオンなり」と名乗ります。レギオンとは「軍団」のことですが、彼らは団子みたいに多数の悪霊が群れ固まった状態で存在するのです。有難くないことに、これで団子のコブがまた一つ増えたことになる。
最後にあと二つ。彼は「障害者は抹殺すべし」というナチスばりの歪んだ優生学思想をもつにいたったようですが、日本には全く違った障害者理解があることを書き添えておきたいと思います。
何からそういう話になったのかは忘れましたが、僕は若い頃、母親からこういう話を聞かされたことがあります。彼女はこんなことを言いました。お金持ちの旧家などには障害をもつ子が生まれることが割とよくある。そういう場合その家族は、その子をこの上なく可愛がり、大切にする。それは、その子が一族のカルマ的な悪いものを皆に代わって引き受けてくれていると考えるからだ、というのです。自分たち一族の繁栄はこの子のおかげで維持されているのだと、そんなふうに解釈して感謝し、その子を慈しむというのです。
西洋哲学と心理学にかぶれていた僕は、なぜだか「なるほど」と思いました。それは「オカルト的」で科学的ではないが、非常に人間的で、好感のもてる理解と思われたのです。ついでに思い出したので書いておくと、やはり僕が若い頃の話ですが、母はあるとき、霊能力のあるマッサージ師から、一人の女性があなたのそばに見えるが心当たりはあるかときかれました。母はそれを聞いて驚きましたが、特徴を言われて、それが誰なのかはすぐにわかりました。何年か前に亡くなった障害をもつ一人の女性だったのです。僕もその人のことはよく憶えていました。小学生だった僕は言葉がよく聞き取れない、姿勢も歩き方もギクシャクしたその「ヘンな人」を少しこわがっていました。その人は通学途中などで会うと、いつも大げさな身振り(そうしないと声が出せなかったのだろうと後で思いましたが)でお母さんは元気かとききました。母はその人にいつも親切だったので、たいそう母を好いていたのです。母の方もその人の善良さを愛していたようでしたが、障害があってからだが弱かったので、気の毒に早くに亡くなったのです。にしても、「何で家族のところではなく自分のような者のところに…」と母にはいくらか不気味に思われましたが、マッサージ師はその霊は何ら害になるものではなく、あなたを守ろうとしているように見えると言いました。
そういうことが関係するかどうかは知りませんが、母は二度、あわやという目に遭ったことがあります。一度は山から薪を背負って帰るとき、計算するとそれは僕が九歳の頃(その女性はまだ存命だった)のことですが、バランスを崩して薪を背負ったまま、右側に倒れ、坂の急斜面を転げ落ちたのです。それは僕の目の前で起きました。おなかには下の弟が入っていました。驚いた僕は必死で道を駆けおりて、途中横に走った径があったので、どこまで落ちたかわからないものの、落ちたあたりを探そうと走ってゆくと、その幅一メートルほどの細い道の上に、薪を背負ったままの母がちょこんと正座しているのを見つけました。どうしたのかと聞くと、くるくる回転しながら落ちて、なぜだかこういう姿勢でここに止まったのだと言いました。怪我はなく、流産もしませんでした。上から二十メートルはありました。
もう一つは、それから数年後、今度は切り立った崖の上から岩だらけの斜面をやはり二十メートルほど下まで落ちました。当時は副業で養鶏をやっていて、途中まで父が車で上げた飼料(一袋二十キロ)を、一度に二つほど一輪車に載せて狭い径を運ぼうとして、やはりバランスを崩したのです。それも手伝っていた僕の目の前で起きました。一瞬、僕は母は死んでしまったと思いました。頭の方から転落したので、岩に打ちつけたらひとたまりもないからです。母によれば、落ちる途中はスローモーションのように感じたそうで、ボンボンとからだがはねるのを感じながら下を見て、「ああ、今度あの岩に当たったら死ぬな」と思いながら落ちていたそうですが、不思議と毎回その間をすり抜けたので、擦り傷だけで骨折もなしにすみました。僕は帰るたびにその崖を見下ろして(今は危険なので落下防止柵が設けられている)、こんなところを落ちて、母はどうして無事だったのだろうと不思議に思うのです。上のは斜面が草地だったからまだしも、こちらはほとんど奇蹟です。
人間は誰に、何に守られているかわからない。そのとき僕はこれは氏神様のおかげだろうと思いましたが、あるいはその障害をもつ女性のおかげだったかも知れない。僕らは人を目に見える能力、役に立つかどうかで価値の上下を無意識につけていますが、ほんとのところは植松が「無価値」と見た障害のある人たちの見えない大きな力がこの社会と人々を助けてくれているのかも知れないのです。それは神のみぞ知るで、現代人はそうした「目に見えない力」への畏怖を忘れている。狭い利己的な料簡で勝手な理屈をつけて、この人は役に立つとか立たないとか、幸福だとか不幸だとか、決めつけているのです。この世界というものはそんな単純なものではないということを忘れている。
宗教的な伝説の類では、神が貧しく無力な人や病人、ときにライ病者の姿をとって現われることがあります。それによって対応する人の人間性が試されるのです。そこには深い仔細があるのではないかと僕は思います。
犯人の植松聖は、「聖」という名前にもかかわらず、ただの一ぺんもそんなことは考えたことがなかったのでしょう。言葉の真の意味での「罰当たり」とは、そういう人間のことを言うのです。だからロクでもないものにとりつかれてしまう。
もう一つ、僕が言っておきたいと思うことは、社会や時代の雰囲気によって、悪霊がはびこりやすくなったり、善霊が力を発揮しやすくなったり、するのではないかということです。それは人間の側の心がけによってコントロールできる。ドブ川には清流に住む魚はいないのと同じで、外見だけいくら小ぎれいにしていても、悪霊を喜ばせるような醜悪な内面の持ち主ばかりになれば、この社会はドブ川に等しくなるのです。心にウジをわかせているような人が多いところに、よいものはやってこない。そうするとそこら中に目には見えない悪霊がはびこるようになって、それにとりつかれる人もまた増えるわけです(人間の「自由意志」なるものは多くが幻想で、何に操られているかわかったものではないと思ってたまに自分を省みるのは、精神的健康を保つ上ではたいそう有益です)。
その意味では、この社会全体にも責任がある。植松のような男はその「犠牲者」だということになるからです。僕がここに書いてきたことは全部「迷信」ですが、科学的世界観とやらもまた、別種の「迷信」かも知れないのです。問題は、どちらの「迷信」の方がマシか、価値があるかです。それはお読みになった人たちの自由なご判断にお任せします。
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