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『偉大なる異端』発刊のおしらせ

2016.06.13.11:38

 アーサー・ガーダム著『偉大なる異端』(ナチュラルスピリット社刊、税込2484円)がついに発売になります。アマゾン(下記をクリックしてご覧ください)には6/23発売と出ていて(僕のところにも本はまだ届いていません。社への搬入が16日だとのこと)、「予約受付中」となっていますので、皆さん、買ってください!ということで、今回は宣伝もかねて、この本にまつわるパーソナルな話をさせていただきます。

偉大なる異端―カタリ派と明かされた真実

 続いて社のホームページにも出たようなので、こちらも付けておきます(6/15)。こちらは帯も入っています。

ナチュラルスピリット 書籍案内

 この表紙の写真は、「カタリ派のシンボル」と呼べるモンセギュール城址を遠望したものです。何かあれをデザインしたものでも…とだけ希望を伝えて、社に一任したのですが、カタリ派に似つかわしいシンプルできりっとしたデザインで、訳者としても大満足です(このサブタイトルは会社でつけたものです。元は「カタリ派の歴史と信仰、その秘密教義」としていたのですが、学術書っぽすぎて読者を遠ざけかねないという配慮から、また後半はカタリ派思想に限定されないものだということで、こうなったようです)。

 僕がこの本の初稿を完成させたのは、実に今からもう十一年も前のことです。塾と他の翻訳の仕事の合間を縫って少しずつ作業を進めて、一通りの訳が終わったのが十一年前ということで、当時五十歳だった僕は六十一歳になってしまいました。それはパソコンではなく、ワープロを使って行ったもので、フロッピーに収めたそれはWindowsに移し替えられるはずだったのですが、後者の改定に対応できなくなったらしく、気づいたらそのフロッピーは役立たずになっていました。

 仕方がない、ということで、紙の原稿を元に全部パソコンに打ち込み直し、その際訳文を原文と照らし合わせながら全体にわたって修正したのですが、その後も折に触れ何度も手を入れたので、もうこれで直す必要はほとんどないだろうと、昨年の二月末にナチュラルスピリットの今井博央希社長に出版を打診した際には思っていました。

 ところがどっこい、今井社長がそれを読んですぐに快諾のメールをくださったのはラッキーだったのですが、それから版権取得に数か月かかり、担当編集者が決まって、一筋縄ではいかない本なのでこんなものを担当させられた編集者(笠井理恵さん)にはお気の毒だったのですが、時間をかけて実にていねいに原稿を読んだ上で、読者目線で「質問」のかたちで疑問点や難解な部分について、あれこれ原稿に書き込んでくれたのですが、それがきっかけでいじり出すと、「待てよ、ここも…」というわけで、元々僕は悪名高い「直し魔」なので、大改訂になってしまいました。終盤にはこの作業に今井社長自ら“参戦”して、結局は三人がかりで原稿の粗探しに熱中(?)することになったのです。

 人間のやることだから、こういう作業に完璧は期し難いのですが、おかげで僕としては納得のいく仕事ができ、よい出版社と誠実な編集者に巡り合った幸運を喜んだのですが、読者にもそのあたりは安心して読んでいただけると思います。

 この訳書には原著の「改訂版」みたいな性質もあります。原書の誤植や原著者の勘違いとしか思えない箇所が所々あって、そういうところには気づくかぎり訳註のかたちで訂正を施したからです(一ヵ所だけ、断りなく変えた――つまりあえて「誤訳」した――ところがありますが、それはごくマイナーなところです)。僕は「直訳主義者」ではなく、またこういう本は直訳などしたら恐ろしいことになってしまうので、必要に応じて意訳はしていますが、恣意的な“超訳”の類はしていないので、原文には可能なかぎり忠実です。

 編集者とのやり取りの中で読者の便宜のために註を増やす結果になったので、逆にそれが多くて煩わしいと感じる読者がいるかも知れませんが、そういう人はそこを飛ばして読んで下さればよい。また、巻末の語句索引も、原著のそれはあまり信頼の置けないものだったので、「使える索引」になるように、この訳書では本文との対応に気を配っています(相当に手間のかかる作業でしたが)。読者にはその方が親切だと思ったので、編集部に頼んで原書にはない関連地図も付けてもらいました。

 それにしても、どうして本にするまでにそんなに時間がかかったのか? その理由は訳者あとがきでも少し触れていますが、この本の性質そのものにあります。著者のガーダムはこの本で、「恐怖の国際神権政治」と化していた当時のローマ・カトリックの大弾圧(そのひどさがどんなレベルのものだったかは、この本をお読みになればわかります)を受けて滅んだ、中世のキリスト教異端カタリ派の真実を伝えようとしているのですが、ある個所はオーソドックスな歴史書の記述(しかし、非常にテンポのいい、読ませる描写です)であり、ある個所はその信仰や哲学、教義の細かい説明、ふつうならそういうものだけで完結しますが、著者はこれに「カタリ派の霊から直接伝えられた秘密の教え」なるものを付け加え、第二部は「霊界通信」みたいになっているのです(そこでは壮大な宇宙創成論から、動物が人間に生まれ変わってくることもあるという話を含む輪廻についての議論、オーラや、正統医学の領域には入らないヒーリングの説明、鉱物・植物が病気治療に果たす役割、悪のメカニズム、錬金術の意味など、実に色々なトピックスが扱われている)。

 著者の記述はいずれも表面的なものではなく、読み応えのあるものなのですが、両者を一緒にして、一冊の本にしてしまったところがまずい。どちらか一方だけにしてくれれば、出版社にも話をもって行きやすいのですが、こういうふうにやられると、ほんとに悩んでしまうのです。通常の研究書として扱ってもらうには、第二部の「霊界通信」が障害になる(実際、五、六年前、ある大手学術系出版社に打診した際は、真面目に検討してくれたようですが、「でも、これはスピリチュアリズムですよね…」といって、結局は断られてしまいました)。オカルト読者向けには、学術書的な前半がよけいだと言われかねない。

 著者はイギリスの名門オックスフォード大を出た精神科医であり、医学博士なのですが、生まれ変わりだのオカルトだのに首を突っ込むと、「まとも」とみなされなくなるのは、西洋でも日本でも変わりません。著者の自伝『二つの世界を生きて』を訳したのが、僕が翻訳の世界に関わるきっかけになったのですが、あの本にしてからが「ふつう」ではありません。あれはガーダムの文学的な素質が一番よく表われたもので、高校時代は詩人志望だったものの、その後長く文学から遠ざかっていた僕は眠っていた細胞が再び活性化されるようで、風景や人物の簡潔で活き活きとした描写など、訳すのが楽しかったのですが、文学、哲学、宗教、医学、オカルト、全部一緒くたになっています。登場するのも心霊能力者だらけ(患者だけでなく、病院の婦長も実はサイキック[=霊能者]だったりする)ですが、それでもこの本のような大々的な「霊界通信」までは入っていない(尚、こう書くと古本が高騰するかもしれませんが、あの自伝は初版がなくなり次第、絶版になる見通しです。今はどうか知りませんが、あそこには編集者、校正者が事実上存在しなかったので、ワープロの漢字の誤変換がいくつもそのまま残っているし、翻訳初心者が単独でやったものなので、今から見ると一部恥ずかしい誤訳もあるし、直しておきたいところが少なくないので、そこらへん機会があれば徹底した修正を加えておきたいのですが、仮にその機会があるとすれば、それは別の出版社から出す時で、コスモスライブラリーからではないでしょう)。

 ガーダムという人は元々潜在的な心霊能力者でした。それは自伝の子供時代の記述からもはっきりわかるのですが、彼は長くそれを抑圧していたのです。ところが精神科医となり、やはり潜在的な心霊能力者といえる子供や患者たちに遭遇してゆくうちに、その抑圧が徐々に外されてゆく。「抵抗空しく」そうなったという感じで、近代の合理主義思想、懐疑主義を十分すぎるほど身につけていた彼が本来の自己の素質を受容するようになって、そこから両者が一緒になった他に類を見ない著作群が晩年にかけて生み出されることになったのです。それは彼が「生のwholeness(全体性)」を回復する過程だったのだと言えますが、それは同時に近代的な思想の枠組み、既存の哲学や心理学からも外れることを意味していたのです。

 話を戻して、だからこそ「この本を出すのは大変だな」と、出版社探しそれ自体に気乗りがせず、長く放置することになってしまったのです(出すなら信用の置けるところから出したいという思いもあったので、なおさらです)。僕はこの本の価値については疑いをもっていませんでした。これを訳しておくのは自分のミッションみたいなものだと思っていたので、出ようが出まいがちゃんとした訳だけは作っておきたいと考えたのです。

 ふつう翻訳というものは出せる見込みがあってするもので、こういうのは奇異なことだと、読者には思われるでしょう。しかし、僕がガーダムの本を訳すのはこれで二度目なのですが、最初、彼の自伝を訳した時も、全く出版のアテなどはなかったので、著者についての情報を得ようと、原著の出版社と何度か手紙のやりとり(パソコンをもっていなかったので、郵便のエア・メイルを使った)をした際、先方は途中でそのことを知って呆れたようでした(たいへん親切な対応をしてくれたのですが)。翻訳が容易な性質の本ではないのに、出版の目途も何もなくそんな面倒なことをするとは、頭が少しおかしいのではないかと思われたのではないかと思います。出版できなければ、その骨折りは無駄になるからです。

 しかし、翻訳にかぎらず、「どうしてもやっておきたい」と思うことに遭遇すれば、事情が許すかぎり、今後も僕は同じことをするでしょう。世の中には「成功本」の類があふれています。それほど成功するかどうかは人々の大きな関心事なのです。けれども、そうした結果を気にしすぎる態度が優先すれば、本当にしたいこと、思い切ったことはなかなかできなくなるでしょう。そうすると、悔いが残ることになる。

 結果を気にするよりは、そのやろうとすることをきちんと誠実にやり遂げることに集中した方がいい。僕はそう思っています。そうしてちゃんとしたものを残しておけば、仮に生前には日の目を見なくても、後で誰か「具眼の士」がそれを発見して、世に出してくれるかもしれず、それを読んで生きる上での助けになったと、数は多くなくても思ってくれる人がいるでしょう。

『ハリー・ポッター』のような大部数が見込める本とは違って、元々この種の本の翻訳は経済的には引き合わないものです。僕は先日、この本の翻訳にかけた膨大な時間とエネルギー(こんなに手間ひまかけた本は他にありません)を思い、初版の印税をその時間で割ったら時給はどれくらいになるだろうかと考えてみました。そして、どんな発展途上国の下層労働者の賃金よりも安いのではないかと思って、ひとり苦笑したのですが、そういうものなのです。出してくれたナチュラルスピリットさん(スピリチュアル系の出版社ならお願いするのはここと、僕は勝手に決めていました)には損をさせたくないので、最低でも重刷にこぎつける程度には売れてもらいたいのですが、何万部と売れることはおそらくないでしょう。オカルトが入っているからだけではなく、内容的に相当目方のあるものなので、誰にでも気軽に読めるという本ではないからです。

 それでも出せたことはめでたい。社の親切な対応のおかげで、詰めがしっかりできたことも僕には嬉しいことなので、買ってくれる人たちには力の及ぶかぎりよいものが提供できたと、訳者としては満足しているのです。

 先頃、70年代に佑学社から出ていた訳本まで全部読んでいるガーダム読者の方から、このブログ経由のメールで、かつて『妄想とノイローゼ』の訳題で出ていたObsession(『強迫観念』)のちゃんとした訳(じっさいあれは訳の日本語文がぎこちないだけでなく、誤訳も多すぎる)と、未訳の『湖と城』(十四人の人たちの、計五度の転生が扱われている)、『医学におけるプシュケ』を訳すよう励ましを頂戴したのですが、今のわが国の出版事情では、かなり難しそうです。仮にこの本が好調な売れ行きを示せば、最後のものは著作のスタイルからしてそのままでは無理と判断して、僕は途中で訳出作業を打ち切ったのですが、他の二つはその可能性なきにしもあらずだと思います。僕自身は楽観的な見通しはもっていないのですが、どういう展開になるかわからないのが人生というものなので、あるいは出せる機会があるかもしれません。そこらへんはそれこそ、「神の思し召し」次第です。

 ともあれ、こうして『偉大なる異端』は僕の死後ではなく、生前に日の目を見ることになったので、それで一番安心したのは、遺言に「子の神聖な義務として、おまえが出版先を見つけろ」と書かれて、仕方なくそのために奔走しなければならなくなる恐れがあった息子と、わが子に父親からの「負の遺産」が残されるのを警戒していた母親かも知れません。安心するのはまだ早いので、僕はこれからまた新たな「心配の種(途方もなく出すのが難しい訳本など)」を作って残すかもしれないのですが。

 冗談はさておき、この本は読者の関心のありどころによって色々な読み方ができる本だと考えられる(別にカタリ派に興味はなくとも)ので、「本物志向」の読者はとくに、お読みになって内容の空疎さに幻滅させられるというようなことはないだろうと思います(今井社長も、だからこそ引き受けて下さったのだと思います)。ぜひお買い求めください。
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