久しぶりにLITERAのサイトを見たら、次の記事がアクセスランキングのトップに来ていました。
・東国原「文春のハニートラップ」は嘘
一読ふきだしてしまうほど、これはよく書けているのでお勧めですが、東国原は「文春は政治家など有名人をハニートラップで陥れて記事にすることがある。自分もその被害者の一人」なんて尤もらしいことを言っていたようです。ビートたけしの子分だったお笑い芸人が政治家を志して宮崎県知事選に出て当選し、一躍世の注目を集め、経済の「東国原効果」なんてことまで言われるようになって、すっかりいい気になり、「宮崎県をどげんかする」という話はどこへやら、欲をかいて途中で投げ出して国政進出を決め、自民から立候補を打診されたときなどは、「私を総理にする気はあるのか?」なんてのぼせたことを言い、皆の口をあんぐりさせたものです。その後の彼の無節操を極めた相次ぐ迷走ぶりについてはあらためて書くまでもありませんが、知事在任中、この不細工な馬づらの色魔は手あたり次第女性に言い寄っていたらしく、その色情狂ぶりを週刊文春に書かれて、「そこまでひどいのか…」と話題になったのです。
それで往時を回想して、「自分も文春にはひどい目に遭った」と言ったようですが、ひどい目に遭ったのはこんな無責任な馬鹿を知事に当選させて赤恥をかかされた宮崎県民だったので、僕自身は初めから信用していなかったので彼には投票しませんでしたが、宮崎謙介「ゲス不倫」事件をきっかけに、「私のあれは文春にはめられただけなのだ!」と、人々の記憶が薄れたのをいいことに、自らの「ゲス色魔」ぶりを正当化しようとしたわけです。
しかし、宮崎謙介も東国原も、ハニートラップがどうのこうのと言えるような大物ではそもそもなくて、「ただのチャラいヘンタイ」にすぎないのは歴然としているのです。
それにしても、ちかごろの政治家センセイたちのこの「存在の耐えられない軽さ」は一体どうしたものなのでしょう。東国原はお笑い芸人の愛嬌で、宮崎議員は「ボクって、長身でスタイルは抜群だし、顔もイケメンでしょ?」といったナルシシズムがちと目立ちすぎるとはいえ、そのルックスで女性票をたくさん集めたのかも知れません。新人議員というのはとくに、選挙は人気投票です。彼は自民の公募議員の一人だったそうで、同じ公募議員に、この前除名された武藤貴也というしょーもないのがいましたが、この二人にはナルシシスト特有の何とも言えない「気持ち悪さ」があって、いくら「さわやかな好青年」を偽装していても、面接段階でその程度のことは見抜けるはずだと思うのですが、どうしてそれがわからないのかなと思います。きょうびの政治家はどれも自己愛の強さではひけをとらないようなので、自分もそうだからそのあたり盲点になっているのでしょうか? それとも、彼らは学歴と口先だけは一人前だったので、「これなら選挙民は騙せる」と判断したのでしょうか? どうせ下っ端議員は数合わせ要員にすぎないからです。下手に能力のありそうなのをえらぶと、ゆくゆくは自分の地位が脅かされる。そんな打算も候補者選びには働くのかもしれません。
だから今後は有権者も、人相術を体得して「人を見る目」を養わなくてはならないでしょう。昔の人は、庶民でも、そのあたり洞察力にすぐれた人がたくさんいました。尋常小学校卒の学歴しかもたない僕の父は、「人間は顔を見ただけで、ある程度のことはわかる。それがわからないのはただの馬鹿だ」と言っていましたが、その鑑識眼はかなり恐るべきもので、僕は父に嘘をついて騙せると思ったことは一度もありませんでした。高学歴化によってガラクタ知識は多く仕込んだが、かんじんの知恵や洞察力は衰退したのです。
念のために付け加えておけば、僕は政治家たる者、模範家庭の鑑たるべく、下半身の欲求は抑圧すべし、と言っているのではありません。愛人づくりでも、不倫でも、勝手にしてくれればいいが、そういうことにはトラブルや責任がつきまとうので、それが処理できないようなら、つまらないことに手を出すなということと、議員歳費に見合った本業の政治家としての仕事をちゃんとやれということです。今回の宮崎某なんか、何しに国会議員をやっていたのかわからないので、「深く、深く、深く反省」しているなんて大げさなことを言うくらいなら、これまでの議員歳費全額を国庫に返納すべきでしょう。何の役にも立っていないのだから(むしろイクメン偽装で、その方面の運動にダメージを与えた)。
昔も「性豪」として名をはせた有名政治家はいました。その代表は三木武吉で、僕は学生時代、大宅壮一の『昭和怪物伝』に出ている話を読んで笑ったのですが、この人(三木武夫とは別人)はその巧みな権謀術数によって「寝業師」と恐れられたそうですが、相手の批判を逆手にとってやり返す名人で、そこには今の政治家たちにはない乾いたユーモアがありました。
四十年も昔のことで、その本は今はもっていないのですが、そのエピソードのいくつかは、ウィキペディアの「三木武吉」の項に紹介されています。今読んでも笑えるので、そこから引用させてもらうと、
初当選した1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙の演説会において、立憲政友会の候補、坪谷善四郎が「名前は言わないが、某候補は家賃を2年分も払っていない。米屋にも、1年以上ためている。このような男が、国家の選良として、議政壇上で、国政を議することができるでありましょうか。この一事をもってしても某候補のごときは、いさぎよく立候補を辞退すべきものと、私は信ずるのであります」と三木を批判した。すると三木は次の演説会場で、「某候補がしきりと、借金のあるものが立候補しているのはけしからんと、攻撃しているそうだが、その借金がある某候補とは、かく言う不肖この三木武吉であります。三木は貧乏ですから、借金があります。米屋といわれたが、それは山吹町の山下米屋であります。1年以上借金をためているといわれたがそれは間違いで、じつは2年以上もたまっております。家賃もためているのは2年以上ではない。正確にいいますれば、3年以上も支払いを待ってもらっておるわけです。間違いはここに正しておきます」と反論し、会場は拍手と爆笑に包まれ、「えらいぞ、借金王」と野次が飛んだ。その会場には、三木の大家や借金先の山下米店の主人山下辰次郎も来ており、その後、三木に促されて両者とも立ち上がった。その時山下が「私は米屋の山下です。どうか皆さん、三木先生をご支援願います」と述べ、すっかり参った坪谷はそれ以来三木の借金の話をしなくなった。
戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。
「およそ大政治家たらんものはだ、いっぺんに数人の女をだ、喧嘩もさせず嫉妬もさせずにだ、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と、男っぷり溢れる発言をしたり、松竹梅といわれた3人の妾 (ちなみにこれは、愛人のランクではなく、実際に名前が松子、竹子、梅子だった) を囲ったりした。松子には神楽坂で待合茶屋を持たせた。晩年も精力に衰えはなく、72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。しかしその一方で愛妻家でもあり「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになった…というだけだ」と述べている。妾たちもかね子を別扱いにして、世話をしていた。
昔、僕が読んだ記憶では、愛人の件で、「妾は実は四人ではなくて五人だが、いずれも若気の至りで仲良くなったもので、今も面倒を見ておりますが、そのまま養い続けた方がいいか、それともそうするのをやめて彼女たちを路頭に迷わせる方がいいか、先生のご高説を拝聴したい」と切り返した、というような話になっていたように思います。戦後の食糧難の時代には、妾も全員自宅に住まわせ、自ら食糧調達に奔走して養っていたという話ですが、妻と数人の愛人たちは一つ屋根の下で皆仲良く暮らしていたというので、僕にはそれが可笑しかったのです。生半可な「人間力」では、そんなことはできないでしょう。政治家としてやり手であるだけではなく、人間的な深い誠実さがあったからこそ、できたことなのではないかと思います。そこらへん、今どきの軽佻浮薄なプレイボーイとは違っていたのです。
むろん、こういうのは大学でジェンダー論なんか教えている社会学の先生たちには不評でしょう。そこには「封建的な男尊女卑の考え」が伏在していると見られるからです。
けれども、その方面の議論はさておき、人間として、こういう人はエラいなと、僕は思います。ちゃんとひとりひとりを人として尊重しているのでなければ、わざわざそんな面倒なことはしないはずだからです。また、相手の女性たちも、彼の愛情が信じられたからこそ、ついてきたのでしょう。こういうのは真似てできることではないので、人間のスケールが大きかったのです。
三木武吉は政治家としての能力において東国原や宮崎某とは比較になりませんが、人間としての誠実さでも彼らとは月とスッポンなのです。たぶん、ご両人にあるのは「巨乳愛」ぐらいなもので、そこには言葉の真の意味での愛情も、責任感もないのです。だいたい、いい女にはすぐに見切りをつけられてしまう。そうだったでしょう、今までも?
ケーハクな東国原あたりだと、こういう話を聞くと、「それではワシも三木武吉みたいに…」とすぐ思いそうですが、元々の器量というものが違うのだから、真似しようとしても無駄で、己の分を弁えて慎むしか手はないのです。宮崎某も、議員をやめてこれから何をするのか知りませんが、辞職記者会見の作文にあった「日本に夢を与えたい」なんてのは片腹痛い過ぎた野心なので、セックスセラピー(セラピストが女性の場合、相手に言い寄らないよう自制すること!)でも受けて、自分の「病気」を治すのが先決でしょう。そうして以後は地味ぃーに生きることを考えることです。そうすれば生きるに値するよい人生の道もまた開けてくるでしょう。二度と選挙に出ようなんて考えないことです。
・東国原「文春のハニートラップ」は嘘
一読ふきだしてしまうほど、これはよく書けているのでお勧めですが、東国原は「文春は政治家など有名人をハニートラップで陥れて記事にすることがある。自分もその被害者の一人」なんて尤もらしいことを言っていたようです。ビートたけしの子分だったお笑い芸人が政治家を志して宮崎県知事選に出て当選し、一躍世の注目を集め、経済の「東国原効果」なんてことまで言われるようになって、すっかりいい気になり、「宮崎県をどげんかする」という話はどこへやら、欲をかいて途中で投げ出して国政進出を決め、自民から立候補を打診されたときなどは、「私を総理にする気はあるのか?」なんてのぼせたことを言い、皆の口をあんぐりさせたものです。その後の彼の無節操を極めた相次ぐ迷走ぶりについてはあらためて書くまでもありませんが、知事在任中、この不細工な馬づらの色魔は手あたり次第女性に言い寄っていたらしく、その色情狂ぶりを週刊文春に書かれて、「そこまでひどいのか…」と話題になったのです。
それで往時を回想して、「自分も文春にはひどい目に遭った」と言ったようですが、ひどい目に遭ったのはこんな無責任な馬鹿を知事に当選させて赤恥をかかされた宮崎県民だったので、僕自身は初めから信用していなかったので彼には投票しませんでしたが、宮崎謙介「ゲス不倫」事件をきっかけに、「私のあれは文春にはめられただけなのだ!」と、人々の記憶が薄れたのをいいことに、自らの「ゲス色魔」ぶりを正当化しようとしたわけです。
しかし、宮崎謙介も東国原も、ハニートラップがどうのこうのと言えるような大物ではそもそもなくて、「ただのチャラいヘンタイ」にすぎないのは歴然としているのです。
それにしても、ちかごろの政治家センセイたちのこの「存在の耐えられない軽さ」は一体どうしたものなのでしょう。東国原はお笑い芸人の愛嬌で、宮崎議員は「ボクって、長身でスタイルは抜群だし、顔もイケメンでしょ?」といったナルシシズムがちと目立ちすぎるとはいえ、そのルックスで女性票をたくさん集めたのかも知れません。新人議員というのはとくに、選挙は人気投票です。彼は自民の公募議員の一人だったそうで、同じ公募議員に、この前除名された武藤貴也というしょーもないのがいましたが、この二人にはナルシシスト特有の何とも言えない「気持ち悪さ」があって、いくら「さわやかな好青年」を偽装していても、面接段階でその程度のことは見抜けるはずだと思うのですが、どうしてそれがわからないのかなと思います。きょうびの政治家はどれも自己愛の強さではひけをとらないようなので、自分もそうだからそのあたり盲点になっているのでしょうか? それとも、彼らは学歴と口先だけは一人前だったので、「これなら選挙民は騙せる」と判断したのでしょうか? どうせ下っ端議員は数合わせ要員にすぎないからです。下手に能力のありそうなのをえらぶと、ゆくゆくは自分の地位が脅かされる。そんな打算も候補者選びには働くのかもしれません。
だから今後は有権者も、人相術を体得して「人を見る目」を養わなくてはならないでしょう。昔の人は、庶民でも、そのあたり洞察力にすぐれた人がたくさんいました。尋常小学校卒の学歴しかもたない僕の父は、「人間は顔を見ただけで、ある程度のことはわかる。それがわからないのはただの馬鹿だ」と言っていましたが、その鑑識眼はかなり恐るべきもので、僕は父に嘘をついて騙せると思ったことは一度もありませんでした。高学歴化によってガラクタ知識は多く仕込んだが、かんじんの知恵や洞察力は衰退したのです。
念のために付け加えておけば、僕は政治家たる者、模範家庭の鑑たるべく、下半身の欲求は抑圧すべし、と言っているのではありません。愛人づくりでも、不倫でも、勝手にしてくれればいいが、そういうことにはトラブルや責任がつきまとうので、それが処理できないようなら、つまらないことに手を出すなということと、議員歳費に見合った本業の政治家としての仕事をちゃんとやれということです。今回の宮崎某なんか、何しに国会議員をやっていたのかわからないので、「深く、深く、深く反省」しているなんて大げさなことを言うくらいなら、これまでの議員歳費全額を国庫に返納すべきでしょう。何の役にも立っていないのだから(むしろイクメン偽装で、その方面の運動にダメージを与えた)。
昔も「性豪」として名をはせた有名政治家はいました。その代表は三木武吉で、僕は学生時代、大宅壮一の『昭和怪物伝』に出ている話を読んで笑ったのですが、この人(三木武夫とは別人)はその巧みな権謀術数によって「寝業師」と恐れられたそうですが、相手の批判を逆手にとってやり返す名人で、そこには今の政治家たちにはない乾いたユーモアがありました。
四十年も昔のことで、その本は今はもっていないのですが、そのエピソードのいくつかは、ウィキペディアの「三木武吉」の項に紹介されています。今読んでも笑えるので、そこから引用させてもらうと、
初当選した1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙の演説会において、立憲政友会の候補、坪谷善四郎が「名前は言わないが、某候補は家賃を2年分も払っていない。米屋にも、1年以上ためている。このような男が、国家の選良として、議政壇上で、国政を議することができるでありましょうか。この一事をもってしても某候補のごときは、いさぎよく立候補を辞退すべきものと、私は信ずるのであります」と三木を批判した。すると三木は次の演説会場で、「某候補がしきりと、借金のあるものが立候補しているのはけしからんと、攻撃しているそうだが、その借金がある某候補とは、かく言う不肖この三木武吉であります。三木は貧乏ですから、借金があります。米屋といわれたが、それは山吹町の山下米屋であります。1年以上借金をためているといわれたがそれは間違いで、じつは2年以上もたまっております。家賃もためているのは2年以上ではない。正確にいいますれば、3年以上も支払いを待ってもらっておるわけです。間違いはここに正しておきます」と反論し、会場は拍手と爆笑に包まれ、「えらいぞ、借金王」と野次が飛んだ。その会場には、三木の大家や借金先の山下米店の主人山下辰次郎も来ており、その後、三木に促されて両者とも立ち上がった。その時山下が「私は米屋の山下です。どうか皆さん、三木先生をご支援願います」と述べ、すっかり参った坪谷はそれ以来三木の借金の話をしなくなった。
戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。
「およそ大政治家たらんものはだ、いっぺんに数人の女をだ、喧嘩もさせず嫉妬もさせずにだ、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と、男っぷり溢れる発言をしたり、松竹梅といわれた3人の妾 (ちなみにこれは、愛人のランクではなく、実際に名前が松子、竹子、梅子だった) を囲ったりした。松子には神楽坂で待合茶屋を持たせた。晩年も精力に衰えはなく、72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。しかしその一方で愛妻家でもあり「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになった…というだけだ」と述べている。妾たちもかね子を別扱いにして、世話をしていた。
昔、僕が読んだ記憶では、愛人の件で、「妾は実は四人ではなくて五人だが、いずれも若気の至りで仲良くなったもので、今も面倒を見ておりますが、そのまま養い続けた方がいいか、それともそうするのをやめて彼女たちを路頭に迷わせる方がいいか、先生のご高説を拝聴したい」と切り返した、というような話になっていたように思います。戦後の食糧難の時代には、妾も全員自宅に住まわせ、自ら食糧調達に奔走して養っていたという話ですが、妻と数人の愛人たちは一つ屋根の下で皆仲良く暮らしていたというので、僕にはそれが可笑しかったのです。生半可な「人間力」では、そんなことはできないでしょう。政治家としてやり手であるだけではなく、人間的な深い誠実さがあったからこそ、できたことなのではないかと思います。そこらへん、今どきの軽佻浮薄なプレイボーイとは違っていたのです。
むろん、こういうのは大学でジェンダー論なんか教えている社会学の先生たちには不評でしょう。そこには「封建的な男尊女卑の考え」が伏在していると見られるからです。
けれども、その方面の議論はさておき、人間として、こういう人はエラいなと、僕は思います。ちゃんとひとりひとりを人として尊重しているのでなければ、わざわざそんな面倒なことはしないはずだからです。また、相手の女性たちも、彼の愛情が信じられたからこそ、ついてきたのでしょう。こういうのは真似てできることではないので、人間のスケールが大きかったのです。
三木武吉は政治家としての能力において東国原や宮崎某とは比較になりませんが、人間としての誠実さでも彼らとは月とスッポンなのです。たぶん、ご両人にあるのは「巨乳愛」ぐらいなもので、そこには言葉の真の意味での愛情も、責任感もないのです。だいたい、いい女にはすぐに見切りをつけられてしまう。そうだったでしょう、今までも?
ケーハクな東国原あたりだと、こういう話を聞くと、「それではワシも三木武吉みたいに…」とすぐ思いそうですが、元々の器量というものが違うのだから、真似しようとしても無駄で、己の分を弁えて慎むしか手はないのです。宮崎某も、議員をやめてこれから何をするのか知りませんが、辞職記者会見の作文にあった「日本に夢を与えたい」なんてのは片腹痛い過ぎた野心なので、セックスセラピー(セラピストが女性の場合、相手に言い寄らないよう自制すること!)でも受けて、自分の「病気」を治すのが先決でしょう。そうして以後は地味ぃーに生きることを考えることです。そうすれば生きるに値するよい人生の道もまた開けてくるでしょう。二度と選挙に出ようなんて考えないことです。
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