FC2ブログ

子供の問題と政治

2015.10.13.15:42

 先週は高校の定期試験の関係で、学校が早く終わるというので、塾の時間を変則的にしたら、何となくリズムが狂ったようで、二本記事を書きかけたのですが、どちらも完成を見ずに終わりました。こういうのは面白い現象です。

 それで未完成に終わった記事の一つがこちらです。文科省の「問題行動調査」なるもので、「全国の国公私立小学校で起きた子どもの暴力行為が、2014年度は1万1468件に上り、過去最多だった13年度(1万896件)を更新した」ことがわかった、というニュースです。何でも、「現在と同じ調査範囲となった06年度の約3倍。学年別では低学年での伸びが目立ち、『荒れる小学生』の低年齢化が一層浮き彫りになった」(毎日新聞9月17日)とのこと。この記事によれば、八年前と比較すると「小学校暴力行為の加害人数」は小3で4.2倍、小2で4.3倍、小1では5.0倍にもなっているのだそうです。

 その後、同じ子供に関する次のようなニュースもありました。

 全国の児童相談所が二〇一四年度に対応した児童虐待の件数が過去最悪の八万九千件に上った。前年度比20%増。痛ましい児童虐待は後を絶たない。子どもの命を救う体制の強化が急がれる。
 厚生労働省によると、児童虐待件数の統計を取り始めた一九九〇年度以降、過去最多を更新し続けている。ここ五年間で倍増した。
 背景には、経済的な格差が広がり、貧困の家庭に育つ子どもが増えていることが指摘される。また、都市部の件数が増えており、家庭が地域で孤立化していることも一因とみられ、心配だ。(東京新聞10月10日)


 こういうのは相互に関連しているのでしょう。非正規雇用が全労働者の4割近くに達し、経済格差が拡大を続ける中で、ゆとりを失って家庭としての十分な機能が果たせない家庭が増え、それが児童虐待や「荒れる小学生」の増加にもつながっているのです。

 このまま経済格差が拡大し、それが固定化すると、事態の好転は望めなくなるでしょう。安倍政権は「一億総活躍社会」なる意味不明のスローガンを持ち出し、こういうのは僕には「一億一心」という戦時中の標語を思い出すだけで、薄気味悪いことこの上なしなのですが、「認知症の老人やハイハイ最中の幼児がどう“活躍”しろと言うのだ、日の丸の旗でも振らせるつもりか?」と皮肉の一つも言いたくなります。NHKの「日曜討論」という番組で、「加藤一億総活躍担当大臣は、一億総活躍社会について『少子高齢化の中で、国民一人一人が持っている力を発揮し、夢や将来の実現に取り組み、活躍してもらう。それが強い経済や人口1億を保つことにつながる』と述べ」た(NHKウェブサイト )そうですが、具体性はゼロで、「出生率1.8」という目標といい、現実性に乏しい美辞麗句を並べ立てるその姿には、アホらしいのを通り越して絶望感すら感じます。

 どうして少子化が進むのかについては、今の日本では子供一人育てるのにカネがかかりすぎるからです。日本全体がまだ貧しかった戦後間もなくの頃(昭和30~40年代初め)は中卒の子供たちが「金の卵」ともてはやされ、高度経済成長の波に乗って、地方の子供たちが集団就職列車に乗って都会の工場などに就職するという風景が多く見られました。僕が中学を卒業したのは昭和45年で、その頃はもうかなり高校進学率は高くなっていましたが、通える範囲に高校のない僻地などではなおも中卒での就職率は高く、僕には同級生が70人いたのですが、高校に進学したのはそのうち20人程度で、3分の2以上が中卒で就職したのです。大学進学したのはそのうち2人だったと思うので、こういう話をすると、「じゃあ、あんたは僻地のエリートか?」と皮肉を言われることがあるのですが、それはなりゆきでそうなったというだけの話で、元々が優秀な部類ではなかった(順位が何とか一ケタ台には入っているという程度)ので、中卒で就職した生徒の中には僕よりつねに模試の成績が上だった女子生徒が二人いました。そのうちの一人から、ちょうど今ぐらいの時期だったか、「もう必要がなくなったから…」と受験用の参考書や問題集をもらい受けたことがあります。家庭の事情で彼女は進学を諦めざるをえなかったので、微笑んではいるが淋しげなその表情を僕は今でもよく憶えています。罰当たりなことに、全く勉強しない(しなければならないとは思うのだが、なぜか実行には至らない)僕は、ほとんどそれを活用せずに終わったのですが…。

 話を戻して、それが今では4年制大学への進学率が5割を超えるという時代です。これに短大・専門学校を加えると、18歳人口全体に対するその比率は7~8割にも達する。義務教育か高校まで、という時代とは子供一人にかかる費用が全く違うわけです。バブル崩壊以降、日本人の貧困化が全体として進んだのに、進学率はさらに上がった。

 学費の方は高騰しているので、僕が高校生当時、国立大学の年間授業料は3万6千円でしたが、今は53万5800円で、財務省はこれをさらに値上げしようとしています。入学金を含めた初年度納入金だけで、81万7800円。昔の私立の倍額ですが、今の私立がこれより高いことについては言うまでもなく、これは平均値ですが、文系で約115万、理系で150万、これが医学部だと、1千万に達するのです。専門学校の学費もこれらに準じるか、もしくは割高になっている。こういうのは通常の物価上昇率をはるかに超えているのです。

 これはむろん、アパート代(これまた高くなっている)だの生活費だのはカウントされていないので、大学なら卒業までに最低4年かかるのだから、子供一人大学にやるのに、とくに地方の家庭はべらぼうな出費を強いられるのがおわかりでしょう。都会より地方の方が全般に所得はかなり低いのに、逆に費用負担は高くなるのです。

 わが子を私立中高一貫校などに通わせると、さらに費用はかさみ、これに塾・予備校などの費用が別に加わるのです。一人でもしんどいのに、4人も5人も、子供をもてるはずがない。僕が高校生当時は、高校生の就職率は非常によく、クラスメートの就職組の大部分は大企業か、公務員試験を受けて役所に就職しましたが、今はそんな有利な就職先はないので、大学にやるしかないと多くの親は考えるのですが、それには多額の費用がかかるので、そのあたりの問題を放っておいて、出生率を上げろもヘチマもないのです。

 一方にこういう問題があって、他方には「子供の6人に1人は貧困」という問題がある。こちらに関しては、義務教育がせいいっぱいで、高校にやるのもしんどい、中には日々の食費にも事欠く家庭もあるということなので、事態はいっそう深刻です。

 こうした現実を前に、「一億総活躍社会」などという寝言がどこから出てくるのか、僕には全くわからないのですが、「何、昔も日本人は貧乏だったので、高度経済成長の時代のような経済成長を復活させれば、好循環が生まれて、問題は解決する」とでも言うのでしょうか? そんなことは100%ありえないのですが、そこらへんが二世三世議員の多い今の甘ちゃん政治家たちにはわからないのかも知れません。

 前に安倍は、「女性が輝ける社会」なんてノーテンキなことを言って、「おまえごときに言われたくない!」と多くの女性を怒らせたのですが、保育園や託児所の開園時間を延長するなんてことだけでは問題は解決しないので、それは働く女性を過労状態に追いやるだけです。ヨーロッパの先進国並みに、子育て期間中の女性社員には融通の利く短時間労働が可能なようにワークシェアリングの手法をうまく導入するとか、そういう根本的な改善が必要です。今はそうしようと思えば、パートの地位に格下げされ、給与がその分下がるのは仕方ないとしても、社会保険などの社会保障まで全部打ち切られる。だから無理して長時間労働を続けねばならず、子供と接する時間は奪われて、それがひいては子供の問題行動にもつながってくるのです。

 貧困のために安いパートの仕事をいくつも掛け持ちする母子家庭の母親にしても、正社員の地位を守るために無理して長時間労働を続ける母親にしても、それでは子供と接する時間もエネルギーも奪われて、子育てに支障をきたすのはわかりきったことです。

 そこらへんのことに配慮した社会改革と、高等教育機関の学費を下げる施策をとった上で、そういうことは言ってくれと言いたくなるのは、僕だけではないでしょう。しかし、企業の負担増につながるヨーロッパ式のワークシェアリングは「企業の競争力を阻害する」と全くやる気はなく、かえって法人税を下げるとか、「残業代ゼロ法案(ゆくゆくは所得基準も下げて、いっそう「経営者に優しい」ものにする魂胆)」を国会に提出するとか、労働者にしわ寄せが行くことばかりで、安倍政権はアベコベ政権だと批判されても文句は言えないのです。よくも恥ずかしくもなく「一億総活躍社会」なんて言えるものです。

「ない袖は振れない」ので、僕は何が何でも国民の負担増には反対という人間ではありません。消費税の値上げも今みたいな超がつく赤字財政下では仕方がないと考える。しかし、破綻した年金制度の抜本解決も考えず、国民に未来展望も何ももてないような行き当たりばったりの政策の連続では、金持ちは資産防衛に走り、貧乏人はますます貧乏になるばかりだから、内需の拡大どころの話ではないので、意味不明のスローガンだけで、総合的ビジョンらしきものは何もなく、「ここをこうしてこう変える」という、聞いて納得のいく具体的な方策も何ら示されていないのです。カネの使い方を知らない馬鹿に、安心して国の舵取りを委ねられるはずがない。安保法案なんて、いりもしない出費を伴う法案は通すが、かんじんかなめのことは平気でなおざりにするのです。

 子供たちはそのとばっちりを受けたかっこうで、冒頭見た問題も、社会政策の貧困が生み出した現象と言えるでしょう。僕のような塾商売をしている人間が日ごろ接するのは、親の仕事も比較的安定した、地方でも裕福な部類の家庭の子たちなので、おっとりした子が多く、彼らを見ている限りでは「荒れる子供」というのは想像が難しいのですが、逆に言えば、ある程度経済的にゆとりがあり、夫婦仲もよい家庭では、子供が荒れることはほとんどないので、これはそうでない家庭が増えている証拠だろうと、そのあたりの察しはつくのです。

 しかし、学校で暴力的な、異常な行動を示す子供が増えると、そういう子供たちもただではすまない。オトナは格差に無関心でも、子供たちはそれによって生じる不幸な問題に巻き込まれるのです。

 一昔前は、「荒れる公立中学」を回避して、経済的に余裕のある家庭はわが子に私立中学を受験させる、という動きが見られましたが、今は「荒れる公立小学校」を見て、小学校から私立に入れる、ということになると、貧乏人と金持ちは初めから行く学校が違う、ということになって、それは「階級分断社会」をつくってしまう原因になるので、好ましくありません。貧乏組は「どうせオレたちは上の学校にも行けず、ロクな希望はない」とますます荒れるだろうし、お坊ちゃまお嬢様学校の生徒は、下々のことなど何も知らないまま育って、高学歴と親のコネで社会の有利な地位に就くと、狭い自分たちの階級利益しか考えないオトナになってしまうでしょう(安倍みたいに)。

 一部の金持ちと多数の貧乏人に分断された社会に未来はありません。古代ローマは増え続ける奴隷のために内部崩壊へと導かれたと言っていいほどですが、今のグローバル文明も格差の拡大と富の集中現象によって実質的に奴隷制が復活しつつあると言ってよいので、同じような運命を辿ることになるでしょう。アメリカの後追いをやめない今のわが国の政府は、アメリカ並に就職先のない貧乏人の子弟を兵士としてリクルート(何年かの兵役を務めれば、大学の奨学金がもらえるなどと甘言を弄しながら)し、彼らを「消耗品」として危険な戦場に追いやり、もって「世界の平和と安定に資する(事実としてその逆になっていることは、すでに何度もここに書いたとおり)」などと考えているのかもしれませんが。

 むろん、問題はこうしたことに尽きるわけではありません。個々人の問題もあるので、経済的には裕福でも愛のない家庭はいくらもあるし、公徳心に乏しい自己愛病患者みたいなエゴイスティックな夫婦が、似たような感性の持ち主にわが子をしてしまい、学校で問題を起こすということも実際にあるでしょう。「虐待の世代間連鎖」と似たような話で、「良識の欠如」も連鎖するものだからです。だから父親の方は病院相手に一方的な主張をまくしたてるモンスター・ペイシェントを演じ、その娘は問題行動を起こす小学生の親となって、学校相手にモンスター・ペアレントをやり、親子三代にわたって周囲を悩ませる、というマンガみたいな話だってないわけではないでしょう。

 こういうのは必ずしも親の学歴や社会的地位、経済状況とイコールではありません。裕福なインテリ夫婦でも箸にも棒にもかからないような一家もあれば、ヤンキー上がりでも善良かつ誠実そうな、子育てにも一生懸命という好感のもてる若い夫婦はいるからです。全般に親の教育レベルが高い方が、しっかりしていることが多いとは言えるかもしれませんが、そういうことだけで線引きはできないのです。

 学校の先生にも問題があるのだという説もあります。場合によってはたしかにそれもあるでしょう。前にこういう話を聞きました。小学校ではよくウサギやニワトリが飼われていますが、ある日世話係の子供たちが見に行くと、どちらだったか忘れましたが、一羽死んでいる。それで子供たちは校庭の隅にお墓を作ろうと相談しましたが、場所が決められないので先生に相談に行ったら、そのまだ若い女性教諭は、ろくに話も聞かず、子供たちが大事そうに運んできたその死骸を無造作に「生ゴミ」のゴミ箱に放り込んだ。そんな汚いもの、見たくもないという風情だったそうで、子供たちはあっけにとられたのです。

 これには後日談があって、子供から話を聞いてショックを受けたある母親が、それを別の母親に話した。そしたらその母親は、「ああ、あれは分類は生ゴミでいいんですよ。その先生の判断は正しい」と真面目な顔で言ったとか。そういうことを問題にしたつもりではなかったのですが、それで終わってしまったというのです。

 その先生はさぞや素晴らしい「感性の教育」をしてくれそうですが、今はどこを見ても「大丈夫かいな?」という人はいるわけで、学校は何を基準に教師を採用しているのか知りませんが(その先生は正規教員でした)、モンスター・ペアレントもいれば、モンスター・ティチャーもいるから、話はややこしくなるのです。

 子供を取り巻く社会環境の変化というのも大きい。昔の家庭はおしなべてみんなまともで、子供は幸福だったというわけではない。そういうのはたんなる幻想にすぎないので、僕が子供の頃はまだ日本中が貧乏で、ことに田舎ではそうでした。子供たちは膝や肘がツギだらけのボロ服を着て遊んでいたのであり、極貧と言っていい家庭の子も珍しくはなかった。貧しいと家庭内でのいさかいは多くなるもので、そういう家庭の子供たちが家で幸福だったとは言えないでしょう。

 ただ、伸びのび遊べる場所(都会では空き地、田舎では周囲の豊かな自然)があり、一緒に遊べる仲間がいて、それがストレス発散の場にもなれば、慰めにもなったということがあって、教育能力に欠ける家庭の子でも、昔は年上の子も下の子も一緒に遊んだりしたので、その中で自然に社会性を身につけていくという効果も期待できました。今はそういった部分がないか、あっても極端に貧弱化しているのです(地域の子供会なんかも、あっても今は親がかりで形骸化しているようです。僕が子供の頃は、それはほとんど子供の自主運営で、ちゃんと話し合って物事が決められ、中学生もきちんと小学生の意見を聞いてくれたし、今思えばあれは実にうまくできた民主主義学習の場だったなと思うのですが)。

 今は、親にゆとりがなければなおさら、わが子の子守をビデオやゲーム機器の類に委ねているという家庭が少なくないでしょう。もう少し大きくなって子供同士一緒に遊ぶといっても、めいめいが勝手にゲームをしているだけで、全然「一緒に遊ぶ」ことにはなっていなかったりするのです。若者が喫茶店やレストランにいるところを見ても、大方はスマホをいじっていて、デートの時でも同じことをしたりしているのは驚きです。それでよくコミュニケーションが成り立つなと不思議ですが、実のところはコミュニケーション能力の欠落をあれでカバーしているのでしょう。それがないと間がもたないのです。

 今はすでに親の世代がそれなのだから、幼時から親、とくに母親との対面コミュニケーションが不足したまま子供が育つことが多くなっているのでしょう。キレやすい子は言語表現能力に乏しいということは以前から言われていて、これは子供にとってはそれ自体がストレスですが、親自身がその能力に乏しい上に、ロクな言葉かけも行われないまま育つのではなおさらのことです。母親が語彙の豊かな人で、言葉かけも多く、その上本の読み聞かせなどもよくしてもらったという子供とは、小学校入学段階ですでに雲泥の差がついてしまっているのです。当然それは子供の学習能力にも大きな影響を及ぼすから、うまく言葉が出ない、勉強もよくわからない、ということになれば、荒れない方がむしろ不思議なのです。

 母子家庭で、母親がパートをいくつもかけもちしていて、ロクに子供と顔を合わせる時間もないという場合は別として、そうでなければそのあたりは、親の心がけ次第で大きな改善が見込めるものでしょう。僕は別にゲーム機器それ自体には反対しません。それを無理に禁止したのでは、子供が他の子供たちから孤立してしまう原因にもなるでしょう。何事も程度問題で、バランスをうまくとる必要があるということです。

 ついでにこの母子家庭の問題について言うと、安いパート仕事をいくつもかけもちして、生活費はつねに足りず、ろくに子供と接する時間もないという貧しい母子家庭の話はよくテレビのニュース番組などでも取り上げられますが、僕に一つ不可解なのは、父親には離婚しても養育義務はあるはずなので、なのに養育費も払おうとしなければ、子育てのサポートも全くしていないというのは、どういうことなのでしょう? それがあればもっと暮らしにも余裕ができるはずなのです。しかし、そのあたりのことを取り上げた報道を、僕はほとんど見たことがありません。「母子家庭の悲惨な境遇」を強調するのみ。けれども、母親だけに子育ての責任を負わせる方がむしろおかしいのです。

 そこらへん、欧米にはある一定のルールが今のわが国にはない。あっても守られていないので、夫のDVが原因の離婚の場合は別として、そうでない場合は、父子の交通がそれで杜絶してしまうというのも、双方にとって不幸です。むろん、それがきちんと機能しているケースはあって、子供は父親とも行き来があるし、父親の経済力に見合った支援も受けている(塾の生徒でも、今の父親は実父とは違うが、行き来はあるし、教育費などは実の父親が出してくれるという子がいました)。それだと子供は物心両面で深刻なダメージは受けないのです。離婚しても子育てでは協力するというのはあたりまえの話だと思われるのですが、なぜかそれが今の日本では「常識」になっていないのです。それほど元夫婦の憎しみと対立は深いということなのでしょうか? しかし、それは子供にとっては迷惑な話なのです。こういう問題は子供中心に考える必要がある。なぜそれができないのでしょう?(父親が事業に失敗したとか、失業したとかいうのなら、すぐには無理でも生活を立て直したときに応分の援助を始めればいいのです。それが生活の張り合いになるとも言えるでしょう)。

 以上、僕が感じた問題点をランダムに列挙するかたちになりましたが、問題点を把握すれば、対処の可能なところから着手して解決の方向に向かうことはできるので、まんざら無意味というわけではないでしょう。政治の無策は咎められて然るべきですが、それ以外のところでも考えるべきことはあって、そちらの方は個人レベルで対応が可能です。多少は参考になることもあるかと思い、書いてみた次第です。
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR