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魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』雑感

2015.09.22.00:20

 最近、えらくマメに更新していますが、今回は全然毛色の違う話で、しばらく前に書きかけてそのままになっていたのを、続きを付け足してアップしておきます。

 この手の本を読むのは久しぶりなのですが、先日歯医者に行って、時間があったので寄った書店でたまたまこれ(新潮社刊)を見つけました。帯には末木文美士、佐々木閑、宮崎哲弥の三氏が推薦文を寄せていて、つむじ曲がりの僕は通常そんなものは信用しないので、著者の年齢が若い(35~6歳)ことでもあるし、大したことはないだろうが、定価も税別1600円と安いし、まあささっと読んでみるかということで買ったのですが、一読、「うーん。これは凄いな」と唸ってしまいました。

 これはたとえてみるなら、四百メートル障害物競走のアスリートの見事な走りっぷりを眺めるようなものでした。行く手に立ち塞がる障害を次々鮮やかにクリアしてゆく。ふつうのランナーなら、ここらへんで障害を回避したり、あるいはぶざまに転倒して、しかし、ご本人はクリアしたつもりでそのまま走り続けたりするだろうなというところで、正面からそれに挑んで、楽々それを飛び越えてゆくのです。そうしてめでたくゴールイン。

 わが国の仏教学会は久々の俊英をもったと言うべきでしょう。この分量で、これだけの内容のことを書ける人は、めったにいないのではないかと思われます。学部時代、西洋哲学を学んだという人だけに、論理もきわめて明快です。扱われている論点も、この方面にいくらかでも関心のある人には重要と感じられるものばかりです。その意味でも、これは「かゆいところに手が届く」懇切な本です。

 僕自身はこの本に述べられていることにほとんど全く異論がありません。「お見事!」と言う他ないもので、大乗仏教に関しても、この方面に関する詳細な知識がないから書けないだけで、自分が書いても同じような意見になるだろう(何で偽典を作ってまで、原始仏教との「連続性」を演出しなければならなかったのか?)と思います。「だから大乗仏教は無意味だ」という結論にはならないのも同じで、この点、著者の議論が「テーラワーダ仏教に肩入れしすぎたもの」だという批判は当たらないでしょう。

「仏陀の説いた教えとはそもそもどういうものであったのか?」というところにパーリ語原典をもとに切り込む、というのがこの本の本旨で、それが通常の道徳説や哲学とは根本的に大きく異なっているということも、明確に説明されています。「無我」説についての説明も意味不明の独善に落ち込まず、周到で納得のいくものです。

 この本の優れているところは、著者がたんにこの方面の該博な専門知識をもっているということだけではなく、何らかの自得体験をもっていて、そこからテキストを読み解いていると感じられる点です。でないとこういう説明はできない。むろん、その中身の深浅はあるでしょうが、論理の枠組みそれ自体はその後も訂正を要しないだろうと思うので、著者はその点、自信をもっているように見えます。

 P.147~8に、『ウダーナ(自説経)』の有名な個所だとして、次のような引用文が載っています。

 比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在する。比丘たちよ、この生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在しなかったならば、この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られることはないであろう。比丘たちよ、生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないものが存在するからこそ、生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離することが知られるのである。

 この「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」が直覚されないことには、「生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」が本当に認識されることはない。それは夢とは別の現実を知っているから、夢が夢と認識されるというのと同じで、書物で読んで、いくら理屈で自分に言い聞かせても、それではどうにもならないのです。

 僕は座禅や瞑想をやったことがない(短期間、仏教系出版社に勤めたことがあって、そのとき社員研修の一環として二泊三日ぐらいの日程で禅寺で座禅をやらされたことがありますが、足が痛くなっただけでした)ので、そのあたりは想像でしかないのですが、禅僧などの場合だと、「悟る」ためにそれをやって、その「悟ろうとする自我の努力」が崩壊した時に、その地平は初めて開けるのだろうと思います。禅の公案の場合、あれは思考による合理化の努力を破産させる意図で設けられたものなのだろうと思いますが、そのときやっとそれが直覚される条件が整うのです。

 それはむろん、「小我から真我に意識がシフトした」というようなものではないので、そういう思考モデルそれ自体が破産したところに生じる、それは事態なのです(そこらへんをカン違いすると、厄介なことになる。「最終解脱」したつもりのオウムの麻原なんかはその類だったのかもしれません)。

 仏教における「無我の教え」というのは、別に道徳的なお説教ではないので、それは端的に、固定的、実体的な「自分」というものはどこにも存在しない、ということを現実に即して説明したものだと思いますが、ユングなどの心理学では、通常の自我、パーソナリティの背後に、真の自己、大文字のセルフが存在する、なんてことを言うので、話がよけいにややこしいことになってしまうのです。古来の「不滅の霊魂」説も、これに拍車をかける。それは死後も存続するコンプレックス(心的要素の複合体)、流れのようなもの(本書の著者によれば「現象」「プロセス」)で、それは実体的なものではなく、上記の引用文で言われている「生ぜず、成らず、形成されず、条件づけられていないもの」はそういうものとは無関係(ユングの言う「集合的無意識」なるものをいくら探ってもそこには行き着かない)なのですが、「自己」観念というものに縛られていると、それ自体が妨げとなって、覚知が不可能になってしまうのです。

 しかし、現実問題として、こういう話はなかなか通じません。絶望的なまでにそうだと言ってよい。だから馬鹿らしくなって僕は話すのをやめてしまったのですが、我田引水ながら、輪廻転生の担い手となるものが何であるかということに関しては、それを認めていた西洋中世のキリスト教異端カタリ派(仏教との類似性も指摘されるが、原始キリスト教の再来を自任していた)の歴史と信仰を扱った『偉大なる異端』(アーサー・ガーダム著)という本の訳が、具体的な日程はまだ未定ですが、版権取得も無事済んで近いうちに出せる運びになって、その本の訳者あとがきに自分なりの考えを書き含めておいたので、興味のある方はそちらをご覧ください(出版時にはここでも告知します)。

 それはともかく、僕はこのブログで「この世において、生じ、成り、形成され、条件づけられたもの」ばかりを相手にして、ああだこうだとうるさく言っているので、仮にも「宗教の高遠な真理」に関心を寄せたことがあるのなら、何でそんな馬鹿なことをしているのだ、と言われるかもしれません。

 そう言われると返す言葉もないのですが、僕は「生じ、成り、形成され、条件づけられたものを出離すること」は自分の柄ではないと考えて、とうの昔に「解脱」などというものは諦めてしまった人間です。そちらの道をきわめるのは偉いお坊さんたちにお任せする。ときにゲンナリしながらも、僕は「俗世間の泥」の中で暮らし、その泥を食らって正体不明になりかけながらも、これが下根のわが道であるかと、それなりに「覚悟」しているわけです(ある知人によれば、僕はカタリ派時代の「虚偽と不正に対する怒り」があまりにも強かったために、それを持ち越して今も怒り続けているのだという話です。カルマというのはかくも恐ろしい?)。

 話を戻して、これはそういう人間にとっても十分面白い本だったということです。真面目な仏教研究者、修行者にとってはなおさらでしょう。広く一読をお薦めします。

【付記】これをアップする前にネットを見てみると、小木田順子さんという方(なんとこの前僕が悪口を書いた見城徹氏の幻冬舎の編集者!)が愉快な書評を書いておられます。

  仏教は、「人間として正しく生きる道」を説いていると思われがちだが、それは冒頭できっぱり否定される。
 ゴータマ・ブッダは出家を重視し、弟子には「労働と生殖の放棄」を要求する。「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して、『異性とは目も合わせないニートになれ』と求めている」のだ。
 ゴータマ・ブッダが説くのは「世の流れに逆らう実践」であって、仏教に処世の知恵や癒しを求めた人は、まず出端を挫かれることになる。
 最初で救われないだけでなく、大方の読者はおそらく最後まで救われない。なぜか。
 仏教では「全ての現象は苦である」と言われる。ここでの「苦」とは、痛みや悲しみなどの肉体的・精神的な苦痛だけではない。そのニュアンスを正しく汲み取れば、「不満足」の語が適切で、「欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態」を意味する。(私は、チョコとポテチを一口だけ食べて満足することはなくて、食べれば食べるほど、また食べたくなる感じとか、お洋服を1着買えば、色違いも欲しくなり、それに合う靴も欲しくなり、バッグも欲しくなるときの、とめどない感じとかを反芻しながら読みました)
 このような「生」きている間の苦の先には、「老」「病」「死」という、誰にでも必ず訪れる苦が待ち受けているのだが、それでは終わらない。
 仏教の基盤になっているのは輪廻転生の世界観で、私たちは何度も生まれ、何度も死ぬ。その間「終わりのない不満足」は、ずうっと繰り返されるのだ。
 それを終わらせてくれるのが「解脱」であり、その先にある境地が「涅槃」。そこに到達する道が修行(瞑想)である。
 ゴータマ・ブッダは自らそれを実践し、解脱し涅槃に到達したうえで、弟子たちに対して、「これをやれば、お前たちも苦を終わらせることができる」と、正しい鍛錬の仕方を示した。
 そして弟子たちがそれを実践してみると、たしかに言われたとおりの結果が出た。そのような再現性こそが、仏教は2500年にもわたって存続してきたことの原動力になっている。
 方法があると書けば、救いはある、と思われるかもしれないが、解脱・涅槃に至る道は、ただ一つしかない。すなわち、異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想すること。
 私が、今回の人生において、これから修行者の道を選ぶことはまずないから、私が決して満たされない欲望に苛まれ続け、「苦」のうちに生を終えるのも間違いない。
 そんな己の末路をはっきりと見通せてしまったことの、なんて痛快なこと。そして、縁起とか業とか無常とか無我といった、これまで難しそう・めんどくさそうと遠ざけてきた概念が、どこでどう繋がっているのかがわかり、この世界の成り立ちが鮮やかに説明されることの、なんという快感!


 簡にして要を得たうまい書評だと思いますが、「異性と目も合わせないニートになって、ただただ瞑想する」覚悟が「仏弟子」には必要だということになれば、大方の人には「無理」だということになって、敬遠せざるを得なくなるでしょう(その生活も本来「乞食(こつじき)」によるべきなのです!)。しかも、「長年瞑想しても人格はよくならない」なんてことまでこの本には書かれているので、全く救いはなさそうに見えますが、それも「事実」だと思われるので、このあたりが「仏教の教えは人を幸せにする」と説く通常の啓蒙書の類とは大いに異なるところです。

 それでは、仏教は何の役に立つのか? 何の役にも立たないので、ただ、この世界がどういう成り立ち、仕組みになっていて、どういうおかしなことを人間はやり、その結果どういう苦しみ方をする羽目になるのか、そういうことをシビアに認識することに関しては大いに役立つということでしょう。学生時代読んだ小林秀雄のエッセイにこういう箇所がありました。「現代人は無常を知らない。常なるものを見失ったからである。」無常なものを常なるものと思い込むより、無常を無常と知ることの方がいくらかはマシだと、その程度のことだけは言えるかもしれません。仏教の教えもその意味では「ふつうの人の役に立つ」のです。
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