以下、毎日新聞8月27日の記事です。
新大学入試:CBT導入でテストの幅が一気に広がる
文部科学省の専門家会議は大学入試でのコンピューター方式テスト(CBT)の導入を打ち出した。思考力や判断力などさまざまな能力をみるには、従来型のペーパーテストによるマークシート方式では限界があると判断したためだ。
CBTはすでに経済協力開発機構(OECD)が実施する国際学力テストで導入されている。例えば、受験者に掃除ロボットの動画を見せ、その動きの特性を理解できるかをみる出題も可能になる。また、音声入力を利用して英語の「話す」力を評価したり、個々の受験生の正答率に応じて自動的に問題の難易度を変えて出題したりすることも可能だ。パソコンには操作記録が残るため、受験生が試験中にどのような思考を巡らせたかも把握できるといい、テストの幅は一気に広がる。採点の効率化も期待できる。
ただ、実現には課題も多い。55万人もの受験生に対応できる機器の整備・維持管理費を確保できるのか。システムの安定性の確保も不可欠だ。パソコン操作の慣れ・不慣れが影響しないよう、パソコン教育も必要になる。受験料の設定やコストに見合った成果が見込めるのかも含め、今後、財政的な試算が急務になる。【三木陽介】
このCBTというのは、Computer Based Testingの略で、すでにTOEFLなどでも使われていて(こちらはiBT、Internet Based Testingと呼ばれる)、僕もそれを受験した元塾生からどんなふうなものなのかは聞き、4時間もかかるテスト(受検料も高い!)だというのにはちょっとびっくりしましたが、それがついに大学入試にも登場するわけです。にしても、記事にもあるように、「55万人もの受験生に対応できる機器の整備・維持管理費を確保できるのか」と思うので、その費用はかなり莫大なものにのぼるでしょう。受検料も当然値上がりする。関連業界にとっては「ビジネスチャンス到来!」です。
「いじればいじるほど悪くなる大学入試」という言葉があって、僕は共通一次(現センター試験)導入そのものが失敗で、著しく受験生の負担を増やした割には学力を上げる効果はなく、廃止が一番で、大学個別の試験だけに戻すのがいいという見解を堅持しているのですが、今回のこのセンター代わりの試験は、別の毎日記事にもあるように、
2020年度から導入する新共通テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」はコンピューターを使って出題・解答する方式(CBT)を採用する。音声や動画が使えるため多様な出題形式を見込めるのが利点という。試行を経て24年度以降の導入を目指す。一方、入試を主目的とせず高校生の基礎学力の定着度をみる「高校基礎学力テスト(仮称)」は、作問から運営まで民間の試験業者との連携を検討する。
というふうに、「大学入学希望者学力評価テスト」と「高校基礎学力テスト」の2本立てになっているのです。この発想それ自体、アメリカのSAT、ACTの猿真似で、法科大学院や安保法制だけではなく、大学入試も、こちらは別に「要請」されてもいないのに、アメリカ追随になるのはいかがなものかと思いますが、ロクな議論もないまま小学校での英語必修化も決まったことであるし、アメリカへの「自発的隷従」への道をひた走りしているのです(最近のこの異常ともいえる「英語教育推進」の問題点については、永井忠孝著『英語の害毒』〔新潮新書〕と、施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』〔集英社新書〕はお薦めの良書です。著者はどちらも留学経験のある「グローバル学者」ですが、そういう人たちが揃って「利点よりも弊害の方がはるかに大きい」と警告しているのだから、耳を貸すべきなのです)。
マーク方式による弊害(英語の場合だと、スピードが要求されるだけで、「深く考える力」などは全くいらない)については、二次の記述だけにして、センターを廃止すれば足りるのですが、おかしなものを維持・存続させようとするから、こういう面倒な話になるのです(パソコンを使ってでしか測定できない「思考力」というのは、所詮パズル的な思考力でしかないでしょう)。
CBTにすれば、英語の場合だと、スピーキングの試験などもできるようになるわけですが、そうなるときちんとした個別の専用ブースなども必要になるわけで、何かと物入りです。そこまでする気がないのなら、中途半端なものにしかならないでしょう(大体、大学入試レベルの試験では、表面的なことを英語でペラペラしゃべる能力を「測定」するにすぎないでしょう。それを大多数の日本人に要求する意味がどこにあるのか?)。
一介の塾教師が言っても聞かれる可能性は全くないわけですが、一体だれが何のためにこういう「改革」を推し進めようとしているのか、その「裏読み」をする能力も今の日本人には必要でしょう。安倍や文科相の下村(前にも一度書いたように、届け出のなされていない「政治団体」の件で辞任するのが当然だったのに、安倍の「お友達」だという理由でまだ居座っている)がろくすっぽ何も考えていないことは、これまでの経緯を見ても一目瞭然ですが、そういう彼らや何とか会議の面々を「改革の立役者」だとホイホイおだてて、自らの利益実現を図ろうとしているあざとい連中が背後にいないとはかぎらない。元塾経営者の下村は、上の記事にも「『高校基礎学力テスト(仮称)』は、作問から運営まで民間の試験業者との連携を検討する」とあるので、そこらへん「特定業界への利益供与」の疑いもあると言えば、彼はまたヒスを起こすでしょうか。
こういう入試制度改革の問題については、少子化でジリ貧の予備校なども「それについていった方が得だ」と考えているようで、反対論はほとんど聞かれません。それで受験生は翻弄され、保護者は費用の負担が増え、いらざるもののために教育予算も無駄に使われて、ということになるのなら、新制度導入で利益を得る一部業界にとってしかメリットはないわけで、一体だれのための、何のための「改革」かわからないと、僕は疑いの方を強くもつのです。
試験というのはどうやったところで「一面的な性質」を免れないわけで、試験用の「対策勉強」しかしない奴はどのみち「上げ底学力」しかもちえないのです。そういう自覚を受験生にもたせるような指導こそ必要だと僕は考えるのですが、そういう教育関係者は今はほとんどいないようで、先頃の小中学生対象の全国学力テストでも、やれどの県が上だ下だということで話題になり、各自治体の教委や学校はその結果に一喜一憂しているようです。こういう教育のありようで「有為の人材」が増えるだろうとは、僕には全く思えないので、目先の「数値目標」にかまけて全体的なヴィジョンが描けないのは、分野を問わず今の日本社会の特徴かもしれません。「将来がお楽しみなことで…」と、皮肉の一つも言いたくなるのです。
新大学入試:CBT導入でテストの幅が一気に広がる
文部科学省の専門家会議は大学入試でのコンピューター方式テスト(CBT)の導入を打ち出した。思考力や判断力などさまざまな能力をみるには、従来型のペーパーテストによるマークシート方式では限界があると判断したためだ。
CBTはすでに経済協力開発機構(OECD)が実施する国際学力テストで導入されている。例えば、受験者に掃除ロボットの動画を見せ、その動きの特性を理解できるかをみる出題も可能になる。また、音声入力を利用して英語の「話す」力を評価したり、個々の受験生の正答率に応じて自動的に問題の難易度を変えて出題したりすることも可能だ。パソコンには操作記録が残るため、受験生が試験中にどのような思考を巡らせたかも把握できるといい、テストの幅は一気に広がる。採点の効率化も期待できる。
ただ、実現には課題も多い。55万人もの受験生に対応できる機器の整備・維持管理費を確保できるのか。システムの安定性の確保も不可欠だ。パソコン操作の慣れ・不慣れが影響しないよう、パソコン教育も必要になる。受験料の設定やコストに見合った成果が見込めるのかも含め、今後、財政的な試算が急務になる。【三木陽介】
このCBTというのは、Computer Based Testingの略で、すでにTOEFLなどでも使われていて(こちらはiBT、Internet Based Testingと呼ばれる)、僕もそれを受験した元塾生からどんなふうなものなのかは聞き、4時間もかかるテスト(受検料も高い!)だというのにはちょっとびっくりしましたが、それがついに大学入試にも登場するわけです。にしても、記事にもあるように、「55万人もの受験生に対応できる機器の整備・維持管理費を確保できるのか」と思うので、その費用はかなり莫大なものにのぼるでしょう。受検料も当然値上がりする。関連業界にとっては「ビジネスチャンス到来!」です。
「いじればいじるほど悪くなる大学入試」という言葉があって、僕は共通一次(現センター試験)導入そのものが失敗で、著しく受験生の負担を増やした割には学力を上げる効果はなく、廃止が一番で、大学個別の試験だけに戻すのがいいという見解を堅持しているのですが、今回のこのセンター代わりの試験は、別の毎日記事にもあるように、
2020年度から導入する新共通テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」はコンピューターを使って出題・解答する方式(CBT)を採用する。音声や動画が使えるため多様な出題形式を見込めるのが利点という。試行を経て24年度以降の導入を目指す。一方、入試を主目的とせず高校生の基礎学力の定着度をみる「高校基礎学力テスト(仮称)」は、作問から運営まで民間の試験業者との連携を検討する。
というふうに、「大学入学希望者学力評価テスト」と「高校基礎学力テスト」の2本立てになっているのです。この発想それ自体、アメリカのSAT、ACTの猿真似で、法科大学院や安保法制だけではなく、大学入試も、こちらは別に「要請」されてもいないのに、アメリカ追随になるのはいかがなものかと思いますが、ロクな議論もないまま小学校での英語必修化も決まったことであるし、アメリカへの「自発的隷従」への道をひた走りしているのです(最近のこの異常ともいえる「英語教育推進」の問題点については、永井忠孝著『英語の害毒』〔新潮新書〕と、施光恒著『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』〔集英社新書〕はお薦めの良書です。著者はどちらも留学経験のある「グローバル学者」ですが、そういう人たちが揃って「利点よりも弊害の方がはるかに大きい」と警告しているのだから、耳を貸すべきなのです)。
マーク方式による弊害(英語の場合だと、スピードが要求されるだけで、「深く考える力」などは全くいらない)については、二次の記述だけにして、センターを廃止すれば足りるのですが、おかしなものを維持・存続させようとするから、こういう面倒な話になるのです(パソコンを使ってでしか測定できない「思考力」というのは、所詮パズル的な思考力でしかないでしょう)。
CBTにすれば、英語の場合だと、スピーキングの試験などもできるようになるわけですが、そうなるときちんとした個別の専用ブースなども必要になるわけで、何かと物入りです。そこまでする気がないのなら、中途半端なものにしかならないでしょう(大体、大学入試レベルの試験では、表面的なことを英語でペラペラしゃべる能力を「測定」するにすぎないでしょう。それを大多数の日本人に要求する意味がどこにあるのか?)。
一介の塾教師が言っても聞かれる可能性は全くないわけですが、一体だれが何のためにこういう「改革」を推し進めようとしているのか、その「裏読み」をする能力も今の日本人には必要でしょう。安倍や文科相の下村(前にも一度書いたように、届け出のなされていない「政治団体」の件で辞任するのが当然だったのに、安倍の「お友達」だという理由でまだ居座っている)がろくすっぽ何も考えていないことは、これまでの経緯を見ても一目瞭然ですが、そういう彼らや何とか会議の面々を「改革の立役者」だとホイホイおだてて、自らの利益実現を図ろうとしているあざとい連中が背後にいないとはかぎらない。元塾経営者の下村は、上の記事にも「『高校基礎学力テスト(仮称)』は、作問から運営まで民間の試験業者との連携を検討する」とあるので、そこらへん「特定業界への利益供与」の疑いもあると言えば、彼はまたヒスを起こすでしょうか。
こういう入試制度改革の問題については、少子化でジリ貧の予備校なども「それについていった方が得だ」と考えているようで、反対論はほとんど聞かれません。それで受験生は翻弄され、保護者は費用の負担が増え、いらざるもののために教育予算も無駄に使われて、ということになるのなら、新制度導入で利益を得る一部業界にとってしかメリットはないわけで、一体だれのための、何のための「改革」かわからないと、僕は疑いの方を強くもつのです。
試験というのはどうやったところで「一面的な性質」を免れないわけで、試験用の「対策勉強」しかしない奴はどのみち「上げ底学力」しかもちえないのです。そういう自覚を受験生にもたせるような指導こそ必要だと僕は考えるのですが、そういう教育関係者は今はほとんどいないようで、先頃の小中学生対象の全国学力テストでも、やれどの県が上だ下だということで話題になり、各自治体の教委や学校はその結果に一喜一憂しているようです。こういう教育のありようで「有為の人材」が増えるだろうとは、僕には全く思えないので、目先の「数値目標」にかまけて全体的なヴィジョンが描けないのは、分野を問わず今の日本社会の特徴かもしれません。「将来がお楽しみなことで…」と、皮肉の一つも言いたくなるのです。
スポンサーサイト