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「教育という名の児童虐待」再論

2015.08.24.16:05

 魚屋さんやスーパーに新サンマが並び、心地よい虫の声が聞こえ始めると、もう秋です。18日の夜半だったか、僕は台所に立った時、リーン、リーンという紛れもない鈴虫の美しい音色を耳にしました。外の草むらにいるようでしたが、二、三日すると聞こえなくなったのは、台風接近のせいで再び蒸し暑さが戻ったせいなのでしょうか。

 よけいな前置きはさておき、一年ぶりに「延岡の高校」コーナーの記事を書いておきます。あの問題に関しては、四年かけて15本もの記事を書き、最後に、「あとは学校、県教委、生徒や保護者の皆さんがどう考えて、どう行動するかだけの問題だと思うので、僕はこのへんで手を引かせてもらいたいと思います」と書いたのですが、七月ごろからそこのコメント欄が賑わっているようで、それにまとめてリプライしておきたいと思ったのと、塾の生徒たちの「課外いらん!」という声を近頃またよく聞くので、あらためてもう一度書いてみようかと思ったからです。

 寄せられたコメントの中に、こういうのがありました(画面右下のコメント一覧から読むことができます)。

 星雲にいた教師で大野さんブログを見た人が大量印刷して別の学校で大野さんブログを配ってます。校長や教頭を含め四割の先生は課外と宿題は撤廃か教科書が終わりそうになくやむを得ず教科書を終わらせる意味で必要な時に課外をするべきだと言ってるのですが六割の教師は大野さんブログを見ても教師でない奴が大袈裟に書いてるだけ教師やってない奴がエラソーにと言ってるそうです! 
 その星雲にいた先生は延高の英語D肥先生からの大量宿題でトラウマになり心身に傷を負ってまして星雲教師になった時にD肥みたいな先生がいたので宿題が大量過ぎるのでないかと苦言をしたら「私には私のやり方があるのよ」と相手にして貰えなかったそうです…
 宮崎県普通科は永久に良くならないのでしょうか?
 正直もう宮崎県普通科に希望を感じません…


 これなど、事実とすれば、学校の先生の中にも四割もの改革派がいるというのは、僕にはむしろ大きな希望と思われるのですが、六割の先生が「教師でない奴が大袈裟に書いてるだけ。教師やってない奴がエラソーにと言ってる」というのには笑ってしまいました。

 まず「大袈裟に書いてるだけ」というのは、僕はできるかぎりていねいに裏をとってから書いたつもりなので、あそこに書かれた話は「大袈裟」でも何でもないということです。これでも法学部の出身で、下手なことを書くと名誉棄損で訴えられかねないので、そこらへんは注意したのです。もっとひどい話はいくつもあったが、「ここまで詳しくバラされたら、その先生は難儀するだろうな」ということは、武士の情けで伏せておいた。仮にあの記事のことで卑劣な妨害など受ければ、その場合はお情け無用と見て自制を解いたかも知れませんが、あれでも控えめな「実態告発」のつもりだったのです。

 最初の記事は五年と二か月も前のもので、その後改善された部分はむろんありました。それについては、その後の記事にきちんと書き含めておいたので、そちらも読んでからものを言ってもらいたいものです。「教師やってない奴がエラソーに」というのもいただけないので、「エラソー」なのは一体どっちなのだと言いたくなります。そもそも僕は学校の教師ではないというだけで、塾教師としての経歴は長いのです。大学の入試問題に関しても、一般の公立高校の先生たちより詳しいでしょう。何なら、公開討論をやってもいいので、いつでも応じるからと、そういう先生たちには言ってあげて下さい。彼らにそれだけの勇気があれば、の話ですが…。

 それにしても、「延高の英語D肥先生からの大量宿題でトラウマになり」なんてのは、実名がそれではバレバレなので、彼女はもう定年退職した(まだどこかで嘱託として働いている?)ことでもあるし、許してあげましょう。たしかにあれは、自習の方が百はマシの「給料泥棒」の典型で、僕は不幸にしてあれに当たった生徒には、「宿題は全部無視しろ」と教えていました。でないと受かるものも受からなくなってしまうので、学力を伸ばす妨げになるのは明白と思われたからです。最悪なのは、並外れて無能であるにもかかわらずなぜか受験生を担当したがる悪癖があったことで、多くの延高受験生はそのせいで多大な迷惑をこうむったのです。「大量宿題でトラウマになり心身に傷を負っ」たその先生も、そうした不幸な生徒の一人だったのでしょう。あんなものに真面目に付き合ってはならないのです。

 それより、人格的にはるかに深刻な悪影響を及ばしたのは、別のコメントに次のように書かれている英語教師です。

 数年前に延岡高校を卒業した者です。英語の先生の教育には、私もずっと疑問を持っていました。勉強以前に、先生に嫌われないように振舞わなければならなかった毎日の生活。結果的には、私は先生から好かれている部類に含まれて卒業しましたが。しかし、あの抑圧的な高校時代は思い出したくない過去の思い出の一つです。
 大きな悩みを抱えていたのは、先生から好かれている生徒でも反抗して嫌われている生徒でもなく、無理に好かれようと努力をしていた私たちのような生徒です。大人たちは、そういった苦痛に、生徒たちの声にならない悲鳴に、気が付くことができません。


これはやわらかみのある文章からして女性でしょう。もう一つ、一浪して予備校に通い、旧帝大のいずれかに合格したという男性のコメント。

 時間と労力を徒に奪うだけの無駄な勉強(何も考えず機械的に書きつらねるだけの丸写しなど)がたしかに多かった記憶があり、当時から僕は疑問を持っていましたが、機嫌を損ねると大変なことになりかねない先生もいたことからみんな同じように従うしかなく、その先生の授業の直前なんかは多くの生徒が緊張し、女子生徒が時には泣きそうになりながら必死に宿題のチェックをしあっていた光景をいまだ覚えています。

 ここで言及されている「英語の先生」「機嫌を損ねると大変なことになりかねない先生」は同一人物です。ブログ記事の続編でも指摘したこの教師の異常で病的な人格と態度は、少なくとも数百人の生徒に「トラウマ」を与えたはずです。福島原発の事故があった年に、学年集会だか何かで生徒をいわれなく「放射能」呼ばわりしたのもこの馬鹿(他に表現のしようがありますか?)なのです。尤も、無意味なハッタリは変わらず、時々原因不明の「怒りの発作」は起こすものの、最近は全体にかなり「フレンドリー」になっているそうで、僕も生徒たちから話を聞いて腹を立てることがめっきり少なくなったのですが、それは県教委から叱責があったのか、こうした生徒・元生徒たちの声がいくらかは彼にも聞こえるようになったからかも知れません(地域も時代も違うとはいえ、自分の高校時代のことを考えると、こういう教師がいること自体が僕には驚きです。人権意識が高く、適度に生徒のガラも悪かったので、生徒自身の手で“成敗”されたのは確実と思われるからです。この点、延岡高校の生徒の行儀のよさには定評があって、僕もよく感心させられるのですが、彼らの温厚さをいいことに横暴を極めるとは、まことにもって品性下劣な奴です)。この教師、今後は前非を悔いて、「懺悔の生活」を送ることです。でないとトラウマを与えた多数の元生徒たちの生霊(いきりょう)に祟られて、無事な成仏はできなくなるでしょう。

 こういう次元の低すぎる話までしなければならないのは、政治家先生流に言えば「誠に遺憾」なことですが、コメントを見ていると昔はもっとひどい教師もいたようで(ほんとにここまでひどいのが、しかも何人もいたのかと、あまりのことに僕はつい笑ってしまいました)、こういう悪しき伝統は「宮崎県の恥」なので、二度と復活することのないようにしなければなりません。突然つまらないことでブチ切れて怒鳴り散らす上記「放射能」教師(その過去の罪状を一覧表にすれば、ふつうの人なら事実とは信じがたいと言うでしょう)も、自分がそういう教育を受けて育ったから、人格が歪んで、あんなふうになってしまったのかも知れないのです。これは心理学ではおなじみの家庭における「虐待の世代間連鎖」と似たような話です。

 そろそろ「課外」の話に入りましょう。これが「なくていい」ものだという理由については、僕はここにすでに何度も書きました。冒頭引用したコメントに「校長や教頭を含め四割の先生は、課外は撤廃か、教科書が終わりそうになくやむを得ず教科書を終わらせる意味で必要な時に」限るべきだと考えている、とありましたが、それには僕も大賛成です。

 無駄な課外がなくなれば、先生たちももっと時間的・精神的なゆとりがもてて、それを活用すればもっと自己研鑽のゆとりももてるようになり、学科の指導能力を上げて授業や宿題の質を高めることができるようになるでしょう。今の学校の先生はそれでなくとも雑用が多すぎるのに、それに加えて朝夕の課外もでは、かんじんの授業の中身や教材選定がなおざりになるのは避け難いことで、実際にそうなっているのです。

 課外手当に関しては、これは冒頭のコメントを寄せてくれた人と同じ人のようですが、「2011年までは確定申告なしで全ての普通科先生が一律時給1600円」「土日業者模試監督手当で1日1万は貰うので土日潰して模試したら2万は貰う計算」とありますが、たぶんそのとおりだったのでしょう。

 塾の生徒たちにこの話をしたら、「えーっ、あんなんでそんなに?」と憤っていましたが、模試の監督なども「超テキトー」だという話です。この問題に関しては、僕もこのコーナーに「延岡高校『課外』の『運営主体変更』の裏事情」と題して書きました。詳しくはそちらを参照していただきたいのですが、僕がこの記事を書いたのは2012年の9月頭で、これは沖縄の県立高校で、県立高校が公務員には必要な「兼業許可」を得ずに有料補習をしていたというので、懲戒免職に該当するとして騒ぎになったことがあったからです。だから延岡高校でも、「このままではまずい!」と、「これまでは『運営主体』が『PTAの依頼をうけ学校が実施』になっていたのが、『PTA主催』に変更され、『謝礼金』が『謝礼金と称されるものを報酬として整理(納入金額の変更はありません)』と変わる」ことになったのです。

 要するに、今の課外は「PTA主催」なのです。どういう手続きによるのかは知りませんが、学校の先生たちは「兼業許可」の手続きをとってその許可を受け、「兼業」として「PTA主催」の課外に「出講」するという形式にしたということです。実質はほとんど変わらないが、これはパチンコ店の換金システムみたいなもので、「運営主体」を変更することによって、違法であるものを合法にしたのです。

「PTA主催」なら、PTAが「いらない」と言って廃止すればそれで終わりのはずですが、このPTAなるものは「保護者の代表で、保護者の意見を代弁するもの」では毛頭なく、昔の大政翼賛会と同じで、たんなる学校の翼賛機関にすぎないので、言っては悪いが、それは先生たちをヨイショするだけの存在と化しているのです。この点は生徒会と同じで、僕らの頃は生徒会役員は「学校と正面から喧嘩ができる奴」という基準で、とくに生徒会長にはできるだけ鼻っ柱が強い奴を選んでいましたが、今は推薦狙いの下心もあったりする、きわめつけの「よい子の集まり」で、生徒の意見を代弁する存在ではなくなっているのと同じです。

 私立だと、高い授業料を払っていることもあって、親の権利意識は高く、指導方針を巡ってPTAが学校側と大喧嘩をすることも珍しくありませんが、公立のPTAはたいがいがこんなものです。ましてや波風を立てることを恐れる延岡においてをや。

 しかし、実質的に保護者が課外費を徴収されていることも、先生たちが給与とは別にその報酬を受け取っていることも同じです。金額はつまびらかにしませんが、朝夕課外のある三年生の場合には年間二万程度だとして、その程度ならいいかと、多くの保護者は諦めているということなのでしょう。一人一人は低額でも、強制で全生徒に受講させることができれば、数が確保できるから、先生たちには上のコメントにあった通りの結構な時給になるのです。

 問題は「費用対効果」の問題で、費用だけではなく、多くの時間と労力も生徒たちはそれに奪われるのですが、それに見合っただけの成果が今の学校の課外にあるかどうかということです。朝課外なんて、生徒たちの睡眠不足の原因になって、学習効果を低下させているだけではないかと思われるので、仕事をもつ親が不必要に早起きして弁当を作らねばならないという半端でない迷惑もあるし、「無理をしてでも受けたい」ような中身のあるものでは全然なさそうに見えるのですが。

 あんな課外では頼りにならないと、塾や予備校にわが子を通わせている保護者の場合は、費用の二重払いにもなっているわけです。この点、「地方には塾や予備校がないから、学校が肩代わりしなければならない」という理屈は今では成り立ちません。それはすでに存在するからです。こう言えば、「いや、塾に通える子はいいが、そうでない子はどうなのだ。親の経済格差が受験の有利不利を決定するのは好ましくない」と先生たちは反論するかも知れませんが、こちらも今はナンセンスになっているのです。

 というのも、今は「受験サプリ」のような、超低額(月額千円以下)のネット予備校が存在するからです。僕の息子は、すでに大学二年生になっていますが、高校時代、「あれは使える」と言っていました。彼はもとより「課外いらない」派で、平常授業そのものも大方が退屈なものだったらしく、「何のために学校に通っているのかわからない」とたまにぼやいていましたが、父親の塾の宣伝はしないくせに、「受験サプリ」の宣伝はして、「だいぶ会員を増やした」と自慢していました。入試に地歴二つが必要になった時も、学校では世界史しかやっていなかったので、日本史を独学でやらねばならなくなり、どうするのかと思って見ていたら、そこに日本史のよさそうな講座があるというので、それを3~4か月で詰め込んで、本番に間に合わせたのです(一年ずれていたら、その大学、入試科目の変更が行われて、地歴一つ+倫政経で受験可能になったので、そんな騒ぎはしなくて済んだのですが)。そのあたり、「受験サプリ」さまさまだったのです(その間、生徒思いの担任の先生のはからいで、夕課外を免除してもらえたことも大きいので、それには親子ともども感謝しているのですが)。

 こうしたネット予備校は、スケールメリットを活かして、低額で各教科の一流講師の授業を提供できるので、多くが受験の素人の学校の先生たちの課外より、いいにきまっているのです。英文法などもいいと聞いているので、塾や一般の予備校は費用的に無理という生徒も、こういうのをうまく活用すれば困ることはないのです。

「延岡の高校」とは別のコーナーに、こういうネット予備校は地方の塾にとっても脅威になっていると書きました。安いネット通販の普及で、通常店舗が苦戦を強いられるようになったのと、そこらへんは同じなのです。「ITは雇用を減少させる」という真実を、この業界の人間も実感させられる時代に入っているのです(かくなる上は、塾は愛嬌と対面授業ならではの「人格的影響力」で勝負するしかない?)。

 話を戻して、だから学校側が「課外の必要性」を主張する根拠は、今はほとんどなくなっているということです。課外による「副収入」を当て込んで無理なぜいたく生活をしている先生は別として、なくても誰も困ることはない。むしろ喜ぶ人の方が圧倒的に多いのです。

 残された正当化の根拠は、「強制的にやらせないと、生徒は勉強しない」というものぐらいのものでしょうが、それは古い頭の学校教師にはよくあるたんなる思い込みにすぎないので、いくら強制したって、やらない者はやらないし、やる子は無理強いせずとも勝手に勉強するのです。むしろ多すぎる課外や宿題は生徒たちの勉学意欲を台無しにする。

 冒頭のコメントに、ここのブログ記事をコピーして配布しているという、延高OBらしき先生が、星雲高校の先生時代に、ある先生に「宿題が大量過ぎるのでないかと苦言をしたら『私には私のやり方があるのよ』と相手にして貰えなかった」とありますが、その「私のやり方」がまるで合理性のないものなら、それは批判されてしかるべきなのです。

 頭の柔軟な先生の場合、話せばわかっていただけるケースもあるので、僕自身こういうことを経験したことがあります。息子が小学生の頃のことですが、最近機嫌が悪くて困ると母親が言う。聞けば、今度の先生は教育熱心で、宿題が多く、わが子の家庭学習の「忍耐時間」は30分しかないのに、それではとても終わらない。放課後さっさと片付けて遊びに行きたいのに、それができないものだからイライラして、母親に当たることも多くなっている、というのです。

 ふうん。たしかにそれはよろしくないから、君が先生に宿題を減らしてくれるようお願いに行ったら、と僕は言ったのですが、奸智に長けた彼女は、さりげないふうを装って、「その先生はすごい美人なんだけど…」と言いました。何?ということで、まんまと策略に乗せられて僕が出向く羽目になったのですが、その先生も「私にも考えがありますから」とおっしゃいました。それはご尤もなことですと前置きして、「子供にとっての遊びの重要性」について熱弁をふるったところ、「お父さんのお話には説得力があります」ということで再考していただけることになり、宿題は減って息子とそのお仲間は再び腹いっぱい遊べるようになって、ハッピーだったのです。

 むろん、高校生と小学生では違うでしょう。しかし、中学に入って部活一辺倒になり、「小学校の頃と家庭学習の時間が全く変わっていない」と母親が嘆くのを聞いたときも、僕は「落ちこぼれていないのなら別にかまわない」と言って、好きにさせたのです。元々が教科書勉強の嫌いな子で、だからできるだけ手早く宿題を終わらせようとして、それで集中力がついた面もあるし、定期試験の際も自分なりに効率のいい勉強の仕方を工夫していたようで、「なかなかやるな」という感じで、父親は見ていたのです。勉強のことでとやかく言ったことは一度もない(大体彼は祖母から、自分の父親がどんなにひどい怠け者だったか聞いて知っていたので、言っても説得力はなかったのですが)。

 そういう「ゆるい」環境で育った子供が、延岡高校のようなところに行ったらどうなるのか? それを案じた父は課外のない私立に行ったらどうかと言いましたが、友達の関係その他で、彼は公立を選択しました。かくなる上は――ということで、入学に際して、僕は次のように言いました。①睡眠時間は必ずたっぷり確保すること。②その妨害になりそうな宿題や課題は手抜きすること。③学校はイヤになったら、いつでも退学してよい。高卒資格認定試験のようなものがあるから、心配は無用。④学校の言うことにおとなしく従っていても、あんなヤブ指導では行きたい大学には絶対受からないから、それについては必要なサポートはするから、自分で勝手に勉強すること。彼はそれを聞いてナットクの表情で、「わかった」と言いました。要するに、入学前に県立高校式の「管理・強制」の悪影響が可能なかぎり減殺されるようなアドバイスがなされたのです。

 僕はこのブログに似たようなことを書いているわけですが、延岡高校の生徒時代にそれを読んだという二人の大学生が、わざわざ看板も出ていない塾を探して、ブログ記事への賛意を表明しに来てくれたことがありました。彼らは京都大学と九州大学の学生でした。学校ご自慢の優秀な生徒が、学校の指導のあり方を真っ向から批判する記事を読んで、「自分が思っていることと同じだ」と感じて、主体的なやり方を貫いたからこそ、現役で難関に合格できたのです。こういう事実を学校側は重く見る必要があるでしょう(わが零細塾でも、京大、阪大、九大など、旧帝大への進学者はここ七、八年でのべ十人にのぼるのですが、学校の課外が「効果的」だと思ったというような生徒は、仮にいたとしても一人か二人でしょう)。

「いや、そういうとびきり優秀な生徒は別なので、中とそれ以下の生徒に対しては効果的なのだ」と学校側は言うかも知れません。これもさにあらずで、秀才は猛スピードでつまらない宿題は片づけてしまって、自分の勉強時間を確保できるが、ふつうの生徒はそうはいかずに、それだけで疲れ果ててしまうから、各人に必要な弱点補強の勉強や復習のゆとりがもてず、学力が伸びなくなってしまうのです。むしろ害悪は中以下の生徒にとっての方がはるかに深刻だと言える。つまらない英単語や例文の丸暗記テストなども、いくらしたってそれは生徒たちにしてみれば「機械的にやらされている」だけなので、テストが終わればきれいさっぱり忘れてしまって、影も形もないのです。ちがいますか、延岡高校、延岡星雲高校の生徒たち? そういう作業は自分でえらんで、主体的にやるときにだけ効果が上がるのです。他人の強制に頼るべきものではない(僕も塾で英文法のチェックテストはやりますが、それは理解力と応用力を見るためのもので、学校の定期テストみたいに、全く同じ問題なんかはほとんど出さないのです。そんなもの作る気もしないし、やらされる方にとっても面白くとも何ともないでしょう)。

 これくらいにしたいと思いますが、だから課外は基本的にいらないし、無駄に量だけ多い宿題の類も有害無益なのです(それについて書くとまた長くなるので書きませんが、オリンピックの強化選手を育成しているのではあるまいし、部活にも勉学とのバランスを失したものが少なくない)。必要なのはふだんの授業や宿題の質の改善と、ただの棒暗記競争を強いるような「眠たい」定期試験の見直しです。あれをやられるから、勉強とはそういうものだと思ってしまって、生徒たちには「考えて問題を解く」習慣がつかない。機械的な暗記力の訓練だけで学力が伸びたら、そっちの方がよっぽど不思議でしょう。しかし、課外で時間を取られ、物量作戦に頼った宿題でアップアップの生徒たちに、塾で何とかそれを矯正したいと思って「考えて問題を解け」と言っても、彼らにそんなエネルギーとゆとりは残っていないのです。「こういうわけだから、こうなるのだ」と説明しても、それを咀嚼して頭に入れるだけのゆとりもない。根本的に、こういう教育は何かが間違っているのです。教師自身が「考えていない」からこうなるのだとしか、僕には思えません。

 最後に、ある元塾生が大学に入ってから感じたということを、ご紹介しておきましょう。彼は有名進学校出身の学生たちが、本をたくさん読んでいることに驚きました。聞くと、学校で先生が授業のついでに本の話をしてくれて、面白そうだと思ったから自分も読んでみた、というようなケースが多くて、自分は高校時代、学校の授業でそんな刺激を受けたことはほとんどなかったので、「教育の質」が全然違っていたのだなと痛感させられたというのです。むしろ、有名進学校の方がはるかに自由度が高く、そうした刺激が多いので、先生の教養レベルもまるで違っていたのだなとわかった、というのです(浪人が本をたくさん読んでいたというのならわかりますが、むしろ現役入学組に読書家が多い、という話です)。

 彼の名誉のために急いで付け加えておけば、「延岡基準」では本を多く読んでいた部類です。知的好奇心旺盛で、受験以外のあれこれの知識も明らかにある方でした。にもかかわらず、自分の無知が痛感されたというので、こういうのはむろん、大学にもよりますが、生徒を伸ばすには何が必要なのかということを考える上での参考になるでしょう。

「教養がない」などと言われると、先生たちは気を悪くするでしょうが、忙しすぎると充電のゆとりもなく、学科能力も教養も高めることはできません。権威主義的な教師のつまらないハッタリの自慢話など聞かされて喜ぶ生徒はいませんが、僕もその記憶があるのですが、教養豊かな先生が授業のついでにした面白い話などは、刺激になり、また長く記憶に残るのです。それが勉強のモチベーションを高めることは明白なので、そういうファクターが貧困すぎる教師が生徒の勉学意欲を引き出すなどということはおよそなさそうな話です。

 そうした見地からも、生徒を疲れさせるだけの無駄な課外などは大幅に減らして、先生たちが自己研鑽に努め、生徒から見て魅力的な教師になることは大切だと思われるのです。課外削減に反対する六割の先生方、頭ごなし否定するのではなく、僕がここに書いたことの道理を一つ一つよくお考えください。その上での反論になら、僕はいつでも応じる用意があります。
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Author:大野龍一

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