FC2ブログ

役に立たないことほど実は役に立つ~文学部必要論

2015.06.21.20:30

「安保法制」のお粗末について書くのに多忙で、こちらについては書きそびれましたが、これを書いておかないとスッキリしないので、今回は「安倍大学改革」の愚劣さについてです。

 やや旧聞に属しますが、以下は6月8日朝日電子版の記事です。

 文部科学省は8日、全86の国立大学に、既存の学部などを見直すよう通知した。主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。
 国立大には、法人化された2004年度以降、6年ごとに「中期目標」を作って文科省に提出する義務がある。6月末が16年度からの目標案の提出期限で、大学の認可を受けるには、目標が通知の趣旨に沿っている必要がある。
 通知は「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する」ことを求めた。例えば、人文社会系の卒業生の多くがサラリーマンになるという実績を踏まえ、大学は地元で必要とされている職種を把握。需要にあった人材を育てる学部に転換するなどといった想定だ。
 文科省によると、自然科学系の研究は国益に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、人文社会系は成果が見えにくいという。国立大への国の補助金は計1・1兆円以上。子どもが減り、財政事情が悪化する中、大学には、「見返り」の大きい分野に力を入れさせるという考えだ。
 文科省の担当者は「文系を減らして理系を増やすという意味ではない」。見直し後、別の文系学部への転換も可能だからだ。成果が出にくい分野も、将来の成果を示せれば相応の評価をするという。(高浜行人)


 これに関しては「安倍御用新聞」の評価を不動にしている読売も珍しく批判的なことを書いていて、こちらは17日の記事の一部です。

 疑問なのは、文科省通知が、文学部など人文社会科学系や教員養成系の学部・大学院について、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換を迫った点だ。
 確かに人文社会系は、研究結果が新産業の創出や医療技術の進歩などに結びつく理工系や医学系に比べて、短期では成果が見えにくい側面がある。卒業生が専攻分野と直接かかわりのない会社に就職するケースも少なくない。
 社内教育のゆとりが持てない企業が増える中、産業界には、仕事で役立つ実践力を大学で磨くべきだとの声が強まっている。英文学を教えるより、英語検定試験で高得点をとらせる指導をした方が有益だという極論すら聞こえる。
 だが、古典や哲学、歴史などの探究を通じて、物事を多面的に見る眼や、様々な価値観を尊重する姿勢が養われる。大学は、幅広い教養や深い洞察力を学生に身に付けさせる場でもあるはずだ。
 必要なのは、人文社会系と理工系のバランスが取れた教育と研究を行うことだろう。
 文科省は来年度以降、積極的に組織改革を進める大学に、運営費交付金を重点的に配分する方針だ。学生の就職実績や、大学発ベンチャーの活動、知的財産の実用化の状況といった指標を基に、評価するという。
 厳しい財政事情を踏まえれば、メリハリをつけた予算配分も大切だろう。ただ、「社会的要請」を読み誤って、人文社会系の学問を切り捨てれば、大学教育が底の浅いものになりかねない。


 僕はこの読売の主張に賛成です。「古典や哲学、歴史などの探究を通じて、物事を多面的に見る眼や、様々な価値観を尊重する姿勢が養われる」というのは正論で、そうした学問を通じて「幅広い教養や深い洞察力を学生に身に付けさせる」ことは不可欠です。むしろ今の時代に一番欠けているのがそのことなのです。

 かつてアメリカが「まとも」だった頃、政界や財界で指導的役割を果たしていたのは多くがハーバード大学古典言語学部の卒業生だったと言われています。彼らは苦労してギリシャ、ラテン語を学び、厳密なテキストリーディングの手法でプラトンやアリストテレスの哲学書を、ソフォクレスの悲劇を、トゥキディデスの『戦史』を、カエサルやキケロを、マルクス・アウレリウスの『自省録』を、読んでいたのです。実はそうした勉強が一番応用も利く。それが実利一辺倒のMBA(経営学修士)全盛になってしまったから、深い考えもなしに政治経済の運営をするようになって、無茶苦茶になっていった。

 人間性への深い洞察はハウツー本や安手の心理学書などで身につくものではありません。それは哲学や歴史書、文学などを学ぶうちに次第に血肉化されてくるので、僕は塾の生徒たちに、大学に入ったら、翻訳でいいから「重くて長い」そういう古典の何冊かは必ず読んでみるよう言っています。ことに文系の学生の場合、真面目に授業には出ました、優をたくさん揃えました、資格試験の勉強もしました、でも、それ以外の読書はゼロです、なんてのは使い物にならないだろうと思うからです(今の大学生の4割は1日の読書時間がゼロだという調査結果があるそうですが、それではお馬鹿さんになるのも道理です)。

 それでも、面白いと思われるのは、文学部は昔から「就職には不利」と言われているにもかかわらず、今でも一定数の志望者を集め、その数はあまり減っていないことです。かつては「一番潰しが利く」と言われて、文系の代表みたいに言われていた法学部は、不人気を極めて志望者を激減させたのですが、文学部はあまりそうした時代の影響を受けなかった。

 これは「どうせ不況で就職がよくないなら、大学では好きなことをやってやれ」という開き直った若者がかなりいるということなのでしょう。大学の「就職予備校化」に彼らは反旗を翻しているわけで、僕にはそれは頼もしく思えるのです。

 しかし、「安倍教育改革」はこれを「予算」の脅しをちらつかせながら無理強い変えようとしているわけで、彼は昨年5月6日のOECD閣僚理事会基調演説でも次のように言ったという話です。

「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育(注;これは高校教育ではなく大学教育のこと)に取り込みたいと考えています。」

 いかにも学歴コンプレックスの「反知性主義者」安倍の言いそうなことですが、「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う」のは目先の利益ばかり気にする企業の要請には応えるものかもしれませんが、「国家百年の計」からすれば「亡国の教育政策」です。今の時代の最大の問題点は、テクノロジーは空前の発展を遂げ、社会は複雑化したのに、人間の中身は逆に幼稚化し、前者をコントロールしたり、根本的な問題点を考える力を失ってしまったことだからです。これは「目に見えないもの」「すぐに利益に結びつかないもの」を軽視してきた罰のようなもので、そのことに対する反省が全く欠けているのみならず、さらにその傾向を加速化させようとしているのです(これは、であればこそ安倍政権のような幼稚な政権が安泰でいられるということを意味してもいるのですが…)。

 安倍政権の愚かさは、「国旗・君が代の強制」を大学にまで及ぼそうとしているところにも見られます。以下は16日、毎日新聞の記事です。

 下村博文・文部科学相は16日、東京都内で開かれた国立大学86校の学長を集めた会議で、入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。さらに、文科省が8日に通知した文系学部の廃止などの組織改編を進める方針についても説明し、改めて改革を促した。補助金と権限を握る文科省からの相次ぐ求めに、出席した学長らの間には困惑が広がり、一部の教員からは「大学攻撃だ」と反対の声も上がっている。
 国旗・国歌については、安倍晋三首相が4月に国会で「税金で賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとり正しく実施されるべきではないか」との認識を示していた。下村文科相は16日、「各大学の自主判断」としながらも「長年の慣行により国民の間に定着していることや、(1999年8月に)国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」と要請した。


 これ、「馬鹿か?」と呆れるような話です。納税者がそんな愚劣なことの実施を大学に望んでいるというような話は聞いたことがありません。そういうのは戦前回帰願望にとりつかれたごくごく一部の右翼連中だけなので、下村博文は例の後援会不正献金事件もあって、「即刻辞任すべきだ」と僕は前に書きましたが、それについては頬かむりを決め込んだまま、安倍の使い走りとしてそんな勝手な「要請」までしているのです。のちに彼はそれは「強要」ではなく、たんなる「お願い」だと釈明したそうですが、誰がそんな「お願い」をしてくれと頼んだのか? 「国家権力の私物化」以外の何ものでもないのです。大学側はそんな「お願い」は無視してよい。「国民からのお願い」では全然ないのだから。

 大学は、国立のみならず私立でも、国庫から多額の税金を投入されているのだから、「国の役に立つ」人材を養成すべきなのは当然です。しかし、その「役に立つ」は特定の価値尺度だけで測れるものではない。それを時の権力や文科省が勝手に決めて、その「達成度」に応じて予算の配分も決定するというのは、ずいぶんと人をなめた話です。

 昔は「大学教授と乞食は三日やったらやめられない」なんて言葉があって、いったんその座に就くと、どんなボンクラでも定年までクビにならないというので、だからわが国の大学は駄目なんだ、という議論によく使われました。僕も大学教授と肩書のつく人には個人的に何度か(10回ぐらい)会って話したことがあって、そのオツムの程度に疑問を感じたことも少なくないとはいえ、それとこれとは別問題です。

 こういう「特定の基準だけで見る」ことの弊害は、「試験に出る勉強」しかしないガリ勉受験生の人となりを見れば、どういうことになるか、おおよその見当をつけられます。彼らは「試験に出る勉強以外のことをすると損」だと“真面目に”思っているので、それ以外のふくらみが驚くほどなく、教養も人格的な厚みも何もないので、相手をしていて退屈なだけでなく、能力的にも伸びなくなってしまうのです。興味に任せて試験とは関係なさそうな本も読んだり、人と議論したり遊んだりし、あれこれ悩んだり考えたりしてこそ、学科勉強も内面との有機的なつながりを与えられて生きてくるのですが、そういう「よけいなこと」が背景になければ、プライドだけよけいなお飾りの平面知識しかない出来そこないのロボットのような人間になってしまうでしょう。大学を人に例えれば、そういうふうに大学そのものがなる危険があるのです。そういう懐が浅く、学生を型にはめようとしてくる大学では、キャンパスライフはさぞや面白くないものになってしまうでしょう。

 最近は日本の大学も出席重視で、概して単位認定も厳しくなっているそうですが、これも「だからよくなった」とは限らないので、昔のゆるかった大学にはそれなりに取柄があったと、僕は思っています。ふだんは遊びまわったり、専攻とは関係のない本に読みふけったりしていて、試験直前に一夜漬けに励んで何とか専門の試験もクリアしたのですが、おかげで「幅広い教養」が身について、「専門馬鹿」にならずにすんだとも言えるのです。僕自身の場合は、貧乏学生で年中生活費稼ぎのバイトに追われていて、自分の身分では夜間部に行くべきで、そもそも昼間部の学部に入ったのが間違いだったのだなと思いましたが、ゆるかったおかげで好きな本もたくさん読めたし、面白い話相手にも出会え、試験だけ受けて単位をかすめ取ることもできたわけで、試験当日、教室に現れた法学の担当教官から「おまえの顔なんか一回も見たことないぞ」と真顔で言われて、「いや、一応登録はしてました」と苦しい釈明を強いられたこともあったのですが、出席を取らない授業だったので、単位は無事取得できたのです。今ならそうはいかないのでしょう。僕にとって卒業証書は胸糞が悪い「いらないもの」の最たるもので、母親の「世界の終わり」みたいな顔を見るのがいやさに卒業したにすぎないのですが、それも昔のいい加減な時代だったからこそ可能だったのです(当時は大学の学部事務局で試験の「過去問集」を無料配布していて、うしろには教員の住所と電話番号の一覧表まで付いていました。これ、「単位の危ない不良学生は担当教員と直接交渉して何とかしろ」という意味だとしか解釈できないシロモノで、僕も出席が全然足りていない語学関係では何度かそれを「活用」させてもらいました。どういうふうにやったかというと、試験を受けると同時に、自分が勝手に読んでいた原書(たとえばレクラム文庫版のカント)のコピー数ページと、その箇所の自作の訳文を教授の自宅あてに速達で送りつけ、「このようにちゃんと勉強しているのだから、全然授業には出ていなくても『可』は与えるべきではありませんか?」と“慎ましい提案”を行うなどです)。

 話を戻して、安倍教育改革なるものの最大の標的は、最も「実践的」でない、何の役に立っているのか見えにくい文学部でしょう。文系でも経済学部や商学部は「実利的・実践的」で、法学部なども、安倍の嫌いな憲法学者には消えてもらいたいでしょうが、民法・刑法・商法など、実用的価値が認められます。社会学部あたりは微妙な位置取りです。

 しかし、僕は歴史学や哲学、宗教学、文化人類学などを擁する文学部こそ、文系学部の要(かなめ)となる領域を最も多く含む学部だと考えています。文学や心理学も、むろん重要です。

 元々文系学部の学生は、それが経済学部であろうと法学部であろうと、かつてはそうした人文学的な方面の本をたくさん読んでいました。大学の一般教養の授業などは底の浅いものが多いように感じられましたが(僕は大学の一般教養の哲学の授業の程度の低さに呆れたことを今でもよく憶えています)、学生たちは好き勝手そちらの方面の本を読んでいて、そちらのことで議論白熱することもよくあったのです。そして僕の個人的な感想では、そうした「よけいなこと」をしていた連中の方が後で社会に出てからも活躍している。僕は法学部でしたが、法律オタクみたいな奴は、あまりそういうのはいませんでしたが、パッとしないのです。

 安倍晋三の教養のなさに関しては驚くべきものがありますが、僕は学生時代、バイト先で安倍と同じ成蹊大学の学生に会ったことがあって、当時成蹊大学には教授にマックス・ウェーバーの研究家の安藤英治氏がおられましたが、彼はその安藤先生のゼミに入っていて、ミッツマンの『鉄の檻』の訳本を出して間もないこともあって、ゼミでもその話を熱心にしていたらしく、「ウェーバーの神経衰弱」の話題で盛り上がったことがあります。今調べてみると、安藤先生は経済学部の教授だったらしいので、彼も経済学部の学生だったのだと思いますが、面白い話相手で、ウェーバーに関しては僕よりずっと詳しかったので新たなウェーバー本を読むきっかけにもなり、勉強になったので、成蹊大学に関する僕の印象はおかげで悪くありませんでした(安倍晋三がその評価を大幅に下げてくれるまで)。

 哲学、宗教から、歴史、政治経済まで、恐ろしく幅の広い博覧強記のウェーバーなんかは文系の最良の見本みたいな人物ですが、ただの社会学者、経済学者ではあれほどの仕事はできなかったのです。「文学部的な素養」がその中核にある。だからこそ彼はトータルに物を見、深く問題を洞察することができたのです。

 今の時代に何より必要なのは、そういう「トータルに物を見て、深く考える」ことのできる資質だと、僕は思います。それをもつ人が少なくなったからこそ、どこを見ても支離滅裂、浅薄なこのていたらくになってしまった。知識や技術を使う側に知恵がなさすぎるのです。それが原因で人類は滅びることになるかもしれないのに、です。

 そういう指標化しにくい、見えにくいものの価値と重要性が、安倍や程度の低いその取り巻きにはわからないのが当然としても、どうして今の文科省官僚や何とか審議会のセンセたちにもわからないのでしょう? 無知蒙昧な連中が大学教育にまで嘴を容れて、とやかく指図するというのは日本の恥だと僕は思いますが、その自覚がないのは困りものです。学術研究や教養に対する個人的なコンプレックスからそれに復讐を企てているようにしか、僕には見えないのです。「安保法制」が合理的根拠に基づくものではないのと、そこらへんは同じかもしれませんが。
プロフィール

大野龍一

Author:大野龍一

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR