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韓国人のメンタリティ~金慶珠『恨の国・韓国』雑感

2015.05.22.15:59

「何で韓国はああもしつこいのかな…」

 僕はいわゆる“嫌韓”派ではなく、日韓に仲良くしてもらいたいと思っている日本人の一人ですが、それでも先のユネスコ世界遺産登録勧告に際しての韓国国会の非難決議には呆れてしまいました。だからまずその話からさせてもらいましょう。

 日本政府は「明治日本の産業革命遺産(23施設)」の世界文化遺産登録を推進していて、ユネスコの諮問機関イコモスから登録の勧告が出たというニュースは、僕もテレビで見ました。関係者や地域の人たちが嬉しそうにしている姿が映し出されていた。これに関しては、一人の日本人女性が獅子奮迅の働きをしたのだという話を後で週刊誌で見ましたが、これで有力な「観光資源」がまた増えることになるわけで、めでたいことです。ところが、韓国はこの登録を阻止しようとして、外交統一委員会と本会議で二度の非難決議を行い、反対のロビイング攻勢をかけようとしているという話で、「明治時代の日本国内の産業施設が何でまた…?」と多くの日本人は首をかしげたのです。

 その理由は何か?「韓国外交部が国会の東北アジア歴史歪曲(わいきょく)対策特別委員会に提出した資料によると、23施設中、7施設には日本による植民地時代に朝鮮人5万7900人が強制動員された」(聯合ニュース)からです。したがってそれを世界遺産に登録しようとすることは、「侵略の歴史を産業革命として美化し、苦痛を受けた韓国国民を愚弄(ぐろう)」するものであり、「日本側の世界遺産登録推進は北東アジアの平和と安定に否定的な影響を与える外交的挑発行為」であるからなのです。

「23施設中7施設」“も”、そういうけしからん施設が含まれているからには許しがたい。そこには不埒(ふらち)な日本人の「歴史歪曲」心理が潜んでいるに違いないので、どうしてこのような「外交的挑発行為」を看過することができようか、というわけなのです。

 北朝鮮ではあるまいし、こういうのは控えめに言っても「言いがかり」で、「ほとんどビョーキ」ではないかと日本人は思いますが、なぜ韓国の政治家たちはそう思わないのでしょう(本会議では無効票が二つあったが、反対票はゼロで、ほぼ「全会一致」です)。中国もことあるごとに日本非難を口にしますが、あちらは計算づくで、政治パフォーマンスの一つでしかないので、そのあたり安心(?)して見ていられます。しかし、韓国の場合には妙な具合に“真面目”で、計算でやっているというような要素は乏しく見え、しかもこういう具合に細かいことまで難癖つけてしつこく言い立てるので、関係の修復はなおさら難しそうに思えるのです。

 これはパク・クネ政権になってからとくにひどくなった。当初、日本には朴正熙大統領の娘さんだということで、関係改善の期待が強かったのが、まるっきり逆になってしまったわけで、たしかに「侵略」の事実すら認めたくなさそうな安倍ネトウヨ政権が韓国側の態度を硬化させてしまったということはあったにせよ、あちこちで日本の悪口を言い触らすことしかしない「告げ口外交」のせいで、海外でも「たしかに歴史修正主義者のアベは問題だが、こういう一方的な依怙地な態度もねえ…」という反応が強くなって「パクよりはアベの方がまだしもオトナ」という評価になり、日本国内では“嫌韓”感情がいっそう強まって、排他的ナショナリズムの風潮を後押しし、安倍政権の支持基盤を広げることになった、つまり、パク・クネさんはその意図に反して最大の「安倍応援団」の一人になってしまったのです。

 僕のような旗幟(きし)鮮明な「反安倍」の日本人にとってもこれは迷惑千万に感じられるので、最近はKorea fatigue(韓国疲労)なる言葉までできたそうですが、「千年たっても恨みは忘れない」みたいなことを公言して、それに固執するような政治家が相手では、誰だっていやになってしまうでしょう。だから僕も、産経新聞の記事と見まがうかのような、こんな文章を書く羽目に陥っているのです。

 経済の「絶不調」が伝えられる中、韓国の政治家たちには従来以上に「反日」のアピールをして、不満のガス抜きをする必要に迫られているのかも知れませんが、輸出に大きく依存している韓国は、日本国内の“嫌韓”感情の強まりから、ドラマや芸能関係の「韓流ブーム」も下火になっているし、日本からの観光客も減っているわけで、いいことは何もないように思われます。いや、大事なのは経済ではなく、正義と理念だ、というのかも知れませんが、その「正義や理念」も独善的なものにすぎなければ、それはせいぜい国内でウケるだけにとどまるので、孤立化を招くことしか結果しないのです。

 例の「従軍慰安婦」の問題に関しても、最近日本の右翼たちは、ベトナム戦争時、韓国軍が現地の女性たちを慰安婦にしていたという話を言い立てています。これと、かつて韓国政府が駐留米軍のために官営慰安婦施設をつくっていたという話をセットにして、「エラそうなこと言えた義理か!」と嘲っているのですが、こういうのは「たしかにオレは泥棒をしたが、おまえだって泥棒なので、とやかく言われる筋合いはない」みたいな論理で、それで免罪されるとは僕は思いませんが、自分は正義のかたまりで、相手は悪のかたまりだ、みたいな態度を取り続けるから、「いい気味だ」ということで、別に右翼でない日本人でもそれを見て溜飲(りゅういん)を下げることになるのです。

 わかりきったことですが、日本人、韓国人をひとくくりにして、どっちが上等だ下等だと論じることはナンセンスです。どこの国にも立派な個人もいれば、どうしようもない卑劣漢もいる。大方の人間はグレーゾーンで、状況によっていいこともすれば、悪いこともする。それが人間だと僕は思っていて、戦争なんかの非常事態になれば、人間は野蛮な集合的無意識に呑み込まれて、平時ではできないような乱暴狼藉も平気で働くから、大事なのはそういう状況になってしまわないように外交努力を尽くすことです。互いの対立感情を募らせて、危機的状況にもっていくことではない。ことに政治家はそのあたりのことに大きな責任があります。日韓が戦争になるなんてことはまずないでしょうが、焼きの回った北朝鮮の政治状況を見ても、協力が必要な事態はいつやってきてもおかしくないので、何でいがみ合いを加速させるようなことばかりしているのかなと、僕にはそれが不思議でならないのです。

 何でこうなるのか? その背景にはいわゆる「恨(ハン)の文化」もあるのだろうと想像したのですが、「嫌韓本」の類ではなく、韓国理解に役立つような本を読んでみたいと、僕は思いました。それでたまたま本屋で見かけたので、韓国人女性研究者(専門は社会言語学の由)の書いたこの本(祥伝社新書)を買って読むことにしたのです。

 これは必ずしもまとまりのいい、明快な議論とは言えないと思いますが、それは新書版という制約や、著者が日本人との違いを説明しようとして日本関係の中途半端なよけいな論述(と言ってしまうのは気の毒ですが)を入れ込んだためだけではなく、何より「恨(ハン)」というものが多面的な、捉えがたい性質をもっているからなのでしょう。僕自身にはあれこれ、読んで勉強になりました。

 漢字で「恨」と書くと、日本語では「怨恨(えんこん)」などの恨みで、ウィキペディアの記事なども、その方向でまとめられています(かなりの悪文ですが、これはこれで意味があると思うので、先にそれを見ておきましょう。意味不明の箇所には少し手を入れました)。

 恨の文化は、代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、漢代の昔より幾度となく半島を襲った中国からの異民族(漢族・モンゴル族・女真族ほか)による侵略・征服で永続的な服従を余儀なくされた国辱を引きずり、のちには日本(大日本帝国)による併合を経験するなど、長い抑圧と屈辱の歴史から生まれた、内外の圧倒的な力に依存せざるを得なかった朝鮮半島独特の文化である。
 また恨の形成の裏には、儒教の教えや習慣が、本来の形を越えた形でエスカレートさせられていったことも背景にあったと言われ、それ[=儒教]は上位者の下位者に対する苛烈な扱いを正当化する解釈や、下位の者は過酷な立場を受容しなければならないとする解釈に用いられた。
 朝鮮の独立が民族運動として失敗して弾圧され、自らの力でなく第二次世界大戦の講和交渉として、頭ごなしに連合軍の力によって達成されたことは、後の世代の「恨」となった。また韓国について言えば、独立後の外圧によって成立した李承晩政権の腐敗した独裁政治、朴正煕の鉄拳統治、さらにそれ以後の軍事政権・光州事件など、内なる弾圧の歴史も「恨」となっている。それで得られなかった過去の勝利の代替物として、あるいは抵抗精神の表れとして、例えばスポーツなどにおける日韓戦に必要以上に熱狂したり、与野党の争いや労働組合の労使紛争において激しく激昂して極端に過激な行動をとったりするのである。


 これを要するに、内部の支配階級の暴虐と、外部の異民族の侵略という「二重の虐待」を長年受けてきた結果、被害心理とないまぜになった、きわめて「恨み深い」攻撃的で屈折した民族メンタリティが形成されてしまった、という説明です。

 わかりやすいと言えばわかりやすいが、これは日本人の側からする解釈にすぎないということがありそうです。こんなふうにそれがネガティブな側面しかもたないのなら、それは「文化」というより、たんなる「病気の症状」でしかなくなるので、韓国の人たち自身が「文化」だなどと言うはずがない。

 金慶珠さんのこの本には、「恨(ハン)」の肯定的な側面がはっきり述べられている。そこが僕には面白かったので、韓国語で「ハン」とは「ひとつ(one)」を意味するので、それは要するに「完全な統合体」なのだというところから議論は説き起こされます。

 韓民族はその「完全な統合体」を彼岸にではなく、此岸(しがん=この世界)に追い求める。だからこそ、「その理想には達していない、現実の不完全で理不尽な状態に対する嘆きや悲しみ、あるいは怨恨を含めたさまざまな感情が、韓民族の現実認識としての恨(ハン)を彩」ることになるのだというのです。

 韓民族はそういう「理想主義」的体質を日本人などよりずっと多くもつのです。この点に関連して、僕に興味深く思われたのは、p.40以下の「人乃天(人はすなわち天である)」という「東学思想」の説明です。これは「朝鮮半島伝来の民族宗教と仏教や儒教を巧みに融合させた教理」で、「人がその体に天主を迎え入れることで君子となり、国を正して民衆の安寧を実現する主体となる」という思想であるとのこと。

 この「東学思想」というのは、僕ら日本人にも学校の歴史教科書で「東学党の乱(1894年)」というのを習ったのでなじみのある、あの「東学」です。キリスト教を意味する「西学」との差別化を図る必要から、「東学」と称したのだという。その時代背景については、思想解説に先立って、次のように説明されています。

「朝鮮時代の後期(=19世紀後半から末にかけて)、支配階級であった両班(ヤンバン)の搾取によって農村の経済は疲弊し、至る所で破綻を迎える状況に陥ります。また、帝国主義の拡大による列強国の圧力も高まる中、当時の朝鮮社会はあらゆる面での機能不全に陥っていました。
 そんな終末論的な危機感が横行する混乱期において誕生した東学は、虐げられる民衆を苦難から救うことを目指し、従来の社会秩序を否定しながら、身分制度の撤廃や万人の平等を訴える社会論理へと、つながっていたのです」(p.38)


 この「一時期は10万人を超える規模にまで膨れ上がったとされる東学運動のうねりは、地域的な民乱から支配階級に対する反封建の抵抗運動へと変貌し、さらには当時の清および日本に対する反侵略運動へと発展していった」のですが、その「東学思想」の骨格をなす敬天思想とはそもそもどのようなものだったのでしょう?

「『天(神)』を表わす韓国の固有語も〈ハン=ウル〉で、…ここでいう〈ウル〉は霊や魂を意味する『オル』の変形だと推察されていることから、韓国語における天神とは…「完全なるひとつの魂」を意味し、…この絶対的で統合的なハンの魂を敬う宗教観こそが『敬天思想』に他ならない」(p.40~41)

 …とされるのです。そこから「古朝鮮の建国神話である『檀君神話』」の説明へと入っていくのですが、その話はここでは割愛します。言いうることは、こちらが先にあって、そこに儒教が入ってきたということで、「むしろ敬天思想というハンの土壌があったからこそ、その構図を科学的に読み解こうとした(朱子学の)性理学が近代の朝鮮社会において熱狂的に迎え入れられたと見る方が妥当かもしれ」ないのだと、著者は説明します。

「そのような観点に立てば、ハンに見られる現実的な不義に対する憤慨や怨恨もまた、儒教的な論理ではなく、天と地を『ひとつの統合体』として捉え続けてきた民族の集団無意識の問題提起であると見るほうが妥当だと思われるのです」(p.46)

 なるほど。その大本には古代のシャーマニズムにまで遡る、韓民族特有の「宗教的な高度の理想主義」とも言うべきものがあったのです。それはたんに、「ままならぬ現実に対する恨みつらみ」といった消極的なものにとどまらない側面がある。

 ここで僕に自然に連想されるのは、古代西洋のグノーシス主義思想との類似です。かんたんに言ってしまえば、それは「完全な魂」がこの「不完全な、悪魔がつくった物質世界」に下りてきて艱難辛苦(かんなんしんく)を味わい、本来の所属である彼岸、天の世界への帰還をこい願う、というものですが、朝鮮民族は、「完全な魂」を信じる点では同じながら、グノーシス主義者たちが「悪魔の所産」と見たこの物質世界に、「天の完全な秩序の実現」を求めるのです。

 その意味でこの「敬天・東学思想」はグノーシス主義よりずっと“前向き”なのですが、その分、現実離れしているとも言えるので、じっさい韓民族は内外両方の権力から虐待や迫害を受け続けるという苦難の歴史をたどってきたのです。理想と現実との「落差」はこの上なく大きかった。「天と地を『ひとつの統合体』として捉え」、この地上において完全な天の秩序、ワンネスの実現を求める人々は、たえまない挫折と幻滅を繰り返す運命にあって、「理想が達成されない恨み」が消えることはなかったのです。

 この本には「ハンプリ」という言葉が出てきます。これは「恨(ハン)を解く」という意味だそうで、「自らの破滅もいとわない復讐心とは違って、理想に向けた何らかの前進を見出した時に、現実の恨も克服・解消できる」という考え方に基づくものだというので、日常の用法としては、「今日は焼き肉をおなかいっぱい食べて、ダイエットのハンプリをしました」とか、念願のブランド物をゲット! やったね、ハンプリ!」みたいな微笑ましいものもあるそうです。恋愛成就なども、この「ハンプリ」の一つなのでしょう。

 ここに著者は、「恨(ハン)」のポジティブな、建設的・楽天的な性質を見ようとします。「恨」があればこそ、願望・理想が達成された「ハンプリ」の喜びもまた大きい、ということなのです。「不当な仕打ちや理不尽さに対する恨の方向性は、常にめでたしめでたしの統合的ハッピーエンドを願う心でもある」のです。

 しかし、繰り返しますが、そうしたささやかな願望の実現は容易でも、国家・社会レベルでそうした理想が実現されることは極度に困難で、現実に韓民族がその次元での「ハンプリ」を経験したことは絶無と言えるでしょう。島国だったことも幸いして、GHQによる戦後の占領統治を除けば、侵略されて植民地にされる屈辱を受けたことがない日本などと較べて、朝鮮半島の人たちははるかにひどい目に遭ってきたのです(今も祖国は南北に分断されたまま)。その場合、ずっと解消されないできたその「恨」はどうなるのか?

 余談めきますが、僕は『トンイ』や『イ・サン』といった、韓流歴史王朝ドラマが好きです。どちらも非常に面白かったが、悪徳重臣たちの悪辣さもさることながら、ヒビンやテビ様の執念深さには驚いたので、ああいうのは歴史に題材をとったフィクションにすぎないとしても、あそこまで執念深い登場人物は日本のドラマにはまず登場しないでしょう。リアリティがなくなって、かえってこっけいなものになってしまうからです。

 今思えば、ああいうのが韓民族特有の「恨パーソナリティ」なのかも知れません。ヒビンやテビのそれは、ご本人たちの主観上はともかく、「個人的な恨み・野心」にすぎず、保身と栄達のためには手段をえらばずの重臣たちの陰謀のしつこさも、利己的な動機に基づくものでしかないのですが、見方によってはあれは主人公の引き立て役で、トンイやイ・サン(「人がその体に天主を迎え入れることで君子となり、国を正して民衆の安寧を実現する主体となる」敬天思想のモデルと見える)はそうした数々の相次ぐ理不尽な妨害にもめげず、理想に邁進し、それを達成するのです。

 主人公たちに共感を寄せる視聴者には、あれも「ハンプリ」の典型的なドラマなのだなと、この本を読んで得心がいったのですが、「恨」の暗黒面が悪役たちに、その光の部分が主人公たちに割り振られているのです。ユング風に言えば、ああいうのは韓民族の「心理元型」を体現したドラマなのかもしれません。そして主人公たちはその「理想の投影」なのです。

 しかし、と僕は言いたくなります。ああいったドラマの主人公、トンイやイ・サンは、実在した歴史的人物としての彼らとは相当かけ離れたものでしょう。その意味では嘘なので、ああいうのをモデルに生き方を考えたのでは、現実世界では独善的なひどい自己欺瞞に陥るか、挫折するかのどちらかにならざるを得なくなる。そういう意味で「空想的」なのです。悪役たちも、じっさいはあそこまで徹底したのはいなくて、もっと「中途半端」なものだったろうと思われるので、どちらも極端な方向へのデフォルメが施されているのです。

 ここでやっと話は最初の議論とつながるので、韓国の「反日」のしつこさというか、徹底ぶりは、ひょっとしたらこういう心理と関係しているのかも知れません。フィクションだと承知してああいうドラマを楽しむ分には何ら害はないと思いますが、そこに見られるような単純な善悪二分の思考法を現実に適用すると危険なことになってしまう。今の日本の非難のされ方など見ると、「日本全面悪」説になってしまっているのかなという気がしないでもないので、朴大統領自身が自分をトンイやイ・サンに見立ててひとり悦に入っているというようなことはなかろうと思うのですが、日本はあたかも「反省のない悪の権化」みたいなもので、「よからぬ魂胆」のかたまりみたいに扱われているのです。

 韓国の人たちは、しかし、外部からの侵略者の他、内部の支配階級によってもひどい目に遭わされてきたので、先の「東学思想」の説明の際の引用にも「支配階級であった両班(ヤンバン)の搾取によって農村の経済は疲弊し…」とあったように、国家権力による搾取と弾圧にさらされてきた民族でもあったのです。国家が「民の安寧」そっちのけの権力者たちの利己的な派閥・権力闘争で四分五裂に陥り、弱体化したところを外部から侵略される、といった図式がそこにはあって、民衆は背腹両面からの「迫害」に苦しんだのです。

 こうした自国の国家権力に対する根深い不信も韓民族の特徴の一つなのではないかと思われるので、であればこそなおさら、韓国の政治家たちは外部に「悪者」を作って、そちらに非難の矛先を向けようとするのかなとも解されるのです。先の李明博大統領もそうでしたが、政権の支持率が下がってくるとなおさら「反日」姿勢を鮮明にするのです。いわば「反日」は政権維持のための好都合な「安全装置」なのです。

 こういうのは韓国政治の専門家たちにとっては「常識」に類した理解なのかもしれませんが、日本人一般にとっては必ずしもそうではないので、「何であそこまでしつこく非難されねばならないのだ?」という反感、“反韓”感情を生む原因になってしまうのです。

 日本にも狂信的な右翼、中国や韓国に対する敵視・蔑視感情を丸出しにする一部の人間がいるように、韓国にも狂信的な「反日」憎悪をもつ人はいるでしょう。しかし、それはそんなに多くはないだろうと思うので、政治家が安易な人気取り政策として「反日アピール」をして、それに日本人が腹を立てて、両国関係が悪化する、というパターンもそこにはあるように思われるのです。

 今見たような、政治家たちのご都合主義的な「反日利用」もあるのだと理解すれば、僕ら日本人もそう腹は立てなくてすむので、相互憎悪の悪循環にストップをかけることができるわけです。僕はこの本を読んで、韓民族に古くからあるというその「敬天思想」には大いに共感しましたが、その高い理想が現実には単純な善悪二分思考につながり、あるいは政治家たちのご都合主義に乗せられるまま、独善的な他者非難を結果するだけになってしまうのだとすれば、それは残念な話だと思います。

 もう一つ、僕はこの本を読んで、韓民族の「苦難の歴史」を知らなさすぎた点を反省させられました。近いところでは、あの朝鮮戦争(1950~53年)にしても、日本はそれで漁夫の利を得て、戦争特需に沸き、戦後復興の起爆剤になったのですが、それが朝鮮半島の人たちにどれほど深刻な惨害を及ぼしたのかはあまり知らないのです。この本にはそれについても触れられていて、

「戦争の爪痕は想像を超えるもので、韓国軍の戦死者と失踪者が合わせて約30万人、民間においても死者・行方不明者が約60万人でした。これに強制連行者(拉北者)約40万人などを含めると、その犠牲者は200万人にも上ると言います」(p.120)

 とあって、「当時の朝鮮半島の人口が南北合わせて約2500万前後」だったとも付け加えられているので、それはかの国にはすさまじい惨禍をもたらしていたのです。国が南北に分断されたことから、離散家族の問題も起き、北朝鮮に拉致されたままの人の数も、日本の比ではないのです。

 その後も韓国民は軍政に苦しめられ、やっと民主化を果たしたと思ったら、今度はアジア通貨危機に見舞われ、大打撃を受けた。その前には周知の日本による「併合(植民地化)」下での屈辱の歴史があったわけで、近いところだけを見ても、あれやこれや大変な苦労をしてきたのです。「艱難(かんなん)汝を玉にす」という言葉がありますが、それも度が過ぎると被害的な心理になるのは無理もないことなので、日本人だってそうなれば同じだろうと思います。

 そのあたり、臆面もない過去の歴史の正当化に傾く安倍政権が韓民族の神経を逆なでしたのは理解にたやすいことで、だから韓国は朴大統領のあの一途な性格(「恨パーソナリティ」の典型?)とも相まって、「過剰防衛」的な日本非難に走り、対話の窓口を閉ざす結果になってしまったのだろうと思います。

 陳腐なようですが、こういう場合は「相互の譲歩」が必要なので、日本側は「戦後70年談話」で過去の侵略の事実を率直に認めて、あらためて明確な謝罪を行い、韓国はそれを諒として、過剰な日本非難の矛先を収めてもらうのが一番でしょう。いい加減不毛な敵対感情の応酬を終わらせなければならない。でないと「両国の幼稚な政治指導者が次元の低いいがみ合いを過熱させ、両国民を深刻に離反させて、その後に禍根を残す羽目になった」と後世の歴史家に書かれてしまうようになるのがオチです。

 韓国の人たちにお願いしたいのは、ぜひとも本来の高度な「敬天」思想に立ち返り、その見地からする「ハンプリ」をお考えいただきたい、ということです。日本のネトウヨたちを基準に日本人一般を査定されたのではうまくいくものもいかなくなるので、今のような行き方は韓国の嫌う日本国内の歴史修正主義者=右翼ナショナリストの勢力を増大させこそすれ、親韓派の日本人の助けになるようなことは全くない(むしろ妨害になっている!)のです。
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