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父親よ、もっと子供と遊べ

2015.03.09(14:32) 309

 一般論としてですが、会社でエネルギーのすべてを吸い取られ、帰宅後は「フロ・メシ・寝ル」しか言わない父親は、子育てに失敗して、後悔のほぞをかむ確率が高くなってしまうでしょう。そうして何もかも母親任せにしておいて、子供が何か問題を起こしたり、自分の気に食わないことをしたりすると、「お前の教育が悪いからだ!」と母親を非難し、「しつけ」と称してわが子を折檻するだけ、なんてのは最悪の対応で、子供がだんだんおかしくなって、将来犯罪者や人殺しになりかねない。そういう父親なら、いない方が百はマシということになります。

 川崎の中1殺害事件に関する前の記事を読んだ人は、僕が「厳しいしつけ」を推奨しているのだと勘違いした人がいるかも知れませんが、子供の社会性は親のそれを子供が無意識に見習って身につけるもので、基本的にそのようなものは必要ないはずです。逆に言えば、親が社会性に乏しい、ハートのない自分勝手な人間でありながら、子供を「しつける」なんてのは倒錯した笑えないジョークみたいなものなので、自分を先に「しつけ」てからそうしろと言いたくなります。「親が嘉兵衛なら子も嘉兵衛」という古い諺は今も真実なのです。

 しかし、親が「まとも」でも子供がおかしくなることはあって、多忙にまぎれて冒頭書いたような対応をしていると、子供が健康に育つことは難しくなるでしょう。

 父親は母親と違って、日常子供と接する機会が多くありません。それで子供とのラポール(rapportと綴る.心理的なつながり・相互的な信頼関係)が形成されないままになって、後で叱ったり叩いたりしても、何の意味もないだけでなく、子供の疎外感を強めるだけになってしまうのです。世のお父さんたちはそこをよく理解しておかねばなりません。「おまえの教育が悪いからだ!」と母親に責任転嫁するなんてのは筋違いな話なのです。

 今の時代は子供、とくに男の子の育て方が下手になっているのではないかという感じを僕はつねひごろもっているのですが、これは実質的に「いてもいなくても同じ」という父親不在家庭が増えているためもあるのではないかと思われます。両親揃ってお勉強のことだけはやたらうるさいという家庭はありますが、そういうのは母親が二人になったのと同じで、子供にとってはうっとうしいだけなのです。

 幸いなことに、子供、とくに男の子は、父親と遊んでもらいたがるものです。その性質をうまく活用すれば子供とのつながりももてるわけで、幼児の好きなあの「高い、高い」も、父親だと思いきり高く上にほうり上げてくれるので、子供は大喜びします(キャッチしそこねると大変ですが、どちらもそんな心配は少しもしないのは不思議です)。肩車も子供の好むものの一つで、父親が馬になって、パカパカと跳びはねながら走り、途中でわざと転びそうになったふりなどすると、それはスリルなので、子供は声を上げて笑うのです(僕はこれをよその子にもやって、こわかったらしく大泣きされて弱ったことがあるので、慣れていない子にうかつにそんなことをしてはいけませんが)。

 家の中で遊ぶときは、男の子は「グリグリ攻撃」なんてのが好きです。おでこを寄せて頭でグリグリ押してくるのです。四つん這いになって力いっぱい押してくるので、相手をしていると結構な運動になる(おでこもかなり痛い!)。僕は息子相手に「バルタン星人ごっこ」というのもよくやったもので、これは父親がバルタン星人になって、巨大な爪で襲いかかるのです。予告なく突然バルタン星人に変身することもあるので、子供は油断ができない。彼はそれを汗だくになって懸命に防いで、激闘の末、最後はバルタン星人がめでたく退治されるのですが、遊びも年齢と共に変わってくるので、小学校低学年の頃はよくバッターとピッチャーに分かれて2人野球をやりました。河川敷で、あの茂みまで飛んだらホームラン、こういう当たりだと二塁打、と大体の判断をして、ピッチャーもピンチになると有名投手に代わるし、バッターもチャンスでは「代打の切り札」が登場したりと、仮想現実的に賑やかそのもので、スリーアウトになると攻守は交代、点数をつけながら九回までやって勝敗を決めるのです(むろん、目立たない程度にうまく八百長をやって父親軍が負けるのですが)。夏場など、暑くなったらすぐそばの川の淵に行って一緒に泳ぐ。途中に割と高さのある石垣があって、そういうのを飛び下りる際の着地時の足の畳み方なんかも、ついでに実演しながら教えるのです。泳いでいるとき足がつった場合はどうすればいいか、なんてことも教えました(こうしたことは母親の目を盗んで行われました。高い石垣を飛び下りたり、毎年水死者が出るような川で泳がせるのは母親的見地からすれば「非常に危険」だからです)。あとは川で魚とりを教えるなど。

 小学校も高学年になると、「父親の遊び相手としての優先順位は最下位になった」(母親の言)そうで、今の子供は小学生でもけっこう習い事なんかをしていて忙しいので、たまに友達に遊び相手が見つからないことがあって、そういうときだけ「おとうさん、遊べる?」とお呼びがかかるだけで、遊んでもらえる機会はめっきり減ってしまったのですが、ともかくそういうやり方で僕はわが子とつきあいました(友達との遊びには通常のボール遊びの他、木登りなど色々なのがあったようですが、どこかの団地の裏に「秘密基地」が作られ、そこではダンゴムシの飼育も行われているという話でした)。

 これは僕がヒマな塾教師(小学校だと下校時間が早いので、平日でも仕事に出かける前に2時間ほど遊ぶことができた)だったからで、ふつうのサラリーマンには無理でしょうが、日曜祭日なら、一家で海や川に行ったり、子供と外で遊ぶことは可能でしょう(複数の家族で出かけると、子供には同世代の遊び仲間もいるからなおいい)。中学になると部活が始まるので、僕も彼が「熱烈野球少年」だった中学の頃は、部活が休みになるお盆休みに一緒に鮎とりに行くぐらいしかできなくなってしまったのですが、小学校段階までは子供に腹いっぱい伸びのび遊ばせてあげた方がいい。父親も、それにたまにはつきあって、わが子と一緒の時間をもつのが望ましいでしょう。

 子供というのは眺めているだけでも面白いものです。ハイハイをする頃だと、猛烈な勢いで這い回って、そこらじゅうの物をいじくり回し、とくにボタンを押すのが面白いらしく、ラジカセはそれでこわされてしまったし、テレビのリモコンなんかも、すぐに電池がなくなってしまう。受話器を膝に置いて電話で話をしていたら、通話の途中でヘンな機械音声が入って、相手は「今のは何?」とびっくりする。いつのまにか彼がそばに来ていて、興味津々、受話器のボタンのどれかを押したのです。家の中でのことなので、僕はそういうことで子供を叱ったことはありません。膝立ちして、両手をぱっと広げるときは、「だっこしろ」の合なのです。子供はそうして独自のコミュニケーション手法も発明するので、すこぶる興味深い生きものなのです。

 そういうわけで、僕は世話やしつけの類は母親任せで、その種のことは何もしたことがない(あるとき彼が母親に「あんたはもう乳児じゃないんだからね、幼児なんだから!」と、“幼児としての自覚の欠如”を叱られているのを見たときは笑いたいのを抑えるのに苦労しました)のですが、遊び相手だけは熱心につとめたので、それを通じて、子供に大事なことを教えることはできるのです。

 たとえば、2人野球の際、面白かったのは、彼がホームランを打った後のことで、「また大きいのを打ってやろう…」と力んで肩に力が入りすぎるので、たいていはそのあと空振りするのです。同じことが続くとだんだんふてくされて、投げやりになるから、いよいよ打てなくなってしまう。すでに半泣き状態で、ぐにゃぐにゃになった姿勢にそのふてくされぶりがよく出ていて笑えたのですが、またも空振りというところで「下手っぴー」とからかうと、彼はバットを叩きつけて、「もうおとうさんとは遊んでやらん!」と怒るのです。

「まあまあ○○さん」と、遊んでもらえなくなると困るので、わが子をさん付けで呼びつつ父はなだめて、何で不調になってしまったかをわからせようとします。からだの軸をまっすぐにして、肩の余分な力を抜き、ボールをよく見るよう言って、気を取り直してもう一度やってみるよう仕向けるのです。しぶしぶそれに従うが、そうすると、まただんだん当たりが戻ってきて、機嫌も直り、何度か続けて快音が響くようになったあたりで、そういうときはおしまいにするのですが、興味深いのは、そうこうしているうちに彼がヤケを起こす回数が目に見えて減っていったことです。つまり、そういうことをしても意味がないとわかって、自分で自分の感情をコントロールするすべを学んだということです。

 こういうときに、大人が「何だ、おまえのその態度は!」なんて叱りつけても、意味はないでしょう。それは大人の分別です。また、親子というのは子供が遠慮なく気ままが出せるからこその親子なのです。子供の自然な感情としては、そういうときにそういうふうになってしまうのは無理からぬことです。フライを高く上げてキャッチする練習では、うまく捕れないことが続くと、そこらをたくさん飛んでいる赤とんぼに八つ当たりして、グラブをトンボめがけて投げつけたりして、その姿がまた笑えたのですが、そういうときに、「自分の失敗を他のもののせいにするとは何事だ!」などと叱ったりするのはよけいなことなのです。そんなことは子供本人にもわかっているが、そうしないではいられない欲求不満の感情があるからそうなってしまうので、ただ、そういうことをしても問題の解決にはならないのだということを、当の子供がわかって、自分の感情とうまく折り合いをつけ、自己コントロールができるようになることが一番大切なのです。

 これは重要なことで、他の子たちとうまく遊べない子というのは、それができるようになっていないから仲間との遊びで勝手なことをして、他の子たちに嫌われ、孤立する羽目になるのです。「生まれつき」でそうなっているのではない。家でほったらかしにされている子供や、逆に妙に杓子定規な厳格さで子育てをしている家庭の子供は、強い抑圧を抱えていたり、そういう生の感情を放出しながら自己コントロール能力を身につけていく機会が与えられていないから、順調な成長が妨げられ、外でそれが問題として出てしまうのです。悪質ないじめなんかする子も、そのあたりのことが関係するでしょう。

 塾で生徒たちの相手をしていてもよくわかるのですが、十分な愛情と受け入れを経験して育った子供は感性が豊かで性格的に素直なだけでなく、高い自己修正能力をもっています。自然な自己肯定感が備わっているので、勉強のことで「ここは直さないと駄目だよ」と言われても、気を悪くしたりせず受け入れることができる。だから学力も伸びやすいので、大きな抑圧や葛藤を内面に抱えていたりすると、それにエネルギーを食われてしまう上に、集中力も乏しくなってしまうので、能力を伸ばすことが難しくなってしまうのです。

 お勉強のことでやたらうるさく、過度に成績を気にして、つねに子供の先回りをして、ああしろこうしろと指図したがる教育パパママが、わが子の学年が上がるにつれて成績の低下を見る皮肉な結果になることが多いのも、同じ理由によります。そういう子供には親の愛情は「条件付きの愛情」と見え、愛情を失わないために課されたハードルをクリアしようと懸命になるのですが、途中で息切れしたり、成績のよしあしが自己肯定感と直結しているがゆえに、成績が思うように伸びないと自己肯定感が深刻に損なわれて、無力感にとらわれてしまったりするのです。仮に成績は維持できても、それが人間の価値尺度になって、ライバル意識むき出しになったり、お勉強のできない子を見下すというのでは、周囲との良好な人間関係を築くことは困難になってしまうでしょう。そういうのも結局は親のせいなのです。

 よく「母子一体」と言われ、母子関係はその本性上濃密なものですが、父子関係というのはそのようなものではありません。別に自分が産んだわけではないし、母親のように24時間営業で子供の世話をしなければならないわけでもないからです。だからつながりも弱いわけですが、利点もあって、心配性の母親と違って、父親は子供の内面にあまり踏み込んでくることがない。元気がないと心配して、「大丈夫か?」ぐらいは言いますが、逆にだから子供には父親と接するときは気楽でいられるというところがあるのです。たいていの子供は母親相手と父親相手では、無意識に態度を使い分ける。そうして男の子でも女の子でも、コミュニケーション量は圧倒的に母親の方が多く、父親はわが子についての情報を母親経由で仕入れることが多いが、子供は告げ口を嫌うので、そうやって知り得たことも大方は胸の内にとどめて、必要がないかぎり、子供にそのことであれこれ言うこともしません。

 それで何の問題もないので、父親は子供から相談があった場合にはそれに応じていればいいだけだと思いますが、小さい頃子供の遊び相手をしていれば、その段階で感情的なつながりができるので、日頃別に言葉は多くかわさなくとも、敷居は高くないので、何か困ったときは言ってくるだろうと、そう心配しないでいられるのです。僕は「父親番犬説」というのを唱えています。犬は子供が小さい頃はいい遊び相手になるが、成長するにつれ次第に疎遠になり、たまに散歩のお供をする他は、大方犬小屋で昼寝していることになります。家に賊が侵入した時などの非常事態には出番がやってくるのですが、他のときはいるのかいないのかわからず、しかし家族にはその存在が一定の安心感を与えているのです。番犬は座敷犬と違って、かまってもらえなくてもキャンキャン鳴いたりはしない。無事是好日ということで、むしろその方がいいと思っているのです。

 異論もあるでしょうが、そういうのが僕の考える「父親の役割」です。昔の家父長制下の家庭では、父親は一家の長として君臨し、子供、とくに男の子は、そういう父親の権力に反抗して自分のアイデンティティ形成を行ったわけですが、「今の子供たちには反抗期がない」というのは、家庭がもはやそういうものではなくなったことが大きいでしょう。今でも子供は成長の途上で「親離れ」の動きを見せるが、それが昔のような目立つ形では観察されなくなったのです。別にそれ自体は悪いことではない。

 それでも父親の役割がなくなったわけではないので、とくに子供が小さい頃には一緒に遊んで子供との感情的絆を形成し、あわせて子供の「社会化」に資するという重要な役割がある。百の厳しいしつけや説教より、その方が効果的だということがあるのです。

 忙しくて育児は全部母親任せというお父さんたちは、そういうわけでもっと子供と遊んだ方がいい。そうすれば母親も息抜きができて助かるでしょうし、やってみれば、子供と遊ぶのは面白いし、それで子供の個性や性格などがよくわかるようになるということがあるのです。誰しも父親に遊んでもらった懐かしい記憶があるはずで、それは幸福な体験の一つになっているはずです。

 何をするにせよ、困難や障害にぶつかった時、それを乗り越えるには自己肯定感が不可欠ですが、それもそうした小さい頃の遊びを通じた楽しい感情体験がベースになって形成されるのです。それ抜きの一方的な管理や「厳しいしつけ」などは百害あって一利なしだということを、親たちは忘れないようにしなければなりません。

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祝子川通信 Hourigawa Tsushin


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