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生まれ変わりと人生の意義

2014.05.23(16:30) 266

 これを書こうとしたら、ヒヨドリが雨上がりのベランダの物干し竿の上に止まって、うちの物干しはベランダの長さに少し届かないので、ビニール紐でぶら下げるようにしているのですが、だいぶほつれができたその紐を何度もつついて、きれっぱしを器用に嘴にくわえてためています。最初は呑み込んでしまうと大変だから追い払おうかと思いましたが、ひょっとしてこれは巣づくりに使うのかなと思い当たって、そのまま見ていると、ついでにウンチをぽとり、ぽとり(あとで見てみると、グミの種らしきものが落ちている。そう言えば今はグミの実がおいしい季節で、近くの公園にはそれがあるのです)。大胆不敵な奴で、僕との距離は二メートルもありません。窓も少し開いているのに、警戒しているふうが全くない。あんたは野生の鳥でしょ? それとも、おまえなんか存在しないのと同じだと思っているのか? 彼(彼女?)は五分余りそこにいて、十分なだけ収集できたと思ったのか、飛び立ちました。足りなければまたどうぞ、という感じです。

 本題に入りましょう。わが国には「袖振り(擦り)合うも他生(多生とも書く)の縁」という有名なことわざがあって、これは見知らぬ人と通りで袖が触れ合うだけでも他生、つまり前世の縁があればこそだという意味で、輪廻転生、生まれ変わりを前提にした言葉ですが、今ではこれはUFOや幽霊と同じ扱いで、「UFO(幽霊)っていると思う?」ときくのと同じようにして、「生まれ変わりってあると思う?」とききます。学校の勉強にウンザリした、不思議話大好きの女子中学生なんかは、そうやって気晴らしするのです。

 しかし、この問題を「学問的」に研究した人たちもいる。中でもおそらく一番有名なのは、イアン・スティーヴンソンという大学教授で、その『前世を記憶する子供たち』(笠原敏雄訳 日本教文社)は今でも入手可能なようですが、そこでは「なぜそんな不可解な記憶(調査によってそれが事実と合致していると認められる)があるのか?」についていくつもの仮説が検討され、「生まれ変わり仮説」はその中で最有力のものとして残されるのです。

 これに対し、子供ではなく大人の前世記憶らしきものの徹底した跡づけ調査をして、集団転生の事実(と思われるもの)を突きとめ、その相関図まで詳細にわたって示した人がいます。この人は、ある本の冒頭に、五度にわたる集団転生で14人の人がそれぞれどういう名前であったかを示す一覧表を掲げ、その時代の転生が確認できなかった場合にはハイフン(―)を、転生したと思われるが名前は不詳だったケースはunknownとする、という徹底ぶりを見せています。その時間的広がりは、20世紀イギリスから、4世紀の古代ローマまで、実に1600年に及ぶ。その広大な時空の中を、これら14人の人たちの魂は、何度も違う時代、違う姿で再会しながら、旅してきたのです(ウォシャウスキー姉弟&トム・ティクヴァ監督の映画『クラウド・アトラス』のモチーフはこれとよく似ています。違いはこの本の場合、フィクションではなく実話として述べられていることです)。

 むろん、彼らはその都度再会をそれと自覚していたわけではない。縁に引かれて、あるいはゲーテのいう親和力によって、かつての師と弟子が父子になったり、恋人同士が医者と患者になったり、昔の同志が学校の同級生やご近所になったり、職業を同じくして知り合いになったり、していたのです。母子がまた同じ母子として生まれ変わった例も含まれるが、そこには固定的な法則は何もないようで、臨機応変、新たな状況に応じて新たな関係が選択されるようです。そしてたいていの場合、過去世の関係までは気づかれない。

 大方の人は、そんな話は眉唾だと思うでしょう。僕は以前ある女性に、「私はこれまで男の人から何度か『君と僕はソウルメイトだったんだ』と言われたんですけど、そんなことってほんとにあるんでしょうか?」と聞かれて、笑ってしまったことがあります。
「それはあなたが美人だからですよ」
「どういう意味ですか?」
「だから、たんなる口説き文句です。そう言えば相手がなびくと思うのか、本気でそう思い込んだのかは知りませんが、とにかく美人にはソウルメイトなるものがたくさんいることになるんですよ」

 幸い(?)その女性には「ソウルメイト」を名乗る彼らは「赤の他人」としか思えなかったので無事だったようですが、この手の話は概して乱用されすぎるので、スピリチュアリズムにかぶれた人間のたわごととして相手にされないこともそれだけ多くなるのです。

 しかし、その本を直接読むと、これはそんないい加減な話とは性質の全く違うものだということははっきりわかるので、「そこまで細かく検証しなくても、大方の人はそれが真実だと認めますよ」と言いたくなるほどのものなのです。精神科医で医学博士だから、職業柄慎重で厳密になるのはわかりますが、おかげで話が長くなってしまう(その五度の転生について述べた本などは原書で427ページもある!)ので、僕のようなせっかちな読者は、「先生、もっと手短にお願いできませんか?」と言いたくなるのです。

 その人の名はアーサー・ガーダム。『カタリ派と生まれ変わり』という本で世界的に有名になった人で、僕もその風変わりな自伝を訳したことがありますが、ガーダム先生のように話が長くならないように、ここは著者やあれこれの背景の説明は省くとして、これが事実だとした場合(疑り深い僕でもこの人の知的誠実さは疑わないのですが)、なぜこの世にはそうした記憶がある人がごく僅かしかいないのでしょう?

 スティーヴンソンの研究でも、ガーダムのそれでも、その人の素質はむろん大いに関係するとして、前世でふつうでない死を遂げた場合、記憶は甦りやすいという特徴があるようです(パーソナリティはそうした記憶に対して抑圧的に作用するので、それが未発達な幼児期や、大病をするとか、大きな心理的ショックを受けて通常の意識――表層意識――の支配が揺らいだときなど、ことにそれは出てきやすくなる、とも言えそうです)。

 いわゆる「非業の死」を遂げた場合が多いということですが、その理由はおそらく、死んだときのインパクトが強烈で、トラウマ的な性質を帯びやすいからでしょう。そのため通常より前世の「こだま」が届きやすくなると考えられるので、それをきっかけにイモヅル式に他の記憶も想起されることになる。ガーダムのケースでは、とくに重要な役割を果たす二人の女性は、どちらも13世紀にキリスト教の異端カタリ派として生きながら火あぶりにされた人たちです。僕の知人には一人、「この人はまず間違いなくカタリ派活動家の生まれ変わりだろうな」と思える人がいる(証拠なしにそう言っているのではありません)のですが、その人は火刑でではなく、背後から忍び寄った暗殺者に、喉笛を搔き切られて死んでいます(ちなみに、この人によれば、誰に殺されたかも、組織の中にいた内通者が誰であったかも、死んでからわかるそうなので、その意味では「完全犯罪」は成立しないのです。従ってそういう邪悪な、あるいは卑劣な人は、仮に今は刑罰を逃れられても、あの世でか、次に生まれ変わってきてからか、いずれどこかで「落とし前」をつけねばならなくなると覚悟しておいた方がいいのです)。

 ガーダムの場合には、この他に、今はあの世にいる、かつての縁者であった「肉体をもたない霊」(discarnate entity とかrevenant とかいう言葉が使われていて、ふつうなら幽霊ということになる)が複数登場して、最初はそれが一人の女性の夜間の自動筆記というかたちで、のちには直接、示唆を与えることによって、その「前世探究」を支援する(著者はそれに基づいて専門的な歴史文献に当たったり、その筋の権威に教示を仰いだり、現場に直接足を運ぶなどして、細かい裏づけ調査をする)ので、前世記憶だけに頼ったのではないのですが、そのことはさておき、このことから推定されるのは、僕らふつうの人間にはそうした記憶はないが、それは思い出せないというだけで、実際はすべての人が過去世をもっているのではないか、ということです。

 人間の肉体は生まれてくるまでに、胎内で生物進化40億年のプロセスを猛スピードで辿り直すと言われますが、そこに宿る魂(それが何であるのか、という議論もここでは省きます)も、脳に記憶された生後のそれとは独立に、膨大な過去世の記憶を保持していると考えた方がよさそうです。

 僕らがそれを思い出せないのは、それは生きることの妨げになることの方が多いからでしょう(「過去を引きずる」のは、たんに現世のことにかぎっても、その人が前向きになることを妨げて、マイナスになることの方が多いものです)。だから、通常の生まれて以降の記憶ですら、僕らはふだん忘れて生きているのです。ことに何かに没頭しているときは、他のことは何も考えていないので、考えていればそれは雑念だということになります。それは集中の妨げになるのです。

 肉体から独立した心だの魂だのは存在せず、それは肉体に付随するたんなる電気化学的現象にすぎないという唯物論的科学の主張では、こうした話は全体がナンセンスだということになりますが(肉体が死によって崩壊すれば、心的現象も消滅するという理屈になるので)、今でも多くの人はそんなことは信じていないでしょう。たとえば僕は先月、父をなくしましたが、消滅したのは父の肉体であって、魂の方ではないということは、ごく自然に信じられるので、自由が利かなくなった肉体から解放されて、今は安らぐことができているだろうと思って、むしろ安堵したぐらいです(僕は値段によってランク分けされているらしい戒名や、「経営」に少々関心のありすぎる葬式坊主のお経によって死者のあの世での待遇が変わってくる、なんて文字どおり現金すぎる話は全く信じないので、それは父も同様でした。そうしたセレモニーにとくに反対はしないというだけの話です)。

 ついでながら、思い出せない前世を無理にでも知りたいと思って、自称霊能者のところに見てもらいに行く、なんてのは無意味なことなので、やめた方がいいと僕は思います。そういう自然に前世記憶が甦る人たちは、何かそのこと自体にご本人にとっての教育的な価値があるとか、周りがそれによって恩恵を受けられるとか、特殊な意味合いがあるのだろうと考えられる(じっさい、ガーダムの本に出てくるケースは皆そうです)ので、ない人はそのままでいいわけです。ただ、そういうことを離れても、こうした話は家族や、自分にとって大切な人を予期せずなくしてしまって悲嘆に暮れている人たちには大いに慰めになるのではないかと思うのです。もう二度と会えないわけではなく、あの世でも、次に生まれ変わってきたときにも、また再会できるだろうからです。今はその人が不在になっただけです。そう考えて気を取り直し、また元気に生きられるようになるのではないでしょうか(カタリ派の霊によれば、その人の霊的進歩の度合いによって「より高次元の星または宇宙」に生まれ変わることもあるらしいので、相手が自分よりずっと進歩した魂だった場合には、再会したくてもできないこともあるかもしれませんが、それは相手が不幸になったという意味ではないので、嘆く必要は少しもないわけです)。

 もう一つ、僕が彼の本を読みながら繰り返し不思議に思ったことは、「時間とは一体何なのだろう?」ということです。人は生まれて成長し、やがて老化する。そのプロセスは無数の記憶として脳に記録され、その記憶の連鎖が内的な時間の感覚をつくり出す。前世記憶とは、それが誕生以前にまで延長されたものに他なりません。その記憶が甦るとは、今という時間の中に、それが重なり合うことです。先の例で言えば、著者は1600年の歳月(厳密に言えば、そこに含まれる五つの時代)が今の中に重なり合って出現するのを体験したのです。

 過去の記憶が生き生きと想起され、それが深い感情と共に再体験されるとき、それは現在です。厳密には過去は存在しないので、それは観念としてあるだけです。

 未来も同様です。人によっては「未来のことを夢に見た」という人がいます。いわゆる「既視感(デジャヴュ)」というのはありふれた現象で、これについては「脳の錯覚」説など、いくつも科学者の否定的な見解がありますが、それでは説明がつかないものもある。たとえば、初めて会った人がそこである話を始める。相手が話し始めたとたん、その先が全部わかってしまうというようなことがあったとすれば、それはその人が、そのことにかぎってですが、「未来の記憶」をあらかじめもっていたとでも言わないと、説明がつかないことになるでしょう。それは漠然と、この風景、どこかで見たことがあるような気がするな、というのとはだいぶ趣が違うからです。それは瞬間的なものではなく、一定の時間的な長さをもったもので、かつ具体的なディティールが事前にわかっている、というものだからです。

 じっさい僕は、「あのとき、あんたがどんな話をするかはわかっていた」とある人に言われたことがあります。何年もたってからそんな話をされたのですが、僕はそのとき思いついた話をしただけだったので、事実とすればそれは奇怪きわまりないことです。むろん、それが作り話だという可能性はある。しかし、それは神経症的な人ではないし、そんな嘘をついても何も得るところがないとすれば、それはほんとだったのだろうと考えるのが一番合理的です。

 何でも、その人によれば、夢の中では相手の顔はよく見えなかったが、その話は強く印象に残って記憶していたそうで、ヘンな夢だなと思ったものの、そのまま忘れていた。ところが、その話と同じ話(それは個人的な思い出話でした)を僕が始めたので、びっくりしたというのです。「それは次はこういうふうになるのよね」と思いながら聞いていると、果たしてそのとおりになったので、あれは正夢だったのだと驚いたが、そんなことをその場で言うわけにはいかないので、知らんぷりしていた、というのです。その夢を見た段階ではその人は僕に会ったことはなかったので、見ず知らずの人間との未来の会話を、その人は夢で見ていたことになるのです。

 こういうのは不可解な前世記憶とも共通するところがある。脳に記憶されているのは生まれてからの記憶のはずで、だから通常はそんな記憶はないのですが、未来のことを夢に見るということも、通常の脳の機能に帰すのは無理がある。夢に現われる無意識の創造力には驚くべきものがあるとしても、それはあくまで作話であって、未来の出来事が正確に先取りされるというのは、通常の夢にはないことで、時間や空間から独立したあるもの(魂)が時間と空間を自由に飛び越えて、比喩的にいうなら“時空の外側に出て”その情報を入手してきたのだとでも考えないかぎり、辻褄が合わないからです。

 ここで話を少し戻して、時間には心理的時間と、時計で測定される物理的時間があります。僕らは両者の齟齬(そご)をしばしば経験します。何かに夢中になっているときは、時間はあっというまに過ぎ去ります。心理的には少ししかたっていないと感じるのに、時計を見るとえらく時間がたっていたのに気づいて驚くのです。これとは逆に、退屈しているときは時間が長く感じられる。子供が学校で面白くない授業を聞いていたり、大人が会社で退屈な書類仕事をやらされるときなどは、時間は長く感じられるのです。

 そういうわけで、心理的時間は「主観的」、物理的時間は「客観的」なものだと一応は言えそうですが、アインシュタインの相対性理論によれば、高速になればその物体内部での物理的時間の進み方自体が遅くなるので、たとえば光速に近いスピードの乗物に乗っていたとすれば、そこでは地上でふつうに暮らしている人と較べて時間の経過がずっと遅くなるので、仮にそのような宇宙船に乗って20年(ここは地上時間で)を過ごした人が、地球に戻ってくれば、自分はまだ若いのに、かつての知り合いは皆年をとってしまっているという浦島太郎みたいな話が現実になりうるという話です。

 これは、だからその物理的時間それ自体が「相対的」なものだということですが、いずれにせよ魂や心は物質ではないので、人間はそのことによって時空をはみ出す部分をもっていると言えるでしょう。よくたとえ話として、蟻のような二次元平面しか見えない生物には、すぐ前の物しか見えないが、鳥のように垂直方向に高く飛べる、従って三次元視覚をもつ生物なら、蟻にとってはずっと先の、未来に等しいものが見えるというのと同じで、時空の外側に立つことができるなら、人間にとっての過去も現在も未来も、同時存在的なものとして鳥瞰できることになるわけです(こういうのはあくまで比喩的表現にすぎませんが)。

 未来とは、空間と時間(アインシュタインによれば、両者は相互に独立したものではなく、不可分のものですが)に縛られた肉体をもつ僕ら人間には、文字どおりの「未(いま)だ来たらず」で、知ることができないものですが、物質的な存在ではない魂は、本来的にはそれを超越していて、僕らには通常、過去・現在・未来として観念されるものが、同時存在的なものとして見えるのだと考えても、別に不合理ではないでしょう。この物質世界に生きている人間にとっては、時間は「生の存在様式」の一部ですが、それを離れると、時間そのものが存在しなくなるのです。

 先にもちょっと触れたように、僕らにとっても、本当は過去や未来は観念としてしか存在しません。あるのは現在だけで、過去は記憶の連なりとして、未来は懸念や予測として、現在の中に保持されているだけです。時間は僕らのいわば「共同幻想」で、事実あるのは「今」だけなのです。

 それにしても、本来時間や空間から自由であるはずの魂が、このような不自由な世界に何度も舞い戻ってくるのはなぜなのでしょう? それは大いなる疑問ですが、仏教が言うように、それは愚かな執着(無明)のためなのでしょうか? それともそこには何か積極的な意味が、前世でやり残したことを片づけねばならないとか、この悲惨な世界(歴史的に見て、人類が愚行ゆえの悲惨を免れていた時代はほとんどありません)を少しでもよいものに変えたいという願いが、そこには働いているのでしょうか?

 スティーヴンソンは、「生まれ変わり仮説」は自殺予防にも役立つだろうと考えていたようです。もしもそれがあるのだとすれば、その人はまた生まれ変わってきて、似たような状況に直面させられ、今度はそれを乗り越えるよう促されると考えることもできるからです。それは懲罰的な意味合いのものではなく、「前にクリアできなかったところをクリアする」というプラスの意味をもつものですが、何にしても、自殺は根本的な問題の解決にはならない(死んでもまだ続きがあるのだから)、ということをそれは教えるのです(念のために申し添えると、僕には自殺者を非難する気持ちは全くありません。その多くは同情に値するものだからです)。

 恐ろしい死に方をした人がそれを反復する羽目になるなどという心配はいらないようで、大体、何の罪もなく無残な殺され方をした人がまたそれを強いられるなんて道理があるはずはないので、ガーダムの話に出てくるその種の人たちは前世で培った美質(人の個性や潜在能力には過去世のその人の生き方が多かれ少なかれ反映されているのでしょう)をもって、今度は幸福な力強い人生を生きる機会を与えられたようです(ガーダムその人が七百年前はカタリ派の一聖職者で、肺結核を患っていたのが、捕縛されて獄中で拷問を受けたあげく病死したものと見られていますが、今度は成功した医師・著作家として長寿を保ち、「かつて学んだこと」を人々に伝えることもできたのです)。

 僕の好きな作家の深沢七郎氏(故人ですが、『楢山節考』で有名)は「人間は屁のように生まれ、屁のように死ぬ」と言って、物議をかもしたことがありました。類似の“罰当たり”な感性をもつ僕は、その言葉に共感せざるを得ず、ことに最近の不穏かつお粗末すぎる政治情勢(重大な結果を惹き起すであろうことを、あまりにかんたんに考えすぎるその何とも言いようのない想像力の欠如と軽さ!)など見ると、この人間世界それ自体が「屁のようなもの」としか感じられず、「こんなイカサマな世界とは早くおさらばしたいな」と思ってしまうのですが、以上のようなことを考え合わせると、短気を起こさず、もう少し人生を厳粛なものとして受け取らないといけないかな、と思ったりもするのです(深沢七郎その人が、そんな放言に尽きるほど単純な人ではなかったのは作品を読めばわかることですが…)。

 ちなみに、僕がここで言及した本は、We Are One Another と The Lake & the Castle という本です。前者には昔抄訳があったそうですが、後者は未訳で、五度の集団転生が語られているのはこちらの方です。原書は今でも取り寄せ可能だろうと思うので、英語が読める人はお読みになってはいかがかと思います。探偵小説みたいな趣もあって、面白いですよ。高校生などには、大学受験レベルを超える単語が相当数含まれるので、辞書を引く回数が多くなりすぎ、他の勉強との両立が困難になりそうなので、お勧めはできませんが。 
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