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資本主義の卒業

2014.05.10.14:11

 僕はときどき未開人になったり、宇宙人になったりします。というか、「21世紀文明人」という呼称が僕には一番不快で疎ましいもので、何でこんなものやってなきゃならないんだろうとよくぼやいてしまうのですが、狩猟採集時代(日本でいえば縄文時代)あたり――その後の稲作文化ですら僕には「高度」すぎる――なら、もっとうまく適応して、有能でもいられたのにと、それが残念でならないのです。

 未開人、宇宙人の見地からすれば、今の文明世界は完全な病気で、とりわけ資本主義というのは異常です。なかでも金融資本家という人種くらい奇怪なものはないので、彼らはサイコパスと呼ぶしかないと感じるのですが、そういうとんでもない連中が牛耳っている世界というのは何と呼べばいいのでしょう? 言葉が見つかりません。

 しかし、今は「資本主義の否定」と言えば、すぐにテロリスト、過激派の烙印を捺されてしまいそうです。それというのも、マルクス主義が全くはやらなくなったこんにち、「資本主義の否定」を声高に叫ぶ者は「イスラム国家の樹立」を唱えるイスラム過激派(その代表格がアルカイダ)ぐらいのもので、彼らは不安定な社会情勢を追い風に世界中でものすごい勢いで増殖中のようですが、それ以外にはあまり思い当たらないからです(ブッシュが始めた「テロとの戦い」なるものがかえってテロリストの増大を結果するだけに終わったのは皮肉な話です。尤も、道理から言えばそれはあたりまえの話なので、僕は9.11後のアフガン攻撃のときからそれが逆効果になるだけだと言っていたので、少しは先見の明を自慢させてもらってもいいかも知れません)。

 しかし、先頃、資本主義のど真ん中でそれを言う人がいるのを知り、僕は大いに喜びました。それは元三菱UFJモルガン・スタンレー証券チーフエコノミスト、内閣府大臣官房審議官という堂々たる経歴をもつ、日大国際関係学部教授の水野和夫氏で、連休中にその『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を読んで、大いに意を強くしたのです。

 未開人・宇宙人を自称する僕が言っても説得力がないが、こういう人の言うことなら皆さん耳を貸すでしょう。これは示唆に富む、非常に面白い本なので、まだの方には是非一読をお勧めします。この出版社のサイト(←クリック)にはインタビュー、対談記事なども載っていて、これを読むだけでもその趣旨はよくわかるので、そこをまずご覧になるとよいかと思います。

 端的に言えば、これは資本の自己増殖が限界に達して、資本主義がご臨終に達していると主張する本です。それを認識せず、旧態依然たる経済成長神話にすがる政策(アベノミクスはその典型)は新たなバブルの発生とその崩壊とを結果し、そのとき割を食うのは労働者なので、中間層の消滅と貧困層の増大につながるだけ、と説くのです。

 この本では封建制が崩壊して、近代資本主義に移行するきっかけとなった「長い16世紀」と著者が呼ぶ時代との対比が行なわれているのですが、そうしたことについては直接本をお読みいただくとして、まずは資本主義に与えた著者の定義から見ていきましょう。

 著者によれば、それは「『中心』と『周辺』から構成され、『周辺』つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって『中心』が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステム」です。ところが、その「周辺」「フロンティア(地理的辺境)」が今はなくなってしまって、資本は思うような利益が上げられなくなったのです。

 その兆しが見えたのは1970年代半ばですが、資本はこの段階で「地理的・物的空間」とは別の空間、「電子・金融空間」をつくり出すことによって「資本主義の延命」をはかった。それが今に続いて、事態はさらに悪化・深刻化しているので、それをはっきり認識せよ、と説くのです。

 なるほど、そういうことか、と僕は思いました。金融資本の暴走に僕は腹を立てていましたが、何で資本家たちがマネーゲームに狂奔するようになったかといえば、伝統的な実物経済への投資では利益がほとんど見込めなくなったから、巨大な電子カジノをつくって、それで荒稼ぎしようという方向に行ってしまったのです。カジノには勝つか負けるかだけで、モラルなどというものはありません。いわば勝つことだけがモラルなのです。

 しかし、ふつうのカジノと違うのは、彼らが人々が生活する実物経済の場を投機の対象にしてしまったことです。その「電子・金融空間」に流れ込むマネーの量は、実物経済を流れるそれの比ではない。だから、彼らが儲けた、損したと言っているそのかげで、実物経済はいいように翻弄され、バブルが起きてそれがはじけるたびに、人々は職を失って路頭に迷う、というようなことが繰り返されるのです。

 ひどいのは、勝手に経済社会を賭場に仕立てて、そこでギャンブルに興じた金持ちと金融機関はバブルがはじけるたびに「公的資金」という名の税金で救済され、一方、それで失業するなどして貧困に落ち込む人々には「自己責任」を説き、ほったらかしにされることです。

 著者がこの本の中で二度にわたって引用しているウルリッヒ・ベックの「富者と銀行には国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」という言葉は、言い得て妙です。前者は「社会主義的」なことを嫌い、国民皆保険制度にまで反対する始末ですが、「市場に任せよ」と言いながら、自分たちが損をしたときだけは、ちゃっかり「政府の保護(社会主義的対応)」を要求するのです。「自己責任」で「市場で淘汰」されるべきなのは、中間層以下の貧乏人だけなのです(アメリカのサブプライムローン崩壊のとき、マイホーム願望につけ込まれて高い利率のローンを組まされ、デフォルトで家を取り上げられ、借財のみ残った貧しい人たちはその後どうなったのでしょう?)

 こういうのは人間のやることではありません。だからサイコパス(反社会的異常人格)だと僕は言うのですが、著者の説明に基づいて考えると、「無理な延命策」で資本主義を生き永らえさせようとするからこそ、社会はそんな非人間的なことも甘受しなければならなくなるわけです。

 しかし、これだけでは若い人たちや経済方面が苦手な人にはわかりにくいかと思うので、著者の資本主義の定義に戻って、それをもう少しわかりやすく見てみましょう。

 かつては「豊かな国」(中心)が「貧しい国」(周辺)から資源収奪して、富を築きました。貧しい国の貧しい労働者に馬鹿みたいな低賃金で働かせて、そこの資源を貢がせたのです。それで豊かな国はますます富み、資本家だけではなく、そこの市民・労働者もそのおこぼれにあずかって相応に豊かになっていった。

 しかし、それは「南北問題」が盛んに論じられた頃までの話で、今はそうした「帝国主義的収奪」が正当化されうる時代ではありません。貧しい国を植民地扱いし、そこの住民に奴隷に等しい労働を強いて、というようなことはもう許されない。国家内部の「民主化」も時代の流れで、北朝鮮みたいな独裁国家は完全に“過去の遺物”です。王制を敷いてオイルマネーを一握りの王族が独り占めしているアラブの産油国も、共産党一党独裁の中国も、本当の意味での民主化をいずれ迫られるようになるでしょう。

 その意味ではたしかに世界は「進歩」したのです。たとえば日本企業が東南アジアなどの新興国に進出する際でも、そこが日本と較べて低賃金だから工場生産に有利だというだけでなく、今はそこを新たな市場としてはっきり意識するようになっています。その国の経済発展と、それによる市民の購買力の増大を当て込んでいる。つまり、工場として見ているだけでなく、有望な新市場がそこに出現することを期待しているのです。その国の人々が豊かになって新たな消費主体となることを期待している。だからその国が経済成長するよう「援助」するのです。

 これはしかし、国内市場が飽和状態に達して、そこではモノが売れなくなっているからでもあります。1970年代前半までは、モノもサービスも足りていなかったから、所得増大とも相まって国内需要が旺盛で、作れば作るだけ売れた。しかし、今はひととおりモノが行き渡ってしまった。テレビもパソコンも、クーラーも車も、みんなもっている。おまけに少子高齢化で、人口自体が減少に向かっています。市場としては先細り必至で、だから企業は海外に販路を見つけねばならなくなった(=フロンティアを開拓しなければならなくなった)のです。

 要するに、企業は国内市場では利益が出せなくなったから、国外に新市場をつくって儲けようとするのです。血眼になって儲かる投資先を探している金融マネーもそうした新興国に集まる。それでインフラ整備や設備投資が活発になって急速な経済成長を遂げるのですが、そこに集まるマネーは経済成長に必要な資金の数倍にも達し、やがて過剰設備投資の様相を呈して、バブルになる。バブルがはじけそうだと見ると、目ざとい金融マネーは一気に資金の引き上げにかかるので、経済がクラッシュし、その国には大量の失業者が発生したりするのです。それでなくとも、先進国の金融緩和が縮小されるという報道が出ただけで、資金の流入が止まって経済成長が止まったりする。

 著者は今の新興国が先進国並になることはまずないだろうと言います。それではエネルギー消費が今の倍になってしまって、資源価格が高騰するだけでなく、資源枯渇も早まるので、単純にそれは無理だろうという理由もありますが、根本にあるのは「フロンティアの消滅」という問題です。本の冒頭で、「『アフリカのグローバリゼーション』が叫ばれている現在、地理的な市場拡大は最終局面に入っている」と述べられているのはそういう意味です。もはや有利な条件で資源収奪できるところも、市場として拡大し続ける場所も、残ってはいないのです。それでは資本は利益を上げ続けることはできない。

 それでどうなるかというと、資本主義はそれぞれの国内部に「中心」と「周辺」をつくり出すしかなくなって、一部の富裕層が多数の貧困層をダシにして利益を上げるということしかできなくなる。今後は先進国でも新興国でも内部の貧富の格差は拡大するのです。少なくとも今の資本主義を延命させようとすれば。

 この点でも、アメリカのサブプライムローン問題は象徴的でした。あれはまさに「貧困ビジネス」そのもので、subprimeという言葉にしてからが、「準・最優良」というわけのわからない、いかにも詐欺めいた名称ですが、アメリカ国内の貧困層にターゲットを絞って、大金持ちたちがそこから搾り取ろうとしたのです。しかも、買い手の良心をなだめるためか、その危険性をわからなくさせるためかどうか知りませんが、金融工学なるものが不可解な金融商品なるものを発明し、その債券を中にもぐりこませたものを作って、世界のだぶついた金融マネーに買い取らせたのです。格付会社もグルになって、その「高利回り商品」にAAAをつけた。「安全確実」でかつ「高利回り」なんてあるわけはないのですが、皆でそんなトンデモ話に乗ってしまうほどに儲け話に飢えていたと、これはそういうことなのでしょう。そこまで今の資本主義は「焼きが回って」いるのです。

 このまま放置しておけば、第二第三のサブプライムローン問題が、かつてわが国も経験した不動産バブルが、過剰設備投資による経済崩壊(著者はいずれそれが中国で起こると予想しています)が、あちこちで繰り返されるでしょう。そしてそのたびに信用収縮による雇用の減少などで貧困に転落する人が増え、中間層が減って、貧困層が増大するのです。

 それはわが国でもすでに現実のものとなっています。本書には「日本の実質賃金」のグラフが出ているのですが、1997年のピーク111.3(2010年のそれを100としたもの)から多少の凸凹はあるものの、好況・不況を問わず「右肩下がり」に一貫して下がり続けて、その指標は2013年に97.7まで下がった。企業利益は増えても雇用者報酬は下がる、というかつてならありえなかったことが、今は起きているのです(この間、数値上は「いざなぎ景気越え」の「長期好況期」があったことに注意)。

 その結果としての日本人のビンボー化の速度にはすさまじいものがある。この本のP.197に出ている「金融資産非保有世帯比率」というのを見ると、この場合の「金融資産」というのは預金や株式などをひっくるめたものだと思いますが、2013年にはそれが31%に達しています。つまり、三世帯のうち一世帯は預金ゼロなのです。「87年の時点では金融資産ゼロ世帯は3.3%で…1972年から87年にかけての十六年間の平均が5.1%」だったことを考えると、全体としての日本人の貧窮化のスピードとその度合いには驚かされるのです。「非正規雇用者が雇用者全体の3割を超え、年収200万未満で働く人が給与所得者の23.9%」、「生活保護受給者も200万を越え」るという事態になっているのだから、それはあたりまえと言えるかも知れませんが、「一億総中流」とかつて呼ばれたのは、今は昔の物語なのです。

 中でも一番割を食っているのは若者で、失業率・不安定雇用の度合いは一番高いし、企業の“ブラック化”が進み、20代、30代の過労死や自殺が跡を絶たない(年間自殺者数連続3万人超の不名誉な記録は14年でやっと止まりましたが、それも3万を切ったというだけの話です)。それで「少子化に歯止めを」なんて言うのは、土台無理な話です。

 こういうのは財界が言うような、たんなる「国際競争激化」の要因によるものだけではないので、労働分配率、収益における労働者報酬の比率が下げられているからです。その代わり株主への配当を手厚くしたり、余剰自己資本の比率を高めたりするのは、全部株価対策と言ってよいでしょうが、ここにも「金融空間(投機マネー)の支配」が影を落としているのです。

 僕は時々「東西冷戦」の時代が懐かしくなります。著者は今の「グローバル資本主義とは、国家の内側にある社会の均質性を消滅させ、国家の内側に『中心/周辺』を生み出していくシステム」であり、「そもそも資本主義自体、その誕生以来、少数の人間が利益を独占するシステム」だったのだと言いますが、かつての東西冷戦の時代には、資本主義国は共産主義国に対抗する必要から、“資本主義根性”を丸出しにすることはできず、社会主義的な施策に力を入れたり、人々への「富の平等な分配」に意を用いざるを得ませんでした。そのあたり、まだしも“慎み”というものがあったのです。

 それが共産主義国家の消滅(中国は今でも「共産党独裁」ですが、「社会主義市場経済」とはたんなる形容矛盾で、マルクスが見たらのけぞりそうな非民主的資本主義国家でしかありません)によって、本性が丸出しになって暴走し始めた。「自由な市場」を錦の御旗に、平然と「格差」を是認するようになったのです。構造的な問題(著者も言うように「21世紀の資本と労働の力関係は圧倒的に前者が優位にあ」る)は棚上げして、あたかもそこに公平なチャンスがあるかのように、成功するもしないも「自己責任」だという論理のペテンにふけるようになり、人々はそれを受け入れたのです。

 要するに、かつての資本主義国はアカ(共産主義者)の勢力拡大を恐れて、「資本主義の国の方が豊かで、かつ平等である」というアピールを自国民に対してたえず行なう必要があった。だから労働分配率も上げて、「満足した中間層」を厚くし、貧困層への配慮も忘れないようにしなければならなかったのです。それが「強欲な資本主義」のブレーキ役を果たしていたので、それがなくなったものだから資本主義は本来の露骨なまでの貪欲さを取り戻したのだと、そういう見方もできるでしょう。

 だから、「株価が上がった」なんてことで喜ぶのは愚かなのです。早い話が小泉政権時代、株価は倍に上がり、「戦後最長の経済成長」を記録していたのです。しかし、上に見たとおり、実質賃金は下がり続けた。「実感なき景気回復」と言われたゆえんです。当時金融担当大臣だった竹中平蔵(凝りもせずまた“復活”しているという話ですが)が主張していた投資減税、法人減税、累進税率の見直し、労働市場の規制緩和(その後進みすぎた)などは、全部「富者に優しく、貧乏人に厳しい」施策でした。小泉規制改革の標語、「痛みを分かち合う」は中間層と貧乏人だけがそれを強要されるので、富裕層は(竹中の「理論」によれば、富裕層を優遇すれば、景気がよくなって貧乏人もそのおこぼれにあずかることができるらしいのですが)その「痛みの共有」を免除されるのです。その結果が上に見た日本社会の急速な「ビンボー化」「格差社会化」だったことを、僕らは忘れない方がいいでしょう。

 これは世界的な傾向で、今や完全に「金融帝国」化したアメリカでは、ウォールストリート支配の国家運営が続く中、かつてその力の源泉であった「中間層」の多くは没落して、「1%対99%」という言葉がはやり、「ウォールストリートを占拠しろ!」デモが行われるようになったのは記憶に新しいところです。この本にもそのグラフに出ていますが、アメリカの上位1%の富裕層の所得が国民総所得に占める割合は、1976年に8.9%だったのが、リーマンショック直前の2007年には23.5%にまでなり、今もその比率はほとんど変わっていないのです。

 これは新興国、その代表たる巨大人口を擁する中国やインドでも同じで、その貧富の格差は日本やアメリカよりさらに甚だしい。しかしこれは「資本の論理」からすれば必然で、今やっているような「資本主義の延命策」をとり続ける以上、事態は悪化こそすれ、解消に向かうことは期待できない、というのが著者の見るところです。

 だから資本主義は、少なくとも「飽くなき利潤追求」を事とする従来型の資本主義は、もう終わってもらわなければならない。でなければ世界は政情不安の国ばかりになって、それが具体的にどういうかたちをとるかは知りませんが、大混乱のうちに自滅へと向かう他なくなるでしょう(イスラム過激派が政権をとったとして、彼らにまともな国家運営ができると思う人はほとんどいないでしょう)。

 では、どういう手があるのか? この本の著者にも“ポスト資本主義”の名案はまだないようですが、誰が考えても同じになるだろうと思われるのは、巨大多国籍企業、とりわけ金融資本の「暴走」を止めることです。それはマネーゲームで実物経済をクラッシュさせるのも平気なモンスターになっているのだから、世界的な規制が必要で、ウォールストリートに乗っ取られたアメリカ政府がいくら反対しようとも、それは行なわれねばなりません。「グローバル化した世界経済では、国民国家は資本(金融資本)に振り回され、国民(国家)が資本の使用人のような役割をさせられることになってしまってい」るのですが、これを変えなければならないのです。この点について、著者はこう述べています。

「世界国家、世界政府というものが想定しにくい以上、少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗する必要があります。具体的には法人税の引き下げ競争に歯止めをかけたり、国際的な金融取引に課税するトービン税のような仕組みを導入したりする。そこで徴収した税金は、食糧危機や環境危機が起きている地域に還元することで、国境を越えた分配機能をもたせるようにするのがよいと思います。
 G20で世界GDPの86.8%を占めますから、G20で合意ができれば、巨大企業に対抗することも可能です」(p.186~7)

 正論ですが、これは「言うは易し」の典型だと著者自身が思っているようで、冒頭紹介したサイトで見られる日刊ゲンダイのインタビューでは「G20が暴走する資本主義にブレーキをかけるシナリオも、米国が反対するから難しい。となると、中国のバブル崩壊というハードランディングになるのではないでしょうか。その後、世界はグローバル化ではなく、保護主義的にブロック経済化していくと思います」と語っていますが、本当はその気になりさえすればできることです。問題は、著者のような先鋭な認識をもつ人がまだ少ないことで、竹中平蔵のような無責任な市場崇拝論者(著者は同じインタビューで「資本配分を市場に任せれば、労働分配率を下げ、資本側の利益を増やし…富むものがより富み、貧者はますます貧しくな」り、「格差が広がっていく」と述べています)の方が多いことでしょう。今の資本主義はその“本性”を否定しないかぎりもう立ち行かなくなっているという認識が共有されていないのです。

 国内的にはどうか? これはまず第一に「所得分配の公平性」を回復することです。週刊プレイボーイのインタビューでは、次のように述べられています。

「まずは成長戦略を捨てて、格差の是正を進めなければならない。所得税の累進性を高め、富裕層への最高税率は50%に戻せばいい。もちろん、法人税を下げるなどもってのほかで、むしろ上げるべきでしょう。政治の本来の役割というのは『富の再分配』なのだということを、いま一度、思い起こすことが大切だと思います」

 本の中で言及されているのはワークシェアリングの方です。これは連合などの労働組合も言っていることで、べつだん目新しいものではありませんが、わが国の長時間労働は先進国の中でも飛び抜けていて、実際はサービス残業(これもおかしな言葉で、別に顧客にサービスしているのではなく、雇われている企業に無賃金で使われているだけなのですが)も入れると政府統計の数値をはるかに上回る。こういうのを減らして、もっと人を雇えということです。

 労働分配率を上げれば、それは不可能なことではないでしょう。正社員、特に中高年のそれは既得権益で守られていて、零細自営の僕などは、五〇代のサラリーマン(但し、大手企業や公務員に限る)にその給与額を聞いて、「あんた、大した働きもしてないのに、それはもらいすぎじゃないの?」と言いたくなることが少なくないのですが、一緒にそうした不公平も是正すれば、新たに人(とくに若者)を雇い、一定時間以上のパート・アルバイトには社会保険をつけたり、全体に時給を上げたりすることはできるでしょう(10円単位のアップではなくて)。そうすれば長時間労働は減って、皆がハッピーになるのです。

 今の安倍政権は「ホワイトカラー・エクゼンプション」なるものを導入しようとしているそうで、このexemptionというのは「免除」の意味で、対象者には労働基準法の労働時間規制を「免除」して、労働時間に関係なく、「成果」に応じて賃金を支払うというものです。企業にしてみれば、長時間だらだらやっているだけでロクな成果も上げられない者に残業手当のおまけまで付けるのは馬鹿らしい(短時間で成果を上げる者よりそちらの方が高報酬になるのは不公平でもある)という理屈があるようですが、問題はその「成果」で、無理なノルマを一方的に吹っかけて、それを達成しろということになれば、「24時間働け」の悪名高いワタミみたいになることは必定と思われるので、長時間労働がさらに増えるということになりかねません。そんなことより、もっと先にやることがあるだろうが、ということです。

 余談ながら、僕も三十代の頃、数年間、この「労働時間自己裁量制」は経験したことがあります。仕事に飽きて辞めさせてくれとゴネているうちに、出勤はゼロでもいいから、トラブルが起きたときはその都度対処して解決し、管理・運営の最終責任だけもってくれればいいと経営者に言われたのです。しかし、出勤ゼロでは現場の状況が把握できないから、週20~25時間程度は出勤していましたが、こういうのは人材難の時代の話で、今はそんなおいしい話はほとんどないでしょう。しかも、運営を丸投げされていたのをいいことに、僕はそこでいくつかの「改革」を行なったのですが、それは会社の利益を減らすようなものばかりだったのです。しまいにはその部門単体では赤字を計上する羽目になった。サービスを手厚くしていわゆる「顧客満足度」を高め、増員と時給体系の改訂で人件費を倍増させたのが裏目に出たのです。経営者から「ちょうどあんたの給料分ぐらいの赤が出ている」と言われた僕は、「その程度なら本体の黒字で楽に吸収できるでしょう」なんて澄まして答えたのですが、今ならそんな不埒な中間管理職は即刻クビを言い渡されるでしょう。

 そういうのはやりすぎだとしても、パートを低賃金でこき使い、下請けを泣かせ、正社員には長時間のサービス残業を強いる、なんて企業は、その社会的責任を果たしているとは言えないでしょう。契約打ち切りをチラつかされて単価を値切られた下請けは従業員にロクな賃金も支払えず、やがては倒産の憂き目に遭う。企業本体の利益だけは伸びても、そこで働く人たちや関係者は皆疲弊し、困窮してゆくのです。全体がそれでは購買力が落ち、景気がいっそう冷え込むのはあたりまえです。株主と無能な経営陣だけは安泰かも知れませんが、それも長続きはしないのです。

 ゼロ成長下でも、労働分配率を高めて、ワークシェアリングをうまくやり、時間・形態に応じた相応の賃金を支払えば、今より暮らし向きがよくなる人は増え、社会の安定化につながると、この本の著者は考えているようです。

 僕が資本主義に対してずっともち続けてきた違和感は、「なぜ利益を増大させ続けなければならないのか?」ということです。際限もない不毛な業界内のシェア争いなどもそうで、生物学に「棲み分け理論」(今西錦司が提唱した)というのがありましたが、企業は従業員の雇用を守れるだけの適度な利益さえ上がっていればいいと、なぜ考えないのか、ということです。そうすれば他の会社も圧迫されずにすむ。むやみやたらと増殖して陣地を広げねば気がすまないというのでは癌細胞と同じです。それは病気ではないのか? 十億の資産を二十億に、次は百億に増やさないと気がすまないという資産家も同じです。資産はあっても、精神構造は守銭奴以外の何者でもないのです。そういう奴にかぎって異様なまでにケチで、社会や人のためになることは何もしないのです。

 こう言ったからといって、僕は談合しろとか、競争はすべきでないと言っているのではありません。ほどほどには競争もあった方がいい。その方がいい商品、サービスも提供されるだろうし、関係者の技術技能も上がる。しかし、度の過ぎたパイの奪い合いなどは意味がないだろうと言っているのです。ところが関係者の話を聞いていると、何のためにあなた方はそんな競争に身も心もすり減らしているんですかと疑問に思うようなものが少なくないのです。それでさして消費者が利益を受けるわけでもない。

「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ(著者はこれを「定常状態」と呼んでいます)」をベースとした経済運営を考えるべし、というこの本の著者の考えは、僕のそうした思いとつながる面があります。無意味な膨張、拡大は自己規制して、製品・サービスの質を維持・向上させ、雇用を守れるだけの利益はきっちり上げても、拡張は必要最小限に抑えるのです。利潤をたえず増大させ続けねばならず、支店を、フランチャイズ店を年間100店舗ずつ増やさなければならない、なんてのはただの病気ではありませんか。それで低賃金で人をこき使うだけとなると、なおさらです。セブンイレブンなんか、今はそこらじゅうにありますが、詐欺と似たやり方でオーナーを募集し、店主にはロクな取り分が与えられないというので裁判になっていますが、そういうあこぎなことをやって人を泣かせておいて、いずれ天罰が下るとは思わないのでしょうか。

 それが「資本主義の必然」だと言うのなら、そんなものは早めに「卒業」した方が世のため人のためなので、別の行き方を模索するときに来ているということです。

 物事がうまく行かないとき、システムの内部にいて、そのシステムの構造それ自体は疑うことなしに解決策を探しても、うまく行かないことが少なくありません。その外側に出て考えてみれば、全く違う発想が生まれてそれが解決につながるということがあるものです。今の資本主義の問題もその一つではないかと、僕はこの本を読みながらあらためて思ったのです。

 皆さんもこの本を読んで、そのあたりよくお考え下さい。著者が重要な問題だと考える「財政均衡」の問題などについてはここでは触れませんでしたが、それもその通りだと思われるので、全体として著者の議論は説得力に富むのです。

 今の資本主義はそれ自体が病気ではないのか? それは考えてみるだけの価値があります。まず“病識”をもたないことには、治療は始まらないのです。
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