日本社会の一番「こわい」ところ~瀬木比呂志著『絶望の裁判所』雑感

2014.04.30.18:35

 僕がこの本(講談社現代新書 2月20日刊)を買ったのは偶然です。その前に『週刊金曜日(4月25日号)』で「映画『ゼウスの法廷』に見る『裁判官という人間のつくられ方』」という記事(映画監督・高橋玄氏と裁判官・寺西和史との対談)を読んでいて、これがかなり笑えた(ほんとは笑ってはいけない?)のですが、翌日本屋に行ったらこの本が棚に見えたので、少し立ち読みして、面白そうだと思って買ったのです。

 先に『週刊金曜日』の記事について二、三触れておくと、警察の腐敗を描いた映画『ポチの告白』は僕も前にDVDで見ましたが、寺西判事はこの映画には一つだけ惜しいところがあると言います。それは裁判官が「弱みを握られ脅されて警察当局の意に沿う訴訟指揮をしてしまうところ」で、ほんとは「裁判官の多くは、脅しなどかけられなくてもすすんで秩序維持的な仕事をするのが現実」だというのです。

 他にもこういう箇所があります。「判検交流(裁判官と検事の人事交流)」で検察庁から戻った判事は検察に同情的になり、被疑者の勾留延長請求に要件を満たしていなくてもOKを出しやすくなるという寺西氏の話に、「なんかわかりやすいですね。同じ釜のメシを食った相手に心情的に寄り添っていく。市民的にはフツーの感覚ですけど」と高橋監督は合いの手を入れますが、その続きが笑えるのです。

寺西 そこがまさに問題の核心なのです。裁判官の多くがフツーの人以上にフツーだということが…。卑近な例ですが、最近、大阪高裁管内裁判所職員の、過度の飲酒による不祥事が続いたんです。駅員に暴行したとか、女性にわいせつ行為を働いたとか。それを受けて昨年末、神戸地・家裁所長の連名で通達が出されました。「深夜に及ぶ飲酒をせず、遅くとも午後10時頃までには帰路につくことを本日以降徹底して下さい」という。
高橋 子どもの門限か(苦笑)。
寺西 そう、注意喚起ならともかく、まさしく子ども扱いです。それで、抗議の意味で所長との定例昼食会を欠席したところ、彼は別の機会に「訓告は組織防衛のため」といった話をしました。しかも大阪管内すべてに出されたそうですから、おおもとの出所は大阪高裁でしょう。

 やれやれ…ですが、何で「裁判官の多くがフツーの人以上にフツー」だとまずいのでしょう?(これは鋭い指摘だと僕は思うのですが)。まず、検察(警察)からの被疑者の勾留延長請求に関しては、それは人権保護と法的公正の見地からして、努めて厳正に対処しなければならないのに、そんなところに「同じ法曹のよしみ」など持ち込んで甘くなっては困るということです(この場合、被疑者への「同情」は何もないことに注意)。また、後者の「子ども扱いの通達」に関しては、「裁判所の一番重要な仕事は、個人の権利や自由を守ること」で、「それによってこそ裁判所への信頼も築かれるのに、裁判官が率先して自由を制限するとはなにごとか」(寺西判事)ということになるからです。

 こういうのは法律学のイロハで、僕みたいな元不良法学部生でも知っています。ましてやプロの裁判官が知らないはずはないのですが、「日本的な、あまりに日本的な」今の裁判所というところは、そういう自己否定に等しいことですら「組織防衛のため」と称してためらいもなくやってしまうのだというのだから、終わっているということです。

 僕はかねて、今どきの高校(とくに延岡の県立高校のような)の生徒に対する過剰管理(ときにそれは人権無視の域にまで達する)を批判しています。「何で高校生なのに、幼稚園の子供みたいに扱うのだ!」と腹を立てているのですが、こういうことは昔はなかったことで、僕は自分の親にも、下宿のおばさんにも、学校の先生にも、ガキ扱いはされませんでした。たまに生徒を馬鹿にしきったような無礼きわまりない教師に当たることはありましたが、そういうときはその場できっちり相手をやりこめたので、そのクソ教師が職員室に戻ってから当り散らしたとかで、クラス担任の先生に、「おまえ、あんまり無茶苦茶言うなよ」と言われたことはありましたが、その先生も生徒である僕らの方に分があることはわかっていたのです(重要なことは、それで僕がまともな先生たちからにらまれたり、クラスで孤立するというようなことは全くなかったということです)。

 しかし、大人であり、かつ「法の番人」である裁判所においてすらそのようなお粗末な「通達」が出されるというのだから、ほんとにこれはもう終わっているな、と思うのです。

 まあ、タバコのパッケージに「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります」とか、「妊娠中の喫煙は、胎児の発育障害や早産の原因の一つとなります」なんていちいち書かれている(下に詳しい説明つき!)時代なので、昔、駅のホームの「白線の内側までお下がりください」のアナウンスがよけいなお世話だと言われたことがありましたが、そのうち交差点では「今は信号は赤です。車にひかれて死亡する恐れがあるので渡ってはいけません」というアナウンスが繰り返し流れ、飲み屋では一時間おきに「過度の飲酒は家庭崩壊や早死の原因になります」といった警告メッセージを流すのが義務付けられるようになるのかも知れません。裁判所もそうした「時代の変化」に応じているだけだとも解釈できるわけです。

 前置きが長くなりましたが、『絶望の裁判所』の話です。こちらは真面目そのものの記述なので、同じ調子で書くわけにはいかないのですが、著者の瀬木氏は元裁判官で、現在は明治大学法科大学院教授という肩書の人です。表紙に「最高裁中枢の暗部を知る元エリート裁判官 衝撃の告発!」とあって、「内部告発本」の一種と見ていい本ですが、僕に興味深く思われたのは、そこに描かれた裁判所の裏面がやはり「日本的な、あまりに日本的な」もので、これは何も裁判所にかぎったことではなくて、今の日本の多くの組織に通底する病弊を衝いたものではないかと感じられたことです。

 その意味では別に「衝撃」的なものではなくて、「やっぱりなあ…」という感じのものなのですが、われらが日本国憲法の「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という輝かしい理想は完全に空文化して、「日本の裁判官の実態は、『すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される』ことになって」(p114,5)いるのだという著者の説明は、かなりゲンナリさせられるものではあるのです。

 ただ、僕が法学部の学生だった当時から、下級審の判決の方が上級審の判決よりリベラルで、まともだというのはなかば“常識”でした(中には裁判官の無能ゆえのお粗末な判決も混じっているとしても)。上に行けば行くほど「体制寄り」になって、よくても「それは高度な政治的判断に関わることなので、裁判にはなじまない」とか何とか言って、政府や行政側の行為・施策を違憲と判断した下級審の判決を破棄する、なんてことをするのがつねで、また、そういう判決を下した下級審の判事は出世は望めず、“見せしめ”として地方の地裁・家裁で冷や飯を食わされ続けて終わる(たいていは途中で辞めて弁護士に転身するなどする)とか、そういう話は聞いていました。「三権分立」とは言うものの、最高裁と政府・行政権力は「仲良し」で、ナアナアの関係がそこにはあることが強く疑われたのです。

 この本にも、先の『週刊金曜日』にも、有名な砂川判決のことが出ています。『週刊金曜日』から引用すると、

【「日本政府が米軍駐留を許したことは憲法第9条が禁じた戦力の保持に当たり違憲」として、砂川事件の被告7人全員に無罪を言い渡した戦後裁判史上画期的な「伊達判決」(1959年)…(中略)…伊達判決は同年暮れの最高裁判所判決によって「破棄・差し戻し」とされ、後に改めて罰金2千円の有罪が確定した。しかし、2008年から13年にかけて、国際問題研究家・新原昭二、フリージャーナリスト・末浪靖司、元山梨学院大学教授・布川玲子の三氏が相次いで米国公文書館開示による米国国務省文書コピーを入手。それによって当時の田中耕太郎・最高裁長官が、伊達判決を覆すために米国のマッカーサー二世大使やレンハート公使と密談を重ね、審理方針や判決の見通しを通報していたことが明らかになった。】

 安倍政権はこの「最高裁砂川判決」が「集団的自衛権」を肯定したものだと「解釈改憲」の口実に使おうとしているのですが、「司法の独立」もへったくれもない「初めに結論ありき」の馴れ合い違法判決だったわけで、彼ら米国高官に対し「田中長官は①伊達判決は覆す方針だ。②9月頃3週間ばかりで口頭弁論を終え、12月頃判決を出す。③判決時に各判事が意見を述べて論議が長引かないように全員一致の判決を目指す――などきわめて明確に裁判方針を伝え…この密約どおり、最高裁は12月、全裁判官一致で『破棄・差し戻し』判決を下した」(同記事)のです(そのくせ田中長官は当時の記者会見で「判決に政治的な意図はない」と大嘘をついた)。

 『絶望の裁判所』の著者はこれについて、「『元東大法学部長』で『商法・法哲学の学者』であった人間が、最高裁長官となると、こういうことをやっているのだ。この学者にとって、『法哲学』とは、『学問』とは、一体何だったのだろうか? しかし、これが、日本の司法の現実、実像なのである」(p.25)と憤ります。

 元からわが国の裁判所には他のお役所組織と同じく、上は他の権力(政府や検察)との“調和”に腐心し、下は率先して上の意向を汲み取り、迎合して昇進の見返りを得ようとする「ヒラメ裁判官」(瀬木氏の言葉)は少なくなかったのでしょうが、要は今はそれが増えすぎ、先の『週刊金曜日』の記事の寺西判事みたいな人(出世する気などは毛頭なさそう)は“絶滅危惧種”になってしまって、全体として裁判官の質の劣化が著しい、ということなのでしょう。

 この本には最高裁判事たちの驚くべき低レベルの生態も活写されていて、どう見てもそれは“選良”たちの発言や行為とは思われないので、権力ゆえに堕落したのか、堕落しているから出世の階段をのぼることができただけなのか、両方が重なってそうなったのか、そのあたりはわかりませんが、「人格・識見のすぐれた者のみが最高裁判事になる」という世間の漠然とした思い込みが全くの幻想にすぎないことだけはわかるのです。

 気楽だがつねに餓死の危険と背中合わせの僕みたいな零細自営の場合にはそうしたこととは無縁ですが、ふつう世間の人は、組織の中での出世は能力や人望と密接に関連すると、漠然と思っています。逆に言えば、出世できないのは無能で人望にも乏しいからだということになるので、そういう周囲の目があるがゆえに、組織人は出世できなくなるのを恐れるのです。それはたんに給料の問題ではなく、むしろ無能で取るに足りない人間だから出世できないのだという世間の冷笑的な視線を恐れる気持ちの方が大きいのです。

 しかし、そうした見方が一応の妥当性をもつのはその組織が公正でまともな組織である場合にかぎるので、企業の不祥事などでもよくわかるのは、多くの場合上が腐っていることで、一体この人たちはどんな「資質」ゆえに上にのぼることができたのだろうと疑問に思うことが少なくありません。病的な組織の場合には、それに合わせて病的になるのでなければ出世も困難になるでしょう。

 こう言ったからといって、僕は「今どき出世する奴はロクでもない人間ばかりだ」と決めつけているのではありません。たとえば、僕の学生時代の親しかった友人たちはそれぞれの分野・職場で出世していて、僕は昔の友としてそれを無邪気に喜んでいます。あいつは人間としての幅もあったし、骨のある奴だったからな、と思うのです。堕落してヒラメになったからエラくなったのだろうとは思わない。

 僕が言っているのは、社会の全体的な傾向として組織がおかしくなってきているのではないかということなのですが、もしもそうなら、そういう組織の中で仕事をする人は「まとも」であろうとするなら出世願望の類から自由でなければならないでしょう。「自己の良心」に基づき、かつ周囲の視線を無視できるだけの強さをもたねばならないということです(そのためには「あんたが出世できないから、私は肩身が狭い」なんて言う俗物根性丸出しの女性と結婚したりしてはなりません。それでは元気が出なくなるだろうからです)。

 話は割とかんたんなので、そういう人が増えれば組織の自己浄化機能が働くようになって、組織全体が健全化し、ひいては社会もまともになるでしょう。裁判所だって、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」という原則に忠実に職務遂行をする人が増えれば、腐った上から何を言って来ようがそんなものは無視できるので、まともな審理が行なわれ、まともな判決が下されて、裁判所は市民の信頼を回復することができるのです。「何としても出世しなければ世間的な体面が悪い」というようなケチな下心があるから、足元を見られ、葛藤が起きて、良心を犠牲にする羽目に陥るのです。

 僕が何より問題だと思うのは、今の日本人は個人として弱くなって、「組織や集団(あるいはそのボス)には抗えない」という“気分”がかつてないほど強まっているように見えることです。何で抗(あらが)えないのか、僕にはよくわからないのですが、要するにそれは自分自身が強い風圧にさらされたり、他から非難されるのが無条件にこわい、ということなのでしょう。これこそが「平和ボケ」の最悪の症状です。今は子供の世界ですら、いじめを止めようとした子が新たないじめのターゲットにされ、それに周囲は見て見ぬふりをするという時代です。これはオトナ社会を子供が無意識に模倣しているからで、たとえばある人が傍若無人が目に余るというので下劣なチンピラをボコボコにしたとして、それで連中がおとなしくなって街に平和が戻ったから感謝されるのかと思えば、「あれはやりすぎだ」とか「手段に問題はなかったか?」とか、「暴力的な人はキライ」などと逆に非難される始末なのです。別に相手を殺したとか、後遺症が残るような大怪我をさせたとかいうのでなくても、です。それならおまえらに問題を解決する気があるのかといえば、そんなものはないのです。当事者意識というものがカケラもなく、何もかもひとごとで、自分は何もしないくせに「公平」ぶってエラそうな能書きだけは垂れたがる。今の組織人も、何か不当なことに抗議したり、それを内部告発したりするときは同じ周囲の反応を覚悟しなければならない(出世できないことへの意趣返しだとか、個人的な怨恨によるのだろうとかあれこれ下種の勘繰りめいた中傷まで受けて)ので、昔は、少なくとも僕が若い頃はここまではひどくなかったのではないかと思います。

 最近の「右傾化」もこれと無関係とは思われないので、「強い国家」とやらに自己同一化し、そこに“誇り”を見出そうとするのは、個人では喧嘩一つできない己の弱々しさをそれで補償したいという心理が働いているのでしょう。過去の歴史の強引な美化も同じで、僕はよく若い子に言うのですが、過去の日本人が立派だったからといって、今の自分が立派だという保証には少しもならないし、逆に、日本人が過去の戦争でひどいことをやらかした(戦争時にはどのみち人は正気でいられなくなる)からといって、今の自分の人格を否定しなければならなくなるというわけではないので、冷静客観的な事実認識をこそ尊ぶべきなのですが、そこによけいなものを投影する人は、乏しい自己肯定感の補いにそれを利用しようとするがゆえにそれができなくなるのです(左派の歴史解釈を「自虐史観」だと嘲る保守派は、自分たちのそれが「自己愛史観」に堕していないか、反省してみる必要があるでしょう)。

 そもそもの話、「戦争ができるふつうの国」にしたい安倍や石破にしたところで、実際に自分が戦闘に参加するとはハナから思っていないわけで、阿鼻叫喚の地獄を経験するのは戦場に送られる自衛隊の若い将兵なので、ここでもそれは「他人事」なのです。勇ましいことを言っている右翼の先生方やネトウヨの類も同じ(ちなみにブッシュの馬鹿が始めた対アフガン、イラク戦争でのアメリカ兵の戦死者は約7千人だそうですが、「昨夏、帰還兵の自殺者数がそれを超えた」と『週刊金曜日の』同じ号にはあります。イラクで米兵が“誤って”殺してしまった民間人だけでも12万にのぼると言われているので、それと較べればまだ少ないが、自殺者が戦死者を上回るというのは驚くべきことです。仕方なく「テロとの戦い」を引き継いだオバマは、アフガンやパキスタンで「テロリスト掃討」のために無人機を飛ばし、多数の罪もない民間人を“誤爆”して殺し、人々の恨みを買っているというのは有名な話ですが、かえってテロリストの勢力は増し、世界がさらに不安定化していることは周知のとおりです)。

 話を戻して、権力をカサに着たり、集団に自己同一化して強がるのは、決まって「弱い個人」です。たんなる個人として行動するときは、他に責任が転嫁できないから、集団に埋没するときより「良心的」になるものが、そういうときは個人だとできないようなひどいことを平気でやらかすのです(匿名でネットに中傷の書き込みなどする個人もいるではないかと言われるかも知れませんが、あれは匿名を隠れ蓑にしているからです)。

 『絶望の裁判所』も同じことを指摘しています。言葉が難しいのでわかりにくいが、そこ(p.28)をちょっと引用すると、

【こうした事態の背景には、おそらく「集団に対するバウンダリー(境界の認識)の欠如、集団や規範の物神化(人間の作ったモノが呪物化され、それに人間が支配される現象)という心理学的機制があると思う。カウンセリングにおいては、問題含みの人間関係について、「バウンダリーの欠如」と「バウンダリーの確立の必要性」がいわれることがある。こうした「バウンダリーの欠如」は、日本では、親密な関係の中でも、集団と個人の関係においても生じやすい。よくいわれる「集団に対する帰属意識のかたまりのような日本人」ということの原因がこれである。そして、これは、日本の裁判官集団にも非常によく当てはまる事柄であり、彼らは…「集団や規範の物神化」機制がきわめて強い人々なのである。】

 平たく言えば、この場合の「バウンダリー(boundaryと綴る)」というのは「個の輪郭」のことで、日本人は全般に明確な個をもたないことが多いから、集団の中に入ればたやすく個の境界線は溶解して、その集団に自己同一化してしまい、内部の掟のようなものに、個人としてその是非は問うことなく、盲従してしまうことになりやすい、ということです。

 そして「明確な個」をもつ人間は嫌われる。なぜならそれは集団の中に安住の場を見つけてそこにまどろむ人たちを脅かす存在と感じられるからです。かつて哲学者のソクラテスは自らを「アテナイという鈍牛にたかったアブ」と規定しました。安易な自己満足と馴れ合いにふけるアテナイ市民たちをその心地よい眠りから絶えず揺り起こすことが自分の使命であると心得たのです。彼の場合はその問答法によって権威あるものとみなされた人たちに恥をかかせることが多かったので、名士たちに憎まれ、それがあの言いがかりめいた裁判の容認につながり、法廷でも「恭順の意」を示すどころか市民たちを手厳しく批判したので死刑宣告が下されることになったのですが、わが国の場合には、そこまでしなくても「個」であること自体が不協和音、一種の罪悪であるとみなされるのです。

 70年近く平和が続いて、対立や摩擦を恐れる国民の気風はさらに強まったので、個はさらに貧弱になり、そうした集団支配、「空気」支配の傾向も強化されたのです。自民党のセンセたちが「個性尊重の誤った教育がモラルを低下させた」と言うたびに、僕は笑わずにはいられません。今の学校の管理教育では少しも「個の尊重」など行なわれていないし、それが行なわれていないがゆえに自立的な個人に成長しそこねた幼稚・身勝手な人間が増えすぎて、モラルの退廃も甚だしいものになったと見るのが正しいからです。自分にはモラルがあると思い込んでいる彼ら保守派のオヤジ、オバハンのそうした臆面もない自己欺瞞そのものが、幼稚化の産物なのです。その意味で安倍晋三のような男が総理になったというのは、今の日本社会に見合ったことなのかも知れません。

 いっとき「西洋的な個人主義の限界」がよく言われましたが、それは自他二元的な見方しかもちえない「個としての自覚の浅薄さ」の問題なので、今の日本人に対しては「明確な個をもて」という忠告が一番当を得たものでしょう。高尚な哲学論以前の問題なので、今の日本社会の機能不全と退廃の背景には、全部同じ問題があるように僕には見えます。それは「貧弱すぎる個がもたらす弊害」ということです。

 個は創造性の源泉であるだけでなく、「人間らしさ」の源泉でもあります。自分が本当は何を感じ、何を思っているのかすら自分で感じ取れないようなできそこないのロボットみたいな人間が今は多すぎる印象なので、話をしていても少しも面白くない。弱々しい事なかれ主義者たちが手もなく組織や集団に呑み込まれて、内輪の出世競争や権力闘争に明け暮れながらその圧力に怯え、責任の所在がはっきりしないまま、一部の軍人の暴発も抑えられず、流れに流されてやがては滝壺に落ち込む、というのが戦前戦中の日本社会で起きたこと(それが「素晴らしかった」と強弁する人もいる)ですが、今進行していることも当時と性質は同じでしょう。

 集団の一員としてではなく、個人として強くあれ、それが問題解決の鍵だと、あらためて強調しておきたいと思います。組織にとっても本当はそういう人こそが「宝」なのです。

 最後に、この本に二度にわたって引用されている「ある学者のコメント」を孫引きしておきましょう。

「太平洋戦争になだれ込んでいったときの日本について、数年のうちにリベラルな人が何となく姿を消していき、全体としてみるみるうちに腐っていったという話を聞きます。国レヴェルでもそうなのですから、裁判所という組織が全体として腐っていくのは、よりありうることだろうと思います」

 この「裁判所という組織」は「○○という組織」といつでも言い換えられる汎用性をもつものと、僕には思われた、ということです。
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