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人生の終わり方

2014.04.22.15:42

 一番難しいのはこれだろうと、かねて僕は思っています。とくに平均寿命がかつてとは比較にならないほど伸びた今はそうです。
 人は自分の死を決められない。いつそれが来るのかわからないというのはそれ自体悩ましいことですが、医療技術が発達した今は、可能なかぎり死が先に引き延ばされるので、寝たきりになっても生命だけは維持されることがあって、何よりそれは本人にとって苦しいことではないかと思います(最近は医学の世界でも無理な延命治療は見直されるようになったようですが)。

 先日、父が急逝しました。満八十五歳と五ヶ月でした。夜、いつもと同じように食事をし、いつもと同じようにベッドに入り、いつもと同じように夜中に母の介助を受けながらトイレに行き、朝になって起こそうとからだを揺すっても反応がなかったので、あわてて隣家の末弟夫婦を呼び、救急車で病院に搬送されたが、おそらく母が呼びかけた時点ですでに事切れていたのでしょう。検死時に撮ったレントゲンでは肺が真っ白だったそうなので、原因はそれだったようです(父には癌の類はありませんでした)。

 最近父の衰えぶりは甚だしく、自由に起居ができなくなっただけでなく、正月ごろにはそれまで気づかれなかった認知症の症状もはっきりし、以前の凛とした姿はどこへやら、父の影法師が衰えた肉体に宿っているだけのように周囲の人たちには感じられたようです。意識の譫妄(せんもう)状態に陥ることもあって、相手をした母や弟たちはそれには参ったようですが、その後薬を変えると症状は改善し、息子を連れてちょうどひと月前に僕が帰省したときは、落ち着いていて、一人しかいない孫の成長ぶりに満足げな表情(父にはそういうとき特有の「よし」という嬉しげな顔つきがあった)を浮かべていました。そのあたりはちゃんとわかったのです。以前、孫が大学に入るまでは生きていてくれという話をしたことがあったのですが、それを見届けるようにして父は身罷ったのです。六十年以上連れ添った母の、「家で死なせてやりたい」という願いも実現したので、まずは幸せな大往生でした。

 子供の方としては、老々介護で母の方が参ってしまうのではないかと案じていたので、それが防げたのもよかった。昔人間の父は家事の類を全くしない人間だったので、そんな父を残して先には死ねないと、そのこと自体が母には心の負担になっていたので、それを知っている周囲はほっと胸を撫で下ろしたのです。八十四歳になる母も、昔よりずっと動きはスローテンポになっているものの、まだまだ元気に畑仕事までこなしているので、当分は気楽な生活が送れるでしょう。僕は実家に隣接する氏神様にお礼と、母や身内の加護をあらためてお願いしてきました。ひと月前に帰省した折も、どうかよきはからいを、と祈願したのですが、父の最期はその氏神様のよきはからいのように感じられました(そこは祖母が生きていたころは祖母が、その後は母がお世話係のようになっています。「白龍さん」と呼び習わされているその小さな社は、幼児の頃の僕の遊び場でもあり、祖母は孫の僕がその氏神様のおかげで生まれたと信じ、それにあやかって命名したといういきさつがあったので、僕にとっては特別な神様なのです)。

 一つ奇異に思われたことは、父が前日の昼間、最近は座椅子に座ってうとうとしていることがほとんどになっていたのに、二度にわたって庭に出て、杖を支えに田んぼを見渡せるところまで一人で歩いてくる姿が田植え前の準備をしている人たちに目撃されていたことです。皆は驚いて、父が元気になったと喜んでくれたようでしたが、無意識に父は周囲の人たちと見慣れた自然に別れを告げるために、最後の力をふりしぼってそこに立ったのでしょう。父は話にしても、途中の説明を省いて、いきなり結論だけ言うので誤解を招くことが少なくありませんでしたが、この最後の行動も、いかにも父らしいものと後で感じられたのです。一連の葬儀次第が恐ろしくスピーディに運んだのも、短気で形式張ったことが嫌いで、「挨拶の類と坊主のお経は短ければ短いほどいい」とよく言っていた父の見えざる意図が働いていたかのごとくでした(それは弟たち――末弟夫婦に次男――と地域の人たちがよく働いてくれたおかげがむろん大きいのですが、この種の日程は、ことに田舎では、坊さんの都合などもあるので、こちらの都合だけで決められるものではありません)。

 通夜や告別式(いずれも自宅で執り行われた)に、家族の涙はありませんでした。薄情な一家のように見えるかも知れませんが、十分な寿命を保った上に、さほど苦しむことなく終われたということは、喜ばしいことではあっても、悲しむべきこととは感じられなかったのです。

 もとより、家族にとっては父は代わりがきかない特別な存在でした。彼は「決断と行動の人」で、その強力なリーダーシップがなければ、一家は数々の困難を乗り越えることはできなかったでしょう。僕にとっても父はかけがえのない人でした。十代、二十代の頃は顔を合わせるたびに衝突し、どちらも強情なのでそれはしばしば激しいものになり、他の家族を困惑させましたが、不思議と強権的なところはなくて、言い争いの途中でふと沈黙し、「そうか。今のはおまえが正しい」と言うと、その場でパッと考えを改めてしまうような柔軟性があったので、僕は父と喧嘩するのが徒労だと感じたことは一度もなかったのです(子供たちには全員、好きなように進路を選ばせて、可能な限りの支援をしてくれた)。全体に父は考え方が実際的、合理主義的で、リベラルと言っていいほどで、田舎の人間には珍しく世間体や周囲の思惑を気にするふうがありませんでした(いちいち周りのご意見など聞いて回っていた日には、何一つまともなことはできない、とも言っていました)。だから日本人特有の「ホンネとタテマエの分裂」がなく、言葉と行動が違っているということがなかった。それでは単純かと言うと、なかなかに懐が深くて、考えが練られており、苦労人らしく人を見抜く直観力にも恐るべきものがあったので、お世辞や下手な嘘など通用する相手ではありませんでした(父をよく知らない人は騙されたふりに騙されたのです)。僕の田舎の方言には「つっけりこき」という言葉があって、父はそう呼ばれていましたが、これは「つむじ曲がりの直言居士」ぐらいの意味で、権力的、権威主義的なものが嫌いで、空虚なタテマエや形式を隠れ蓑に醜悪な我を通そうとする態度(正直な父にはそれがよく見えた)を嫌悪し、そういうものに出食わすとひっくり返さないと気がすまないという本能的な習性があるように見えました。一方で老人や立場の弱い人にはめっぽう優しくて面倒見のいいところがあって、無愛想で口は悪いが私心のないほんとにハートのある人でした。十数年にわたって地域の民生委員を務めたのも、その意味で適任だと周囲から思われたからでしょう。

 そういう父の人物評価には容赦のないところがあって、典型的な「長男の甚六」である僕などは「失敗作」と断じて憚るところがありませんでした。認知症の症状がはっきりし始めた頃、父は親戚の中年女性に孫の自慢をし(母に「そういうことは大学に受かってからにしてくれ」と言われたそうですが)、その孫の優秀さと人柄の温順さはひとえに母親からの美質の遺伝とそのよき養育の賜物だと語ったので、少しは父親(=僕)の影響もあったのではないかと相手が言うと、「そんな馬鹿なことがあるか!」と一言のもと否定されてしまったというので、それをその人は笑って母に話し、僕は母から聞いて笑ったのですが、ボケていなくても父はそう言うにきまっているので、そのあたり何とも言えず可笑しかったのです。
 古い話では、高校生の頃、町長から父に直接、おまえの総領息子(昔はそういう言い方をした)に町役場の試験を受けさせてはどうか、ペーパーテストさえ通れば後は必ず通るようにとりはからって、ゆくゆくは自分の右腕になれるよう育てるから、と話があったということで、ところが父はその場でその有難い申し出を断ってしまったのです。父はそのとき、「あんたはうちの息子がどういう奴か知らないからそんなことを言うので、無精な上にわがまま勝手で人の言うことを聞かず、目上の人間に逆らうことしか能のないあんなロクでもない奴に宮仕えなど務まるわけはない。迷惑をかけるだけだから、気持ちだけ有難く頂戴する」と言って終わってしまったらしいので、ずっと後になってからその話を聞いたとき、僕は「そんなおいしい話があったのなら、何でそのとき教えてくれなかったのだ」と冗談半分言ったことがあります。すると父は、「そんな無責任なことができるか!」と本気で怒っていたので、そのあたり“公正の鑑”みたいな人だったのです(ちなみに父はきこりをなりわいとしていました。前に塾の生徒にそれを話すと、「先生、『きこり』なんて言葉、僕らは昔話か民話でしか見たことがありませんよ」と笑われてしまいましたが)。

 父親の思い出話はこれくらいにするとして、僕も、これをお読みになっている人たちも、遅いか早いかの違いはあれ、いずれ必ず死にます。僕個人は、まだ将来のある若い頃に死ぬのは可哀想だが、一定以上の年齢になれば死は何ら恐れるべきものではなくなると考えています。ある程度やりたいこと、やるべきことを果たして死ぬのなら、そして向後に大きな憂いがないなら、死は何ら不幸なことではないのです。

 大体、人類そのものが不滅ではない。その種としての寿命は長くてもせいぜいあと何万年かでしょう。今は人口が多くなりすぎてもいる。僕は父の葬儀のために帰省する途中、着陸態勢に入った飛行機の中から、眼下に広がる広大な市街地を眺めて、あらためて「人間はやはり繁殖異常だな」と思わざるを得ませんでした。地球上にこのサイズの動物(蟻ぐらいの大きさならともかく)が70億もいるなんて、正気の沙汰ではありません。どこへ行っても人間の巣(宇宙人から見ればそう見えるでしょう)だらけなのです。これはそれ自体が生態系の破壊以外の何物でもなく、地球はその負担に耐えきれなくなってきている。一個の動物としては、何とも節度のないあり方のように感じられたのです。

 その「節度」の限度が20億なのか30億なのか、それは知りませんが、とにかく今は多すぎで、大幅に減った方が地球のためであり、人類の利益にもなるでしょう。むろん、核戦争で一気に減らすなどというとんでもないことを考えているわけではないので、バース・コントロールで徐々に減らすのが望ましい。わが国の人口も、半分の6千万程度がベストかと、勝手に考えています。少子化は高齢化とセットになっているから大変なので、あと十年くらいで人口の最も多い「団塊の世代」が後期高齢者の仲間入りをしますが、そこからしばらくを何とか乗り切れば、平均寿命がさらに延びるということでもないかぎり、老人の絶対数自体が減ってくるので、労働力人口を形成するより若い世代に過度の負担がかかることもなくなるでしょう。

 こう言えば、「おまえは暗に年寄りは早く死ね」と言っているのかと叱られるかも知れません。別にそういうつもりはないのですが、他の人たちのことはともかく、僕自身は長生きしたいとは少しも思っていません。何歳でも、身の周りのことが自分でできる元気なうちはいいが、そうでなくなれば不自由を耐え忍んで生き続けなければならないというのは苦痛で、ぽっくり行くのが一番望ましいと、げんに多くの高齢者は思っていることでしょう。生命体のメカニズムとしては、そうした生の苦痛によって生への執着を断ち切るという仕組みになっているのかも知れませんが、その執着にも強い人と弱い人がいて、それに応じてそうした不自由を忍ぶ期間の長さも自動調節されるようになっているなら、人間には幸せではないかと思います。

 僕の父などはそのあたり、至極あっさりした人でした。八十になったとき、「これで平均(寿命)は超えたぞ」と子供みたいに自慢していましたが、それは運動会で仲間に勝ったというような無邪気な性質のそれだったので、殊更その種の執着が強い人ではありませんでした。ひと月前に帰省した折、僕に「こういうふうにして生きているのは苦しいものだ」と漏らしていたので、父にはもう十分だという思いがあっただろうと思います。そして迎えはまもなくやってきたのです。

 さて、自分の場合はどうか。重要人物でもなし、もう大してすることは残っていないような気もしますが、見つけたそれを一つ一つ片づけていって、“お迎え”が来たときはいつでも喜んでそれに応じられるような準備だけはしておかねばならないと思います。

 こんなことを言っておきながら、百近くになってもまだ死ぬ気配がなく、ボケて生への執着に連綿とし、「あの厭味なしつこいじいさんはまだくたばらないのか?」と周りに言われるようになったらどうしようかと、一抹の不安は残るのですが…。
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