これが今年最後の記事になるかと思いますが、一度ぜひ書いておきたいと思ったことなので、日曜を半分潰して書いておきます(塾は受験生がいるので31日までやって、それから正月休みです)。
大方の人はそれをあたりまえのことだと思っているでしょう。しかし、戦争になれば兵士は敵を、ときに民間人をも殺します。それは彼らの「任務」の一部なのです。
日本の自衛隊はこれまで、人殺しを前提としない、おそらくは世界で唯一の軍隊でした。彼らは救援活動は行なっても、人殺しはしないのです。人は助けても、人殺しはしない。
それを、「ふつうの国」にしたいという妄執にとりつかれた今の安倍政権は強引に変えようとしているのですが、僕が怒っている理由の一つは、まさにこのこと、国民から「人殺しをしないですむ幸せ」を奪おうとしている点にあります。だから言うのです、有事の際には自ら率先して戦場に行けと。行って、いつ殺されるやも知れぬ恐怖と、敵兵を殺さねばすまない地獄の両方を自ら味わうがいい、と。
ふつうに人を殺せば重大犯罪だが、戦争で敵を殺せば(しかもたくさん)英雄になると、よく言われます。しかし、ふつうの殺人には個人的な遺恨とか、そういうものがあるが、戦争で敵とされる人々を殺す際には、そんなものはありません。個人レベルでふつうに知り合えばよい友達になっていたであろうような人たちを、彼は殺すのです。「国のために」と言いながら。その意味ではそれはなおさら無用な殺人なのです。
これを読んでいる人は、おそらく全員、人殺しの経験はないでしょう。なくて幸いで、僕にもその経験はありません(若い頃、傷害致死による殺人の経験のある人二人と知り合いになりましたが)。しかし、殺人がどのような精神的ショックを与えるか、それはわかる。昔ある晩、人を殺してしまう恐ろしく生々しい夢を見たことがあるからです。夢の中で、部屋で揉み合いになって相手を殺してしまったのですが、息が切れているのを知って、僕はあわててそれを押入れに隠しました。激しい動揺の中で、一体これをどうしたらいいかと考えているところで目が覚めたのですが、目覚めてからも「人を殺してしまった」というショックは去らず、丸十分くらいは、取り返しのつかないことをしてしまったという悔恨と狼狽の中にいたのです。それから、あれは夢で、現実ではなかったのだとようやくわかって、どれほど安堵したでしょう。「よかった! あれは夢だったのだ!」そう呟いて、神に感謝したほどです。
その夢の中で、死体を押入れに隠したのは発覚を恐れたからですが、僕の動揺はそれ以上に「人を殺してしまった」というところにありました。それは僕の心には深刻な打撃だったのです。僕は子供のときは人を傷つけることを極度に恐れるおとなしい子供だったのに、性格がだんだん悪くなってきて、若い頃は果し合いまがいのこともやったことがあるし、道義上許しがたいと思った奴を、殺す気まではなかったが、二、三ヶ月病院のベッドに縛りつけてやろうと思ったことも二度ほどありました(相手が詫びを入れるか逃亡するかしなければ、僕はそれを実行していたと思います。ふつうの人と違って、そういう方面のヘンな実行力だけはあったのです)。理由もなく人を脅したり傷つけたりしたことは一度もないが、ある閾を超えると、法律もクソもあるかというアンタッチャブルな人間になってしまうところがあって、そのよからぬところを見抜いていた僕の母親は、「東京の警察から電話がかかってくる」のを恐れていました。「おまえには人一倍優しいところがあるが、怒ると人殺しの目になる。それが一番の欠点なので、早くそれを治せ」と言われていました。この夢はそれに対する警告だったのだと思いますが、夢の中でも僕は殺すつもりはなかったので、相手が死んでしまったとき、激しい動揺を経験したのです。それがどんなに恐ろしい事態であるかを、僕はリアルな夢を通じて知らされたのです。
そういうのと、戦争で人を殺すことはまた別だ、と言われるかもしれません。しかし、別でしょうか。たしかに国家が与えた「正当な理由」はある。戦場では相手を撃たなければ自分が撃たれてしまうということもある。
思い出したので、ついでに書いておくと、インドの有名なヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の中で、従者クリシュナ(実は神の化身)は戦いを放棄しようとするアルジュナに向かって、「戦え!」と言います。アルジュナが戦意を喪失したのは、敵軍の威容に圧倒されたからではなく、そこに自分の親類縁者や友人の姿を多く認め、たかが王権のためにこんな空しい殺し合いをして何になるかと思ったからですが、クリシュナはこれに対し、世間的な感情と俗見に従ってそのように考えるのは愚かで、身体は実際は存在しないのだから、非有である人間を実在であるかのように見て、自己の義務を放棄するのは間違いだと説くのです。
「常住で滅びることなく、計り難い主体(個我)に属する主体は有限であると言われる。それ故、戦え、アルジュナ。
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。
彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。
彼が不滅、常住、不変であると知る者は、誰をして殺させ、誰を殺すのか」(村上勝彦訳 岩波文庫 p.35)
しかし、こういうのはいくらか“高尚”すぎる、ある意味では非常な危険性をはらむ思想(次元を取り違えれば確実にそうなる)なので、もしもそれを戦争や殺人の正当化に悪用する者がいたとすれば(オウムの麻原のいわゆる「ポア」なるものはその一つでしょうが)、それは厳しく弾劾されてしかるべきなのです。
僕は人に殺されたくもないし、人を殺したくもない。それはたんなる動物的な利己本能の産物ではないので、他のものが関与している。端的に言えば、それが「人としての心」なのです。そういう心を、人はもって生まれてくる。それがなければどんなに知能が高くても、その人間は猿以下の存在でしかなくなるのです。
戦争は、しかし、人にそういう深い心の要請を放棄させる。戦場で敵兵を殺すのはふつうの殺人とは別なのだと、自分を納得させて安心できる人がいるでしょうか? それは難しいだろうと、僕は思います。そこには必ずや何らかの強い抑圧、それによる深刻な情性マヒのようなものが伴うだろうと思うのです。ベトナム戦争のとき、心に深い傷を負った多くの帰還兵はアメリカの社会問題になりましたが、今もしなくてよかった対アフガン、イラクの戦争(何度でも言いますが、どちらも国際法上は明白に違法の戦争です)で同じ問題が起きています。殺される側だけが問題なのではない、殺した側もそれに劣らぬ深刻な心の傷を受けるのです(戦闘行為に携わったわけではないわが国の自衛隊のイラク派兵でも、帰国後自殺者が相次いだと言われています)。
この70年近く、日本人は戦争という名の殺人行為に直接手を染めなくてすみました。それは小さなことではないと僕は思います。それはかなりの部分、平和憲法のおかげで、でなければ少なくとも自衛隊の人たちは戦闘に加わらずにはすまなかったでしょう(わが国が戦争を始めていなくても、PKOなどで)。その妻や子供たちは、いつ日章旗にくるまれた夫または父親の棺を迎えねばならないかと、怯えて暮らさねばならなかったのです。
中には「きれいごとを言うな!」とこれを読んで怒り出す人もいるかも知れません。もしも日本が軍事攻撃を受けたらどうなのだ、とか、世界で圧政に苦しんでいる人たちを指をくわえて見ているのは正しいことなのかと、そのような人たちは言うかも知れません。
けれども、「圧政に苦しんでいる」人々を今も大きな軍事力をもつ国々は救っていない(それは腹立たしいほどです)し、わが国が戦争を避けられたのは、戦争によって問題を解決することはしない国だという他国の目があったことが大きいでしょう。改憲や、その他もろもろの法律・制度改革で「ふつうの国」になれば、戦争の誘因は明らかに増えると言ってよい。肩を怒らせ、人を脅すようなそぶりをしておいて、誰かに殴られたら、「こういうことがあるから日頃から武力を強化しておくことは必要なのだ」と言う人を、あなたは信用しますか? 何のことはない、自分が原因を作っているのです。今の政府を見ると、そのプロセスはすでに始まっている。
安倍や石破(呼び捨てでたくさんです)を見ていると、彼らは妙な「男らしさ」コンプレックスにとらわれた病人なのではないかと思うことがあります。そういうのは本来個人の内面で解決してもらわないと困るので、男の子は通常、オス本能のなせるわざとして生じるそれをどこかで「卒業」するものですが、彼らはいい年をしてそれをまだ引きずったまま、国家政策に無意識に投影してしまうのです。「ボクって強いんだぞ!」個人レベルでなら、「はいはい、そうですか。頑張ってね」で片付けられますが、おかしな具合に国家と自己同一化し、政策でそれをやられると全体の迷惑になるのです。
そういうことなら、今でもあるのかどうか知りませんが、格闘技のK1にでも選手登録して、国会休会中のときにそれに出場あそばせばよいのではないかと思います。
実況中継のアナウンサー(みのもんたを起用してもよい)がこう言います。
「さあ、いよいよ本日のメイン・イベントが始まります。『鉄のお坊ちゃんタカ』ことシンゾーと、『恐怖のじっとり料理人』イシバーの戦いです。ゲストでお招きしたアントニオ猪木さん、猪木さんは今国会議員でもあられるわけですが、この二人の戦いをどうごらんになりますか?」
「いやー、何しろ現職の総理大臣と自民党の幹事長の戦いですからね。これは大変な見物です。二人ともプライドをかけて、役職に恥じないリッパな戦いをしてもらいたいと思います。元気があれば、何でもできる!」
こういうのなら平和で罪はないし、テレビも視聴率が稼げるわけです。
話を元に戻して、この問題の究極の解決策は、世界の国々が軍備を廃棄すること、あるいは、兵士になる者が一人もいなくなってしまうことです。今は無人攻撃機が国際的な問題になっていて,「絶対に人殺しはしたくない」というので軍に入る若者が一人もいなくなっても、国家は戦争が可能かもしれません。しかし、武器を持たない人々をそれで殺傷すれば、それはただちに国際社会の激しい非難を招いて、その国の政権担当者は退場を余儀なくされるでしょう(オバマのアメリカがそれでテロリストでも何でもない民間人をたくさん殺して、地元の人たちの恨みを買っているのは有名です。一体彼の「チェンジ!」というのは何のことだったのかと思わせるような話です)。
目下のところ、これはユートピアでしかありませんが、「人を殺す罪」を観念ではなくて、深い感情のレベルで自覚する人が圧倒的多数になれば、兵士になる若者は激減するから、無力なたんなる理想ではなくなるわけです。
「戦争は人の本能だ」と言う人もいますが、攻撃性はたしかに人が高等猿類から受け継いだ本能であっても、それはスポーツや論争というかたちで昇華することができます。人間にはそれだけの知恵がある。そして、「人殺しはしたくない」というのもまた本能なのです。優先すべきは後者の本能の方であって、戦争を必要悪とみなす人は、「本能だから仕方がない」と言いながら、後者の本能は否定しているのです。僕はそれが正しいとは思いません。戦争は克服しうるし、また克服すべきものなのです。猿に戻ったほうが気が楽になるというのならまた別ですが。
古代や中世の人たちが今の社会の風景を見れば驚くでしょう。その変化はむろんよいものばかりではありませんが、相対的に昔よりよくなっているのはたしかです。人間世界に見られる悲惨は大幅に減った。それなら戦争もなくせるのではありませんか。
わが国は戦争に負けて強制的に「武装解除」されたのであり、今の平和憲法もお仕着せなので、戦争をしなくなったきっかけは別に自慢できるようなものではありませんが、それで学んだことが僕ら日本人にはあるはずです。アメリカと違って日本では市民が銃をもつことも許されないが、それで別に不自由したということがあるでしょうか。それで日本人が駄目な、無気力な民族になったというわけでもない。そういう人が中にはいるとしても、それは別の理由によるのです。
戦争をしないということは、殺される恐怖を味合わずにすむということだけではない、生涯人を殺さずにすむ幸福が、その国民には約束されるということなのです。それは大きな意味をもつので、日本人が国際貢献できるとすれば、このことを抜きには考えられない。日本の自衛隊が海外の救援活動でその国の人々に感謝され、信用されるのだって、それが「軍隊でない軍隊」「武器を持たない軍隊」であるからでしょう。そしてまた、多くの民間人が、平和的な貢献によって海外での日本の評判をよいものにしてくれているのです。
安倍や石破の言う「ふつうの国」になることによってそれを台無しにするのが果たして賢明なことなのか、若い人たちにはとくにそれをよく考えてもらいたいと思います。人を殺さねばならないような状況に立ち至ってから「殺さずにすむ幸福」を思っても、それはもう遅いのです。
それでは皆さん、よいお正月をお迎えください。年始にはお笑い仕立ての「センター試験必勝法!」を書いて、受験生たちに緊張をほぐしてもらう予定です。
大方の人はそれをあたりまえのことだと思っているでしょう。しかし、戦争になれば兵士は敵を、ときに民間人をも殺します。それは彼らの「任務」の一部なのです。
日本の自衛隊はこれまで、人殺しを前提としない、おそらくは世界で唯一の軍隊でした。彼らは救援活動は行なっても、人殺しはしないのです。人は助けても、人殺しはしない。
それを、「ふつうの国」にしたいという妄執にとりつかれた今の安倍政権は強引に変えようとしているのですが、僕が怒っている理由の一つは、まさにこのこと、国民から「人殺しをしないですむ幸せ」を奪おうとしている点にあります。だから言うのです、有事の際には自ら率先して戦場に行けと。行って、いつ殺されるやも知れぬ恐怖と、敵兵を殺さねばすまない地獄の両方を自ら味わうがいい、と。
ふつうに人を殺せば重大犯罪だが、戦争で敵を殺せば(しかもたくさん)英雄になると、よく言われます。しかし、ふつうの殺人には個人的な遺恨とか、そういうものがあるが、戦争で敵とされる人々を殺す際には、そんなものはありません。個人レベルでふつうに知り合えばよい友達になっていたであろうような人たちを、彼は殺すのです。「国のために」と言いながら。その意味ではそれはなおさら無用な殺人なのです。
これを読んでいる人は、おそらく全員、人殺しの経験はないでしょう。なくて幸いで、僕にもその経験はありません(若い頃、傷害致死による殺人の経験のある人二人と知り合いになりましたが)。しかし、殺人がどのような精神的ショックを与えるか、それはわかる。昔ある晩、人を殺してしまう恐ろしく生々しい夢を見たことがあるからです。夢の中で、部屋で揉み合いになって相手を殺してしまったのですが、息が切れているのを知って、僕はあわててそれを押入れに隠しました。激しい動揺の中で、一体これをどうしたらいいかと考えているところで目が覚めたのですが、目覚めてからも「人を殺してしまった」というショックは去らず、丸十分くらいは、取り返しのつかないことをしてしまったという悔恨と狼狽の中にいたのです。それから、あれは夢で、現実ではなかったのだとようやくわかって、どれほど安堵したでしょう。「よかった! あれは夢だったのだ!」そう呟いて、神に感謝したほどです。
その夢の中で、死体を押入れに隠したのは発覚を恐れたからですが、僕の動揺はそれ以上に「人を殺してしまった」というところにありました。それは僕の心には深刻な打撃だったのです。僕は子供のときは人を傷つけることを極度に恐れるおとなしい子供だったのに、性格がだんだん悪くなってきて、若い頃は果し合いまがいのこともやったことがあるし、道義上許しがたいと思った奴を、殺す気まではなかったが、二、三ヶ月病院のベッドに縛りつけてやろうと思ったことも二度ほどありました(相手が詫びを入れるか逃亡するかしなければ、僕はそれを実行していたと思います。ふつうの人と違って、そういう方面のヘンな実行力だけはあったのです)。理由もなく人を脅したり傷つけたりしたことは一度もないが、ある閾を超えると、法律もクソもあるかというアンタッチャブルな人間になってしまうところがあって、そのよからぬところを見抜いていた僕の母親は、「東京の警察から電話がかかってくる」のを恐れていました。「おまえには人一倍優しいところがあるが、怒ると人殺しの目になる。それが一番の欠点なので、早くそれを治せ」と言われていました。この夢はそれに対する警告だったのだと思いますが、夢の中でも僕は殺すつもりはなかったので、相手が死んでしまったとき、激しい動揺を経験したのです。それがどんなに恐ろしい事態であるかを、僕はリアルな夢を通じて知らされたのです。
そういうのと、戦争で人を殺すことはまた別だ、と言われるかもしれません。しかし、別でしょうか。たしかに国家が与えた「正当な理由」はある。戦場では相手を撃たなければ自分が撃たれてしまうということもある。
思い出したので、ついでに書いておくと、インドの有名なヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の中で、従者クリシュナ(実は神の化身)は戦いを放棄しようとするアルジュナに向かって、「戦え!」と言います。アルジュナが戦意を喪失したのは、敵軍の威容に圧倒されたからではなく、そこに自分の親類縁者や友人の姿を多く認め、たかが王権のためにこんな空しい殺し合いをして何になるかと思ったからですが、クリシュナはこれに対し、世間的な感情と俗見に従ってそのように考えるのは愚かで、身体は実際は存在しないのだから、非有である人間を実在であるかのように見て、自己の義務を放棄するのは間違いだと説くのです。
「常住で滅びることなく、計り難い主体(個我)に属する主体は有限であると言われる。それ故、戦え、アルジュナ。
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。
彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。
彼が不滅、常住、不変であると知る者は、誰をして殺させ、誰を殺すのか」(村上勝彦訳 岩波文庫 p.35)
しかし、こういうのはいくらか“高尚”すぎる、ある意味では非常な危険性をはらむ思想(次元を取り違えれば確実にそうなる)なので、もしもそれを戦争や殺人の正当化に悪用する者がいたとすれば(オウムの麻原のいわゆる「ポア」なるものはその一つでしょうが)、それは厳しく弾劾されてしかるべきなのです。
僕は人に殺されたくもないし、人を殺したくもない。それはたんなる動物的な利己本能の産物ではないので、他のものが関与している。端的に言えば、それが「人としての心」なのです。そういう心を、人はもって生まれてくる。それがなければどんなに知能が高くても、その人間は猿以下の存在でしかなくなるのです。
戦争は、しかし、人にそういう深い心の要請を放棄させる。戦場で敵兵を殺すのはふつうの殺人とは別なのだと、自分を納得させて安心できる人がいるでしょうか? それは難しいだろうと、僕は思います。そこには必ずや何らかの強い抑圧、それによる深刻な情性マヒのようなものが伴うだろうと思うのです。ベトナム戦争のとき、心に深い傷を負った多くの帰還兵はアメリカの社会問題になりましたが、今もしなくてよかった対アフガン、イラクの戦争(何度でも言いますが、どちらも国際法上は明白に違法の戦争です)で同じ問題が起きています。殺される側だけが問題なのではない、殺した側もそれに劣らぬ深刻な心の傷を受けるのです(戦闘行為に携わったわけではないわが国の自衛隊のイラク派兵でも、帰国後自殺者が相次いだと言われています)。
この70年近く、日本人は戦争という名の殺人行為に直接手を染めなくてすみました。それは小さなことではないと僕は思います。それはかなりの部分、平和憲法のおかげで、でなければ少なくとも自衛隊の人たちは戦闘に加わらずにはすまなかったでしょう(わが国が戦争を始めていなくても、PKOなどで)。その妻や子供たちは、いつ日章旗にくるまれた夫または父親の棺を迎えねばならないかと、怯えて暮らさねばならなかったのです。
中には「きれいごとを言うな!」とこれを読んで怒り出す人もいるかも知れません。もしも日本が軍事攻撃を受けたらどうなのだ、とか、世界で圧政に苦しんでいる人たちを指をくわえて見ているのは正しいことなのかと、そのような人たちは言うかも知れません。
けれども、「圧政に苦しんでいる」人々を今も大きな軍事力をもつ国々は救っていない(それは腹立たしいほどです)し、わが国が戦争を避けられたのは、戦争によって問題を解決することはしない国だという他国の目があったことが大きいでしょう。改憲や、その他もろもろの法律・制度改革で「ふつうの国」になれば、戦争の誘因は明らかに増えると言ってよい。肩を怒らせ、人を脅すようなそぶりをしておいて、誰かに殴られたら、「こういうことがあるから日頃から武力を強化しておくことは必要なのだ」と言う人を、あなたは信用しますか? 何のことはない、自分が原因を作っているのです。今の政府を見ると、そのプロセスはすでに始まっている。
安倍や石破(呼び捨てでたくさんです)を見ていると、彼らは妙な「男らしさ」コンプレックスにとらわれた病人なのではないかと思うことがあります。そういうのは本来個人の内面で解決してもらわないと困るので、男の子は通常、オス本能のなせるわざとして生じるそれをどこかで「卒業」するものですが、彼らはいい年をしてそれをまだ引きずったまま、国家政策に無意識に投影してしまうのです。「ボクって強いんだぞ!」個人レベルでなら、「はいはい、そうですか。頑張ってね」で片付けられますが、おかしな具合に国家と自己同一化し、政策でそれをやられると全体の迷惑になるのです。
そういうことなら、今でもあるのかどうか知りませんが、格闘技のK1にでも選手登録して、国会休会中のときにそれに出場あそばせばよいのではないかと思います。
実況中継のアナウンサー(みのもんたを起用してもよい)がこう言います。
「さあ、いよいよ本日のメイン・イベントが始まります。『鉄のお坊ちゃんタカ』ことシンゾーと、『恐怖のじっとり料理人』イシバーの戦いです。ゲストでお招きしたアントニオ猪木さん、猪木さんは今国会議員でもあられるわけですが、この二人の戦いをどうごらんになりますか?」
「いやー、何しろ現職の総理大臣と自民党の幹事長の戦いですからね。これは大変な見物です。二人ともプライドをかけて、役職に恥じないリッパな戦いをしてもらいたいと思います。元気があれば、何でもできる!」
こういうのなら平和で罪はないし、テレビも視聴率が稼げるわけです。
話を元に戻して、この問題の究極の解決策は、世界の国々が軍備を廃棄すること、あるいは、兵士になる者が一人もいなくなってしまうことです。今は無人攻撃機が国際的な問題になっていて,「絶対に人殺しはしたくない」というので軍に入る若者が一人もいなくなっても、国家は戦争が可能かもしれません。しかし、武器を持たない人々をそれで殺傷すれば、それはただちに国際社会の激しい非難を招いて、その国の政権担当者は退場を余儀なくされるでしょう(オバマのアメリカがそれでテロリストでも何でもない民間人をたくさん殺して、地元の人たちの恨みを買っているのは有名です。一体彼の「チェンジ!」というのは何のことだったのかと思わせるような話です)。
目下のところ、これはユートピアでしかありませんが、「人を殺す罪」を観念ではなくて、深い感情のレベルで自覚する人が圧倒的多数になれば、兵士になる若者は激減するから、無力なたんなる理想ではなくなるわけです。
「戦争は人の本能だ」と言う人もいますが、攻撃性はたしかに人が高等猿類から受け継いだ本能であっても、それはスポーツや論争というかたちで昇華することができます。人間にはそれだけの知恵がある。そして、「人殺しはしたくない」というのもまた本能なのです。優先すべきは後者の本能の方であって、戦争を必要悪とみなす人は、「本能だから仕方がない」と言いながら、後者の本能は否定しているのです。僕はそれが正しいとは思いません。戦争は克服しうるし、また克服すべきものなのです。猿に戻ったほうが気が楽になるというのならまた別ですが。
古代や中世の人たちが今の社会の風景を見れば驚くでしょう。その変化はむろんよいものばかりではありませんが、相対的に昔よりよくなっているのはたしかです。人間世界に見られる悲惨は大幅に減った。それなら戦争もなくせるのではありませんか。
わが国は戦争に負けて強制的に「武装解除」されたのであり、今の平和憲法もお仕着せなので、戦争をしなくなったきっかけは別に自慢できるようなものではありませんが、それで学んだことが僕ら日本人にはあるはずです。アメリカと違って日本では市民が銃をもつことも許されないが、それで別に不自由したということがあるでしょうか。それで日本人が駄目な、無気力な民族になったというわけでもない。そういう人が中にはいるとしても、それは別の理由によるのです。
戦争をしないということは、殺される恐怖を味合わずにすむということだけではない、生涯人を殺さずにすむ幸福が、その国民には約束されるということなのです。それは大きな意味をもつので、日本人が国際貢献できるとすれば、このことを抜きには考えられない。日本の自衛隊が海外の救援活動でその国の人々に感謝され、信用されるのだって、それが「軍隊でない軍隊」「武器を持たない軍隊」であるからでしょう。そしてまた、多くの民間人が、平和的な貢献によって海外での日本の評判をよいものにしてくれているのです。
安倍や石破の言う「ふつうの国」になることによってそれを台無しにするのが果たして賢明なことなのか、若い人たちにはとくにそれをよく考えてもらいたいと思います。人を殺さねばならないような状況に立ち至ってから「殺さずにすむ幸福」を思っても、それはもう遅いのです。
それでは皆さん、よいお正月をお迎えください。年始にはお笑い仕立ての「センター試験必勝法!」を書いて、受験生たちに緊張をほぐしてもらう予定です。
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