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「課外・宿題の縮減」で成功した高校

2013.08.19.16:05

 このブログ、長らくご無沙汰してしまいましたが、皆さんお元気ですか?

 今年の夏は並外れて暑く、例年通り親子で渓流に鮎とりに何度か行ったのですが、そこの水までぬるくなっているのには驚きました。いつものひんやりした感じがない。おかげで魚たちもいくらか夏バテ気味のようで、一度息子が水面を見下ろして「この下にいるの、ウナギじゃない?」と言うので、そんな間抜けなウナギがいるはずはないと、水中メガネで確認すると、たしかにウナギで、ちゃんと息はしていて生きていたのですが、ぐったりした様子で、ふつうはありえないことですが、手でつかまえられました。一番食べ頃の、立派なやつです。土用丑の前日か何かで、蒲焼にして食べるようにという天のお告げみたいに思われ、そのとおりになったのですが、ひょっとしたら彼は“熱中症”になっていたのかも知れません。ふだん冷たいところにいるのに、水温が上がりっぱなしになって“体調不良”に陥ったのです。その証拠に、目立った外傷はないし、鰭が菌に冒されている様子もなく、内臓にもおかしなものはなかった。見ていると鮎たちの動きも、今年はたしかに鈍いのです(ちなみに、稚魚の乱獲で今はウナギが激減しているので、ふだんは見かけること自体めったにありません)。
 暑いだけでなく、雨も全く降らないので、農家の人たちは旱魃に悩んでいるという話です。先日も郷里の母と電話で話していたら、タネを蒔いても何度もわざわざ水やりに行かないと芽すら出さないという話で、水を確保できないところでは稲が枯れてしまう被害も出ているようです。昔なら旱魃による飢饉が発生しても不思議ではない状況かもしれません。一方では集中豪雨に見舞われて大変なことになっている地域もあるし、異常気象も連続するとそれが“常態”になってしまって、感覚が麻痺してしまうので、それがこわいところです。

 以上は無関係な前置きです。しばらく更新を怠っていると、ついついよけいなことも書いてしまう。今回はずっと前から一度書いておこうと思った「延岡の高校」コーナーの追加記事です。夏休み直前に書いておけば、生徒たちが読むのにもいいだろうと思っていたのですが、そのタイミングがずれてしまいました。

 それでは本題ですが、まず以下の記事をクリックしてごらん下さい(Adobe Readerが必要です)。これは「指導変革の軌跡」と題されたシリーズもののようですが、受験産業ベネッセのVIEWS21、2013年2月号に取り上げられた宮崎大宮高校に関する記事です。

量から質の指導に転換/生徒の主体性を育て、行くべき大学を目指す

 熟読に値する興味深い記事なので、これはむやみと宿題だの課外だのを増やして、物量作戦と管理主義に頼りがちな今どきの学校の先生、その“被害”に遭っている生徒たち、双方にとって得るところの多い記事だろうと思います。延岡の二つの県立普通科高校の生徒や保護者たちはとくに、「なるほど…」と感じることが多いのではありませんか?

「宮崎県では、伝統的に圧倒的な量を課して生徒の学力を伸ばしてきました。朝課外や日々課題はもちろん、徹底的に量を与えることが、教科担任の力量であるという雰囲気さえありました。学区制廃止後も出来る限りの指導をしてきましたが、それは量に頼った指導の延長でした」

 しかし、県立宮崎大宮高校の先生方は、「それが果たして正しいのか?」という疑問を抱いたのです。素質のいい生徒が多く入学してくるにもかかわらず、「入学時の学力の割には実績は伸びず、3年生後半から模試の成績が急落する傾向」も続いていたからです。

「生徒にとって教師から与えられた課題だけが勉強になってしまい、主体的に学ぶ習慣も能力も育っていないことが、学力の伸び悩みの原因ではないかと考えました。受動的な学習態度が固定化し、本来は『行くべき大学』を目指すべきところを、多くの生徒が『行ける大学』に進む結果になっていたのです」

 これは大宮高校だけでなく、宮崎県の県立普通科高校すべてに、程度の差こそあれ当てはまることなのではないかと思います(宮崎県は難関大学への進学者が最も少ない県の一つです)。そしてそれは、ある意味「あたりまえ」の話なのです。

 なぜか? 1・2年は朝課外(7時半スタート)から長い一日の授業が始まり、放課後は部活で、夜の8時頃に帰宅すると、食事とお風呂、それから「日々課題」と称する各教科合わせると半端でない量の宿題をこなして、それだけで深夜1時・2時までかかってしまう。真面目な子だと平均睡眠時間4~5時間で頑張り続けることになるのです。ゴールデンウイークなんかも、「これなら学校があった方がまだマシですよ」と学年トップの成績の生徒ですら言うほどの大量の宿題が出る(少なくとも数年前までは出ていた)のです。春休み、夏休み、冬休みも課外授業で思いっきり削られる。そして3年になって、部活を引退すると同時に、今度は「夕課外」なるものが始まって、授業の終了時間は午後6時になる。実に、毎日11時間近く、学校の机に縛りつけられることになって、生徒たちは「ウザい!」を連発することになるのです(家庭で勉強する必要がなくなるほど素晴らしい授業の連続ならまた話は別でしょうが…)。

 だからこそ「生徒にとって教師から与えられた課題だけが勉強になってしま」うのであって、それで「主体的に学ぶ習慣や能力が育っ」たら、そちらの方がむしろ不思議だということになるでしょう。「受動的な学習態度が固定化」するのは必然なのです。

 過剰な管理が有害であることの理由の一つは、管理される側が、その管理に依存してしまうようになることです。だから受験学年になっても、いちいち学校に指示を仰ぐ。ああしろ、これをやれと事細かに指示されないと、途方に暮れるのです。先生たちはそうやって依存されるのは「頼りにされている証(あかし)」だと喜ぶかも知れませんが、僕に言わせれば、それは変態的な、気持ちの悪いことであって、大学受験は今の時代、早めの「成人式」みたいなもので、若者の自立をはかる上での一つの大きなステップなのに、その大事な機能が失われるのです。

 だから学校側は、生徒の「勝手に勉強する能力(言葉が悪いと言うのなら自学自習の姿勢)」の育成を心がけなければならない。そうすれば大学入学後も生徒は伸び続けるだろうし、難関大学への合格者も、その方が結果としてずっと増えるのです。

 宮崎県の公立高校は“伝統的”に、その逆の指導をやってきた。そして学校の教師も、生徒たちも、保護者たちも、それを当然のことだと考えて、「宿題は多ければ多いほどいいし、課外授業を多くやってくれるのは親切」だと思い込んで、いたずらに生徒を疲労させ、また、生徒たちの依存心を強化するようなことばかり行なってきたのです。得られる「成果」がその「労苦」に見合ったものなのかどうかというかんじんなところは、これまでほとんど問われることがなかった。

 宮崎大宮高校でも朝課外はなおも続けられているようですが、全体に課外は減らされ、「日々課題(毎日の宿題の名前)のような習得型の学習」も精選・削減されることになった。この「日々課題」というのは多くが、何かの問題集のコピーで、生徒はそれをやったあと渡された解答を見て、自分でマルつけして提出する、というようなものなのですが、そんなもの、生徒が自分で判断して、自分はこの教科が弱いから、自分で問題集をえらんで一冊買ってきて、それを仕上げる、というふうに、生徒本人に任せてしまえばいいと思うようなことです。大体、生徒一人ひとりが苦手科目も頭の性質も違うのだから、一律に同じものをやる必要はなく、各科目一斉にそんな宿題を出されると、それだけで手いっぱいになってしまって、自分固有の弱点克服に時間をかける、なんて余力はなくなってしまう。それは大事なことなのですが。一方、優秀な子は流れ作業的に手早くそれを片付けるのですが、多少復習としての意味はあっても、それで時間を取られるので、本来ならできるはずの「発展的学習」や読書などの時間が削られてしまうのです。つまり、出来ない子にとっても出来る子にとっても、それは学力増進の妨げになりうる(僕の見るところ、実際になっている)のです。

 だから、大宮高校の「改革」は、方向としては間違いなく正しいことだと僕には思われるのですが、「近年、一部で、同校の改革について、『宮崎大宮高校は放任になった』などと言われていることもある」とあるように、過剰管理に慣れすぎた目には、それが「手抜き」や「放任」に見えることさえあるのでしょう。本当は「これだけ量をやらせれば、少しは残るものもあるだろう」とばかり、生徒たちの負担を考えようともせず、宿題・課外を押しつけ、増やし、それでふだんの授業のお粗末さをカバーしようとすることの方がずっと「手抜き」で無責任なことなのですが、深くものを考えようとしない人たちにはそれがわからないのです。

 だから、宮崎大宮高校のこの学校を挙げての「量から質への方針の転換」は、もしもそれが大学進学実績の改善を結果として伴わなかったら、「改革」の担い手となった先生たちは強い非難にさらされたことでしょう。これらの先生方はその点、大いに勇気があって、自ら信じることのために進んでリスクをとったのです。「これからは『行くべき大学』に挑戦させたい。国公立大合格者が減るのは本質的な問題ではない」と言い切った校長先生の態度は立派です。

 結果として、大宮高校の先生たちはこの“賭け”に勝った。大学進学実績は顕著な伸びを示し、やかまし屋の教育ママパパたちにもナットクの数字を叩き出すことになったからです。元々僕がこの記事を知ったのは、週刊誌の高校別大学合格者の記事を見ていて、「何で県内で大宮高校だけこんなに難関大学の合格者が増えたのか?」と不思議に思ったからです。たまたま生徒の粒が揃っていた、というようなことだけでは説明がつかないだろうと。それで、ネットで関係情報を調べていたところ、この記事に辿り着いたのです。
 
 その宮崎大宮高校の今年の進学実績について、ここでかんたんに触れておきましょう。今、手元に捨てずに取っておいた週刊朝日7月3日号があるのですが、その中にある高校別「有名大学『現役』進学者一覧」という記事を見ると、これはその名のとおり「現役(浪人を含まない)」で合格→進学した生徒の数をまとめたものですが、東大4人、京大2人、阪大5人、北大2人、名古屋大1人、一橋1人、地元の九州大は何と17人もいる。これに大宮高校のホームページからさらに情報を補うと、お茶大2人、筑波大3人、千葉大と横浜国大がそれぞれ5人ずつ、神戸大1人、もう少し裾野を広げると広島大が8人、いるのです(以上を合計すると56人。私立については割愛しますが、早慶についてだけ言うと早稲田が6人)。

 要するに、上位国立大の合格者(推薦も多少含まれているかと思いますが)が“激増”と言っていいほど増えているのです(一昨年のデータと比較してみると、とくにその伸びは顕著です)。これを、いくらか気がひけますが、われらが延岡高校の実績と比較してみると、旧帝大は京大1人、九大6人、あとはゼロです。他に補った大学の分も比較すると、お茶大1人、筑波大1人、千葉大と広島大が2人ずつ、ということになります(合計13人で、うち5人はわが零細塾の生徒でした)。卒業生数は、大宮が433人、延高が231人となっていて、202人の人数差があるが、ゼロは2倍してもゼロにしかならないし、かなり極端な開きがあるのは否めないところです(単純に上記国立大の合計を比較すると、大宮の合格者数は延高の4.3倍になる)。

 これは元々の生徒の資質や能力の差ではおそらくないでしょう。今は学区制がなくなったとは言っても、通学の便もあるので、市内の公立中学の上位層はほとんどが延岡高校に入学するからです。僕が塾で十年相手をしてきた経験から言っても生徒の質はいいので、要するに延岡高校の「指導」に問題がありすぎるのです(教科の指導以前に、今でも卒業生たちの間で「人格無視の王様」として語り草になっているという、例の「放射能発言」教師みたいな問題のありすぎる教師が居座っているのも大問題なのですが)。それでも、週刊朝日の同記事によれば、延岡高校の「国公立大進学者合計」は109人となっているので、47.2%が国公立に進学したことになり、「それならいい方ではないか」と反論される向きもあるでしょう(ちなみに大宮高校の同比率は49%)。しかし、その「内訳」が問題なのです。延岡高校は宮崎大、鹿児島大、大分大には2ケタの合格者を出しており、そういういわゆる「駅弁大学」で合格者数を稼いでいるのです(大分大の合格者数では延高10人、大宮5人で“圧勝”している)。

 僕は別に「駅弁大学」が悪いと言っているのではありません。ただ、一般の人は知らない人が多いようですが、少子化に合わせて大学入学定員が減らされたわけではないので、久しい以前から大学は全入状態になっていて、地方の無名私立などは軒並定員割れを起こしていますが、国公立も全般に易化しており、駅弁大学はことにそうなのです。医学部医学科(獣医も含めて)は例外で、これだけはどこも難しいが、センターで6割に届かなくても入れる国立は結構ある(この点、各種予備校のボーダーは実際より高めに設定されているという印象です)。実際、センターの自己採点52%台で近県の国立工学部に合格した例も、うちの塾にはあるので、センターの配点が高いのによく受かったなとその強運に感心させられたのですが、6割前後で入れる駅弁大学はかなりたくさんあるのです。センターで6割というと、いくら科目が多いとはいえ、そんなにカリカリ勉強しなくても、一定レベル以上の頭さえあれば大方は取れる線ですよ(英語など、あれで6割に届かなければ、基礎学力そのものがないという判断になるでしょう。一年生〔1月時点〕に解かせても、よくできる子なら7割取ってしまうのですから)。

 要するに、そのレベルの大学に入るためなら、そんなに大騒ぎはしなくていいので、あんなに多くの課外や宿題は必要ない、ということです。延岡高校の生徒なら、元々の資質から考えて、ふつうにやっていても同じぐらいの進学実績は出せる。逆に、あれで生徒たちを疲労させ、慢性的な睡眠不足に陥らせ、かつ自分で対策を立てて勉強する時間とエネルギーを奪ってしまうから、「本来なら行けるはずの大学」以下の大学に入ることが多くなり、難関大学にはなおさら受かりにくくなるのです。

 大人でも子供でも、一日の持ち時間は24時間しかありません。睡眠や食事、入浴等の時間はむろん必要だし、大方の生徒は部活(あれも度の過ぎたものがあるようです)もしているから、勉強の時間はかぎられる。それを授業(課外も含む)と宿題だけで全部潰されたのでは、その授業と宿題の質が高く、周到に考えられたものならまだしも、こんなもの意味があるのかなというのも少なくないのだから、うまく行く道理がないのです。

 これは前にも書いたことがありますが、延岡高校の英語など、ああいう非能率な、行き当たりばったりのやり方をしていたのでは、授業時間がいくらあっても足りません。まずもって、「自家製」だと自慢しているあのベーシックグラマーなる無駄に量だけ多い文法プリント(昔よりは“改訂”されて短くなっているのかも知れませんが)を廃止することです。入学後一年半も毎日ほとんどあれだけで授業が潰されているのだから、何をやるにしても、全部後手後手に回るのです。問題形式もワンパターンで生徒たちは飽き飽きし(僕でもあんなものを毎日ずっとやらされていたら退屈で死にそうになってしまうでしょう)、考えずに機械的に処理する悪い癖がつくので、文法力自体満足につかず、その後も文法テキストをとっかえひっかえやらせる羽目になるのだから、何をか言わんやです。まともな進学校でこういうまずいやり方をしているところは、おそらく他に一つもないでしょう。生徒の元々の質がよく、よくできる子は学校をアテにせず、自分で長文読解の勉強などもしているから何とかなっているだけの話なのです。それなら教材を「統一」などせず、初めから個々の先生に教材選定から授業の進め方まで一任して、自由にやらせた方がずっと効果が上がるでしょう。今の学校には「最低保証」という考え方があるようですが、現状では対応が「最低に統一」されているだけなので、個々の先生が創意工夫することや、能力を発揮することまでをも妨げているのです(大体、特クラを設けておきながら、テキストも同じでは意味をなさない。もっとひどいのは、3年にも2年と同じ基本文法のテキストを使ってみたりといった無定見なことまで平気ですることで、去年「今頃、これですよ!」と3年理数科特クラの生徒がそれを見せて怒っていました。それは2年生にすら易しすぎると思われるものだったのです。表紙がグリーンの、あのペラペラしたやつ、と言えば今の3年生にはわかるでしょう。そのときどきの思いつきでテキトーなことをやっているだけ、としか思えない。民間企業なら、「責任者を出せ!」と怒鳴り込まれてしまうところです)。

 悪口ついでにもう一つ、定期試験についても書かせてもらうと、今は全国的なこんなおかしなことをしている学校がたくさんあるのかも知れませんが、それがほぼ完全な「丸暗記テスト」になっていることです。英語など、範囲のテキストやプリントの問題がそっくりそのまま出る。何の改変も加えられていないので、生徒たちはそれをただ丸暗記するだけなのです。それで平均点が80点台、90点台になるのですが、それはたんなる機械的丸暗記の競争であって、「考える」もヘチマもないのです。大体、量が多いので、「考えずに」暗記してきた答をワーッと書かないと時間が足りなくなってしまう。
 僕もたまに塾で文法テキストの確認テストというのはやったりするのですが、「範囲はここまでだから復習しといて」と言うと、同じ伝でただ丸暗記してくるだけだから、問題にひねりが加わっていたり、別の問題が出ていたりするのを見て、「えーっ!」とか「エグい!」とかいった非難のこもった悲鳴が聞えるのです。しかし、ちゃんと教えたことを理解していてくれれば初めての問題でもその応用で解けるはずなので、こちらはその「理解度」を見るために試験しているのです。でないと、試験そのものに意味がなくなる。

 こういう、今どきの学校の定期テスト(全部がそれでなく、中には工夫されたよい試験を作っている先生もおられるのでしょうが)は有害です。塾の授業でもかんじんの説明(僕のそれは文法用語をあまり使わないので、一般の受験参考書の説明よりはわかりやすいだろうと自負しているのですが)の方はよく聞かず、「それで、要するに答はどれですか? これですね。わかりました、暗記します」というような姿勢になって、何度似たような問題が出てきても、何度も間違え、何度も同じ説明をし直さなければならなくなったりするのです。「これ、前にも何度か言ったよね?」と言うと、「そういえば、何となく、何度も聞いたことがあるような…」という、ある意味で正確な返事が返ってきて苦笑させられるのですが、「何でこれが答なのか?」ということをその場でちゃんと理解してしまえば、記憶もそれだけ容易になって、思い出しやすくなるということがわかっていないのです(優秀な生徒の場合にはむろん、注意の焦点が違うのでそんなことにはなりませんが)。
 しかし、流れ作業的に量だけ多くこなし、試験は暗記したことを答えるだけ、なんてことばかり学校でやらされているものだから、「考えて、理解し、記憶が必要なことは記憶する」という学習の基本ができていないのです。秀才と凡才の違いは、あげてそこにあるので、生まれつきの才能がどうのというより、その学習姿勢の差が学力差になって表われる(学年が上がるにつれてその差はさらに拡大する)のです。ところが今の学校というやつは、「考えない」姿勢をかえって強化してしまう(生徒たちの慢性睡眠不足もその一因でしょう。眠いと「考える」気になどなれないからです)。

 これ、定期試験の性質を変えて、「ただ機械的に暗記するだけなのでは駄目なので、理解しておかないといい点は取れない」という試験にするだけでも、生徒たちのふだんの学習姿勢に大きな変化をもたらすでしょう。先生自身がロクな説明もせず、「違う。ここは○○の□□的用法だから、答はこれ」というような、それ自体説明にも何にもなっていないようなことを言っているだけなら話は別ですが。

 今は通知表の成績は昔みたいな相対評価ではなく、絶対評価で、延岡高校では80点以上だと全員5になるそうなので、5がたくさんいるわけですが、それは真の学力とはあまり関係のない5で、値打ちがないこと著しい。昔も、ガリ勉秀才は定期試験はよくても模試になると大きく順位を下げるのが通り相場でしたが、今はそれがいっそう甚だしいのです。
 それでも、推薦入試対策で少しでも5を多くしてあげたいということなら、基準を70点以上に変えればいいだけのことで、何もややこしい話ではない。大学にしても、評定平均に一定以上の数値を要求しているのは、それが基礎学力の保証になっているだろうと考えるからです。こういうおかしな試験をやっていて、それが「学力の保証」になりますか?

 長い脱線をあえてしたのは、いかに今の延岡高校には「改善の余地」が多いかということを示すためです。こういうのはいずれも、冒頭の宮崎大宮高校に関する記事にもあった、「①限られた授業時間を最大限に活用し課外や課題に頼らない、②教科の本質を学ばせるために学習内容を精選する、③知的好奇心を刺激して内発的動機付けを高める」といった本質的なことに関係するでしょう。それをなおざりにするから、難関大を志望するような優秀な生徒には「意味のない授業」と斬り捨てられ、平均的な成績の生徒からは「こんなに頑張っているのに、成績が上がらないのはどうしてなんでしょう?」という悩ましい問いかけが出てきたりするのです(後者に対して、先生たちは「おまえの努力が足りないからだ!」と言うことが多いようですが、無駄に量ばかり多い課外や宿題で自学自習の時間もエネルギーももてなくなっているためではないか、という可能性には思い至らないのです。無考えに量だけたくさん与えられると、混乱してかえって頭の整理がつかなくなるということさえあるのです)。

 僕がかねて不思議に思っているのは、「日々課題」なんかは出来合いの問題集を適当にコピーして配布しているだけだから手間はかからないとして、多すぎる課外は、先生たちの大きな負担にもなっているだろうに、なぜ?ということです。毎日朝課外が7時半からというと、先生たちは遅くとも7時には出勤していることでしょう。毎朝、生徒たちが遅刻しないように、交代で校門の見張り番もしなければならない。それで3年の夕課外の終了が午後6時。部活の顧問なんかもしなければならないわけです。むろん、ずっと授業しているわけでなく、間には空き時間もあるのでしょうが、クラス担任の先生は生徒や保護者との面談もこなさなければならない。受験学年の担任ともなれば、推薦入試の生徒のための書類書き、面接の練習なども入るのです。他に雑用も山のようにあるでしょう(うちの塾の生徒の親には、小中学の先生も混じっているのですが、「今は雑用が多い上に、つまらないことまでいちいち書類を提出しなければならないので大変だ」という話を聞いたことがあります)。

 僕のように、元々「拘束時間が短いから」という理由だけで塾業界に入った人間には、そういう生活は想像するだに気が滅入ることなので、皮肉ではなく、そのことには同情しています。教師という職業には自由時間が他のどんな職業にもまして必要です。たえず自己研鑽して、学科の指導能力を高めなければならないからです。入試問題にも精通していなければならない。予習にだって相応の時間はかかるので、僕は高3相手にはできるだけ最新の入試長文――ジャンルが偏らないように配慮しながら、内容的にも生徒に読ませたいと思うような面白いものを選ぶ――を使って授業しますが、答だけ教えればすむというものではないので、必要な説明を加え、重要な関連事項にも言及しながら、原則として授業では口頭で全文を訳します。細かいところまでごまかしなしにやるとなると、そう楽なものではないのです。僕は今は休止中とはいえ、兼業の翻訳屋なので、訳読のプロのはしくれです。入試問題とは無関係の英文もけっこう読んでいる。それでも、今の若者言葉で言う「むずけー」という入試英文にお目にかかることは少なくない(それがかんたんだと言うのはたんなる教師の見栄であり、嘘です)。しかし、難関大を受験する生徒はとくに、そういうのをこなす必要があるのです。

 けれども、忙しすぎるとそんなことはできないでしょう。延岡高校が膨大な時間を重箱の隅を突っつくような文法プリントに費やしていること自体、長文主体の今の入試の現状がわかっていない証拠です。受験には戦略というものが必要なので、このあたりの大学を受験する生徒には最低この程度の学力は必要だ、というところから逆算して、授業メニューも考える必要があるのですが、全然そんなことはしていない。だから多くの生徒は、センターの長文ですらしんどいということになってしまうので、こういうのは元々の生徒の学力が低いのならともかく、「指導」の名に値することが行なわれてこなかった証拠なのです。必死に課外や宿題をこなしていてそうなのだから、一体全体これは何のためなのだという疑問が出てきても不思議ではないでしょう。

 そのくせ、ヘンなところで「エネルギーの節約」を教える。延岡高校では市販のある単語集を生徒たち全員に買わせていて、定期試験の時には範囲を定めてその機械的丸暗記の試験(効果は疑わしい)が課されるのですが、その中には「憶える必要のない単語」があるのだそうで、教師がいちいちそれを指示して×を付けさせるのです。僕がそれに気づいたのは、入試問題を生徒たちに解かせていて、「この単語は憶えておいた方がいいよ。君らの単語集にも出ているはずだけど」と言ったら、生徒がそれを出して調べてみて、「バツが付いています!」と言うことが何度かあったからです。何でそんなよけいなことをするのか? 生徒たちにそれを借りて見てみると、「これなんかよく見かける単語の一つだと思うけど…」というのにまでバツが付いている。先頃はそのバツ単語が出ているのが地元の九州大学の問題だったので、「自分の教え子たちを落とす気か?」と笑ったのですが、そういうよけいなお世話はするのです。こういうのはたぶん、今は単語の使用頻度を出しているデータベースがあるので、「オレはこういうことまで知っているのだ」と教師の権威づけに使っているのでしょう。しかし、AKBの人気投票ではあるまいし、相対的な使用頻度の高低はその単語の重要性とイコールではないし、入試での出現頻度とも同じではないでしょう。大体、単語にしても熟語にしても、「これ以上は知っている必要はない」などということはないので、たくさん知っていた方が有利に決まっているのです。単語集はその「めど」を示すものにすぎませんが、恩着せがましく「こんなものは憶える必要はない」と教えたそれが、実際に入試に出ているのを見て、生徒たちは狐に化かされたような心境になるのです。こういうアホな「指導」、今は多くの学校で行なわれているのですか? 節約するなら、無駄に量だけ多い文法プリントの方を削れよ。その方が生徒に親切というものです。

 話を少し戻して、課外を減らして先生たちに「ゆとり」ができたからといって、先生たちがそのような努力をするとはかぎらないし、元々の教師の能力が貧弱なら、大学受験の指導は厳しいでしょう。そのあたりは教員採用試験のあり方とも関係してくるので難しい問題ですが、とにかく教師の質を上げ、意識を変えるということをしないと、どうにもならないのです(率直に言って、大宮高校は先生の質も全体的に高いのだろうと思います。この春、「授業が楽しく、よくわかる」と生徒たちの人気と信頼を集めていた世界史の先生が大宮に異動になって、延岡高校の生徒たちは大きなショックを受けたのですが、「早く出て行ってほしいのは残って、いい先生はすぐ他にとられてしまう」というのがこちらの生徒・保護者に共通の偽らざる嘆きなのです)。

 しかし、われらが延岡高校にも希望が出てきたので、今春から延岡高校の校長になった先生は、この記事にも改革の担い手の一人として名前が出てくる、大宮高校の前教頭なのです。好ましい変化の兆しはすでに見られるので、この前塾の1年生たちに夏休みの予定表を見せてもらったところ、明らかに夏休みは増えているし、全学年で宿題量が減っている。3年生は、前にここにも書いたことがあるように、模試で日曜まで潰されてしまっていたのですが、それも一部の科目を平日の課外時に行なうという方法で回避されるようになりました(最後の件に関しては、「オレが言ったからだ!」と生徒に恩着せがましく吹聴している先生が一人いるという話です。誰あろう、それは例の「放射能」教師だというので、僕は聞いて唖然とさせられたのですが、これまで十年以上知らんぷりしていたが、突然「こんなことではいけない」とお目覚めになったようなのです。ついでに「不都合な真実(遺憾ながらたくさんある)」を一つ暴露させてもらうと、この先生は有名な「大宮嫌い」で、かねて同校のリベラルな校風を「あんなものは…」と生徒の前で罵倒していたのです。放課後生徒が校外でデートすることすら、「放射能汚染に等しい、学校の風紀を乱すたるみきったこと」だと悲憤慷慨されるほどの御仁で、できれば生徒の私生活まで監視したいほどなのだろうから、「自由」を憎むこと彼より甚だしきはなく、それは尤もと思われましたが、賢い生徒たちは「それでもうちよりは(進学実績も)ずっとマシなんじゃないの」と言って笑い合っていました。しかし、新校長が大宮出身だということになると、話は別なので、今度は率先「改革の旗手」に変身なさったのです。この教師は英語科のボスなので、僕がさっき書いた「出鱈目な指導」にも大いに責任があるのですが、心がけを改めたからには、それも今後はもっとマシなものに変えて下さるのでしょう。それにしても、こういう変わり身の早さは韓流王朝歴史ドラマに出てくる悪徳重臣も顔負けで、“世渡りの奥義”を身をもって生徒たちにお示し下さっているのだと見る他、解釈は困難です。学科指導にとどまらず、カシコイ処世術までご教示下さるとは何たる親切かと、保護者たちも感涙にむせんでいることでしょう。学校の先生にしておくには惜しい“逸材”なので、政治家にでも転身なさったらいかが、と思うのですが)。

 再び話を戻して、生徒や保護者の間では新校長の評判は上々で、「いい方向に変えていってくれるだろう」という期待が高まっています。だから頑張っていただきたいのですが、長く続いてきた旧弊を改めるのは容易なことではないので、先生たちの間には抵抗もあるようだと聞いています。調子がよすぎるどこやらの先生よりはそちらの方が人格的にはずっと“正常”なので、辛抱強い対応が不可欠ですが、おそらく先生方が一番恐れているのは、「管理を緩めて生徒たちが勉強しなくなり、大学進学実績が悪くなったらどうしよう?」ということでしょう。以前と同じことをしていて悪くなっても、それは生徒のせいにできるが、やり方を変えたとなると、自分たちの責任が問われるからです。

 しかしそれは、アナウンスをちゃんとやっておけば避けられる。さっき塾の1年生たちに夏休みの予定表を見せてもらったと書きましたが、それでも中学の頃と較べるとずっと夏休みは少ないので、彼らは最初「ひどい!」と一様に憤慨していました。課外ができないようにバクダンで学校を吹き飛ばしてやりたい、なんて元気のいい女の子(お勉強はよくできる)もいたくらいです。けれども、20日も連続した休みがあるなんて、これまではなかったことなので、僕はそれを説明して、こう言いました。

 これは学校が君らの自主性を尊重してくれていることの表われなので、それを裏切らないよう心がけねばならない、もしもそれで君らの学年がどーんと成績が下がって、やっぱりあれは間違いだったということになると、元通りの課外漬け、宿題漬けに戻ってしまって、後輩たちが泣くことになる。その点、君らには責任があるので、机にへばりついてカリカリ能率の上がらない勉強を長時間続ける必要はないが、生活にメリハリをつけて、自分で自覚的にちゃんと必要な勉強はしないといけないよ、と。

 彼らは「はーい!」と元気に答えていました。子供たちにとって、学校が生徒たちを人間として尊重し、自分たちの自主性に信頼してくれるということはも、やはり嬉しいことなのです。そういうとき、人は「信頼に応えねばならない」という気持ちに自然なるものです。それでどうして結果が悪くなるなどということがあるでしょう。塾にしても、そうなれば生徒たちが疲れ果てているということがなくなって、必要なバックアップもそれだけ容易になるのです(僕はこれまで、学校の宿題の手抜きを生徒たちに熱心に説いてきました。自分でよく吟味して、こんなのは無駄だと思ったものはカットしてしまえと。でないと自分の勉強ができなくなって、受かるものも受からなくなってしまうからです)。

 最後に、記事に出てくる「探究型学習」についても少し書かせてもらうと、これは生徒を伸ばす上で不可欠なものですが、英語でも入試長文などには知的刺激に満ちた面白いものが多数出てくるので、そういうものを用いて、一方通行的でない「探究」型の授業を展開することは可能でしょう。これも、先生たちにはカン違いしている人が少なくないようですが、内容が面白ければ、かなり難しいものでも生徒は辞書を引くのをいとわず、やってくるものです。僕は塾で実験的に、1年生に大学入試の長文を解かせたことがあります。割とよくできていたので、そのままそれを週一回のペースで続けていたら、模試の成績も回を追うごとに上がっていった。しかし、それは副産物みたいなもので、学校の教材がさっぱり面白くないというので、「これならどう?」ということで、やらせていたのです。内容的に面白いと感じたからこそ生徒はそれを“解読”したいという意欲がもてたので、別に試験の成績アップが目当てではなかったのです。ついでにそこで扱われている問題について一緒に議論もできるので、通常の教科書勉強ではつかない教養も自然に身につく。そのうち、英文の解釈をめぐっても議論が出るようになって、「なるほど、それは君の理解の方が正しい」と生徒の側に軍配を上げざるを得ないようなことも生じて、進歩が実感されたのですが、こういうのは「探究型学習」に含まれるでしょう。

 僕がいつも「眠たい」というセンターの英文なんかは、消毒が効きすぎていて何も面白くありませんが、国立二次や私立の一般入試の英文には、知的刺激に満ちたものがたくさんあるのです(先日も、12年度の北大の原発問題を扱った英文を生徒たちにやらせたら、原発問題に対する認識が変わった、と言った生徒がいました)。その分英文は難しくなるが、知的好奇心の強い生徒の場合には、退屈で易しいものより、難しくても学び甲斐のある面白いものの方が好きなのです。生徒が疲れ果てている場合には、そうではないでしょうが。

 しかし、学校では入試問題を扱っても、内容的にチャレンジングな英文は避ける傾向があるようです。たとえば、東アジア的な集団による横並び詰め込み暗記競争教育を皮肉まじりコテンパンにしたようなものなどは、「不適切」と見られるのか、回避されるようだし、前にもここに紹介した、09年度の九大の「ティーンエイジャーには多くの睡眠時間が必要で、ホルモンの関係から夜も寝つきが悪くなるから、高校の始業時間は午前11時にしたらどうか?」なんて英文は、ふだん九大を有難がっているくせに、延岡の県立高校では、3年の途中からやっと少しは長文をやるようになっても、決して取り上げられることはないのです。それもそのはずで、その設問には「慢性的な睡眠不足の副作用として文中で挙げられているものを五つ書け」なんてのがあって、その中には「非行」や「抑鬱」と並んで、「学業成績の低下」が出てくるので、連日の朝夕課外と大量の宿題で生徒たちを慢性睡眠不足に追い込んでいる学校としては、あまりにも痛すぎるのです。自分たちの成績が伸びないのはひょっとしたらそのせいではないか?なんて“気づき”が生じたら、由々しき大事です。「管理強制なくしては生徒は努力や規律を学ぶことがない」という学校の先生たち好みの見解に「果たしてそうか?」と説得力に富む異論を述べたものなども入試英文にはあるのですが、こういうのも「内容的に不適切」とみなされることが多いでしょう。

 また仮に、内容的に面白い入試英文を教材に取り上げたところで、おかしな具合に権威者ぶりたがる教師がいつもの硬直した一方通行的なスタイルでやったのでは、生徒には少しも面白くないでしょう。自由なくつろいだ雰囲気がそこにあることが不可欠なので、間違って怒鳴られたらどうしよう、なんてつまらないことで生徒がビクビクしているというふうでは、「知的探究」もヘチマもなくなるからです。しかし、そうした雰囲気を自然につくり出せる力量のある先生なら、こうしたものをうまく利用することができるはずです。

 とにかくそういうわけで、「質の改善」の余地はたくさんあるのです。社会科や理科、数学などの場合には一定量の授業時間数の確保が絶対に必要ですが、毎日授業がある英語なんかは、他の教科に少し譲ってもいいくらいで、ふだんの授業の質を上げさえすれば、課外なんかは全く必要ではなくなるでしょう。ただ、塾の場合には90分を使っているので、かなり長い英文でも詳しく訳読して関連事項にも言及することができるが、50分ではそれはしんどいから、3年生の長文の授業では一回の時間枠を広げる、といった対応は必要になるかもしれません。その代わり、授業は毎日でなくていいので(塾ならそれは週一回)、他の曜日の授業をカットするなどすればいいのです。工夫次第で、やりようはいくらもある(そういうのを完璧にやられたら、塾としては出る幕がなくなってしまうので困るのですが、僕は親切な人間だからあえて書くのです)。

 長くなりすぎたので、そろそろおしまいにしましょう。宮崎大宮高校の校是は「自主自律」だそうですが、これはどこの学校の生徒にも大切なことです。わが零細塾の“塾是”も「勝手に勉強しなさい」なので、これには僕は大いに共感してしまうのですが、記事にも次のような教務主任の先生の言葉が引用されています。

「生徒の多くは、本校に来れば大学進学は何とかしてもらえるという期待を持って入学します。しかし、未来を切り拓くのは自分です。本校がずっと大切にしてきた自主自律の精神の下、『行ける大学』ではなく『行くべき大学』に挑戦する気概や自ら学ぶ姿勢を育てていくのが、本校の目標です」

 これは全く正しい教育方針であると、僕には思われます。延岡高校も新しい校長先生の元、生徒たちの自発性を伸ばし、自学自習能力を高める方向に変化していってくれることを、僕は期待してやみません。そうすれば入試実績においても、大宮高校同様、「結果は後からついてくる」ことになるでしょう。
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