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アベノミクスと「異次元」の守銭奴たち

2013.06.16.05:20

 このところの「株価の乱高下」は毎日のようにニュースネタになっています。
 僕は前に「何で株価が上がるのかわからない(実体経済に何らそれに見合った動きがないのに)」と書き、自分なら適度に儲けたところで店じまいするだろうと言いましたが、最近の動きを見ていると、それは“適切な忠告”だったようにも思えてきます。

【世界の金融市場の動揺が収まらず、円高と株安のダブルパンチの日本には厳しい状況が続いている。13日の外国為替市場は、円相場が約2カ月ぶりの円高水準の1ドル=93円台後半まで急上昇、東京株式市場は800円超下落し、今年2番目の下げ幅を記録した。
 東京外国為替市場の円相場は午後5時現在、前日比2円59銭円高ドル安の1ドル=94円21~22銭。
 日経平均株価の終値は前日終値比843円94銭安の1万2445円38銭。株価は日銀が「異次元緩和」を発表した4月4日の終値を下回った。】(産経新聞6.13)

 翌金曜は少し戻したようですが、要は投機マネーが相場を振り回しているわけで、こんなにやたらと上がるのは海外のハゲタカファンドのしわざだろうと思っていたら、やはりそうだという話を先日NHKの「クローズアップ現代」(再放送なのかどうか、深夜に放送されるようになったので、僕にも見られるようになった)でもやっていました。それらのファンドは0.000…秒で瞬時に売り買いができる高速コンピューターを駆使して大儲けしているとのこと。連中は上げ相場でも下げ相場でもボロ儲けできるノウハウと電子機器を備えている。国内のふつうの個人投資家でも、下がった株をずっと我慢してもち続けていて、あるいは上がり始めのときに素早く買って、欲を搔きすぎずにほどほどのところで売り抜けた人はかなり儲けられたでしょうが、株をやっている知人に聞くと、なかなかそういうのは心理的に難しいそうです。

 マスコミの報道がインチキだなと僕がつくづく思うのは、「景気回復の兆し」など元々なかったことです。「消費に明るい兆し」なんて言ったって、それは一部の「高額商品」が売れ出したというようなことで、それはマネーゲームをやっている連中とその家族が株価の上昇と円安に気をよくしてやっているだけの話で、庶民とは無関係です。春闘で大企業のボーナスアップが約束されたという話も、それは一部大企業の、それも正社員の話でしかないのであって(どれだけ非正規が増えているかわかっているのか?)、「その他大勢」である大多数の日本人はその恩恵をこうむらないのです。彼らがそのお金を使えば下々の者もその恩恵を受けるって? 以前、あの竹中平蔵氏が馬鹿の一つ覚えみたいにそんなこと言ってましたね。しかし、連中はそれをちょこっとしか使わず、後は投資にでも回してそれを増やそうとするだけなのです。今の社会はそういうメンタリティと経済構造になっている。いや、世界中がそうなのでしょう。古めかしい経済理論なんて役に立つはずがないだろうに、それを普遍的な科学法則みたいに信じるのはこっけいです。

 政府・日銀の「インフレ2%目標」がめでたく(?)達成されたとしましょう。じっさいは格差がさらに拡大して、持てる側の景況感が「改善」されただけにすぎないのに、ここらで消費税を上げましょうということで、上げたとします。そうすると三分の二以上を占める貧乏な庶民は買い控えをして出費が増えないようにするでしょう。困難でもそう努めて、インフレ2%プラス消費増税3%、計5%を買い控えで相殺しようとするのです。当然、売り上げは減少して、企業はまた苦しくなる。人件費削減で非正規社員はさらに増え、あるいは首切りが行なわれる。要するに、「貧乏人の拡大再生産」はさらに進むのです。

 結局、アベノミクスは一時的で波及効果の範囲も限定されたものでしかない公共事業を増やした分、国家財政の赤字をさらに膨らませただけに終わる可能性大です。 

 僕が根本的におかしいと思っているのは、現実の生活の場を流れているお金より比較にならないほど投機マネーの規模が大きいことです(アメリカなどでも金融緩和でジャブジャブ刷った札は、大方はそちらに流れているのでしょう)。各種投資ファンドは大金持ち・小金持ちから高利回りを約束して膨大な資金を集め、カジノやギャンブル場でならともかく、かたぎの人間の世界で、人々が額に汗して働く生活の場で、それを対象に危険な賭博にふける。彼らが勝手に得をしたり損したりするだけならそれはいいとして、現実の経済社会を翻弄し、そのおかげでときに一国の経済が破滅し、人々が生活の糧を奪われて路頭に迷うようなことまで起こるのです。おまけに、バクチの稼ぎでしかない彼らのそのあぶく銭と、ふつうの人たちのまっとうな働きで得たお金が、同等の価値をもつのです。これがどんなに異常なことなのか、なぜ不思議に思わないのでしょう?

 正社員と非正規やアルバイトの場合、同じような仕事をしていても実質賃金に三倍もの開きがあるとすれば、これはそれ自体が「社会的公正」に反することでしょう。しかし、この投機マネーと来た日には、まとまった金を投資したというだけで、何もしないで法外な利益を生むのです。地位を利用して高額な報酬を得ている一部の社会エリートは、まずその段階で「働きに見合わない報酬を得ている」という意味で不正を働き、次に、それで得た金を投機でさらに膨らませるということで、いわば二重に不正行為を働くのです。

 これは嫉妬とは何の関係もない。たんなる事実の指摘です。それは今の文明社会に吸い付いた吸血ダニみたいな連中だとしか僕には思えないのですが、拝金主義が蔓延した今は、そういうさもしい守銭奴でしかないような連中が“尊敬”されるのです。だから自分もいくらか小金ができると、競ってその仲間に加わろうとする。セレブと呼ばれたくて…。

 先週号の日本版『ニューズ・ウィーク』に興味深い記事が出ていました。表紙に橋下大阪市長の写真が出ていて、「慰安婦問題という泥沼」と大書されていますが、そちら関係の記事より、こっちの方が僕には面白かった。

 それは、「腐っているのはアップルだけか?」と題された、ダニエル・グロスの署名記事です。正味4ページある読み応えのあるもので、「上院の調査報告書によれば、アップルはアイルランドの子会社を利用して数十億ドルの法人税の回避をした」そうで、「それは『理想の企業』というアップルのイメージが崩れた瞬間だった」として、アップルCEOのティム・クックが米上院の公聴会に呼ばれた話から説き起こしているのですが、これは何もアップルにかぎった話ではないということです。見出しに「税率や賃金を意地汚く抑える反社会的な『風土病』がアメリカ企業に蔓延している」とあるとおり、何ともお寒い話のオンパレードなのです。

 これは熟読に値するので、図書館にならまだあるでしょうから興味のある方はじかにそれをお読みいただきたいと思います。「歴史上、アメリカ企業が今ほど利益を上げている時代はない。労働市場を牛耳り、政治に口出しし、巧みに税制の抜け穴を利用している」その有様が、活写されているのです。アップルだけではない、「利益のためなら手段を選ばない」のは「多くのIT企業に共通している」ことで、マイクロソフトやグーグルも「似たような租税回避策」をとっているようだし、コーヒーでおなじみのスターバックスなども同類だそうです。その他、米最大の小売チェーンであるウォルマートのあこぎな人件費(国内)抑制策、億万長者スティーブ・コーエン率いる「年30%を超える驚異的な運用実績」を誇ってきたヘッジファンドSACキャピタルのインサイダー取引疑惑、相も変わらず貧しい発展途上国の労働者を食い物にしている衣料品メーカーなど、ひきもきらず「反道徳的」な話が出てくるのです。

 そうしてこれは、僕が上に述べた話と関係する。文中に次のような一節があります。

「アメリカの文化が果てなき蓄財を賞讃・奨励しているのが事実なら、市場がそれを求めているのも事実。投資家はひたすら株価の上昇と高利回りのヘッジファンドを求めている。その目的が達成できるなら、彼らはその手段など気にも留めない。」

 言い換えれば、企業のアンモラルな行動を投資家が間接的に要求、誘導しているのです(わが国でも“企業のブラック化”は進むばかりだとのこと)。いまだに「株価が上がれば景気がよくなって皆が潤う」みたいな単純な議論をする人がいるようですが、そんな“古典的な”議論を本気で信じていられるのは、こうした経済システムの変質を理解していない人だけです。お金は上の方でグルグル回っているだけ。しかも、それは貧しい下の人々からさらに吸い上げては肥え太るのです。リーマン・ショック以後もこの経済の異常な金融支配は変わらなかった。縮小するどころか、それはさらに支配力を増した(税金で救済させておきながら)。チェンジを合言葉に大統領に就任したオバマは「ウォールストリート政権」を承継したままだった。前にも書きましたが、僕は一時彼が暗殺されることを本気で心配しました。しかし、その心配は全くなさそうで、天寿をまっとうし、今期で大統領の座を降りた後は、回想記など出版し、それで大儲けすることでしょう。

 この強欲な投資マネーはとんでもないところでも悪さをしているようです。例のサブプライムローンではアメリカ国内の貧困層を食い物にしていたわけですが、より“グローバルに”同じことを世界を股にかけてやっているようで、「貧しい人たちを低利の小口金融で助けて自立を支援する」というので、僕も前にテレビで見て感心したことのあるマイクロクレジットの分野にも進出していて、その善意から始まった良心的なシステムを破壊し、世界中の貧乏人からお金を吸い上げているというのです。

 僕は昨日、書店で立ち読みしていて、場違いと思える棚に『世界は貧困を食い物にしている』(ヒュー・シンクレア著 大田直子訳 朝日新聞出版)という本が置かれているのを見つけました。本の帯には「グラミン銀行創業者ムハマド・ユヌスも激しく糾弾! 暴利を貪るマイクロファイナンス、衝撃の実態!!」とあります。

 デーヴィット・コーテンという元ハーバード・ビジネススクール客員教授の序文がついていて、その中にこういうことが書かれています。

「マイクロファイナンスはいまや700億ドル産業であり、目の玉が飛び出るような利益を出している投資家やマイクロファイナンス機関もある。ところが、この産業が貧困をなくすという約束はちっとも実現していない。それどころか、ヒュー・シンクレアが詳細に記しているように、多くのマイクロクレジット・プログラムは、社会的責任投資の名を借りた略奪的な貸し付け詐欺にすぎない。」

 そこでは100%の金利も「ふつう」だという話ですが、今その餌食にされている人は世界で2億人を超える。要はそれもまた「あこぎな貧困ビジネス」の一つでしかなくなっているということです。この本はいわゆる「内部告発本」に分類できるようですが、一体その内実はどんなことになっているのかと気になったので、僕はその本を買いました。今それを読み始めたところですが、詮ないこととは知りながら、またぞろ腹を立ててしまってナイトキャップ代わりの読書が、逆効果になってしまうことは確実でしょう。

 こういうの、どう思われますか?「資本主義の必然」なんて涼しい顔はしていられないでしょう。経営が苦しいわけでもないのに有名大企業が違法スレスレの“節税”や過度の人件費削減を当然のように行い(自明のことですが、そうすると会社は儲かっても国家の税収は増えない)、一生使い切れないほどの蓄財をした資産家たちが儲け話に血眼になって、モラルもクソもない投資ファンドに出資し、貧しい人たちの犠牲(自殺に追い込まれることも珍しくない)のもと、その資産をさらに増やそうとする。完全に病気の世界です。

 前にも書きましたが、僕は投資そのものに反対する者ではありません。資金を必要としている将来有望な、社会で建設的な役割を果たしそうな企業にそれを見込んで投資し、その成功と共にそれに見合った多すぎないリターンを受け取るというような穏健なものなら、それは社会にも貢献する資産の善用と呼べるものでしょう。しかし、今どきのそれは、ただの手っ取り早い金儲けの手段で、その企業がどんなことをしていようと、会社が利潤をあげて、その分け前を自分のところにできるだけ多く寄越しさえすればいいのです。何もせず利得を得るということ自体、道徳的には正当と言いかねる行為ですが、そうした自覚は何もない。あくまでも「合法的な経済行為」だと主張するのです。

 こういうことをこれから先も続けてゆけば、やがては世界全体に彼らの犠牲となった人々の怨嗟の声が満ち満ち、その中でこの文明社会は活力をすっかり失って、大混乱のうちに破滅するほかなくなるでしょう。昔、哲学者のホワイトヘッドは、海賊が支配するような世界が繁栄したためしはない、ということを何かに書いていましたが、その破壊力において、彼らが駆使する「マネーの暴力」は昔の海賊の比ではないのです。その強欲・利己的なメンタリティにおいても海賊をはるかにしのぐ。違いは、彼らはこぎれいなオフィスを構えて貴族然とした優雅な生活を送り、血なまぐさい現場には決して姿を現さず、その悪辣さは目には見えにくいということだけです。

 赤ちゃんには他者への、弱者への同情心が生まれつき備わっているということを、京大の研究者が実験で明らかにしたという話をテレビのニュースでやっていましたが、それは経験的には昔からよく知られている事実です。そうした人間本来の善性をせっせと破壊しているのが今の社会システムであり、その代表格が強欲なヘッジファンドとそれに群がる投資家たちであり、悪徳企業、それらに下僕のように仕える政治家、エコノミストたちなのです。それがどんなに異常なことかと疑問に思う感受性すらなくなれば、人間はもうおしまいです。

 冒頭の話からずいぶん離れてしまいましたが、まんざら無関係ではない。アベノミクス的な発想、経済成長率を上げさえかれば問題が解決するかのごとき安易な思い込みは、安倍総理がそこからの「脱却」を主張する「戦後レジーム」そのものの古い発想なのです。そこには今見てきた「経済システムの病的な変質」はほとんどカウントされていない。ついでに言うと、大方の人は「何を言ってるんだ?」と思った記憶がおありでしょうが、かつて経済財政担当相だった与謝野馨氏が麗々しく「このところの経済回復はついにあの“いざなぎ景気”をも超えた」と言ったことがあります。「日本経済は2002年2月から景気回復期に入って、2007年10月まで、実に69カ月間も好景気が続いた」と政府が“公式に”認定した、あの話です。ほんまかいな、と大方の人はびっくりしました。たしかに経済指標によれば「経済成長」はしていたらしかったので、にもかかわらず、一般労働者の賃金は下がり続けていたから、そんな実感など薬にしたくもなかったのです(ちなみにこの期間は小泉内閣―第一次安倍内閣の時期に相当します)。

 要するに、「いざなみ景気」と命名されたその好景気なるものは、資本家と一部大企業を潤しはしたが、労働者への利益分配は行なわれず、むしろ非正規雇用が増えて平均賃金は下がり、大多数の国民には何ら恩恵をもたらさなかったのです。そんな「経済成長」がまた繰り返されても経済格差がさらに拡大するだけで、何も意味はない。

 思うに、アベノミクスがもてはやされるのは、かつての高度経済成長とそれに続く安定成長の時代のようなことがまだ可能だと、漠然と多くの人が期待しているからでしょう。しかし、それは無理な話だと僕は思います。発展途上国への進出で、企業単位では利益が増えることはあるでしょう。しかし、国内雇用は増えない。海外進出企業は現地生産するので、国内では作らないからです。国内生産の場合も、今の工場はコンピューターや機械化の発展で無人化が進んでいるから、人手を多く必要としない。「需要の喚起」と言っても、モノはすでにあり余っているから、大きな雇用を生む新産業など出現しえない。せいぜい新しいタイプのものが古いものにとって変わるぐらいで、そして大方の場合、それは雇用におけるダウンサイジング(縮小)を伴うのです。

 株価か上がり、大手企業の業績が回復すれば、経済指標上は「経済成長」したことになるでしょうが、2000年代の「いざなみ景気」に見られたとおり、その恩恵は一部の「経済強者」に集中して、下々には及ばないのです。大方の人にとってはそれは「ゼロ成長」であり、「マイナス成長」なのです。

 だから「昔の夢よ、もう一度」なんて甘いことを考えるより、ゼロ成長、マイナス成長下での「幸福な共存」を模索した方がいいと、僕は思っています。カタギの経済をギャンブル場に変えてしまう悪辣なハゲタカどもがこれ以上悪さができないように、効果的な国際的金融規制を整えることは別にやってもらうとして。

 異端の生物学者・今西錦司に「棲み分け理論」というのがありました。これは経済社会方面でも使えるのではないかと僕は思っています。

 自分の稼業である塾商売でこれを説明してみましょう。塾は典型的な「隙間産業」です。一種の「お邪魔虫」みたいなもので、この非正規の教育機関が存在しうるのは、言わずと知れた「受験戦争」のおかげです。私立の中高一貫校などはしばしば進学塾、予備校の機能を備えていますが、ふつうの公立高校などは十分なノウハウをもっておらず、延岡の県立高校などは、それは見事なまでに何もないのに、やたらと宿題・課外の類は多くて、「早くよけいなことはやめてくれないかな…」と保護者も生徒たちも塾も、共に思っているくらいですが、「棲み分け理論」的な見地から考えると、無理なことはやめて、そういうのは塾に任せればいいのです。よけいな朝夕課外と宿題を減らせば、生徒たちももっと無理なく塾を利用できる。ロクに能もないのに無理におかしなことをして、感謝されるよりむしろ嫌われているのだから、そうした方がいいにきまっているのです(今はインターネットで予備校の安価なサービスも利用できる)。

 別にそれで学校の先生たちの給料が減るわけではない。給料分の働きをしていないという隠れた「良心の呵責」もあって、よけいにそんなことしたがるのかも知れませんが、生徒をいたずらに疲労させるだけで効果の上がらないことをいくらしたところで、感謝なんかされる道理はないのです。だからそれを塾に任せれば、別に雇用が生まれて、地域経済的にもプラスになるのです。高校の進学実績も向上する。

 この十年で、延岡あたりでも塾はかなり増えました。それは大方小規模なもので、料金も都会に較べてずっと低廉(うちの塾もそうです。この不況下、地方の親はわが子の大学進学で大金がかかるのに、高い月謝など取れるはずがない)ですが、僕のところのような英語塾もあれば数学塾も、座席を貸すことがメインの自習塾もあるというふうに、そこでも「棲み分け」が成立しているのです。

 仮にそこに、野心的で強欲な、潤沢な資金をもつ塾経営者が乗り込んできて、派手な宣伝をやり、強引な生徒勧誘をやって大量の生徒を集めたとしましょう。すると、それは大型スーパーの進出で、個人経営の零細商店がバタバタ倒れてしまうのと同じで、多くの個人塾は潰れてしまうことになるのです。「棲み分け」の世界は破壊されて、「寡占」の世界が出現する。

 雇用がそれで増えるか。トータルではほとんど増えないか、むしろマイナスになるでしょう。個性をもつ個人経営主がサラリーマン講師に取って代わられるだけです。生徒・保護者が負担させられる費用は、減るどころかむしろ増える。利益を増やし続けようと、いりもしない新サービス、新教材、季節講習、次々新機軸を打ち出して、その経営者はできるだけ多くの出費を強いるようになるだろうからです。「これだけのことをこなさないと大学合格は困難でしょう」と親と生徒を脅しながら。そんなのは嘘の皮ですが、不安心理につけ込まれて、親も生徒たちもまんまとその戦略に乗せられてしまうのです。

 この場合、ハッピーなのはその強欲な経営者と、そのおこぼれにあずかる幹部講師(その塾が株式上場していれば投資家も)ぐらいのもので、そういうところは生徒も「受験マシン」として扱うようになるから、教育的にも好ましくないのですが、これと似たようなことが日本の経済社会全体で進行してきたことは、お読みの方はすでにおわかりでしょう。そういうことはもうやめた方がいいと、僕は言っているのです。一部の金持ちと多数の貧乏人に分かれるより、皆が概して貧乏だが、生活は何とか成り立っていて、それぞれの人が個性のふくらみと一定の時間的ゆとりを維持できるような社会の方がずっとましです。そういう社会では皆がそれぞれの特性を生かして「棲み分け」ているのです。

 それなら「経済成長」はなくてもやっていけるわけです。無理な競争でしんどい思いもしなくていい。先日、僕は塾の生徒にこう言われました。「先生、塾の生徒を増やすことはもうやめにして、私たちの指導に集中すべきです!」僕はふき出してしまいました。前にも書いたように、去年は3年生ばかりでコマが埋まっていたために、彼らがどっと抜けた後、わずか数人の生徒しかいなくなってしまいました。それで、「うちの塾は潰れてしまうかも知れないよ」と言ったら、「何やってるんですか! ちゃんとフツーの塾みたいに宣伝して生徒を集めないと駄目じゃないですか!」と生徒に叱られてしまったのですが、一度広告でも出してみようかと思ったものの、めんどくさくてそのままにしていたら、ポツポツ入塾者が出てきて、採算がとれるところまでは行かないが、どうやら潰れるのは免れそうだな、というレベルにまではなったのです。それで、僕の怠慢を叱りつけたその同じ生徒が、今度は「生徒を増やすのはやめろ」と言い出したので、それが可笑しかったのです。ほんとはもう少し人数がいてくれないと困るのだが(とくに二年生を数人、今は募集しています)、彼女はコマがかなり埋まってきたらしいのを察知して、今度は自分たちへの「サービス低下」が心配になったのです。要するに、“潰れない程度”にビンボーなままで、彼女たちに「十分なサービス」を提供できる状態が一番望ましいのです。繁盛して忙しくなったりすると、自分たちに注がれるエネルギーが奪われるおそれがある。そのようなことは「断じて許しがたい」のです。その心が可笑しい。

 怠惰な僕にはもとより「業務拡張」意欲などは皆無で、コマが埋まれば自動的に募集(しているかどうかすら僕に聞かないとわからないのですが…)は打ち切りますが、こういうのは昔は「足るを知る」態度として賞揚されていたものです。資本主義的経済合理主義の見地からすれば、しかし、それは退嬰的で愚かな、才知の欠落を意味するものでしかないので、じっさいそういう考え方が「常識」と化した競争社会では、そんな“後ろ向き”の人間は生き残れなくなってしまうでしょう。

 幸いなことに、僕の今の環境では平和な「棲み分け」が成立している。だから無事で、だから「シェア独占」の野心に燃える塾経営者が延岡に「殴り込み」などかけてこないよう祈っているのですが、仮にそういうことになったら、僕は30代の頃、塾の激戦区と呼ばれる関東のある地域で生徒数2000人規模の中堅塾の幹部をしていたこともある(ぬけぬけ言いますが、塾長が手放したがらないほど有能でした)ので、戦い方を知らない人間ではありません。市内に塾経営者の知り合いも三人ほどいるので、個人塾を糾合してこれを迎え撃ち、見事撃破してみせるでしょう。そのとき人々はあのいかにも商才のなさそうな男にこれほど豊かな経営戦略があったのかと驚き、それならなぜそれを“死蔵”していたのかと不思議がるでしょうが、“棲み分け”の見地からすればそのようなものは無用なものだからです。一つの大型スーパーより、いくつもの個人商店があった方がいい。塾のような人的サービスにおいてはことにそう言えるのです。だから、癌細胞ではあるまいし、むやみやたらと「拡張」なんかしない方がいい。

 田舎の塾の話なんか何の参考にもならないと言われるかも知れませんが、これは自然の摂理にもかなったことで、業務拡大、利潤最大化にとりつかれた企業経営者などは、生物学的には癌細胞と似たようなものなのです。僕は学生時代、いかにも“文系”的な見地から癌細胞に関心を抱き、その方面の本を何冊か読んだことがあるのですが、それでわかったことは、細胞には分化と分裂の二つの機能があって、それは「相互抑止」的に働くが、癌細胞は分化の機能を失って、分裂増殖するしか能がなくなった細胞なのだということでした。細胞はそのどれもが生体全体についての情報をもっています。それで、健康な細胞は、全体の中での自分の位置を正確に知り、全体の生きた秩序に奉仕するためにそれに適した機能を個々に果たす(これが「分化」の働きです)が、癌化した細胞はその能力を失って、無個性化し、あたかも「生きる意味」を見失ってやけっぱちになったかのごとく、むやみと分裂増殖するだけになるのです。ふつうの細胞は傷を修復したりする際には分裂するが、その修復がすめばぴたりとその働きを停止する(つまり「意味のない陣地拡大」はしない)。そして個性があって、それゆえに別のコロニーの中に侵入してそこから栄養を吸収するなんてことはできないが、無個性化した癌細胞の場合は厚かましくどこにでも入り込み、そこから栄養を吸収することができる。その意味でこの慎ましさをなくした変異細胞は「無敵」なのですが、傍若無人のその際限もない分裂増殖と侵食のプロセスで生体システムを破壊し、ついには全体を死に追いやるのです。

 これはもう三十何年も前に読んだことなので、今は医学も生物学もさらに進歩して別の理解に達しているのかも知れませんが、文系の僕には、これは示唆に富む話と思われ、人間社会にも同じ現象は起こりうるし、げんに起きているのではないかと感じられたのです。先に見た話などは、全部この「癌細胞」的な性質を示すものばかりではありませんか?

 長くなりすぎて、書く方も疲れたので、尻切れトンボながら、これくらいにします。あとは皆さん、ご自分で自由にお考え下さい。
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