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いつでも見られる金冠日食と、そこからの脱線話

2012.05.24.07:31

 「世紀の天体ショー」として喧伝された5月21日のあれは、当地延岡では“残念賞”でした。延岡高校などでは、かねて僕が廃止を進言している、生徒の慢性的な睡眠不足の元凶になっている朝課外(ちなみに、これ、課外と言っても、ただの平常授業の延長にすぎないのです)が日食観察のために休みになったのですが、当日夜三年生たちに聞くと、「宿題が終わらなくて日食どころではなかった!」なんて言う生徒もいて、学校は相変わらずだなと嘆息したのですが、厚い雲に閉ざされて、結局おひさまは姿を現さなかったのです。

 たぶんこうなるだろうと予想していた僕は、「日食グラス」なるものも買わずじまいでした。商売柄、寝るのが明け方になるので朝の7時は“深夜”に相当するのですが、一生に一度しか見られないという珍しい現象なら、それを見てから寝るという手もあるにはあった。しかし、気象庁よりよく当たるわが天気予報によれば、曇りか雨にちがいなかったので、いつもどおり寝ることにしたのです。果たして、7時5分に一度目を覚ましましたが、空が雲に覆われているのを見て、安心(?)してまた寝床に戻ったのです。

 僕の郷里ではよく見えたそうです。6時頃は曇っていたが、うまい具合に晴れてきて、早くからキンカン、キンカンとやかましく言っていた(母はそれを食べるほうの金柑のことかと初め思ったそうです)84歳の父は、一部始終が見られてご満悦だったそうで、老夫婦は二人して、あのヘンな「日食グラス」なるものを目に当てて庭に立ち、空を眺めたのです。母の話では、子供の頃一度皆既日食を見たことがあるそうで(父もそれは憶えている)、そのときは空が真っ暗になったそうです。今回のはそれとは違って、空がうすい茜色になる感じだったという。珍しい天体現象を生涯で二度も見物できたのだから、幸せでしょう。

 それで、残念賞だった人たちのために、いつでも見られる金冠日食というのをお教えしておきたいと思います。あれは、じつはかんたんに見られるのです。原理からして単純なことですが、たぶん、気づいていない人が多いでしょう。

 周知のとおり、あの現象は月が太陽とぴったり重なるときに見られます。地球との距離の関係で、月が大きく見えて太陽を完全に覆ってしまうときは皆既日食、小さめのときは太陽がそれからはみ出して、金冠日食になるわけです。
 そうすると、理屈から言ってこういうことがわかるでしょう。近くの物体なら、小さくても大きく見えるから、手をかざしただけで太陽は隠れてしまいます。だから、片手に日食グラス、片手に丸いものをもって、位置を調整してそれが太陽に重なるようにすれば、パーソナルな簡便日食と相成るのです。

 僕がお勧めするのはキンカンです。あれだと小さいので手が疲れずにすむ。直接見ると目を傷めるそうなので(もっと早くそれを教えてもらいたかったものだと思います。というのも、僕は子供の頃からしょっちゅう太陽を直視していたからです)、もう一方の手には日食観察グラスをもって、太陽と重なるようにするのです。そうすると、おお、これぞまさしく金冠日食ではないか!ということになる。別の意味でもキンカン日食と呼べる(自分の名誉のために言っておくと、僕はふだんこのようなオヤジギャグは言いません)ので、文句なしです。
 そうやってしばらく観察したのち、キンカンは食べてしまう。デザートつきの日食観察会となるのです。

 素晴らしい…。中には「いい加減なことを言うな!」と怒り出す人もいるかも知れませんが、ちゃんと“科学”に基づいているので、せっかく買った日食グラスが無駄になったと嘆いている人たちには「その手があったか!」と感謝されること疑いなしだと、僕は思っています。
 それに、自由自在に日食を作り出すことができるというので、神になったような気分になれるかも知れません。

 尚、キンカンを指ではさむと、その指が邪魔になるという人もいるでしょう。それはリーズナブルなクレームなので、一番いいのは爪楊枝の先にキンカンを刺して、下から支えるようにして照準を合わせ、眺めることです。

 何? 塾でもおまえはそんなアホなことを生徒に教えているのかって? 実はこれを思いついたのは一昨日で、まだ教えていないのです。当日僕が言ったのは、ああいうのは場所を変えれば何度でも見られるはずだから、世は国際化時代でもあるし、事前によく調べて、いつか見えそうなところに行って見ればいいということで、そうやって彼らを慰めたのです。ついでに、あんなものよりUFOの方がずっと珍しいかも知れないので、僕は延岡に来てから一度それを見たという話をすると、延岡では結構目撃情報が多いのだという話になって、しばらくUFO談義で盛り上がり、授業そっちのけになってしまいました。僕が見たのは編隊をなして飛ぶUFOでしたが、葉巻型のそれを見たという子もいて、それからどうすればUFOは地球にやってくることができるかという話に進み、アインシュタインの相対性理論に基づく時空の観念からすれば、ワープは理論的に可能だから、というような大変な話に発展して、英語の授業は忘れ去られたのです。さらに元々生命は隕石に乗ってやってきて…というような話(パンスペルミアの方舟説)まで出てきてしまうと、とめどがなくなるわけで、おかげで次の授業では長文の訳読を二つ終わらせねばならない羽目になってしまいました(生徒たちは興味津々のように見えましたが)。

 それにしても、地球は奇蹟のような惑星で、生命も奇蹟に近い存在ですが、それが大変な苦難のプロセスをへて人類にまで進化したにもかかわらず、その人間はどうしてこうも「万物の霊長」らしからぬお粗末なドタバタにばかり終始しているのだろうと、感慨を新たにせずにはいられません。

 昔の人は日食などの珍しい現象を目にすると、大きな天変地異の前触れでは、と恐れ、「神の怒り」に触れないようわが身を顧みるということがあったようですが、愚かな迷信だとわらわずに、僕らも少しは見習ったほうがいいのかも知れません。

 じっさい、これからはあれこれ色々起きそうです。しばらく前のニュースによれば、太陽は最近S極がN極になって、他方はそのままなので、両端がN極になって、そうなると中央がS極にならざるを得ないので、「四重極構造」になってしまったとか。これは17世紀あたりの状況と同じで、「マウンダー極小期」というのに入ってしまう可能性が高いという。そうすると、地球は寒冷期に入ってしまう。理由は、太陽活動が低下するからだというのと、そうではなくて、太陽の磁場が弱くなる関係で宇宙放射線が地球に到達することがそれだけ多くなり、化学反応で雲が増えて、日光を遮ることが多くなるからだというのと、大まかに言えば二つ説があるようですが、とにかく寒くなるそうで、そうなら、今の温暖化騒動はどういう結末になるのだろう(両方が中和してちょうどよくなるのか?)と、僕みたいな文系人間にはわからないことだらけなのですが、そういうのと歩調を合わせるようにして、今は世界的に「大地動乱」の時代に入り、地震活動が活発になっているそうなので、あれやこれや、これまでのような安定した時期が終わることはたしかなようです(富士山の直下にも大きな断層が見つかって、「山体崩壊」の可能性もあるのだ、というような物騒なニュースもこの前テレビで見ました。ついでに調べてみたら、江戸時代の宝永地震の際には富士山は、てっぺんからではなくて下のヘンなところから噴火している。あのときは地震が南海トラフ沿いに連動して起き、南は日向灘にまで達し、宮崎も津波に襲われたという話です。その大地震の周期は300年前後だそうですが、それからすでに305年が経過している。ちなみに、この宝永地震は偶然なのかどうか、前回のマウンダー極小期に起きています)。

 例の古代マヤ予言なるものに関しては、新たに次の7000年に言及したカレンダーが見つかった(年代的にはそちらの方が古い)そうで、あれはたんに次の計算に入る前にマヤ文明の方が戦乱の中で滅びてしまっただけではないのかという僕の素人考えもまんざら見当外れではなかったようですが、今年あたりが大きな区切りの年になりそうなのはたしかなのかも知れません。

 自然がそれなら、人間世界の方も混迷続きです。シンクロニシティsynchronicity、「共時性」という言葉をはやらせたのは心理学者のユングですが、世界経済はどん詰まりで、これは今の文明システムが機能不全に陥っているというのと同じですが、自浄・自己調整能力がなくて、“外圧頼み”なのは何も日本だけにかぎらないようなので、相次ぐ天変地異に見舞われないと、いい意味でのリセットもできないのが今の人類なのかも知れません。文明の行き詰まりと地球規模の大変動が「共時的」に生じているわけです。

 しかし、舵取りをうまくやらないと混乱が続く中、貧すりゃ鈍するで、あちこちで対立が先鋭化して、ボタンを掛け違えると下手すれば世界大戦に突入なんてことにもなりかねない。そうなるとリセット以前に、大混乱のうちに自滅へと突き進んでしまう可能性もあるわけで、それだけはどうあっても避けねばなりません。

 それもまた「必然」なのか? かつて恐竜たちは巨大隕石の地球への衝突という大事件で滅び、そこから哺乳類の時代が始まったわけですが、後から考えるとそこには必然性があった。いつまでも彼らが覇権を握っていると、進化が妨げられただろうからです。何者かの意志と叡知が働いていたように思えるので、人類も今みたいなことをしていると、「おまえらはもういい」ということになって、生存不可能な状況を地球と銀河系はつくり出すかも知れません。それとも、人類は自滅するのに十分なだけの破壊兵器を備蓄しているので、それを使って滅びるように仕向けられるか…。

 その場合、「この生物にはまだ見込みあり」と判断されれば、地球のどこかで原始的な生活を営む少数の未開部族だけが奇蹟的に生き延び、人類はゼロからの再スタートを余儀なくされるかも知れません。気が遠くなるような長い時間をかけて、ヒトはまた文明を築くのです。いわゆる超古代文明(アトランティス等々)実在説によれば、人類はこれまで同じような破滅を何度か繰り返したそうですが、それが再演されるわけです。

 こんなふうに言うと、「やっぱり今の人類はもうおしまいなのだ…」と思う人もいるかも知れません。フロイトのエロス・タナトス理論によれば、人間には元々破滅願望のようなものがあって、今みたいに閉塞感が募る社会状況になると、そちらが強く前面に出てくるようになるのです。エロス(生存欲求)よりもタナトス(死への願望)の方が強くなってしまう。自殺者が増える背景には、経済事情などとはまた別に、そういうことも関係しているのでしょう。そもそもがあの古代マヤ予言騒ぎ自体、破滅願望の高まりに支えられたものだったとも言えます。

 僕は「この世界が終わってほしい」という願望それ自体は何ら異常なものではなく、むしろ健康なものではないかと思います。ほんとに今の文明社会は焼きが回っているからです。「こんなのイヤ!」と思うのは、だから正常なことなのです。それぞれの時代に、その末期には閉塞感が募る中、終末思想が強まりました。ヨーロッパ中世末期などにも、終末予言は流行しました。そうした予言はいずれも外れましたが、しばらくして、ともかくその時代は終わって、レジーム(体制)は変化し、科学の領域においても天動説から地動説への大転換が起きました。その限りではたしかに「世界は終わった」のです。

 今もそういう大きな時代の境目なのだろうと、僕は思っています。それは前後截然(せつぜん)としたものではなく、季節の変わり目みたいに、行きつ戻りつの逡巡を重ねながらも、後で振り返ればあのあたりが区切りだったのだなとわかるようなかたちではっきりとした移行を見せる、そんな感じなのではないかと思います。

 そういう意味では、混乱は避けられなくても、受け取り方によっては今はチャレンジングな面白い時代なのかも知れません。僕はよく生徒たちに、「今の時代は、若者がこわそうと力まなくても、問題の多い社会システムの方が勝手にこわれてゆく。権力も自壊する。君らはその先をどうするかということを考えながら生きればいいので、その意味ではラッキーかも知れないよ」と言うのですが、実際にそんな感じがするのです。だから目先のことだけ考えて沈みかけた泥舟に乗ろうと不毛な競争に自己を消耗するのではなく、創造力や冒険的な実行力を伸ばすよう心がけた方がいい。そしたら、後で役立つはずです。むろん、先にも言ったように、それが「時代の終わり」ではなく「人類の終わり」にならないよう、正気だけは失わないようにしなければなりませんが。
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