ETV特集「失われた言葉をさがして~辺見庸 ある死刑囚との対話」を見て

2012.04.26.18:40

 先週土曜深夜にこれを観ました。再放送だったようですが、何とも言えない感じがしました。自分が若い頃感じていた社会への青年らしい怒りや苛立ち(それは自分自身への焦りとないまぜになっていた)、今の社会の「嘘っぽさ」に対するなかば諦めに近い感情、「この先生きていて、まだ自分にすることが何かあるのだろうか…」といったリフレインのように頭の中で繰り返される思い等々が、見ているうちに混ぜ合わされて一緒に出てくる、という奇妙な感じがしたのです。

 今のこの社会は、たんに嘘が多いというのではない。いわば「全部が嘘」なのです。その嘘の中に生命と精神がすっぽり埋まって、窒息または壊死(えし)しかけている。辺見庸さんという作家は、そのビニール製の覆いみたいなものに何とか風穴をあけて、肉体と魂が自由に呼吸できるようになるにはどうすればいいかと、それと格闘しておられる方なのでしょう。人が「真実の言葉」をもてるのは、そのときだけだからです。

 そういう人がある人物に生きた言葉を見つけたという。それが死刑宣告を受け、癌に蝕まれたからだで俳句を苦吟する獄中の人であったとは、ある意味皮肉な話です。その人物の名は大道寺将司。1974年8月30日に「三菱重工爆破事件」を起した東アジア反日武装戦線「狼」のリーダー格。この爆破事件は死者8人、重軽傷者400人近くを出す大惨事となった。ウィキペディアにはその「背景」の説明として、次のように書かれています。

【東アジア反日武装戦線は第二次世界大戦以前の日本を完全な悪と捉えており、太平洋戦争を侵略戦争として憎んでいた。戦前・戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーであり、防衛産業を手掛け、海外進出を行っていた三菱重工業は現在においても「帝国主義」であると断定。グループの政治思想に基づき「経済的にアジアを侵略している」として無差別爆破テロに至った。
 東アジア反日武装戦線は、1974年8月14日決行予定だった昭和天皇暗殺作戦「虹作戦」に失敗していた。しかし、翌8月15日に在日韓国人で朝鮮総連系団体活動家の文世光が朴正煕大統領暗殺を企てた文世光事件を起こした。彼らは虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、文世光の闘争に呼応するため新たな爆弾テロを進めた】

 おおむねこのとおりなのでしょう(「虹作戦」に失敗、というのは誤解を招くので、後の「断念」という表現の方が正確でしょうが)。北海道で生まれ育った大道寺将司は少年時代、学校で目にしたアイヌ差別に敏感に反応し、高校を出て大阪で浪人生活を送っていたとき、そこで在日朝鮮人差別のことを知ったといいます。この種の人にはむしろそれがふつうであるように、彼は大言壮語して強がったりするタイプではなく、むしろ物静かで生真面目な、内に一途さを秘めた正義感の強烈な若者であったようです(写真で見るその顔も端正で、繊細な感じを漂わせています)。

 過去に出版された句集の著者紹介には、「1948年釧路市生まれ。1969年法政大学文学部史学科入学。1974年三菱重工業本社ビル爆破(死者8人、負傷者385人)。1987年死刑判決確定。確定死刑囚として現在に至る」(アマゾンの紹介文から引用)と記されています。ならば、彼はこの事件のとき、26歳だったわけです。

 それにしても、時代の空気の何と変化したことか!「太平洋戦争を侵略戦争として憎んでいた」なんてのは、今なら「愚かな自虐史観」として頭ごなし嘲笑されかねないし、経済のためなら何でもありで、自国の原発は止めても原発輸出は推進するし、軍需産業も、昨年12月、「武器輸出三原則」(これは“禁止”三原則です)の大幅緩和を政府が決定した、なんてニュースがあったくらいです。それで「軍事兵器や設備の輸出制限が大幅に緩和」され、家電や自動車などの輸出の落ち込みをカバーして、「国内経済を牽引する」のが期待されているとか(「政治的判断」がどうのというより、経済事情優先の結果なのでしょう)。実に節操も何もあったものではない。こういうの、70年代なら大騒ぎで、安保闘争の後の僕の世代ですら、大学はロックアウトで授業不能に陥っていたことでしょう。今はしかし、一般の反応はなきに等しい。何せ、学校の式典で「日の丸・君が代の強制」が行なわれても、それのどこが問題なのだ、反対する方がどうかしている、というのが“ふつう”の反応なのです(昭和天皇自身がそれに遺憾の意を表明したのはなぜだったのか、その心事を忖度[そんたく]することすらしないのです)。

 こう言ったからといって、僕は別に大道寺たちがやった爆弾テロを擁護しているわけではありません。あんなもの、擁護のしようがない。当時僕自身は19歳で、新聞配達をしながらまだ浪人していました。あれこれあって、正直受験勉強どころではなく、喧嘩沙汰であやうく前科者になりかけたこともあったし、相当荒れていたのですが、そういう若者ですら、あれには共感はしかねたので、彼ら左翼過激派は自分の「思想」と「行為」のギャップをどう考えているのだろうと呆れたものです。死傷者の多くは罪もないふつうの人たちで、そんな行為を「帝国主義の阻止」と結びつけるのには明らかに無理があったからです。この事件の二年前(72年)には連合赤軍による有名な「浅間山荘事件」がありました。陰惨な内ゲバ・リンチ殺人が行なわれたことが後で明らかになったのですが、竜頭蛇尾に終わったあの70年安保闘争(若かった僕は政治闘争をやるのなら勝たなければ意味がないと考えていました)や、その後に続いたこうした首を傾げざるを得ないいくつもの事件のおかげで、世間のみならず、それに続く世代の左翼への印象は悪くなるばかりだったのではないかと思います。僕もそのご多分に洩れずで、結果、「体制の腐敗」を憎みながら、「反体制左翼」も同時に嫌悪するという、非常にややこしい立ち位置になってしまった。当時僕はこれを自嘲的に「政治的複雑骨折世代」と呼んでいましたが、似たような屈折した心情の持主は同世代にはかなりいたはずです。

 それでも、70年代の大学のキャンパスはまだ「番外地」で、今の大学には企業の寄附講座なんてものがあって、大学側も学生たちもそれを有難がっているようですが、こうした「産学協同」は当時では、「学問の独立」が産業界への従属によって破壊されることで、屈辱的かつ最も忌むべきものと考えられていました。就職それ自体が「社会の歯車」になり下がることだというので、社会変革を志向する若者には内心忸怩(じくじ)たるものがあったのです。だから、大企業や官庁に就職を決めた連中は、僕みたいな不良学生に向かって、「自分は内部から改革をはかるつもりだ」なんてよけいな言い訳をするところがあって、今から思えばこっけいですが、前の学生運動世代の置き土産ともいえるそうした雰囲気はまだ残存していたのです。今なら、そういう学生は「将来の生活設計もできないただの馬鹿」として嘲笑されて終わりになるだろうと思いますが(じっさい、僕には「将来の生活設計」なんてものはカケラもありませんでした)。

 話を戻して、だから事件それ自体にも、彼らの思想にも共感はしかねたとしても、今から思えば、その過激なエートスにはどこか通じ合うところがあって、僕は番組を見ながら当時の若者の中にあったあの何とも言えない、ジリジリした焦りのような感覚(「この腐敗した社会を変えねばならない!」)を思い出したのです。それは思想の一致によるものではなかった。僕はあるとき四畳半のオンボロ下宿の書棚にマルクス・レーニン関係の訳書をずらりと並べた(それ以外の本はほとんど何もないように見えた)左翼学生の生き残りと激論になったことがあります。双方次第にエキサイトしてきて、「さっきから何度も違うと言ってるだろ。同じことを何度言われたらわかるんだ、この馬鹿!」と僕は言い、「馬鹿とは何だ! おまえの方こそこっちの言うことを何も聞いてないじゃないか!」と相手は応じて、罵倒の応酬になりました。議論は真っ向から対立したままだったものの、僕らは互いに妙な好意をもちました。相手の強情さ加減が気に入ったのです。考えは全く違うが、こいつは人間的に信用できるなという気がした。そういうかたちで友情が芽生えることが、当時はまだあったのです。

 大道寺将司は、当時のそうした青年のピュアな典型のようなところがあったのでしょう。それがあのような事件につながったのは悲劇で、げんに彼自身、その後自分が起こした事件を振り返って、巻き添えになった死傷者たちに強い懺悔の気持ちをもつようになります。それで自分を責め続けるのです。社会的弱者のために立ち上がらねばならないと思い詰めたその一途さが、同じように自己呵責にも働いただろうことは、その人柄からして十分察しがつきます。

 大道寺の時計は、いわばそこで止まってしまった。あとはずっと獄中で過ごすことになってしまったからです。以後、現実の政治状況には何の関与もできなくなってしまったわけですが、彼は今の世界をどう見ているのでしょう?

 世界はその後激変しました。「共産主義の後見人」ソ連はあえなく崩壊して、中国は「社会主義市場経済」と称して、経済だけ「資本主義化」するという巧みな方策に出て、東西冷戦構造は消滅、「敵」が自壊してたががゆるんだのか、それ以降アメリカは正気を失ったかのごとく、「ウォール街支配」(それは80年代初頭、レーガン政権の頃から始まっていた由)の国家となってやりたい放題、「自由と平等の国」のはずが先進国中最も不平等な国となり、内にあっては中産階級を崩壊させ、外に向かっては大義なき戦争(アフガン、イラク、どちらもひどいものです)を仕掛け、政治的にも経済的にも世界最大のトラブルメーカーになり下がったのです(もとより当時の左翼青年たちにとってアメリカは憎むべき「帝国主義」の権化でした。ベトナム戦争の他にも、武器輸出にテロリズム支援、何でもありと見られていたのですが、それでも今と較べればまだしも節操があったので、大国特有の独善性は免れなかったとしても、それなりに自浄能力もある国だったと僕は思います)。

 ここ二、三十年の経済のグローバル化が何をもたらしたのかについては、僕にはそれを描写する能力がありません。言えることは、中国やインドのように大きな経済成長を遂げ、“成功”したように見える国々でも、貧富の差が拡大したのみならず、社会的弱者の苦境はかえって深まったといえるところがあるらしいことです(インドについては、アルンダティ・ロイが報告するそれはすさまじいものです。政府は自国の社会的弱者に対して公然と殺人をも含む犯罪行為を働いて恥じないのです)。

 わが国に関しては、それは見てのとおりのていたらくですが、大道寺将司はこうしたことを一体どのように見るでしょう? 一企業を爆破してどうにかなるというようなレベルのものでは、これはもはやない。国や政治体制による色分けはほとんど無意味になって、社会が、国家が、文明、世界全体が、一個の病気と化したのです。全体が病気になると、病識そのものが失われるとでも言えばよいのか。

 おもえば、まだ70年代はマシだったのです。解釈の仕方は色々あっても、見た目にも世界の構造はもっとわかりやすかった。社会の人間関係も今ほど無機的ではなかったので、「絆」がどうのこうのと言わなくても、少なくとも庶民レベルにはそれはまだ自然なものとしてあったのです(「東京砂漠」なんて言葉がありましたが、今から思えば、あれはまだ砂漠というほどではなかった)。

 年表を調べてみると、三菱重工爆破事件が起きた年は、「コンビニ元年」とも言える「セブンイレブン、東京都江東区に第1号店を出店」(5月)の年でもあり、その後の高層ビルラッシュの始まりを告げる「新宿住友ビル竣工」(3月)の年でもありました。これらはマニュアルで人間から肉声と自然な動きを奪ってロボットの出来損ないにするサービス画一化の時代と、無機的な高層ビル林立の始まりを象徴する出来事のように見えて、僕には興味深いのです。政治に目を向ければ、この年はニクソン米大統領がウォーターゲート事件で辞任(8月)し、わが国でも田中角栄が金脈問題で首相を辞任。三木武夫内閣が発足(12月)した年でもありました。
 前年の73年にはオイルショックが起きていた。経済史家が「高度経済成長」と呼ぶ時代は55年に始まったとされますが、それはこのオイルショックで終わったと見るのが一般的です。だから、時代は大きな転換点にあったのです。

 結局、おまえは何を言いたいのか? そう問われるかもしれません。何も。ただ僕はあらためて来し方を振り返らされたのです。大道寺と僕は七歳違いで、この年になれば七歳の違いは僅かで、同世代に含めてよい。大道寺は若気の至りで殺人の罪を犯したが、僕はそういうことだけは免れた。「こんなふざけた社会、潰してやる」と若い僕は力んだが、何もできなかった。逆に自分が潰されそうになっただけです(そもそも「潰して」その後どうするつもりだったのか?)。そうこうするうちに、この社会はどこがどうおかしいというより、理念も何もなく、骨を抜かれてブヨブヨの肉が下にズルズル垂れて落ち込んでゆくようなていたらくの、正体不明の存在になった。物書き評論家の類は、時代のあぶくを相手に、その都度その都度「一応こねてみるだけ」の理屈を量産するだけの存在になり(それで収入と名声が維持されればそれでよし)、読者は消費者としてそれを消費するだけの存在になった。政治家と国民の関係もそれに同じ。「問題山積」だと皆口を揃えていうが、誰もそれを本気で解決しようとはしない。何がどうなっているのかさえ、本当は知りはしないのです。まあ、行き着くところまで行くしかないだろうね、と大人は余所事みたいに、ひそかに呟く。たしかにこのぶんでは「行き着くところまで行く」しかないだろう。口先はともかく、是非も善悪もない、ただわが身に直接火の粉が降りかかってきたときだけ大げさに騒ぎ立てるのです。

 娑婆に自由の身としていながら、このていたらくなのです。そうした状況の中に、そうした状況の一部として、今自分はいる。一体どうしたものか? みだりに口を開くのはもう慎んだほうがいいのではあるまいか? ナベツネだの石原慎太郎だの、老害としか言いようのない傲岸不遜なだけのジジイを、「いい加減引っ込むがいい」と僕は冷笑していますが、その手の人間が聞き入れるはずもなく、こんなブログなんてものであれこれとやかく言うのも、自分の「ボケ防止の脳トレ」としての意味は多少あっても、それ以外の意味はほとんどなさそうだと思えてくるのです。

 若い人には若い人の感じ方、考え方があるだろうから、それはそれでいい。しかし、人生の三分の二を過ぎた僕のような人間は、そろそろ真面目にあの世への帰り支度を始めて、身辺整理にこれ努め、「お騒がせしました」とだけ言って静かに退場できるように手筈を整えておくのが、せめてものこの世界(正体不明のこの胡乱[うろん]な世界ではなく!)への礼儀というものではあるまいか。

 仮に私語というものが意味をもつことがあるとすれば、パラドックスめくが、そうした自己断念の上に立つ人間のそれだけかも知れない。

 そんなことを、あの番組を見ながら、あれこれ考えさせられたのです。 
 ひとはこれを一種の“老衰”の産物と解釈するかもしれませんが。

 最後に、番組でも紹介されていた大道寺将司の新刊句集(僕は未読)のURLを付けておきます。版元の太田出版の紹介ページです。

 ・棺一基 大道寺将司全句集
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